富山鹿島町教会

礼拝説教

伝道礼拝
「優越感と劣等感からの解放」
ルカによる福音書 第18章9〜14節

他人の笑顔が悔しい
 私は、いわゆるニューミュージックのたぐいの音楽はあまり聞かないのですが、一人だけ、好きな歌手がいます。それは中島みゆきです。彼女は、自分で詩を書き、作曲もして歌うという、いわゆるシンガーソングライターです。陰のある、暗い雰囲気を持った失恋の曲を多く作っていますので、中島みゆきが好きだと言うと、「性格が暗い」と言われるのです。確かに、彼女の歌のかもし出す独特の暗い風情が好きなのですが、しかし彼女の歌は時として、人間の心の深みにあるどす黒いものをするどくえぐり出しているようなところがあります。その一つに、「幸福論」という、あまり知られてはいない歌があります。その歌詞を一部紹介してみたいと思います。
「今夜泣いてる人は、僕一人ではないはずだ。悲しいことの記憶は、この星の裏表、溢れるはずだ」
ここまでは、悲しみをかかえた人が、悲しんでいる人は自分だけではないはずだ、今悲しみを抱いている人は他にもいる、ということにある慰めを見出そうとしているということです。しかしその後はこのように続いていくのです。
「他人(ひと)の笑顔が悔しい、他人の笑顔が悔しい。そんなことばが心を飛び出して、飛び出して走り出しそうだ。笑顔になるなら見えない所にいてよ。妬ましくて貴方を憎みかけるから。プラスマイナス他人の悲しみをそっと喜んでいないか」
やっぱり暗いですよね。でもここには、私たちが心の奥底に隠し持っている思いがえぐり出されているのではないでしょうか。悲しんでいるのは自分だけではない、他にも悲しみの内にいる人はいる、そのことを思ってある慰めを得ようとする、しかしそこで見えてくるのは、世の中悲しんでいる人ばかりではないという事実です。喜んでいる人、幸せな人もいる、笑顔で生きている人がいる、そのことがたまらなく悔しい、憎らしい。そういうどす黒い妬みの思いが湧きあがってくるのです。悲しんでいる者にとっては、喜んでいる者の姿が目に入るだけで、その人が憎らしく思う、その人が自分に何かをしたわけではないのに、どうしてもそう思えてしまう、私たちの心の奥底には、そういう暗い思いがあるのではないでしょうか。「プラスマイナス他人の悲しみをそっと喜んでいないか」、この言葉はこの歌の最後にも繰り返されています。他人の幸福、喜び、つまり他人のプラスを見ると、自分のマイナス、苦しみや不幸がより大きく感じられる。逆に他人の不幸、悲しみ、つまり他人のマイナスを見ると、自分は少しプラスの側にいるような気がしてほっとする、そのように私たちは、人との間でいつもプラスマイナスを量りながら、自分が人より少しプラスならほっとし、人よりマイナスだと思うと妬みや憎しみを抱く、という歩みをしているのではないでしょうか。

ファリサイ派の人と徴税人
 先ほど朗読された聖書の箇所、ルカによる福音書第18章9節以下には、まさにそのような人間の姿が描き出されています。ここには、主イエス・キリストが語られた一つのたとえ話があります。二人の人が祈るために神殿に上ったというたとえです。その一人はファリサイ派の人、もう一人は徴税人でした。ファリサイ派というのは、旧約聖書に記されている神様の掟、律法を研究し、それを厳格に守っている、また律法に基づく生活を人々に教えている、当時の宗教的指導者です。神様の戒めをしっかり守り、正しい生活をしている人として、自他共に認めていた人です。それに対して徴税人というのは、当時このユダヤの地を支配していたローマのための税金を集める人であり、ユダヤ人にとっては敵の協力者、民族の裏切り者と思われていた人です。それはただ売国奴というだけではなく、神様の民であるユダヤ人の裏切り者なのですから、神様に対する裏切り者、救い難い罪人と見られていたのです。その二人が、神様にお祈りをするために神殿に上った。そこでファリサイ派の人はこう祈ったのです。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」。それに対して徴税人は一言、こう祈りました。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。そして主イエスはこう言われました。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。「義とされて家に帰った」というのは、要するに、神様に祈りを受け入れられ、神様に喜ばれたということです。神様は、あのファリサイ派の人ではなく、この徴税人の方をこそ、喜び、受け入れて下さったのです。
 この話は、9節にあるように、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」語られたたとえ話です。つまりここでの問題は、先ほど申しました幸福と不幸、喜びと悲しみではなくて、正しいか正しくないか、立派な人間かそうでないか、ということです。しかしそれもやはり、先ほどの、プラスマイナスということになるでしょう。正しい、立派だ、というのがプラス、正しくない、立派でないのがマイナスです。自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下すというのは、自分のプラスと他人のマイナスを見比べて、自分のプラスを喜び、誇り、人のマイナスを軽蔑することです。あのファリサイ派の人の祈りはまさにそういう内容になっています。彼は神様に「感謝します」と感謝の祈りをしているのですが、その感謝の内容は、自分がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でないことです。彼が見つめているのは、他の人たちの罪、汚れです。そういう人のマイナスを見つめ、それに対して自分はそんなことをしていない、自分はプラスの人間だ、ということを喜び、感謝しているのです。また彼は、共に祈りの場に立っている徴税人のことを見つめ、「この徴税人のような者でもないことを感謝します」と言っています。「こいつはとんでもない罪人で、本来こんな所に祈りに来ることなどできないはずのやつです。神様、私はこんな人間でなくて本当によかった。ありがとうございます」と彼は感謝したのです。これも、徴税人という徹底的にマイナスな人間を見つめることによって、自分はそれよりもずっとずっとプラスな人間だ、ということを確認し、喜んでいるということです。このファリサイ派の人の祈りには、感謝があり、喜びがあります。しかしその喜びはまさに先ほどの、「プラスマイナス他人の悲しみをそっと喜んでいないか」という喜びと相通じるものであると言うことができるでしょう。

