富山鹿島町教会

礼拝説教

「五つのパンで五千人」
出エジプト記 第16章9〜36節
マタイによる福音書 第14章13〜21節

 主イエス・キリストが、女と子供を別にして男だけで五千人もの大群集を、五つのパンと二匹の魚で満腹にされた、そして余ったパンは十二の籠いっぱいになった、という大いなる奇跡を行われたことが、本日の箇所、マタイによる福音書一四章一三節以下に語られています。主イエスと弟子たちの一行は、人々の前を去り、人里離れた所に退かれました。しかし多くの群衆がその後を追ってきました。舟に乗ってガリラヤの湖の上を移動していく主イエスを、人々は岸辺で追いかけ、上陸される所までついて行こうとしていたのです。人気タレントがどこへ行っても人々に追い回されるように、主イエスも、自分たちだけでひっそりと行動することはできなくなっていたのです。しかしこの時主イエスを追いかけてきた人々は、いわゆるタレントの追っかけなどとは全く違って、それぞれに苦しみや悩み、切なる願いを持っていました。その人々の様子を見た主イエスは、舟を岸につけさせ、上陸して群衆たちの中に入っていかれます。14節に「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた」とあります。苦しみ、悲しみをかかえて主イエスのもとに集ってきた人々を、主イエスは深く憐れんで下さり、救いのみ手を差し伸べて下さったのです。この「深く憐れみ」という言葉は、「はらわたがよじれるような」憐れみ、自分自身の内に痛みを覚えるような、通り一遍の同情とは違う本当に深い同情、憐れみを指す言葉です。主イエスはこの深い憐れみのみ心から、舟を降りて、群衆の中に入ってこられたのです。

 そのようにしているうちに夕暮れになりました。もう夕食の時間です。しかしそこは人里離れた所ですから、ちょっとそこらの店で食べ物を買うというわけにはいきません。あまり遅くならないうちに、群衆を解散させてもよりの村へ行けるようにしなければ、と弟子たちは心配しました。しかし主イエスは、「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言われました。しかし、五千人を超える人々です。どうやってそんな食料を調達することができるでしょうか。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」。これが弟子たちの持っている食料の全てでした。しかし主イエスが神様に祈ってそれを分配していかれると、全ての人々に行き渡り、みんなが満腹し、さらに余りまで出たのです。

 この出来事を合理的に説明しようとする人はこんなことを言います。群衆たちは本当はそれぞれ弁当を持ってきていたのだ、しかし自分だけそれを広げて食べるのは気が引けるし、弁当のない人に分けてやらなければならなくなると自分の分が減ってしまう、だからみんな懐の中にそれを隠していた。しかし主イエスと弟子たちが、自分たちの持つ僅かな食料を全て出してそれをみんなに分け始めたのを見て、みんな恥ずかしく思い、「自分も実はこれを持っているから分け合って食べよう」と言い出した。そういうことがあちこちで起っていって、結局みんなで分け合って食べたら、みんなが満腹することができた。それはただ腹が満ちたということよりも、互いに分け合い、仲間になることができたということから来る精神的な満腹を覚えたということではないか、という説明です。このような読み方は、「それぞれが持っているものは僅かでも、みんなで分け合っていけば、みんなが幸せになれる」という教訓を語る話としては面白いし、現在地球上に起こっているいわゆる南北問題、私たちのように豊かな食料に恵まれている国があるかと思えば、飢餓に苦しみ、飢え死にしていく人々がいる、という現実にどう対処すべきかの示唆を与える話ということにもなるでしょう。そういう点でこういう合理的な読み方にも意味があるとは思いますが、しかし聖書が語ろうとしていることは何か、という点から言えば、それは全く間違った読み方です。聖書がこの話によって語ろうとしているのは、「分かち合いの大切さ」などではありません。聖書は、この出来事を、あくまでも主イエスがなさった大きな奇跡として語っているのです。そしてその奇跡をなさった主イエスのみ心は、先程も述べた群衆への深い憐れみです。苦しみ悲しみをかかえて主イエスのもとに集ってきて、今や空腹をも覚え始めている人々を、主イエスは深く憐れんで下さり、神の子としての力を発揮して、彼らを養って下さったのです。そういう意味では、病気の人々を癒されたことと、五千人を超える人々に食事を与えられたこととは、ひとつながりのことです。苦しんでいる者、悲しんでいる者、弱っている者への主イエスの深い憐れみのみ心が行われているのであり、それこそが私たちの救いなのです。人間どうしの分かち合いや助け合いでこれらの苦しみや悲しみが解決するわけではないのです。

