仲間を赦さない家来のたとえ
礼拝において、マタイによる福音書第18章を読み進めてまいりまして、本日はその最後のところで主イエスが語られたたとえ話をご一緒に読みます。小見出しの言葉で言えば、「仲間を赦さない家来のたとえ」です。18章にこれまで語られてきたことはいずれも、マルコ福音書、あるいはルカ福音書に似たような話があるものでした。それぞれの小見出しの下の括弧の中に示されている箇所です。しかしこの「仲間を赦さない家来のたとえ」だけは、括弧がありません。つまりこれは、マタイ福音書のみが語っている話です。他の福音書には出てこないこのたとえ話をもって、マタイはこの部分のしめくくりをしているのです。そしてここに、マタイがこの18章でこれまで語ってきたことの全体を結び合わせる言わば要があると言うことができると思います。このたとえ話こそ、18章全体のまとめ、しめくくりであると共に、その全体の土台なのです。
何回赦すべきか
仲間を赦さない家来のたとえそのものは、23節から始まります。その前に、それが語られていくきっかけとなったペトロと主イエスの問答が記されています。ペトロは、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と質問したのです。この問いは唐突なものではありません。その前の15節以下の主イエスの教えを受けてのことです。そこで主イエスは、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」、どうするべきかをお教えになりました。人間関係におけるトラブル、特に、人が自分に罪を犯し、自分がそれによって傷つけられる、そういう事態にどう対処したらよいかということです。そこでの主イエスの教えの根本にあるのは、自分に罪を犯すその相手を、兄弟として得ること、つまり罪によって破れてしまった関係が修復されて、交わりが回復されることを目指して最大限の努力をせよということでした。このことは言い代えれば、相手を赦すことができるように、最大限の努力をせよ、ということです。相手の罪に対していかに仕返しをするか、どうやって落とし前をつけるか、ということではなくて、相手を赦して再び兄弟となることをこそ求めて歩めと主イエスは教えられたのです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という、本年度の私たちの教会の主題聖句となっているみ言葉も、その文脈の中で語られていたのです。ペトロの問いはこの主イエスの教えを受けて語られています。「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」、これは、人が自分に対して犯す罪を、どれくらいまで赦すべきだろうか、ということです。主イエスは、人の罪を赦すようにできるだけ努力せよとおっしゃった、それでは、どのくらいまで赦すべきなのだろうか、自分はどれくらい人を赦すことができるだろうか、そう考えたペトロは、「七回までですか」と言ったのです。七回まで人を赦す、これは大変なことです。これは勿論、同じ人が自分に対して繰り返し罪を犯す場合です。それを七回まで赦すことが私たちにはできるでしょうか。「仏の顔も三度」という諺があります。三回ぐらいまでなら、なんとか赦してやる、大目に見てやることもできる、しかしそれ以上になったらいくら仏様のような人でももう赦すことはできない、いいかげんにしろ、ということになるのです。それが私たちの普通の感覚ではないでしょうか。それはペトロたちも同じだったのです。ですからペトロが「七回まで」と言ったのは、大変なことです。彼は主イエスの「できるだけ赦す努力をせよ」という教えに応えて、大変な決意をしたのです。よし、自分は、七回までも人の罪を赦そう、そういう寛容な人間になろう、そうすれば主イエスは喜んで下さるだろう、「よし、よく言った、それでこそ私の弟子だ」と言って下さるだろうと思ったのです。
七の七十倍まで