優越感と劣等感
 このファリサイ派の人が感じている喜び、それは優越感という喜びです。自分が人よりも優れている、という喜びです。この喜びを、私たちは誰でも求めているのではないでしょうか。その優れているというのは何でもいいのです。何かの能力、才能が優れているということでもいいし、このファリサイ派の人のように、神様の掟をしっかり守っている正しさ、清さ、ということでもいいし、あるいは先ほど見たように、人より幸せである、あるいは不幸でない、ということでもいい、とにかく何であれ、自分の方が人よりもプラスの位置にいると思えることを喜ぶ、それが優越感です。そしてこの優越感と裏表の関係にあるのが、劣等感です。それは逆に自分が人よりもマイナスの位置にいるという思いです。それによって妬みや憎しみの気持ちが起るのです。この優越感と劣等感は切り離すことができません。優越感を抱く人は劣等感にも悩むのです。劣等感に悩んでいる人は優越感を抱きたいと願っているのです。それはプラスとマイナスを切り離すことができないのと同じです。プラスがあるからマイナスがあり、マイナスがあるからプラスを位置づけることができるのです。つまり優越感と劣等感は相対的なものです。人がどうであるかによって、同じ自分がプラスにもマイナスにも感じられ、優越感を抱くことも、劣等感に苦しむこともあるのです。ある人と見比べて優越感を覚えていた人が、自分よりもっと優れた人と出会ってたちまち劣等感に苦しむようになる、ということが起るのです。つまり私たちは、優越感だけを抱いて生きることはできないのです。優越感を求める人は必ず劣等感に苦しむことになるし、劣等感を抱いている人は何か別のことで優越感を得ようとするのです。
 こういう優越感と劣等感はどこから生れるのでしょうか。それは、自分と人とを見比べることからです。優越感も劣等感も、比べる人がいて初めて成り立つことです。人と比べることによって、自分がプラスであるかマイナスであるかが決まるのです。そうすると、誰と比べるかが問題です。私たちは、自分よりマイナスであり、自分がプラスであると思えるような人を捜そうとします。あのファリサイ派の人もそのようにして、他の人たちの、そして徴税人のマイナスを見つめて、自分のプラスを確認し、喜んだのです。人と自分とを見比べるということが、優越感を覚える人の根本の姿です。そしてそれはそのまま、劣等感に苦しむ人の姿でもあるのです。