 けれども、この五つのパンと二匹の魚による奇跡には、病人の癒しの奇跡とは明らかに違う点もあります。それは、主イエスが、弟子たちに「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言っておられる点です。五千人を超える人々の食料を調達せよ、というこの命令は、何のためになされているのでしょうか。弟子たちがそんな食料を持っていないこと、それだけのものを買う金もないことを、主イエスはよくご存じなのです。弟子たちはこの命令を聞いて、「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」と言っています。実はこの言葉を引き出すことこそ、主イエスのあの命令の目的なのです。この弟子たちの言葉は、口語訳聖書では「わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません」となっていました。こちらの方が原文の言葉に忠実な訳になっています。「私たちはこれしか持っていない」と弟子たちは言っているのです。このパンと魚は、たまたまそこにあったのではありません。それは、弟子たちが持っているものの全てだったのです。その、弟子たちの持っているもの、彼らの能力、力、それを明らかにするために、主イエスはあのような無理なことを言われたのです。そしてその上で、主イエスは「それをここに持って来なさい」と言われます。弟子たちの持っている本当に僅かなもの、五千人を超える群衆の前では、一人に小指の先ほどのひとかけらだって渡らないだろう、そういう何の役にも立たないと思われるもの、その弟子たちの持っているものを主イエスはご自分のもとに差し出すように求めておられるのです。その弟子たちの持っているものを用いて、主イエスは大きな奇跡を行って下さるのです。

 五つのパンと二匹の魚が持ってこられると、主イエスは群衆を座らせます。主イエスを取り巻いて群衆たちが座り、静まって何事が起こるのかと主イエスを見上げています。その真中に主イエスだけが立って、パンと魚とを取り上げ、「天を仰いで賛美の祈りを唱え」たのです。主イエスの祈りの声が、静まった群衆の上に響きます。そしてそのパンが裂かれて人々に配られていったのです。するとそのパンは、裂かれても裂かれても小さくならず、なくならず、ついに全ての人々を満腹にし、さらに余りが出るまでになったのです。

