礼拝説教「あなたはつまずくのか」イザヤ書 第61章1〜4節 マタイによる福音書 第11章1〜6節 礼拝において、マタイによる福音書を読み進めてまいりまして、いよいよ第11章に入ります。何が「いよいよ」かというと、本年度、私たちの群れが、教会総会において決議し、掲げた宣教計画の主題聖句が、この11章の終りの28、29節だからです。本年度の宣教計画の目標の言葉を皆さん覚えておられるでしょうか。それは「主イエスによるまことの安らぎを求めて」です。主イエスが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われた、その主イエスによるまことの休み、安らぎを求めて歩もうというのが、本年度の私たちの群れの目標なのです。こういう目標というのは、会社の営業成績の目標などとは違って、現在のところ達成率何パーセント、というようなものではありません。また、今年度はこの目標を達成して、次の年度はさらに次の目標に向かってチャレンジしていく、というようなものでもありません。ちなみに、昨年度、2000年度の宣教計画の目標は「天の父なる神のもとで生きる」でした。これらの目標というのは、その年だけの特別な課題というわけではなく、私たちが主イエス・キリストを信じる信仰者として、教会の一員として歩んでいく上で常に覚え、祈り求めていくべき課題です。それでは何故そういう普遍的な課題を、特にその年度の目標として掲げるのかというと、それは、その年に読み進めていく聖書の箇所に語り示されていることの中心がそこにあるからです。昨年度の目標の「天の父なる神のもとで生きる」は、昨年度礼拝において丁寧に読んだ、マタイ福音書5〜7章のいわゆる「山上の説教」に繰り返し教えられていたことをまとめた言葉です。本年度の目標「主イエスによるまことの安らぎを求めて」は、これから読んでいく第11章の終りから取られたものであり、そこに、本年度読み進めていく部分の中心となる教えがあるのです。そのように、今掲げられている教会の目標は、礼拝において今年読み進めていく聖書の箇所から取られたものなのです。それは裏を返せば、この目標が掲げられている本当の目的は、今年礼拝において読み、聞いていくそのみ言葉によって生かされていこう、ということだということです。礼拝においてみ言葉を聞き、それによって生かされて歩むことが私たちの信仰の生活の中心であることが、そこに示されているのです。そういうわけで、いよいよ私たちは、本年度の目標として掲げた「主イエスによるまことの安らぎを求めて」ということが語られている第11章に入っていくのです。 さて11章1節はむしろ10章と結びつけて読む方がよいのかもしれません。10章で主イエスは、12人の弟子たちを選び、彼らを派遣するに当っての教えを語られました。しかしマタイ福音書は、その弟子たちが派遣されていって何をしたということを全く語っていません。マタイにおいて、弟子たちが本当に派遣されていくのは、主イエスの復活の後、この福音書の一番最後のところです。それまでは、もっぱら主イエスの活動に焦点が当てられています。この1節も、主イエスが「方々の町で教え、宣教された」ことを語っているのです。その主イエスの活動を受けて、2節以下が語られていきます。「ヨハネは」とありますが、このヨハネは、いわゆる洗礼者ヨハネです。主イエスが公に活動を始められる前に、ユダヤの荒れ野で人々に悔い改めを呼びかけ、来るべき救い主のための道備えをした人です。彼は3章11節で「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と語り、自分の後に救い主が現れることを予告したのです。そのヨハネは今、牢の中にいる。その事情はこの後の14章に語られています。ヨハネは、時の領主ヘロデの罪を厳しく指摘したのです。そのためにヘロデの怒りをかい、捕えられていたのです。14章に語られているのは、ヨハネがその獄中で首を切られて殺されてしまったということです。つまり彼は今捕えられているこの牢獄からついに出ることはなかったのです。そういう、死に直面したヨハネが、獄中から、自分の弟子たちを主イエスのもとに送って一つの質問をさせたというのが本日のところです。 ヨハネは、牢の中で、キリストのなさったことを聞いた、とあります。捕えられてはいたが、彼の弟子たちを通して、外界との交流があったのです。主イエスが活動を始められたのは、4章12節にあるように、ヨハネが捕えられた後です。