エルサレム入城
礼拝において、マタイによる福音書を読み進めて参りまして、本日から第21章に入ります。ここには、主イエス・キリストが、そのご生涯の最後に、エルサレムに来られたことが語られています。本日の箇所のことを、「エルサレム入城の記事」と言います。ここから、主イエスの地上のご生涯の最後の一週間が始まります。このエルサレム入城は日曜日のことと言われており、その週の木曜の晩に主イエスは捕えられ、そして金曜日には十字架につけられて殺されるのです。そして十字架の死から三日目の次の日曜の朝に、主イエスは復活されます。NHKの「その時、歴史は動いた」という番組流に言うならば、「キリストの復活まで、あと一週間」です。マタイ福音書は、その一週間のことを語るのに、21章から27章までを費やしているのです。
主イエスがエルサレムに来られた。このことの持つ意味はとても大きいのです。それは、いよいよユダヤの中心都市、首都に乗り込んできた、というだけのことではありません。エルサレムは、神様の民であるユダヤ人の心の拠り所です。そこには神殿があり、主なる神様がそこにいて下さると人々は考えていました。ですからこの時から数十年後、ローマの軍隊にエルサレムが包囲された時にも、人々は神殿に立て篭もって最後まで戦いました。神殿が陥落することはない、神様が天からの火をもって神殿を守って下さると信じていたのです。またエルサレムは王の都です。この町をイスラエルの首都と定めたのはダビデ王です。神様が選び立てられた王ダビデがここで民を治め、そして神様はその子孫がとこしえにイスラエルの家を治めると約束して下さり、ダビデの子孫に、まことの王、救い主がお生まれになることを告げて下さっているのです。ですから、「ダビデの子」と呼ばれる救い主が現われたら、その方は必ずこのエルサレムに来て、そこで王として即位される、それによってイスラエルは、ダビデの時代のような繁栄を回復することができる、と人々は期待していたのです。そのようなエルサレムの町に、いよいよ主イエスが来られる。主イエスはこれまで、主にガリラヤにおいて、神の国の福音を宣べ伝え、病気の人、悪霊にとりつかれている人を癒してこられたのです。その評判はユダヤ全土に広まっている。イエスが来られるとなれば、多くの人々がそこに集まって来るようになっていたのです。現に先週読んだ20章の終わりのところにも、主イエスの一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆が従ってきたと語られていました。その人々は皆、このイエスこそ、神様が約束して下さっている救い主、ダビデの子なのではないか、と期待していたのです。エリコを出たところで、先週読んだように、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び求めた二人の盲人が癒されました。この出来事もまた、「ダビデの子」主イエスへの期待を大きくふくらませたことでしょう。その主イエスがいよいよエルサレムにお入りになる。人々の期待はいよいよ頂点に達するのです。
人々の期待と主イエスの思い
主イエスご自身はこのことをどう受け止めておられたのでしょうか。人々が自分のことを「ダビデの子」、救い主として期待し、ぞろぞろとついて来ている。そのような中でエルサレムに入ることは、その期待をますます大きく燃え上がらせるようなことです。しかし果たして人々が主イエスに「ダビデの子」として期待していることと、主イエスご自身が歩んでいこうとしておられる道とは一致しているのでしょうか。人々が待ち望んでいるダビデの子は、まさにダビデのような力強い王です。その王がエルサレムで即位することによって、今はローマの属国のような国に成り下がり、またヘロデ家という、純粋なユダヤ人ではない王をいただかざるを得なくなっているこの国を復興し、ダビデの子の支配する神様の民の王国として再び繁栄を取り戻し、みんなが幸福に平和に暮らすことができるようになる、そんなことを人々は夢見ているのです。しかし主イエスは、ご自分がそのようなことのために神様から遣わされたのではないことをはっきりと意識しておられました。既に三度に亘って、これからエルサレムに行き、そこで多くの苦しみを受け、十字架につけられて殺され、そして三日目に復活することを告げておられたのです。主イエスにとってエルサレムは、受難の場所、十字架の死の場所でした。そこへといよいよ足を踏み入れようとしておられたのです。ですから人々の期待と主イエスご自身の思いとの間には、まことに大きな隔たりがあったと言わなければなりません。
ろばに乗って
人々との間にこのような思いの食い違いがあることを十分承知しつつ、主イエスはエルサレムに入られました。そのときに、どのような入り方をするか、が大きな問題です。そこにはいろいろな選択肢があります。人々の期待の上に乗っかり、それをさらに煽るような仕方で、威風堂々、凱旋将軍のような行列を整えて乗り込む、ということも、やろうと思えばできたことでしょう。あるいは全く逆に、「私は誰にも知られずに一人で静かにエルサレムに入りたいのだ。だから騒ぎたてないでくれ」と人々を説得して、いわゆるお忍びで、一人の旅人として、特に過越しの祭りが近づいていたわけですから、多くの巡礼者の一人として入るということもできたでしょう。しかし主イエスはそのどちらの仕方でもなく、第三の仕方でエルサレムにお入りになったのです。そしてそれは成り行きによってそうなったのではなく、主イエスがはっきりとした意図をもってそうなさったのだ、ということが、本日の箇所に語られているのです。その第三の仕方とは、1節から2節にかけて語られているように、弟子たちを遣わし、「ろばと子ろば」を引いて来させて、それに乗って入城する、という仕方でした。弟子たちはそのろばの上に、自分たちの服をかけて鞍代わりにし、主イエスをその上にお乗せしたのです。また、大勢の群衆は、自分の服を道に敷いたり、木の枝、それは別の福音書では「棕櫚の枝」となっていますが、それを道に敷きました。そのようにして、ろばの背に乗って入られる主イエスを迎える花道を作ったのです。外国の要人を迎える時に、空港のタラップの下にじゅうたんが敷かれて道が作られます。それを人々は自分の服や木の枝でしたのです。そのように人々が主イエスを喜んで迎えることを、主イエスご自身が認め、受け入れておられるのです。
