礼拝説教「ダビデの罪」サムエル記下 第11章1〜27節 マタイによる福音書 第1章1〜17節 「十戒」という映画を作ったセシル・デミルという映画監督は、「聖書は数頁あれば映画が一本できる」と言ったということです。どの部分でも、というわけにはいかないでしょうが、本日与えられているサムエル記下の第11章などは、まさにその言葉があてはまる、大変ドラマチックなところです。文章も、場面を彷彿とさせるような、生き生きとした書き方がなされていて、登場人物の表情まで想像できるような思いがします。下手な小説よりもずっと面白いところです。しかしそのようにドラマチックに、生き生きと語られていることの内容は、まことに深刻な、どろどろとした、人間の罪です。しかも、神様に選ばれて、愛されて、イスラエルの王となったダビデ、常に神様に導かれ、また神様に寄り頼んで歩んだあのダビデが犯した罪が、ここにまことに赤裸々に描き出されているのです。 1節に、「年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ダビデは、ヨアブとその指揮下においた自分の家臣、そしてイスラエルの全軍を送り出した。彼らはアンモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデ自身はエルサレムにとどまっていた」とあります。これが、これから展開されていくドラマの前提となっている設定です。ここでいくつかのことを説明ないし確認しておきたいと思います。まず、「年が改まり、王たちが出陣する時期になった」とありますが、これは、「春になった」ということです。昔は、冬場には戦争をしなかった、というより出来なかったのです。どんなに激しい戦争であっても、冬になると休戦になって冬ごもりをする、そして春になると戦いが再開されるのです。この時の戦いは、アンモン人との戦いです。その戦いがどのようにして起こったかは第10章に語られています。アンモン人が、ダビデの送った使節に侮辱を加えたのです。新しく王になったばかりのダビデなど恐れるに足りず、と思ったのでしょう。しかしダビデは断固たる態度で全軍を送り出し、アンモン人とアラム人の連合軍を打ち破ったのです。そして年が改まった今回は、今度はアンモン人の首都ラバを包囲する戦いに臨んでいるのです。アンモン人の首都ラバは、現在のヨルダン王国の首都アンマンです。アンマンという地名は面白いので小学生でも覚えてしまうのですが、それは聖書に出て来るアンモンから来ているのです。 このラバの包囲戦に、ダビデ自身は出撃せず、エルサレムに留まっていました。もはや勝敗の帰趨は明らかで、王自身が出向くまでもないということでしょう。彼は戦いの全てを、軍の司令官ヨアブに委ねたのです。このヨアブという人は、ダビデの腹心中の腹心、最も信頼を置いていた将軍で、8章15節以下にあるダビデの重臣たちのリストの筆頭に出て来る人です。そのヨアブに戦さのことを任せ、勝利の確信の内にダビデはエルサレムに留まっていたのです。 そんなある日の夕方、ダビデが王宮の屋上を散歩して涼んでいると、周囲に配置されている家臣の家の一つの庭で、一人の女性が水浴びをしているのが見えたのです。肌も露わに水浴びをしているその女性の美しさにダビデはすっかり参ってしまいました。調べさせてみると、その女性はバト・シェバといって、ヘト人ウリヤの妻でした。ヘト人ウリヤは、ダビデに仕える軍人です。23章8節以下には、ダビデの部下だった勇士たちのリストがありますが、三十数人の勇士たちのリストの最後にこの人の名があります。ヘト人というのは、カナンの地の先住民の一つです。つまり彼はイスラエル人ではない、異民族の出身です。そういう人々が、ダビデの部下には何人もいたのです。今戦っているアンモン人の出身者すらいました。サウルに追われて逃げ回っていたダビデのもとに集まって来た部下たちはそのように多様な人々の集団だったのです。ウリヤもその一人だったのでしょう。彼はこのようにダビデの軍隊の中でも名の知れた勇士であり、この時ヨアブの指揮下でアンモン人の都ラバの包囲戦に出陣していたのです。その部下の妻であるバト・シェバにダビデは恋をしてしまい、彼女を王宮に召し入れ、床を共にしてしまったのです。 このことは、部下の妻との不倫、姦淫の罪です。それだけでも勿論大変な罪ですが、さらにダビデの罪を大きなものとしている事情があります。一つは、彼が王であるということです。彼は王としての権力によって、バト・シェバを呼び出して関係したのです。王の命令なら、彼女は王宮に出向かないわけにはいかなかったでしょう。ダビデは自分の権力を、欲望を遂げるために用いたのです。もう一つのことは、今ウリヤたちが戦争に行っているということです。王であるダビデの命令によって、家臣たちが命がけで戦っている、その留守中に、その妻に手を出したのです。これは彼を信頼してその命に従っている家臣に対する甚しい裏切りであると言わなければなりません。