 「天を仰いで賛美の祈りを唱え」というところは、口語訳聖書では「天を仰いでそれを祝福し」となっていました。この二つの訳は、それぞれ一長一短があります。口語訳は、「それを」つまりパンと魚を祝福した、ということになっており、主イエスがパンと魚に対して何かを語られたように感じられます。しかし「それを」という言葉は原文にはありません。主イエスは「天を仰いで」、つまり神様に向かって語られたのです。つまり祈られたのです。パンと魚に向って「増えろ」というような呪文をかけたのではないのです。その点では、新共同訳の「賛美の祈りを唱え」の方がよいのです。しかし「賛美の祈りを唱え」はあまりにも説明的な訳です。原文の言葉はたった一言であり、それは通常「祝福する」と訳される言葉です。ですから口語訳から「それを」を取って、「天を仰いで祝福し」とするのが最も原文に近い訳なのです。新共同訳がそうしなかったのは、「祝福する」という言葉には、通常神様が人間を、あるいは上位の者が下位の者を祝福するというイメージがあるからでしょう。主イエスが天に向って、つまり神様に対して語るのは祝福ではなくて賛美だ、ということから「賛美の祈りを唱え」となったのだろうと思います。つまりこの言葉は、日本語の「祝福する」という言葉だけでは言い尽くし得ない広がりを持っているのです。そのもともとの意味は、「良い言葉を語る」ということです。神様が人間に対して良い言葉を語って下さる時、それは「祝福する」ということになります。人間が神様に向って良い言葉を語るなら、それは「賛美、感謝」ということになります。そのように、語る者と相手との関係によって、「良い言葉」の内容が変わってくるのです。このことは、この言葉をどう訳すか、というだけの問題ではありません。主イエスがここで何をなさったのか、どのような言葉が、座っている群衆の上に響いたのか、ということです。主イエスは、弟子たちの持っていた五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで「良い言葉」を語られました。その「良い言葉」は、父なる神様をほめたたえる言葉でもあったでしょう。またそれは、ここに備えられた五つのパンと二匹の魚を感謝する言葉でもあったでしょう。私たちが食前の祈りにおいて、与えられた食事を感謝するのと同じです。つまり主イエスがここで語られた言葉は、「神様ここには五千人以上の人々がいます。こんな五つのパンと二匹の魚ではどうにもなりません。なんとかしてください」というような言葉ではなかったのです。あるいはパンと魚に向っていっしょうけんめいに「増えろ、増えろ」とまじないをかけていたのでもないのです。主イエスは、弟子たちの持っている五つのパンと二匹の魚を、神様の前に差し出し、賛美と感謝を語っておられる、喜びを表しておられるのです。その賛美と感謝の言葉、喜びの言葉が、弟子たちと、群衆たちの上に響き渡ったのです。そしてその主イエスの賛美と感謝、喜びの中で裂かれ、分け与えられたパンと魚は、五千人を超える人々を満腹にしていったのです。

 私たちがこの話から読み取らなければならない最も大事なことはこのことでしょう。この話は、主イエスは五つのパンで五千人を養うことができる力を持っておられたのだ、ということだけを言っているのではないのです。弟子たちの持っていた五つのパンと二匹の魚、五千人を超える人々の前では何の役にも立たないとしか思えないほんのちっぽけなもの、それを主イエスが用いて、大きなみ業をして下さったということ、それこそがこの話の中心です。そしてそのことは、主イエスが、弟子たちの、つまり私たちの持っている小さなもの、力などとは言えないような僅かな力を、神様のみ前で喜んで下さり、神様への感謝と賛美の中でそれを用いて下さることによって起こるのです。私たちは、自分の持っているもの、自分の力を、喜んだり、感謝することがなかなか出来ません。この世の厳しい現実の前で、自分の持っているもの、力など、全く無力であり、何の役にも立たない、現実をどうすることもできない、と思わざるを得ないことが多いのです。あるいは、自分の持っているものや力を、人のもの、人の力と見比べてしまい、自分は何とみじめな、ちっぽけなものしか持っていないのだろうか、あの人の持っているもの、あの人の力に比べたら、自分など何の力もない、とひがんでしまったりするのです。そのように私たちは、自分に与えられているものを喜ぶことができない、感謝することができない者です。しかし主イエスは、その私たちのちっぽけなもの、何の役にも立たないと思えるようなものを、「ここに持って来なさい」と言われるのです。そして、それを神様への感謝と賛美と喜びの内に用いて下さるのです。するとそこに、私たちの思いもよらないような恵みのみ業が行われていくのです。

 弟子たちは、主イエスによってそのように用いられ、その恵みのみ業を体験させられました。主イエスは神様に祈って裂いたパンを、弟子たちにお渡しになり、弟子たちがそれを群衆に配って回ったのです。五つのパンと二匹の魚で五千人を超える人々を養われた主イエスの奇跡が、このように弟子たちの手を通して行われていきました。また、みんなが満腹した後、残ったパン屑を集めると、十二の籠いっぱいになった、それは、十二人の弟子たちがそれぞれ籠を持ってパン屑を集めて回ったということでしょう。その籠全てがいっぱいになったのです。つまり弟子たち一人一人が、このことを通して、主イエスの恵み、憐れみの大きさ、それが人々を満腹させてなお余りあるものであることを体験させられたのです。

