礼拝説教「天の国の鍵」詩編 第2編1〜12節 マタイによる福音書 第16章13〜20節 本日この礼拝のために与えられている聖書の箇所、マタイ福音書第16章の13節以下は、この福音書の中でも最も大事な箇所の一つです。ここには、主イエスの、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いに対して、弟子の筆頭であるペトロが、弟子たちを代表して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたこと、つまり、主イエスに対する明確な信仰を告白したこと、そして主イエスがそれに対して、この信仰の告白の上に、ご自分の教会を建てると宣言されたことが語られています。主イエスとは何者であるか、また、主イエスを信じる者の群れである教会はどのような土台の上に築かれていくのか、という私たちの信仰の根幹に関わることがここに教えられているのです。 このペトロの信仰告白は、主イエスと弟子たちの一行がフィリポ・カイサリア地方に行った時になされたと13節は語ります。聖書の後ろの付録の地図の6.「新約時代のパレスチナ」というのを見ていただくと、その上の方、ガリラヤ湖からまっすぐに北に上った所に「フィリポ・カイサリア」とあります。ヨルダン川の源流となる、風光明媚な場所です。そこがフィリポ・カイサリアと呼ばれるのは、主イエスがお生れになった当時のユダヤの王だったあのヘロデ大王の息子の一人であるフィリッポスという人が、ここに都市を築き、時のローマ皇帝ティベリウスに献げたことに由来しています。皇帝のことを「カイサル」と言うのです。その皇帝に献上された町として「カイサリア」と呼ばれる所は他にもあります。通常カイサリアと言ったらむしろ地中海沿岸の、こちらはヘロデ大王が築いて皇帝アウグストゥスに捧げた港町の方を言うのです。そのカイサリアと区別するために、こちらは「フィリポ・カイサリア」と呼ばれたのです。 そのフィリポ・カイサリア地方に行った時、主イエスは弟子たちにまずこのように問われました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」。「人の子」とは主イエスがご自分のことを言われる言葉です。つまり、「世間の人々は私のことを誰だと言っているのか」と主イエスは問われたのです。これは、主イエスが人々の自分に対する評判、風評を気にしていた、ということではありません。主イエスがこのように問われたのは、その次の問いへの準備としてです。この問いに本当の関心があるのではないのです。しかし弟子たちは、この第一の問いに対して、即座にいろいろな答えを出しました。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。ここに、当時の一般の人々が主イエスのことをどのように見ていたかが示されています。「洗礼者ヨハネだ」というのは、14章で、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスが言っていたことです。自分が首を切って殺したヨハネが生き返ってきたのがイエスだと彼は恐れているのです。「エリヤだ」というのは、神様の救いの実現の前にエリヤが遣わされるという預言に基づいて、主イエスをその救いの先駆けとなる人だと思っているということです。「エレミヤだ」とか「預言者の一人だ」というのは、主イエスを過去の偉大な預言者たちと並ぶ者として理解しているということです。当時の人々はそのように様々に、肯定的にせよ否定的にせよ、尊敬するにせよ恐れるにせよ、主イエスのことをとらえ、理解していたのです。そしてそういう世間の評判がいくつも、すぐに弟子たちの口から出るということは、弟子たちはそのことを、つまり主イエスの評判を、とても気にしていたということではないでしょうか。自分たちが従っている先生が世間の人々の間でどう見られているか、どんな評価を受けているか、よい評判が立ち、尊敬されているとわかればほっとして、誇らしい気持ちになるし、否定的に見られているとなれば自分たちも落ち込んでしまう、というのが弟子たちの姿だったのだと思うのです。そしてそれは私たちも同じではないでしょうか。私たちが信じる主イエス・キリストが世間の人々からどう思われているか、この日本の社会で、キリスト教という信仰がどう見られているか、教会がどういうイメージを持たれているか、さらに具体的には、この教会はこの地域でどう見られているか、そういうことを私たちはいろいろと気にするのです。それは、この第一の問いにあれこれと答えている弟子たちの姿と共通することだと言うことができるでしょう。 主イエスは、そのような弟子たちの答えを聞いた上で、肝心な第二の問いを投げかけられます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いです。世間の人たちがいろいろと言っているのはわかった。それでは、あなたがたは、私、主イエスのことを、何者だと思っているのか。これこそ、主イエスが私たち一人一人に問うておられる肝心な問いです。この問いにどう答えるかが、私たちの信仰なのです。 主イエスとは何者なのか、この問いに答えることが私たちの信仰です。