ところが、主イエスの答えはペトロの期待とは全く違うものでした。主イエスは、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われたのです。この主イエスのお言葉の意味はどういうことでしょうか。七の七十倍とは、四九十回です。兄弟の罪を四九十回まで数えていて、四九一回になったらもう赦さなくてよい、ということでしょうか。そうではないことは誰でもわかります。主イエスはこのお言葉によって、人の罪を、無限に、どこまでも赦せと言っておられるのです。ペトロの言ったことは、七回までという限りある赦しだったのに対して、主イエスは、限りない、無限の赦しを教えられたのです。…とそのように説明することがよくあるし、私自身もそのように語ってきたのですが、しかしよく考えてみると事はそう単純ではないように思います。ペトロが「七回まで」と言った時に、彼は、七回までは赦しながら数えていて、それが八回目になったらもう赦さない、と思っていたのでしょうか。そもそも、七回人の罪を赦すというのは、先程も申しましたように、私たちには到底不可能ではないかと思われるようなことです。仏の顔も三度を倍にして、さらにもう一つおまけをつけているのです。それはもう私たちにとって、無限に赦すことと何ら変わりはないのではないでしょうか。つまり私たちにとっては、七回も、七の七十倍も違いはないのではないでしょうか。ペトロが言ったことも、事実上は無限に赦すということになるのではないでしょうか。そう考えてみると、主イエスが言われたことの意味はそう簡単ではないと思います。少なくともこれを、「あなたの赦しの気持ちはまだ足りない。もっともっと無限に人を赦す思いを持たなければだめだ」というふうにとらえてしまうことは間違いだと思うのです。ペトロの七回の赦しと、主イエスの七の七十倍の赦しとの違いは、単なる程度の違いではありません。七回を八回、九回と増やしていけばそのうち七の七十倍になる、というものではないのです。そういう程度の違いならば、私たちのような罪深く寛容でない者にとっては、七回も七の七十倍も実は違いはありません。どちらも私たちには不可能なのです。しかしペトロの七回の赦しと、主イエスの七の七十倍の赦しとの違いは、程度の問題ではなくて、そこには本質の違いがあるのです。「赦し」の持っている意味の違いと言ってもよいでしょう。そのことを語っているのが、「仲間を赦さない家来のたとえ」なのです。
仲間を赦さない家来
このたとえ話の話としての筋は難しいものではありません。ある王様から、家来がお金を借りていた、その額は一万タラントンです。これはどのくらいの額になるかということは、新共同訳聖書の後ろの付録の「度量衡及び通貨」の表で調べればわかります。一タラントンは六千デナリオンです。デナリオンという単位もこのたとえ話に出てきています。一デナリオンが当時の労働者の一日の賃金の相場でした。ですから一タラントンは六千日分の賃金です。一年に三百日働くとすれば、それは二十年分の賃金ということになります。一万タラントンはその一万倍ですから、一人の人が一万タラントンを稼ぐには二十万年かかるという計算になります。つまり一万タラントンというのは、天文学的数字であり、要するに、どんなに頑張っても絶対に返すことのできない借金を、この家来は王に対して負っている、ということを言っているのです。その家来が借金の返済を求められて、王の前にひれ伏し、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と願ったのです。彼に返す当てがあるわけではありません。「きっと全部お返しします」なんて、その場を逃れるための口から出任せです。しかしそのように必死に願う彼のことを、王は憐れに思って、赦し、その借金を帳消しにしてやったのです。この人は一万タラントンという、一生かかっても決して返すことのできない借金を、突然、もう返さなくてもよい、と免除されたのです。借金の重圧から解放され、自由になったのです。これがどんなに晴れ晴れとした喜びであるかは、ローンの返済に苦しんでいる方々には身にしみてわかるというものでしょう。彼はそういう晴れ晴れとした思いで王のもとを退出しました。するとそこで、自分に百デナリオンの借金をしている仲間と出会ったのです。百デナリオンとは、先程申しましたように、百日分の賃金です。一年に三百日働くという先程の計算でいくならば、年収の三分の一ということです。ですからこれは決してはした金ではありません。千円二千円ではないし、一万円二万円でもありません。私たちの感覚で言えば、何十万円、あるいは何百万円という額です。