ダビデがしたことは、このように何重もの意味で赦されない罪だったのです。 この罪は、一度限りの過ちでは済まされませんでした。彼女は妊娠したのです。そのことから、ダビデの罪の第二段階が始まります。彼女の妊娠を聞いたダビデは、ウリヤを急遽エルサレムに呼び返します。戦況を報告させるため、という口実でです。しかし戦況に変化があればその報告はヨアブからちゃんとなされるはずです。しかもこのたびは、ウリヤを特別に指名しての命令です。ヨアブは「おかしいな」と思ったに違いありません。ダビデの意図は、ウリヤを家に帰らせること、妻と共に過ごさせること、それによって、バト・シェバの妊娠を夫によることだと、ウリヤ自身にも、そして世間の人々にも思わせることです。要するにダビデは、自分の罪を隠蔽し、誰にもわからないようにごまかそうとしたのです。8節に、ダビデがウリヤに「家に帰って足を洗うがよい」と言ったとあります。「ご苦労だった。奥さんの所に帰ってゆっくりくつろげ」ということです。しかもダビデはウリヤに贈り物をします。妻と共に楽しむためのご馳走か何かでしょう。いつになく親切な、愛想のよいこの姿は、何か悪いことを隠している者の常です。 ところがこのウリヤという人は、忠実かつ実直な戦士でした。彼は家に帰ろうとはせず、王宮の入口でダビデの家臣団と共に眠ったのです。彼の家は王宮の屋上から見えるくらいの、すぐ隣にあったにもかかわらずです。ダビデはそれを聞いていらいらします。翌日ウリヤに「遠征から帰って来たのではないか。なぜ家に帰らないのか」と言います。するとウリヤはこう答えたのです。「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません」。「この石頭の朴念仁め」、とダビデは思ったことでしょう。自分の罪を隠蔽しようとするダビデの計画は外れてしまったのです。もっとも、別の読み方をする人もいます。ウリヤは、ダビデと妻とのことをうすうす感づいていたのだ、という読み方です。自分が急遽、大して用もないのに呼び戻された本当の理由を彼は感づいていた。それで彼は家に帰らなかったのだ。それは彼の、王であるダビデに対する精一杯の抵抗、抗議だった、なるほどそのように読むこともできるかもしれません。悪事というのは、特にこういう不倫などということは、自分は隠しているつもりでも結構周りにはバレバレになっている、ということでしょうか。そこでダビデは、「もう一晩泊まっていけ」と言って、ウリヤのために宴席を設けます。しこたま飲ませて酔わせれば、この朴念仁もついふらふらと、ということがあるかもしれない、というわけです。しかしウリヤはその晩も、家に帰ることはありませんでした。 ダビデは、罪を隠蔽して何事もなかったかのように見せかけることがもはや不可能でることを悟り、翌朝ヨアブにあてた書状をしたため、それをウリヤに托します。そこには、「ウリヤを戦死させよ」と書かれていました。自分を殺せと書かれた命令書を携えて、ウリヤは戦場へと帰って行きます。司令官ヨアブはその書状を見て、ダビデの意図を悟り、それを忠実に実行します。ヨアブが命令した作戦によって、ウリヤは戦死しました。そうなることが目に見えているような作戦だったのです。ウリヤは、上官の命令には絶対服従という軍人としての律儀さでこの戦いに出て行ったのかもしれません。あるいは、先ほど申しましたように、ダビデと妻とのことを感づき、自分がダビデに裏切られ、もはや邪魔な存在になっている、ということに絶望して、自ら命を絶つ思いで出て行ったのかもしれません。いずれにせよ、ウリヤは死にました。ダビデが殺したのです。ダビデは自分の罪を隠し切れないと知るや、それを責める立場になるウリヤを抹殺することで自分の身を守ろうとしたのです。姦淫の罪を取り繕うために、何の罪もない、忠実な部下を殺すというさらに大きな罪を重ねたのです。罪はこのように新たな罪を生み、ふくれあがっていきます。一つの嘘をつくと、それを隠すために第二第三の嘘をつかねばならなくなり、嘘がふくれ上がっていくのと同じです。しかもさらに罪深いのは、このウリヤ抹殺が、間接的に、戦いの中で敵に殺された、という形を取り繕って行われたことです。そのダビデの罪の共犯者となったのはヨアブです。彼はダビデの意を汲んで、わざとウリヤを戦死させるような作戦を立てたのです。このことはヨアブの側からすれば、自分の身を守るためのことです。彼はダビデの共犯者となることで、ダビデの弱みを握ったのです。自分をないがしろにするなら、この秘密をばらしますよ、とダビデを脅迫するネタを得たのです。彼はあの秘密の命令書を受け取った時、「こんな間違ったひどい命令には従えません」とダビデに逆らうよりも、ダビデの言う通りにする方が自分にとって有利だと思ったのでしょう。実際彼はこのことによって、ダビデに対して、王と家臣というのとは違うある優位に立つことができた、ということが、18節以下を読むとわかります。