徴税人の祈り
 さて、このたとえに出て来るもう一人の人、徴税人の祈りを見つめていきたいと思います。彼は、遠くに立って、ということは神殿の中心である聖所から遠くの、神殿の中でもはじっこの方でということです、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ったのです。彼は徴税人でした。徴税人は先ほど申しましたように、その仕事の内容そのものが、ユダヤ人たちにとっては赦されない罪だったのです。つまり、徴税人にも良い人、立派な人はいる、ということは成り立たないのです。だから彼は確かに罪人でした。神の民であるユダヤ人のくせに、神を裏切り、民族を裏切り、敵の手先になって富を得る、という生活をしていたのです。そして彼は自分がそういう罪人であることを知っていました。意識していました。本来、神殿に上って神様に祈ることなどできないような者であることをわきまえていたのです。それで、遠くに立ち、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、つまり自分の罪を悲しみ悔いつつ、神様の憐れみを祈り願ったのです。この彼の悲しみ苦しみの姿は、それでは先ほどのファリサイ派の人とは対照的に、劣等感に苦しんでいる姿なのでしょうか。そうではありません。彼の悲しみ苦しみは、劣等感による悲しみ苦しみではないのです。なぜそう言うことができるのか。それは、彼の姿にも言葉にも、人と自分とを見比べて、プラスマイナスを量っているようなところがないからです。彼は、「他の人々に比べて、あのファリサイ派の人に比べて、自分は何て罪深い者なのだろうか」と思っているのではないのです。彼が自分の罪を意識しているのは、人との比較によってではありません。彼は、神様の前で、自分の罪を意識し、見つめているのです。彼の目は、周囲の人、ほかの人を見つめてはいません。ただ神様のみを見つめているのです。そこに、この人とあのファリサイ派の人との違いがあります。彼らの違いは、優越感と劣等感の違いではないのです。人を見つめ、人と自分を見比べている者と、ただ神様のみを見つめている者の違いなのです。その違いが、この二人の祈る姿において対照的に描かれています。ファリサイ派の人は、11節にあるように「立って、心の中で」祈ったのです。「立って」というのは、神殿の真中、聖所の正面に堂々と立って、ということでしょう。当時の祈りの姿勢は、立って、両手を高く上げてというのが一般的だったようです。彼もそのようにして顔を天に向けて堂々と祈ったのでしょう。しかし彼は「心の中で」祈ったとあります。それは、声を出さずに心の中だけで、ということではありません。この「心の中で」と訳されている言葉は、直訳するなら、「自分自身に対して」という意味です。つまり彼の祈りは、自分自身に対する祈り、自分に向って語りかける言葉になっているのです。顔は天に向けられているけれども、祈りそのものは神様に向ってではなく、自分自身に向けての言葉になっている、それが彼の祈りの姿です。つまり彼が見つめているのは、実は神様ではなくて自分自身なのです。そして自分自身を見つめるということは、自分と他の人を見比べることです。人と見比べることなしに私たちは自分自身を見つめることはできません。私たちはいつでも、人との比較の中で自分を見つめているのです。そこに、優越感と劣等感が生れて来るのです。つまり彼が、自分は奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、徴税人のような者でもないことを感謝したあの祈りは、神様に向けての祈りではなく、自分自身に向けての、自分の優越感を確認するための言葉だったのです。それに対して、あの徴税人の祈りはどうだったでしょうか。彼は聖所から遠くに立ち、目を天に上げようともせずに祈りました。つまり彼の顔は伏せられ、天を、神様の方を向いてはいないのです。ファリサイ派の人の祈りの姿勢とは正反対です。けれども彼の祈りそのものは、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と、ダイレクトに神様に向けられています。彼の心の目は、自分や他の人ではなく、神様のみを見つめているのです。そこにはもう、人と自分を見比べることはありません。プラスマイナスを量るようなことはもうないのです。つまり、優越感からも劣等感からも解放された世界がそこにはあるのです。