その仲間は、彼にそういう額の負債を負っていたのです。彼はその仲間を捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と迫りました。その人は「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼んだのです。ついさっき、彼が主人の前でしたことと同じです。しかし彼は赦さず、借金を返せない者がつながれるいわゆる債務監獄に放り込んでしまった。それを見た仲間の者たちが王に事の次第を告げると、王は彼を呼びつけ、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言って、借金の棒引きをとりやめにし、彼を牢に入れてしまいました。ということは、もう彼は一生そこから出ることはできない、ということです。
「なぜ」人を赦すべきか
このたとえ話は、話としてはとてもわかりやすいし、面白いと思います。仲間を赦さない家来の姿は、人間の身勝手さ、自分が人に与えている損害や迷惑はすぐに忘れてしまって、人が自分に与えている損害や迷惑ばかりに目が行ってしまうというという様子をよく現しています。また、与えられている恵みをすぐに忘れて自分勝手に生きてしまう人間の姿を描いているとも言えます。そういう意味でこの家来の姿は、私たち自身と重なるのです。けれども、この話を、「七の七十倍まで赦しなさい」という教えと結びつけて読む時に、それは必ずしも分かりやすい話とは言えないように思います。何故ならばこの話は、「どれだけ人を赦すべきか」ということを語ってはいないからです。ペトロが七回までと言ったのに対して、主イエスは七の七十倍まで人を赦しなさいと言われた、そのように赦しの心に限りがあってはならない、無限に人の罪を赦さなければならない、ということをこのたとえ話から読み取ろうとしても、そういうことは出て来ないのです。このたとえ話が語っているのは、「どこまで」人を赦すべきか、ではなくて、「なぜ」人を赦すべきかです。私たちは兄弟の自分に対する罪を赦すべきである、それには理由、根拠がある。そのことをこのたとえ話は語っています。どこまで赦すべきか、というペトロの問いに対して、主イエスは、なぜ赦すべきか、ということで答えておられるのです。
赦しは当然のこと
私たちはなぜ人の罪を赦すべきなのか。それは、このたとえ話によれば、私たち自身が、無限に大きな罪を赦されているからです。一万タラントンという、自分の力では一生かけても決して返すことのできない、償うことのできない負債、罪を、私たちは赦されたのです。だから、その私たちが、自分に百デナリオンの借金のある仲間を赦すのは人間として当然のことだ、それをしないならば、この家来のような、とんでもない恩知らずの振る舞いをすることになる、とこの話は語っています。私たちが人の罪を赦すのは、自分の罪が既に赦されているからなのです。自分に与えられている赦しの恵みがあるから、それに応えて、自分も人を赦す、それが私たちが人を赦すことなのです。だから私たちが人を赦すことは、当然のこと、自然のことなのです。むしろそれをしないことの方が、不自然な、人間としてあるまじきことなのです。人を赦すことにおいて、私たちは、何か特別なこと、すばらしく良いことをしているのではありません。人間として当然のことをしているだけなのです。それがこのたとえ話で主イエスが語っておられることです。そしてそこにこそ、ペトロの七回と主イエスの七の七十倍の違いがあるのです。つまり、ペトロは、「七回まで」と言った時に、大いなる決心をしたのです。七回までも人を赦すことができるような寛容な者となろう、そういうすばらしい人間になるために努力しようと思ったのです。ペトロにとって、人を赦すことは、そういう決意と努力によって行う良いことだったのです。しかし主イエスはそれに対して、七の七十倍まで赦しなさいと言われました。それは、あなたの努力はまだ足りない、もっともっと、今の七十倍努力しなければだめだ、ということではないのです。主イエスは、人を赦すことは、あなたがたのそういう決意や努力によることではないし、何か特別に良いことですらない、むしろ、当たり前のこと、人間として当然そうしなければならないこと、それをしないなんてそんなひどいことは考えられないということなのだ、と言っておられるのです。