ウリヤを始め何人かが戦死したこのたびの攻撃は失敗だったのです。あまりにも稚拙な作戦だったがゆえに、敗北を喫したのです。それは本来なら作戦を立てる司令官の責任問題になるようなことです。しかしヨアブはこの戦闘の一部始終をダビデに報告する使者に、もし王がそれを聞いて「何故そんなバカな作戦を行ったのか」と怒るようなら、「王の僕ヘト人ウリヤも死にました」と言えと命じました。使者は事情がわかりませんから、正直に戦況を報告し、最後に「ウリヤも死にました」とつけ加えます。それを聞いたダビデは「ヨアブにこう伝えよ。『そのことを悪かったと見なす必要はない。剣があればだれかが餌食になる。奮戦して町を滅ぼせ。』そう言って彼を励ませ」と言います。部下の失敗に寛大な王の言葉を装っていますが、真実は、ダビデはヨアブに何も言えないのです。王と家臣という立場がすっかり逆転してしまっているのです。「剣があればだれかが餌食になる」、それは、「戦争なんだから、人が死ぬのは仕方がない」ということです。しかしそれは何という欺瞞でしょうか。ウリヤはダビデの意志によって、その命令によって殺されたのです。ダビデが彼を殺したのです。それを「戦争なんだから仕方がない」ということにしようとする。ダビデのこの罪は、単なる人殺し(それだけでも最大級の罪ですけれども)では終わらない、さらにさらに深いものなのです。ウリヤが戦死し、その喪の期間が終わると、ダビデはバト・シェバを王宮に連れてきて妻にします。最初からそうしようと思っていたのではないにせよ、結果的には彼は、部下を殺してその妻を奪ったのです。 さてここまではもっぱら、ダビデのしたこと、その罪を見てきたわけですが、一方のバト・シェバはどうだったのでしょうか。姦淫の罪というのは、一人で犯すものではありません。必ず相手があり、二人で共に犯すものです。バト・シェバも、夫を裏切る罪を犯したのです。それは王であるダビデに無理強いされて仕方なかったのだ、と言えるかもしれません。けれども、必ずしもそれだけではなかったとも思えるのです。彼女は、王宮の屋上から丸見えのところで水浴びをしていた、それは、始めからダビデ王の気を引こうという思いがあったのではないか、と言う人もいます。ダビデに召し出されて関係を迫られた時にも、断固として拒み通すこともできたのではないだろうか、それをしなかったのは、彼女の心の中にも、自分が王の目に留まったことを喜ぶ思いがあったからではないのか、とも思われます。そして彼女は妊娠したことを知ると、「子を宿しました」とダビデに告げます。それは、「あなたどうするの、責任とって頂戴よ」ということです。そこに、バト・シェバのしたたかさを見ることができるかもしれません。極端なことを言えば、この話の真相は、バト・シェバが、ただの軍人である夫を捨て、王であるダビデに鞍替えした、ということだったのかもしれないのです。勿論、たとえそうだったとしても、先ほど見たダビデの罪が消えるわけではありません。言い訳が立つわけでもありません。彼がしたことはやはり言い逃れのできない大きな罪です。しかしそれは両者が共に犯している罪なのだということを私たちは知っておかなければならないと思います。そしてそれを知った上で、聖書はこれをもっぱらダビデ王の罪として描いている、ということを改めて受け止める必要があるのです。出来事そのものは二人共の罪です。そのことを認めないなら、それは女性の人格を認めないということになってしまうでしょう。しかしここでもっぱら見つめられているのは、ダビデの罪、神様に選ばれ、導かれて王となったあのダビデが犯した大きな罪のことなのです。 ダビデはどうしてこんな罪を犯してしまったのでしょうか。その答えは単純であると同時に深い謎です。単純だというのは、美しい女性の体に欲望を抱いたから、ということです。それは、男ならば誰でもわかることであり身に覚えがあることではないでしょうか。自分がそうだからといって誰でもそうだと決め付けてしまうのはいけないかもしれませんが、少なくとも私はわかります。中には、どんな美しい女性を見ても決してそんな思いは抱かない、という人がいるかもしれませんが、世の中にその手の雑誌や番組があれだけ氾濫している事実を見ても、大方の者はそういう気持ちを持っているということでしょう。美しいバト・シェバを見て、手を出したくなったのはそういう意味では単純な、わかりやすいことです。 しかし他方、そのような欲望や衝動を覚えることと、実際にその欲望の通りに行動してしまうことの間には大きな隔たりがあるということも確かだと思うのです。思いを抱いたからすぐにそれを実行してしまう、というものではないはずです。その間には、実行を妨げるいろいろな要素があるはずです。一般的には、理性とか良心とか倫理感というものがその働きをします。人の妻とそんなことをするのはいけないことだ、ということは誰でも分かっているのです。