 弟子たちはこのように、この奇跡によって大きな恵みの体験をしました。同じことをもう少し別の角度から見つめてみることもできます。この奇跡は、主イエスが、ほんの少しのパンと魚を大きく増やして、多くの人々の空腹を救われたということです。そのことは、この福音書の第4章にある、あの荒れ野の誘惑の中で、あなたが神の子なら石をパンにすればよいではないかと悪魔が言ったことを思い起こさせます。悪魔が言っているのは、石をパンにして自分の空腹を満たしたらよいということではなくて、貧しい、腹のすいた人々に、石をパンにしてどんどん食べさせて満腹にしてやれば、みんなお前に従うようになるぞ、ということです。主イエスがここでしておられることも、ある意味ではそれと似たところがあります。空腹の人々に、神の子としての力によってパンを与えている、石をパンにしたのではなかったが、ほんの少しのパンを沢山にして人々を満腹させておられるのです。奇跡の力で人々を満腹にする、という点では、悪魔が言ったのと同じことをしているとも言えるでしょう。しかしそこには決定的な違いがあるのです。それは何かといえば、主イエスは弟子たちの持っているものを用いてこのみ業をなさったということです。ご自分の力で、そこらの石をどんどんパンにして人々に与えるというのではなくて、まず弟子たちに、「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言い、「私たちはパン五つと魚二匹しか持っていません」という答えを引き出し、「それをここに持って来なさい」と命じて、その弟子たちの持っているものによって人々を養われたのです。まだるっこしいと言えばまだるっこしい話です。しかしそこに、悪魔の思いとは違う主イエスの思いが表れているのです。主イエスは、人間の持っているもの、人間の力、それは力と言うよりもむしろ弱さと言った方がよいでしょう。何の力もない、何の役にも立たないと思われる人間の弱さ、そこにおいてこそ、神様の本当の救いの力、み業が行われるということを見つめておられるのです。神の子としての力を発揮して、そこらの石をかたっぱしからパンに変えていくのは、まことにわかりやすい、また栄光ある歩みです。悪魔の他の二つの誘惑もみな、主イエスにそういう栄光に満ちた道を歩ませようとするものでした。神の子なんだから、神の子らしい、栄光と力に満ちた道を歩めということです。主イエスはその誘惑を退け、栄光ある歩みではなく、ただ神に栄光を帰し、み言葉に従う歩みを選び取られたのです。本日のこの出来事も、その歩みの中で起っています。主イエスの恵みのみ業は、主イエスご自身が石をパンに変える栄光によってではなく、弟子たちの持っている小さなもの、何の役にも立たないと思える人間の弱さを用いて行われていくのです。そして主イエスのそのような歩みの行きつく先が、十字架の苦しみと死です。捕えられ、十字架につけられて殺される、それは人間の思いからすれば、弱さであり、敗北であり、失敗です。主イエスの生涯やその教え、み業は結局何にもならなかった、この世の現実を変える力はなかった、ということです。主イエスご自身も、五千人の人々の前での五つのパンと二匹の魚と同じだったということです。しかしその、人間の目から見たら何の役にも立たない弱さと敗北と失敗に見える十字架の死において、神様の大いなる救いのみ業が成し遂げられたのです。主イエスの十字架の死によって、私たちの罪が赦され、神様の民として、その恵みの下に新しく生きる道が開かれたのです。そこにこそ、私たちの本当の救いがあります。何故なら私たちは、神様に対しても隣人に対しても、罪を犯している者であり、その罪は、自分の力で償って救いにあずかる資格を得ることなどできない、深いものだからです。神様の独り子主イエスが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったからこそ、私たちは赦されて、救いにあずかることができるのです。もしも主イエスが、あの悪魔の誘惑によって、石をパンに変える栄光の道を歩まれたなら、主イエスの十字架はなかったでしょう。そしてその時には、私たちは、栄光に輝く主イエスのお姿をはるか遠くにあおぎ見つつ、しかしその主イエスのもとには絶対に到達することができない自分の弱さと罪の中でのたうち回り続けるしかないのです。