なぜならば、あなたがたは人が自分に犯している罪とは比べものにならないような大きな罪を赦されている者だからだ。そのことを本当に覚えるならば、七の七十倍まで人の罪を赦すことが当たり前のことになるのだ。これが、このたとえ話の意味です。ペトロの七回の赦しと、主イエスの七の七十倍の赦しの違いは、程度の問題ではなくて、本質の違いだ、「赦し」の持っている意味が違うのだと先程申しましたのはこのことです。ペトロにとって赦しは努力して達成するものであるのに対して、主イエスは、それは神様の赦しの恵みに応えて生きるところに当然生まれてくるものだと言っておられるのです。
一万タラントンの負債
そうすると、ここに語られていることの全ては、一万タラントンの借金を赦してもらったこの家来こそ私たちなのだ、ということにかかってきます。このことが分からなければ、このたとえ話は、人間の身勝手さを描いている面白い話ではあっても、自分のことにはなりません。七の七十倍まで赦しなさいという主イエスのお言葉も、仏の顔も三度というあたりでうろうろしている私たちにとっては、ペトロの七回までと現実には何の違いもないということになります。自分が一万タラントンを赦されたことが分からなければ、人を赦すことは結局人間が努力して達成するよいこと、寛容という美徳でしかないのです。そこでは、できるだけ赦そうとは思うけれども、でもこれは赦せない、あれは赦せない、ということになり、結局「赦せない」という憎しみの思いに満たされていってしまうのです。
私たちは、一万タラントンの借金を、罪を負っている者であり、しかもそれを赦してもらった者である。そのことはどうしたら分かるのでしょうか。一生このことが分からずに終わってしまう人だって沢山いるのです。先週、富山、石川の諸教会の中高生のキャンプが行われました。今年のキャンプは参加した中高生たちがこのことを感じ取る一つの大きな機会となったと思います。主題は「平和を実現する人々」です。講演において語られたことは、世界平和を実現するにはとか、戦争のない社会を作るにはどうすればよいかというようなことではありません。私たちは、一番身近な、共に生きている人、親友と思う人との間でこそ、傷つけ合って苦しむ、平和を失ってしまう。遠い人、どうでもよい人との間では、そんなことは起らない。たとえば、大して親しくない同級生がどんな学校に合格しても、どんな成功を収めても、「へー、すごいな」とか「あいつはあいつだから」ぐらいで平気な気持ちでいられる。しかし、本当に親しい友が、昨日まで一緒にやっていた仲間が、自分とは比べものにならないようなたとえば世間で良い学校と言われるところに入ったとか、すばらしい成果を収めたとか、成功したという話を聞くと、親友だから嬉しいと思うと同時に、どす黒い嫉妬の思いが湧きあがってきて、平気でおれなくなる、その人が自分に何か悪いことをしたわけでは全然ないのに、憎らしくなり、恨みに思ったりしてしまう。そしてそういう気持ちを抱いてしまう自分自身のことがいやになる、自分はなんて嫌な奴なんだろうかと思ってしまう。そのようにして、最も親しい人との間の平和が失われ、また自分自身との間の平和も失われていってしまう。そういう話を通して中高生たちも、自分の中にそういう醜いもの、どす黒い罪があるということを感じ取ったようでした。私たちは日々、そういう罪を重ねて生きているのです。その罪は毎日毎日、毎時間毎時間私たちの中に積み上げられ、どんどん増えていくのです。一万タラントンという金額は、借金の額としては現実にあり得ないような天文学的数字です。しかし私たちが日々隣人に対して、また私たちとこの世界とを造り、導いておられる神様に対して犯している罪は、一万タラントンという額が決して大袈裟ではないくらいに大きいのです。私たちは自分の力でこの罪を処理してしまうことはできないし、たとえば何かの良いことをしてそれを帳消しにしてしまうこともできません。私たちは良いこともするけれども、それと同じぐらいに、いやそれ以上に悪いこと、罪を重ねて生きているのです。
主イエスの十字架