ですからヨハネは直接主イエスの活動を見てはいません。弟子たちを通して主イエスのことを聞いたのです。そこに「キリストのなさったことを聞いた」とあることに注目しなければなりません。「イエスのなさったことを」ではなくて「キリストのなさったことを」と書かれているのです。キリストというのは名前ではありません。イエスの別名が、あるいは苗字がキリストなのではないのです。キリストとは「救い主」を意味する称号です。ヘブライ語では「メシア」と言われていた「油を注がれた者」を意味する言葉で、それがギリシャ語に訳されて「キリスト」になったのです。少し脱線ですが、新共同訳聖書は、この「キリスト」という言葉を、ある所では「キリスト」ある所では「メシア」と訳しています。例えばこの福音書の冒頭にある主イエスの系図において、1節の「イエス・キリストの系図」ここは「キリスト」と訳されており、16節の「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」というところでは同じ言葉が「メシア」と訳されているのです。このように同じ言葉を二種類に訳すことには疑問が残りますが、とにかく、「メシア」とある所はすべて「キリスト」と置き換えて考えていただいたらよいのです。ヨハネは、「キリストのなさったこと」を聞いた。それは彼が主イエスのお働きを聞いた時、それを単なる不思議な力を持った人の業としてではなく、自分が予告していた救い主キリストのみ業として受け止めたということです。彼は主イエスこそ来るべきキリスト、救い主であると判断したのです。そのことが、「キリストのなさったことを聞いた」という言い方に込められているのです。ところがそのヨハネが弟子たちを送って主イエスに「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と問わせたのです。この問いは何を意味しているのでしょうか。これは「キリストのなさったことを聞いた」という先ほどの文章と矛盾する問いであるように思われます。一体ヨハネは、主イエスがキリスト、救い主であられることを信じていたのでしょうか。それとも疑っていたのでしょうか。 このような問いはしかし、あまり意味がないと思います。何故なら、ヨハネのこの問いは、ヨハネの問いと言うよりも、私たち一人一人の問いであるからです。マタイがこの問いをここに記したのも、この福音書を読む読者一人一人のことを思ってなのです。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。これは、私たちが、主イエス・キリストを信じる信仰者になっていく過程において、必ず経なければならない問いです。私たちは、聖書を通して、そして教会の礼拝を重ねていくことによって、主イエス・キリストのことを聞き、その教えやみ業を知っていきます。主イエスが、まことに愛と憐れみに満ちた方であり、すばらしい力を持った方であり、その教えもまた深く、慰めに満ちたものであることを知らされていくのです。そのような体験によって、私たちの中には、主イエスという方に対する尊敬や、愛やあこがれの思いがふくらんでいきます。しかしそれがそのまま信仰になるのではありません。信仰とは、主イエスをすばらしい方として尊敬し、愛することとは違うのです。信仰に至るためには、そこから一つの飛躍が必要です。主イエスを、すばらしい方として尊敬し、愛するところから、その主イエスが「来るべき方」であり「他の誰かをもう待つ必要はない」という確信への飛躍です。主イエスが「来るべき方」であるとは、主イエスが神様から遣わされた救い主であるということです。そこには、主イエスを一人の偉人として尊敬することから、神として、聖書の言葉で言えば神の独り子として信じることへの飛躍があります。一人の人間として主イエスを見つめることから、神として信じることへの飛躍と言ってもいいし、尊敬から信仰への飛躍と言ってもいいでしょう。そしてそれは同時に「他の誰かをもう待つ必要はない」という確信を与えられることでもあります。主イエスもすばらしい、しかし他にもすばらしい人がいるかもしれない、ひょとしたらもっとすばらしい人がどこかにいたかもしれない、そういう人がこれから現れるかもしれない、そうなったら、そちらの人の方に行く、今のところは、主イエスよりもすばらしい人を知らないから、とりあえず主イエスのもとにいる…、これは信仰ではないのです。