 しかし幸いなことに、主イエスはあの悪魔の誘惑に打ち勝って下さいました。そして、石をパンに変えるのではなく、弟子たちの持っている五つのパンと二匹の魚を用いて恵みのみ業を行って下さったのです。五千人を超える人々の前での五つのパンと二匹の魚は、この世の現実の中での、私たちの弱さ、無力さの象徴です。しかし主イエスはその私たちの弱さ、無力さを手に取り、父なる神様に感謝と賛美の祈りをささげ、喜んでそれを用いて下さるのです。そこに、大いなる恵みのみ業が、私たちの思いを超えた奇跡が起こるのです。弟子たちはそのことを体験させられました。私たちも、信仰の歩みの中で、教会に集う生活の中で、同じことを体験させられつつ歩むのです。しかしそのことは、ただ漠然と神様を信じ、主イエスを信じているだけでは体験できません。弟子たちのこの大きな恵みの体験は、主イエスが、「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言われたことから始まったのです。主イエスのこの命令を聞いて、弟子たちは大いにとまどい、困りました。こんなに多くの人々に我々が食べ物を与えるなんて、そんなことは無理だ、できない、だって我々には、五つのパンと二匹の魚しかないのだ…、そして彼らは、「私たちはパン五つと魚二匹しか持っていません」と言ったのです。この主イエスの命令を真剣に聞くことなしには、事は始まりません。主イエスは今この私に、私たちのこの群れに、何を命じておられるのか、どうせよと言っておられるのか、私たちはそのことを真剣に求めていかなければならないのです。そしてその主イエスの命令を聞く時、私たちは、自分が何を持っているのか、どんな力があるのかを振り返らなければならなくなります。そして、自分の持っているものが、五つのパンと二匹の魚のように、与えられている使命に対して全く間に合わない、何の役にも立たないものであることを思い知らされるのです。けれどもその時そこに、もう一つの主イエスのお言葉が響きます。「それをここに持って来なさい」というみ言葉です。こんなものでは何の役にも立たないと思わずにはおれない私たちの弱さ、何も出来はしないように思える自分、主イエスはそれを、私のところへ持って来なさいと言われるのです。私が、あなたを、あなたの弱さを用いてみ業を行うと言われるのです。このみ言葉に従って、私たちは、自分自身を、自分のありのままの弱さを、貧しさを、主イエスに差し出すのです。それをせずに、いや私など、こんな小さな弱い者など、何の役にも立ちませんと言い張るなら、あるいは、もうちょっと役に立つように立派になったら持っていきますと言ってパンと魚を主イエスのもとに持っていくのを拒むなら、弟子たちに与えられたこのすばらしい体験を私たちはすることができなくなるのです。私たちが持っているものは、誰であっても、こんなものです。五つのパンをがんばって十にしてみたところで、五千人を超える人々の前で無力であることには変わりはないのです。しかし私たちが、その無力な自分を、主イエスのもとに持って行って、主イエスに委ね、用いていただくならば、主イエスはその私たちを喜んで受け止め、神様に感謝し、賛美し、私たちを通して救いのみ業を行って下さるのです。「あなたの持っているものを、あなた自身を、ここに、私のもとに持って来なさい」と主イエスは今私たちに呼びかけておられます。それぞれの生活の中で、そのみ声に応えていく者でありたいのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年2月10日]

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