罪によって平和を失ってしまう私たちはどうすればよいのか、中高生キャンプにおいて講師の先生が語られたことは、十字架にすがりつくしかない、ということでした。私たちの一万タラントンの借金を、罪を、神様が赦して下さった、それが主イエス・キリストの十字架です。一万タラントンの借金を帳消しにするということは、この主人が、王が、それだけの損失を引き受けることです。この主人は、莫大な損失を引き受けることによって、この僕を赦してやったのです。「憐れに思って」と27節にあります。これは単に「かわいそうに」ということではありません。この言葉は、主イエスが私たちを憐れんで下さることを語るところに使われる特別な言葉です。「内臓」という言葉から来ています。「はらわたがよじれるような憐れみ」と説明されます。主イエスご自身が、罪人である私たちのために、痛み、苦しみを背負って下さる、そういう憐れみです。主イエスはそういう憐れみのみ心によって、私たちのために十字架にかかって下さいました。それは父なる神様が、かけがえのない独り子の命を犠牲にして、私たちの罪を赦して下さったということでもあります。一万タラントンの赦しは、神様が私たちのために損失を引き受け、犠牲を払い、独り子のイエス様が苦しみを受けて死んで下さることによって実現したのです。主イエス・キリストを信じるとは、主イエスの十字架の苦しみと死とによって、私たちの一万タラントンの罪、自分の力ではとうてい償うことのできない罪が赦され、きれいさっぱり帳消しにされた、そのことを信じることです。キリストの十字架の苦しみと死とを抜きにして、このたとえ話を読むことはできないのです。
人の罪を赦す
そしてこのことを信じるなら、私たちにとって、自分に罪を犯す人を赦すことは、もはや努力して達成していくべき良いことではなくなるのです。それはむしろ人間として当たり前のことなのです。私たちが、神様に対して負っており、神様が主イエスによって赦して下さった罪は一万タラントンです。しかし私たちの兄弟が、隣人が、私たちに対して犯している罪は、百デナリオンです。それは先程申しましたように、決してはした金ではありません。どうでもよいような額ではありません。百デナリオンはやはり相当の額です。人が自分に対して犯す罪によって私たちが傷つけられる、その傷は、決してかすり傷ではないのです。相当の痛みを伴い、苦しみを伴うのです。けれども、それはやはり百デナリオンです。一万タラントンとは比べることすらできない、僅かなものです。一万タラントンを神様が、独り子主イエスの十字架の苦しみと死とによって赦して下さったなら、それによって赦された私たちが、兄弟の百デナリオンを赦すことができないというのは、人間としてあるまじき、恩知らずな振る舞いなのです。
新しい赦しの世界
私たちは、自分はどれだけ人を赦すことができるか、と考えます。努力して、少しでも寛容な、人を赦すことができる人間になろう、と思います。人を赦すことができれば、自分がそれだけ立派な、よい人間になれるように感じるのです。それが、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と問うたペトロの思いです。しかし主イエス・キリストは、人を赦すということについて、それとは全く違う世界を開き示して下さるのです。それは、神様が先ず、私たちを赦して下さっているという世界です。神様が、独り子イエス・キリストの命という莫大な犠牲を払って私たちを赦して下さり、私たちに自由を与えて下さったのです。その恵み、自由の中で、私たちは、人を赦すことができます。赦さなければならないのではありません。そのために努力していくのでもありません。特別に寛容な人間になるのでもありません。赦された者だから、赦すのです。赦されて生きている者だから、赦すことこそが自然なのです。そこに、七の七十倍までの赦しが実現していきます。それは、ずっと我慢して赦していて、あるところまで来たらついに耐えられなくなって爆発し、それこそ大きなダムが決壊したようなものすごい怒りと復讐の波が襲う、というような無理のある赦しではない、本物の赦し、自分に罪を犯す兄弟を兄弟として回復することのできる赦しです。主イエスの十字架の死は私たちをそのような新しい赦しの世界へと導いてくれるのです。
牧師 藤 掛 順 一
[2002年8月18日]
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