その人が自分の部下の妻であり、自分が命じた戦いに出ているとなればなおさらです。その留守の間にそんなことをするのが、いかに卑劣なことであるか、ダビデはよく分かっていたはずです。しかしそういうことが全く歯止めにならずに、彼はこの罪を実行してしまったのです。歯止めになったはずのものはそれだけではありません。何よりも、このダビデは、神様を信じている人です。ベツレヘムのエッサイの家の末っ子であり、羊の群れの番をしていた彼を、主なる神様が選んで下さり、イスラエルの王として下さった、その神様の恵みと導きを深く体験してきた人です。そのことへの感謝を、彼は忘れてしまっていたはずはありません。そしてこの主なる神様のみ心に従って歩もうという思いを、彼は捨て去っていたわけではないはずです。そしてこの主なる神様が、姦淫してはならない、隣人の家をむさぼってはならない、さらには殺してはならないと命じておられることを、彼はよく知っていたのです。要するに彼は、神様を信じている信仰者だったのです。バト・シェバへの欲情につき動かされていく時に、このことは神様のみ心に適わない、神様がお怒りになる、してはいけないことだ、ということを彼は分かっていたに違いない。しかし、その信仰が、神様に感謝し、従おうとする心が、何の歯止めにもならなかった。彼はずるずると罪に陥り、気が着けばそれにどっぷりとはまり込んでしまっていたのです。このことは本当に不可解な、謎です。ダビデほどの信仰者であっても、このように罪に陥っていくのです。それはもはや、「私たちはダビデのような罪を犯さないように気をつけましょう」などということでは追いつかない、恐ろしい、不気味な現実です。ダビデほどの信仰者が罪に陥っていくのだから、私たちごときはひとたまりもないのです。自分は神様を信じている、信仰者である、そんなことは何の役にも立たないと思わなければなりません。私たちを捕えようとしている罪の力はそれほどに大きく、不気味なものなのです。それは姦淫の罪のみのことではないでしょう。私たちは、この罪の力を、決してあなどってはなりません。軽く見てはなりません。神様を信じていれば、神様に従おうと努力していれば、それを防ぐことができる、罪に陥らないですむ、などという甘いものではないのです。あのダビデ王がこのような罪を犯した、それは驚くべきことです。まさかあの人が、というようなことです。聖書はそのことによって、私たちに、私たちをいつもつけ狙い、陥れようとしている罪の力が、いかに恐ろしいものであるか、私たちの思いを超えた謎めいた仕方で私たちをとりこにする不気味なものであるか、ということを教えているのです。 11章の終わりに、「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」とあります。ダビデのこの罪を、神様は決して見過ごしにはなさらないのです。神様がそこで何をなさったか、それは次にサムエル記を読む時に見つめていくことになります。しかし今は、本日共に読まれた新約聖書の箇所をかみしめておきたいと思います。それは、マタイによる福音書の冒頭のところの、主イエス・キリストの系図です。その中に、本日のこのダビデの罪のことが語られているのです。「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」。ダビデ王の後継ぎとなったソロモンは、このバト・シェバの子だったのです。それは、本日の11章で生まれた男の子のことではありません。ソロモンは、その後、バト・シェバがダビデの正式の妻となってから出来た子です。しかしこの系図は、ソロモンの母は「ウリヤの妻」であると言っています。ダビデは部下のウリヤから妻を奪った、その罪が、忘れられることのないようにわざと指摘されているのです。そのようにことさらにダビデの罪を強調しているこの系図は、主イエス・キリストの系図です。主イエス・キリストは、このような人間の罪の歩みを受けて、神様のご計画によってこの世にお生まれになった、それがこの系図の語っていることです。ダビデとバト・シェバの、あのどろどろとした、決して赦され得ない罪の末裔として、主イエス・キリストはお生まれになったのです。それは、主イエスが私たちの罪を、信仰者をも容赦なく飲み込んでいく不気味な罪の力を、十字架の苦しみと死とにおいて引き受けて下さり、ご自分の命をいけにえとしてささげることによって、私たちを赦して下さるためでした。私たちがこの不気味な罪の力から救われるのは、ダビデのような罪を犯さないように気をつけることによってではなく、この主イエス・キリストの十字架の死による赦しの恵みの中に置かれることによってです。「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」という主イエスの系図は、私たちが確かにその恵みの中に置かれていることを示しているのです。
牧師 藤 掛 順 一 |