それは、私たちが通常抱いている信仰についてのイメージとは違うことではないでしょうか。私たちは、キリスト教の信仰とは、キリストの教えを聞いて、それに従ってよりよく生きることだと思っていることが多いようです。あるいは、キリストが共にいて下さることを信じて、そのキリストに寄り頼んで慰めや支えを受けることが信仰だと思っているということもあります。それらのことは決して間違いというわけではありませんが、信仰の中心ではありません。信仰の中心は、主イエスとは何者であるかがわかることです。それなしにただ教えを行なっていても、それは道徳であって信仰ではないのです。また、主イエスが共にいて下さるというのはその通りであるとしても、その主イエスが何者であるかがわかっていなければ、本当の慰めや支えにはならないのです。このように、主イエスとは何者であるか、ということは、私たちの信仰において最も大事な、要となることです。そしてこの最も大事な要は、主イエスが私たちに教えてくれることではありません。主イエスは「あなたは私のことを何者だと言うのか」と問いかけてこられるのです。私たちはこの主イエスの問いに答えなければなりません。この主イエスからの問いに答えていくことの中で、私たちは信仰者、主イエスを信じる者となるのです。 このようなことを申しますのは、私たちは主イエスからのこの問いかけを避けようとする者だからです。先ほど、信仰とはキリストの教えを聞いてそれに従ってよりよく生きることだと思っていることが多いと申しました。また、キリストが共にいて下さることを信じて、そのキリストに寄り頼んで慰めや支えを受けることが信仰だと思っていることもあると申しました。これらのことはいずれも、あの問いを避けて、それに答えることなしに信仰者であろうとしている姿なのです。「あなたは私を何者だと言うのか」という問いに答えなくても、キリストの教えに従って道徳的に立派に生きることはできます。共にいて慰めと支えを与えてくれるキリストは、私たちに問い掛けてはこないキリストです。道徳的に努力して生きるにせよ、慰めと支えを求めて生きるにせよ、私たちは主イエスのあの問いの前に身をさらすことを避けて信仰に生きようとするのです。しかしそれではいつまでたっても本当の信仰にはなりません。本当の信仰とは、主イエスからの問いかけを受け、それに答えることです。「あなたは私を何者だと言うのか」という主イエスの問いは、私たちの心の奥深くを刺し貫きます。私たちが主イエスとどのような関係を持っているか、持とうとしているかを明らかにします。主イエスなど自分にとって何者でもない、何の意味も持たないとして捨て去るのか、あるいは人生のちょっとしたアクセサリー、しゃれた飾りぐらいのものとして、気が向いた時に身につけて楽しむようなものとして主イエスを持っていようとしているのか、あるいは風邪を引いたり調子が悪い時には駆け込んで薬をもらうがその他の時は忘れ去っているホームドクターのようなものにしているのか、あるいは寂しい時、悲しい時に話し相手になってくれ、慰めてくれる友人のような者としているのか、それとも、主イエスを自分のまことの救い主として、神として信じ、そのみ言葉に聞き従っていこうとしているのか…、この問いはそれを明らかにするのです。そこでは「わかりません」ですますことはできません。「教えてください」と逃げることもできません。「あなたはどう思うのか」と問われるのです。 この主イエスの問いに、シモン・ペトロが答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」。この答えは何を語っているのでしょうか。まず「メシア」という言葉です。これは原文の言葉で言えば「クリストス」です。「キリスト」という日本語の言い方はここから来ています。つまりペトロは「あなたはキリストです」と言ったのです。その「キリスト」というのは名前ではありません。これはヘブライ語で「メシア」に当る言葉がギリシャ語に訳されたものです。その意味は、「油を注がれた者」です。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第2編の2節に「主の油注がれた方」という言葉がありましたが、それがこのメシアです。それはもともとは、神様によって頭に油を注がれ、特別な使命へと任命された人を意味していましたが、次第にそれは神様が約束して下さった救い主を意味する言葉となりました。ですから「あなたはメシア、キリストです」とは、「あなたは救い主です」という意味です。ペトロは、主イエスこそ私たちの救い主です、と答えたのです。そしてそこにはさらに、「生ける神の子です」がつけ加えられています。「生ける」は「子」にかかるのではなく、「神」にかかっています。「生ける神」です。神は生きておられる。今生きて働き、恵みのみ業を行っていて下さる。主イエスとは、生ける神が今私たちに働きかけ、救いのみ業を行って下さる、そういう本質を持った方なのです。その生ける神が、大いなる恵みによって遣わして下さった神の子が主イエスです。マタイはこの、「主イエスは神の子である」ということを、この福音書の中で繰り返し語っています。3章17節では、天からの声が「これはわたしの愛する子」と言っています。8章29節では、悪霊が主イエスに「神の子」と呼びかけています。