信仰とは、主イエスこそ、神様が私たちの救い主として遣わして下さった方だと信じ、その主イエスに従っていくことです。信仰においては、他の人、他の救い主の可能性ということはあり得ないのです。「とりあえず今は」ということもあり得ないのです。信仰とは、主イエスが自分の救い主であり、他の救い主はあり得ないということです。あるいは、この救い主以外の救い主は、この救い以外の救いは自分にはいらない、ということです。それは単に主イエスはすばらしい方だ、と思っているだけでは得られない、そこから大きく飛躍しなければ得られない思いです。その思いへの飛躍において、私たちは必ずこの問いに行き当るのです。「この主イエスは、本当に神様が自分に与えて下さった救い主なのだろうか。この主イエスを信じれば、他の誰かを待つ必要はなくなるのだろうか」という問いです。この問いに対して「そうだ、この方こそ自分のただ一人の救い主だ。もう他の誰かを待つ必要はないのだ」という確信が与えられた時、私たちは信仰者となるのです。 ヨハネの問いはそういう意味で私たち一人一人の問いです。私たちを代表して、ヨハネはこの問いを問うてくれていると言うことができます。だから、ヨハネがどんな思いでこの問いを発したかを詮索することにはあまり意味がないと言ったのです。けれども、それとは別の意味で、ヨハネのここでの思いを想像してみることにはやはり意味があるとも思われます。ヨハネは主イエスこそ来るべき救い主であると信じていたのです。しかしその彼がこの問いを問わずにはいられなかった、そこには彼の心の動揺、迷いがあったのです。それはどのような動揺、迷いだったのでしょうか。ヨハネは、先ほどの3章11節で、「わたしの後から来る方」が、「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言っていました。「聖霊と火とによる洗礼」とはどういうことでしょうか。次の12節にはこう語られています。「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」。ここには、麦と殻、即ち価値あるものとないもの、役に立つものと立たずに捨てられてしまうものとの区別が行われることが語られています。そして役に立たないもみ殻は「消えることのない火で焼き払われる」。この火は神の裁きの火です。「わたしの後から来る方」によってこのような裁きが行われるということをヨハネは語っていたのです。従って、「聖霊と火とによる洗礼」も、このような裁きを潜り抜けて救われるということを意味していると考えることができるでしょう。ヨハネは、自分の後から来る救い主に、このような厳しい裁き主を見ていたのです。それゆえに彼は人々に「悔い改め」を求めたのです。悔い改めて神に立ち返れ、さもないと迫っている神の裁きによって滅ぼされてしまうことになる、それがヨハネの基本的メッセージでした。ところが、彼が獄中で伝え聞いた主イエスのみ言葉やみ業は、彼がイメージし、語り伝えてきた裁きを通しての救い主とはいささか違っていました。主イエスは、ヨハネと同じように「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って伝道を始められたのですが、その教えやみ業は、人々の罪を厳しく指摘し、悔い改めを求めていったヨハネとはかなり違ったものとなっていったのです。主イエスは、罪人を断罪するよりも、むしろ彼らをお招きになりました。「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。そして主イエスの弟子たちの中には、罪人の代表格と言われていた徴税人もいたのです。そして主イエスは、悔い改めを求めるよりも、神様が天の父としてあなたがたを愛し、養い、導いていて下さることを告げ知らせ、その「福音」、喜ばしい知らせのしるしとして、病に苦しんでいる者、悪霊につかれている者などを癒されたのです。それはヨハネにしてみれば、自分が思い描いていた救い主のイメージとは違うことです。そこに、ヨハネの動揺、迷いが生じたと言うことができるのではないでしょうか。それゆえに彼は、「私が宣べ伝えていた『来るべき方』とは本当にあなたなのですか」と主イエスに問わずにはおれなかったのです。 こういうこともまた、私たちは自分のこととして体験します。私たちも、神様の救いを、救い主の姿を、自分で勝手にイメージして、救いとはこういうものであるはずだ、救い主とはこういう方であるはずだ、と思ってしまうことがあるのです。