神を信じるとは
 義とされて家に帰ったのは、あのファリサイ派の人ではなく、この徴税人だった、と主イエスは言われます。神様に喜ばれ、受け入れられたのはこの徴税人の祈りだったのです。このことは、神様を信じるとはどういうことなのかを教えています。あのファリサイ派の人のように、いっしょうけんめい清く正しい生活をし、罪を犯さずに生きることが神様を信じることなのではありません。むしろあの徴税人のように、罪にまみれた生活をしており、立派な人からは「あんなダメな奴でなくてよかった」と思われるような、そういう者が、神様を信じ、その救いの恵みを受けることができるのです。しかし間違えてはいけません。それは、優越感に浸って思い上がっている者よりも、劣等感にさいなまれている者の方が救われる、ということではありません。ファリサイ派の人が義とされなかったのは、優越感に浸って思い上がっていたからではなく、彼が神様を見つめるのでなくて、自分を見つめ、自分と人とを見比べていたからです。徴税人が義とされたのは、劣等感に苦しんでいたからではなくて、彼がただ神様を見つめ、神様の前で自分の罪を悲しみ、憐れみを求めたからなのです。つまり神様を信じ、その救いにあずかるために肝心なことは、清く正しい生活をすることではなくて、本当に神様に目を向け、その憐れみを求めることなのです。14節の終わりには、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とあります。この教えを私たちは、おごり高ぶって人を見下してはならない、むしろ謙遜にへりくだる者こそ神様に喜ばれるのだ、というふうに理解しがちです。しかしそれは違うのです。もしもこの教えをそのように「謙遜にへりくだる者こそが救われる」と理解するなら、あの徴税人の祈りはこうなったことでしょう。「神様、わたしはあのファリサイ派の人のように、自分は正しいとうぬぼれて人を見下すような者でないことを感謝します。私は自分が罪人であることを謙遜に認め、へりくだってあなたの憐れみを求めています」。しかしこれはもうあのファリサイ派の人の祈りと全く同じであることがわかるでしょう。そうなったら、あの徴税人は全く別の意味で、やはり人と自分を見比べて優越感を覚えていることになるのです。しかし本当の意味でへりくだることは、そのように自分と人とを見比べることをやめることです。どれだけ謙遜になっているか、ということを見比べることをもやめるのです。そして、ただ神様を見つめ、その憐れみを求めるのです。その時、神様が私たちを義として下さるのです。罪人である私たちを赦して下さるのです。そしてそこに、優越感からも劣等感からも解放された、人間のプラスマイナスに左右されない人生が開かれていくのです。

優越感と劣等感からの解放
 私たちは、優越感とその裏返しである劣等感をいつも感じながら、いつも人と自分とを見比べながら、そのプラスマイナスに一喜一憂しながら生きています。そういうことから自由になりたい、人が自分より優れていたり、幸せだったりすると妬み、憎らしくなり、人が自分より劣っていたり不幸であると心の中でほっとするような、そんなことはもうやめたいと思います。けれどもやめたいと思ってもそれがやめられないのが私たちなのです。何故やめられないのか。それは、私たちが、自分自身を見つめることをやめられないからです。自分を見つめ、自分と人とを見比べることがやめられないからです。何故それがやめられないのか。それは、私たちが、神様を見つめることを知らないからではないでしょうか。神様を見上げる、心の目を天に向けることを知らなければ、人間ばかりを見つめることになるのです。目を上に向けることを知らなければ、横を見るしかないのです。そして人との比べあいになるのです。しかし聖書はそのような私たちに、神様を見つめることを教えています。その神様はどういう方でしょうか。あのファリサイ派の人だって、形の上からは神様を見つめて祈ったのです。しかし彼はその神様を、自分が正しい立派な者であることによってその前に立つことができる存在だと思っています。それは結局自分の正しさ立派さを見つめているだけなのです。しかし聖書は、神様とはそのような方ではないと言っているのです。神様は、あの徴税人の、「罪人のわたしを憐れんでください」という祈りをお聞きになる方です。そして彼を憐れみ、義として下さる、罪を赦して下さる方です。そのことは、神様の独り子イエス・キリストが、私たちの全ての罪を背負って、十字架にかかって死んで下さったことによって実現しています。神様は、罪人である私たちをどこまでも愛して下さり、ご自身の独り子を死に渡して、私たちを赦して下さる方なのです。私たちは、イエス・キリストによって、そのように私たちを愛していて下さり、私たちがどのような罪人であっても、憐れみをもって赦して下さる、また私たちがどのような苦しみ悲しみの中にあっても、共にいて下さる神様を見つめ、その神様に祈ることができるのです。この主イエス・キリストにおける神様の恵みを見つめ、この神様に向かって目を上げ、祈る時に、私たちは、自分と人とを見比べていくことから解放されるのです。優越感と劣等感の狭間を揺れ動く生き方から解放されるのです。そのことは、神様を信じ、見つめるようになれば直ちに完全に180度の転換が起る、というものではありません。神様を信じ、その憐れみを求めて祈るようになってからも、私たちはやはり自分自身を見つめるし、自分と人とを見比べることもあります。優越感や劣等感に捉えられることも多いのです。けれども、その中で、主イエス・キリストにおける神様の私たちへの愛と、憐れみと、赦しの恵みを繰り返し示され、「罪人のわたしを憐れんでください」と神様に祈り続けていくことを通して、私たちは確かに変えられていくのです。人と自分とのプラスマイナスの違いは、神様の恵みの前では大した問題ではない、人生を決定的に左右するような事柄ではない、ということが次第に分かってくるのです。主イエス・キリストによる神様の恵みとの出会いは、そのようにして、私たちを、優越感と劣等感から少しずつ、しかし確かに、解放してくれるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年6月30日]

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