14章33節では弟子たちが「本当に、あなたは神の子です」と言っています。そして27章54節では、主イエスの十字架上での最後を見たローマの百人隊長が、「本当に、この人は神の子だった」と言います。これらの箇所は全て、主イエスが単なる偉大な人間ではなく、神であられることを語っているのです。主イエスは、生ける神の子、まことの神として、救いのみ業を行って下さる救い主であられる、それがペトロの答えなのです。 主イエスはこのペトロの答えに対して、「あなたは幸いだ」と言われました。これは単に「あなたの答えは正しい、正解だ」ということではありません。主イエスはペトロが、ご自分が期待していた正しい答えを言ったのをほめておられるのではないのです。「あなたは幸いだ」、これは5章3節以下の「これこれの人々は幸いである」という教えと同じ、祝福の言葉、「よかったね」という言葉です。主イエスは、ペトロが主イエスのことを、メシア、生ける神の子であると答えたことを喜んでおられるのです。ご自分のためにではなくペトロのために喜んでおられるのです。「あなたは私を何者だと言うのか」という主イエスの問いに対して、このペトロのように、「あなたは私の救い主、生ける神の子です」と答えることができるなら、それは本当にすばらしい、喜びに満ちたこと、祝福されたことなのです。信仰をもって生きることの恵み、喜びはここにこそあるのです。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と主は言われました。ペトロのこの答え、それを信仰告白と言いますが、その信仰告白は、人間が考えてできることではありません。主イエスこそ生ける神の子、救い主であるという信仰は、神様が与えて下さるものなのです。その信仰を神様から与えられて、それを告白することができる者は本当に幸いだ、と主イエスは言っておられるのです。 しかし、主イエスをメシア、生ける神の子と信じることはいったい何が幸いなのでしょうか。それを信じれば、何かいいことがあるのでしょうか。病気やその他の苦しみ悲しみが癒されるのでしょうか。主イエスがここで言っておられる幸いとはどんな幸いなのでしょうか。そのことを考えるために、18節以下を読んでいきたいと思います。主イエスはこの信仰告白をしたペトロに、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われました。ペトロという名前は「岩」を意味する「ペトラ」という言葉から来ています。ですからここには語呂合わせがあって、「あなたはペトロだ。わたしはこのペトラの上に教会を建てる」と言われているのです。主イエスがそこで教会の土台となる「岩」として見つめているのは、ペトロという個人ではないでしょう。それはむしろ彼が神様の恵みによって与えられたあの信仰告白です。主イエスをメシア、生ける神の子と信じる、その信仰の告白の上に、キリストの教会が建て上げられていくのです。つまりペトロの幸い、主イエスをメシア、生ける神の子と信じる者の幸いとは、主イエス・キリストの教会を形づくる者となる幸いです。この幸いは、教会において与えられる、教会の一員となることにおける幸いなのです。 教会の一員となることがなぜそんなに幸いなのでしょうか。それは、教会は、「陰府の力もこれに対抗できない」ものだからです。陰府とは、死者の行く所、死の力が支配する所です。私たちの人生を脅かす様々な苦しみ悲しみ、その最後究極的なものが死です。その死の支配が「陰府の力」において見つめられています。しかしその死の支配も、主イエス・キリストの教会には対抗できないのです。なぜか。それは教会に特別に力があるからでも、教会に集う人々が立派だからでもありません。それは教会が、生ける神の子であり救い主である主イエス・キリストを信じる信仰を告白する群れだからです。主イエスは、生ける神の独り子が私たちと同じ人間になってこの世に来て下さった方です。そのまことの神であられる主イエスが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。私たちを罪人として裁くことができるはずの方が、逆に私たちの代わりに裁きを受けて死んで下さったのです。そしてその主イエスを遣わして下さった父なる神様は、主イエスを死者の中から復活させ、死の支配を打ち破って新しい命を与えて下さったのです。主イエスを、生ける神の子、救い主と信じるとは、この神様の、死の支配を打ち破って下さった救いを信じることです。教会は、この信仰を共に告白して生きる者の群れなのです。それゆえにそこには、死の力によっても滅ぼされてしまわない神様の恵みのご支配があります。「あなたはメシア、生ける神の子です」という告白を与えられることによって、私たちはこのキリストの教会の一員となるのです。そこに、私たちの幸いがあるのです。 ペトロの信仰の告白に対して、主イエスが「あなたは幸いだ」と言われた、その幸いとはこのように、教会に連なる者とされる幸いです。主イエスはその幸いを私たちに与えるために、あの「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いを投げかけられるのです。このことはとても大事なことです。主イエスのあの問いは、私たちに、「自分にとって主イエスとは何者か」ということを考えさせるという意味を勿論持っています。