しかし聖書が語る主イエスのお姿は、またその救いは、私たちが思い描く救い主の姿や救いのイメージとはかなり違ったものなのです。そのように自分の思いと聖書の語る主イエスのお姿とが食い違った時に、このヨハネの「来るべき方はあなたでしょうか」という問いが私たちの内にも生まれるのです。ヨハネにとって、これは単に自分の考えていることと主イエスの考えていることが違う、という見解の相違の問題ではありません。ヨハネは、厳しい裁き主として来られる救い主を予告し、それゆえに人々の罪を厳しく指摘して、悔い改めを求めました。そのことを、領主ヘロデに対しても同じようにしたために、今牢に繋がれているのです。つまり彼が今捕えられているのは、自分の後から来る救い主についての、自らの信じるところに忠実であり、それを妥協せずに語ったことの結果なのです。人々を裁き、救われる者と滅びる者とをはっきりと分ける方が来られる、その確信をはっきりと語ったために、彼は牢獄に繋がれ、殺されようとしているのです。ところがその自分の後から来る救い主と信じていた主イエスが、自分が語っていたのとは違うことを語り行っておられるように見える。それはヨハネにとってゆゆしき問題です。自分が今まで信念を持って語ってきたこと、そのために命すらも失おうとしているそのことは一体何だったのか、自分が命がけでしてきたことは、全て無駄だったのだろうか、そういう思いがヨハネの心の内にうずまいているのです。 そのようなヨハネに対して、主イエスが与えた答えが4節以下です。「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病(重い皮膚病)を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている』」。これは、ヨハネの問いに対して、肯定にも否定にもなっていない言葉です。「来るべき方はあなたでしょうか」という問いに「そうだ」とも「違う」とも答えていないのです。主イエスはヨハネの弟子たちに、「あなたがたの見聞きしていることをそのままヨハネに伝えなさい」とお答えになりました。主イエスがどんなことをしていおられるか、それによって何が起こっているか、それをありのままにヨハネに伝えよと言われるのです。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。これが、今主イエスによって行われているみ業です。これらはどれも、主イエスのみ業をまとめている8、9章に出てきていました。これらのことを伝えれば、それが答えになると主イエスは言われるのです。これらのことはヨハネに対してどんな答えになるのでしょうか。これらのことは皆、主イエスの、苦しんでいる者、弱い者に対する深い憐れみのみ心によるみ業です。「貧しい人は福音を告げ知らされている」。その福音とは、主イエスにおいて神様が、罪人をも招き、救いにあずからせて下さるということです。つまり、神様の救いにあずかるのに、高い代金を払う必要はない、自分の良い行いや立派さという財産を全く持っていない、貧しい者でしかない罪人も、それにあずかることができるという良い知らせです。この、罪人をも招いて救って下さる神様の恵みと憐れみのみ業が、主イエスにおいて今行われているのです。それがヨハネへの答えです。つまり、救い主イエスは、ヨハネが考えているような「厳しい裁き主」なのではない、愛と憐れみに満ちた方なのだということがはっきりと告げられているのです。しかもこの5節に並べられていることは、本日共に読まれたイザヤ書61章などの旧約聖書の預言の実現です。つまりこのような憐れみ深い救い主として主イエスが来られることを、神様ご自身が既に予告しておられたのです。つまり救い主が厳しい裁き主として来られるというヨハネの思いは間違っていた。主イエスのみ業がそれを明確に示している。それをヨハネに伝えよと主イエスは言われたのです。そしてその最後に「わたしにつまずかない人は幸いである」とつけ加えられました。ヨハネは今、主イエスにつまずく危機のもとにあります。主イエスにつまずくとは、彼が自分の思い、自分が語ってきたこと、それによって生きてきたこと、命をかけてきたこと、それにあくまでも固執して、今主イエスご自身によって示されている救い主の姿、救いのあり様を受け入れないということです。