しかしそれだけではないのです。そのことを考えさせると同時に、あのペトロに父なる神様が与えて下さった信仰告白を私たちも与えられて、ペトロと共に「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白して、私たちもキリストの教会に加えられていく、そのことを願ってあの問いは語られているのです。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という主イエスの問いに答えていくことが私たちの信仰だと申しました。その問いに答えていこうとする時に、私たちはこのことを忘れてはならないのです。「自分にとって主イエスとは何者か」ということを真剣に考えることはとても大事です。そのことなくして、信仰は本当に自分の信仰にはなりません。世間の人々が何と言おうと、私は主イエスをこのような方と信じる、ということが信仰には必要なのです。けれども、その問いに自分なりに真剣に答えていくだけでは本当の信仰にはなりません。あるいは、信仰による本当の幸いにあずかることはできません。その自分の信仰が、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」と言われた、その教会の土台となる信仰の告白と一致しているか、ということが大事です。教会の土台となり、教会において受け継がれてきた信仰告白と、世間の人々がどう言おうと自分はこう信じる、という自分の信仰とが重なり合い、一つとなるところにこそ、本当の幸いがあるのです。死の力にも勝利する信仰はそこにこそ与えられるのです。 主イエスはさらにペトロに、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言われました。この天の国の鍵も、ペトロという個人に授けられたものではないでしょう。ペトロが弟子たちを代表して告白したあの信仰、それを受け継ぎ、共に告白することで結び合っている教会に、この天の国の鍵は授けられたのです。天の国の鍵、それは天の国、神様のご支配、その救いの恵みの扉を開けたり閉めたりする鍵です。教会はその鍵で、人を天の国に入れたり、入れなかったりすることができるのです。そのことが、地上でつないだり、解いたりすることができる、とも言い換えられています。これらのことは、そこだけを取り出して読むと、何か教会がとてつもない権力を握っていて、好き勝手に、ある人を天の国に入れたり、つまり救いにあずからせたり、入れなかったり、つまり救いにあずからせなかったりすることができるという主張のように聞こえてしまうかもしれません。しかしその教会は、今見てきたように、主イエスをメシア、生ける神の子と信じる信仰によって結び合っている群れです。主イエスを神の子である救い主と信じるとは、これも先ほど申しましたように、神の子である主イエスが私たちのために十字架にかかって死んで下さり、私たちの罪を赦して永遠の命にあずからせて下さる、その恵みを信じることです。つまりこの主イエスによって、私たちのために天の国の扉が大きく開かれていることを信じるのが、教会の信仰なのです。ということはこの鍵は、基本的に、天の国の扉を開くための鍵です。教会は、自分の気に入った人だけを救いにあずからせ、気に入らない人はそこから締め出す、などということができるわけではありません。むしろ、罪と死の力のもとに捕えられ、陰府の力に脅かされている人々に、罪と死からの解放の恵み、陰府の力も対抗できないような命に至る道が、主イエスをメシア、生ける神の子と信じるところには開かれていることを示し、人々をそこへと招くことが教会に与えられている使命です。そういう意味で教会に与えられている鍵は、天の国の扉を開くための鍵です。しかしその扉が開かれ、そこに入るためには、私たちはあの主イエスの問い、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いの前に立たなければなりません。その問いに自分で答えることなしには、天の国の扉は開かれないのです。そういう意味では、教会が主イエス・キリストによる救いを宣べ伝えていくところには、天の国の扉が開かれることと、それが閉ざされてしまうこととの両方のことが起るのです。それは私たちが誰かを入れてやるとかやらないということではありません。むしろ私たち自身が、まず、主イエスの問いに誠実に答え、そしてペトロが天の父なる神様から与えられたあの告白に自分の信仰を重ね合わせていく幸いを得ることができるように祈り求めたいのです。ペトロにその信仰の告白を与えたのは人間ではなく天の父です。ですから私たちは人間の努力や力でこの告白を獲得することはできません。ひたすらそれを祈り求めるしかないのです。けれどもそこにおいて、私たちはこの福音書の7章7節以下の主イエスの約束のお言葉をもう一度かみしめることができます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」。天の父なる神様は、私たち一人一人に、ペトロに与えられたのと同じ信仰を与え、私たちをご自分の教会に連なる者とし、陰府の力にも打ち勝つ恵みにあずかる幸いを与えようとしておられるのです。
牧師 藤 掛 順 一 |