あなたは本当の救い主じゃない、本当の救い主は、もっと厳しく裁きをなし、善と悪とをはっきりと区別する方のはずだ、そして正しい者は救い、悪い者は永遠の火に焼いて滅ぼす、そういう方であるはずだ、私はそういう本当の救い主が現れるのをなお待ち続ける、そのように言うことによって、彼は主イエスにつまずくのです。 主イエスはヨハネに、あれこれ説明をし、「こういうわけだから私がまことの救い主なのだ」と彼を説得しようとはしておられません。「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われただけです。つまり、あなたがつまずくかつまずかないか、自分の思いにあくまでも固執するか、それとも主イエスがお示しになった救いを受け入れるかは、あなたが自分で決めるしかない、ということです。つまずくかつまずかないか、それは先ほど申しました信仰への飛躍をするかしないかということでもありますが、それは、私たち一人一人の決断にかかっているのです。主イエスは、「わたしにつまずかない人は幸いである」とだけおっしゃって、私たちの決断を待っておられるのです。 ヨハネにとって、主イエスにつまずかないこと、つまり主イエスを「来るべき方」として受け入れることは、自分がそれまで語ってきたこと、自分がそれによって生きてきた信念、命をかけてきたことを放棄するようなことでした。それは大変なことです。ある意味では、自分が今までしてきたことが全て無駄になるようなことです。今捕えられ、殺されそうになっている、そのことが無意味になってしまうようなことです。それはある意味でヘロデに首を切られるよりももっとつらいことであると言えるかもしれません。しかし主イエスは、「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われます。本当の幸いがここにあると言われるのです。自分の考え、信念、それを拠り所にして生きてきたこと、それらの全てを捨てても、主イエス・キリストを受け入れることには幸いがある。それは、主イエスのもとでこそ、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」からです。神様の恵みが、憐れみが、この主イエス・キリストのもとでこそ、貧しく弱く苦しんでいる私たちに、ただで、何の見返りも求められることなく与えられるからです。私たち人間の信念は、目の見えない人の目を開くものではありません。歩けない人を歩けるようにするものではありません。重い病を癒し、聞こえない耳を聞こえるようにするものではありません。まして、死者を復活させる力はないのです。しかし主イエス・キリストはそれをして下さる方です。私たちの目を開き、本当に見つめるべき、神様の恵みを見つめさせて下さるのです。もう一歩も前に進めないと思っている私たちに、力を与えて、新しい一歩を与えて下さるのです。苦しみのどん底にいる者を慰め、本当に聞くべきこと、神様の恵みのみ言葉を聞かせて下さるのです。そして、私たちを最終的に支配している究極の力である死に打ち勝ち、その彼方に、新しい、永遠の命の希望を与えて下さるのです。そしてもう一つ、ヨハネが語っていた、救われる者と滅びる者とをはっきりと分ける厳しい裁き主としての救い主の姿、それは主イエスにおいて、決して否定されているのではないのです。主イエスは確かに、私たち人間の罪をはっきりさせ、それを裁く方です。しかしその裁きを、罪人が受けなければならない滅びを、主イエスご自身が受けて下さったのです。それが主イエスの十字架の死です。主イエスはご自身が、消えることのない火で焼き払われるもみ殻となって下さることによって、私たちを、倉に大切に保管される麦にして下さったのです。主イエスは、善も悪も、その区別をいいかげんにして、「まあ、いいじゃないか」と誰でも救って下さる、そういう救い主ではありません。罪はあくまでも罪として裁かれなければならないのです。しかしその裁きは、私たちの上にではなく、主イエスの上に下った。主イエスがそのようにして下さったのです。ですからヨハネが語っていたことも、主イエスにおいて、決して無駄にはなっていないのです。むしろそれもまた、主イエスにおいてこそ本当に実現しているのです。この主イエスを、私のための救い主として受け入れることにこそ、本当の幸いがあるのです。「あなたはつまずくのか」と私たちは問われています。自分の思いや信念に固執して主イエスにつまずくのでなく、それらを捨てて、主イエスが示して下さっている救いの恵みを受け入れるところにこそ、主イエスによるまことの安らぎへの道があるのです。
牧師 藤 掛 順 一 |