王としての入城
この主イエスの、第三の仕方でのエルサレム入場は何を意味しているのでしょうか。はっきりしていることは、先ほどの選択肢の第一、凱旋将軍のような堂々とした入城は論外であるとしても、第二の、お忍びでの、誰にも気づかれずにという入城の仕方を主イエスは選ばれなかったということです。主イエスはやはり、ご自分がエルサレムに入られることを、特別な意味のある、大切なこととして、人々にも明らかに示すことを望まれたのです。そのために、普段は歩いて旅をしておられるのに、わざわざろばを調達してそれに乗られたのです。そして人々の歓迎を受けられたのです。人々は「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と叫んで主イエスを迎えました。その歓呼の声、主イエスをダビデの子としてほめたたえる声を制止するのではなく、それをお受けになったのです。つまり、主イエスは確かに、王として、王の都エルサレムに入城なさったのです。ご自分が、神の民イスラエルの王であることを公にお示しになったのです。このことが、私たちがこのエルサレム入城の場面を読む時にしっかりと受け止めなければならない大事なことです。主イエスは、「いや私はあなたがたが思っているような王になるために来たのではない。王になどなるつもりはない」とは言われなかったのです。主イエスは確かに、ダビデの子、神の民の王として来られた方です。1章の始めにある主イエスの系図はそのことを示しています。また主イエスがお生まれになった時、東の国から来た占星術の学者たちが、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と尋ねています。主イエスはまことの王としてこの世に来られたことを、マタイ福音書は告げているのです。その主イエスを、王としてお迎えすることが私たちに求められている信仰です。群衆が主イエスを迎えて叫んだ言葉、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」、これはそのまま、私たちの信仰の言葉、信仰者の、主イエスへの讃美の言葉です。このように讃美しつつ、主イエスを自分の王としてお迎えすることが、私たちの信仰なのです。
柔和と謙遜
主イエスは、王としてエルサレムに入城されました。しかしそこで主イエスが選び、乗られたのがろばであったということが、ここでの第二の大事なポイントです。王が、王としての威厳や力を誇示してある町に入る時に用いられるのは普通馬です。ローマの凱旋将軍は四頭立ての馬車に乗ってローマに凱旋行進をした、それを許されることが最高の名誉だったと言われます。それに比べて、このろばに乗っての入城というのはなんとみすぼらしい、またこっけいな姿でしょうか。ろばというのは、馬と比べて、まことに風采の上がらない動物です。王様が乗るような代物ではないのです。しかし主イエスは敢えてろばを選び、それに乗って、王としてエルサレムに入られました。そのことは、旧約聖書に記されている預言の成就だったのだ、と4、5節が語っています。5節に引用されているのは、本日共に読まれたゼカリヤ書9章9節の言葉です。「シオン」とはエルサレムのことです。そこに、「お前の王がおいでになる」ことが告げられています。エルサレムの王の到来、つまり、ダビデの子である救い主の到来が告げられているのです。そしてその王は、「柔和な方で、ろばに乗って」来られるのです。「柔和な」というところは、もともとの旧約聖書の言葉では「高ぶることなく」となっています。つまり、謙遜なということです。ろばに乗ってエルサレムに来られる王、それは柔和で謙遜な王です。神様が約束して下さっている救い主はこのような王として来られるのだとゼカリヤ書は語っているのです。その預言がご自身において成就、実現したことを示すために、主イエスはろばに乗ってエルサレムに入城なさったのです。主イエスは、柔和で謙遜な王として来られました。主イエスにおいて、柔和と謙遜とが結びついていることは、この福音書の11章29節のみ言葉に語られています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というみ言葉に続いて、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と語られています。柔和にして謙遜な方、これが主イエスの基本的なお姿です。その柔和と謙遜をもって私たちを支配し、治めて下さる王として主イエスは来られたのです。
理想の王?
柔和で謙遜な王、それは王様としての理想の姿であると私たちは思います。王様が残忍で無慈悲で傲慢な人であるとすれば、その下に支配される国民は悲惨です。人を、あるいは一国を支配する王は、穏やかな、やさしい人でなければならない、すぐに怒ったり、自分の感情に任せて命令を下すような人であってはならない、また、王であることを鼻にかけて威張ったり、人を見下し軽んじるような人は王としての器ではない、そういう意味で、柔和で謙遜であることは立派な王としての基本的な素質であると言えるでしょう。けれどもここでよく考えなければなりません。主イエスが、柔和で謙遜な王であられるというのは、そういうことでしょうか。イエス様は理想的な王様だ、ということで話は済むのでしょうか。もしそうなら、そういう理想的な王様を迎えたエルサレムの人々は一致団結してイエス様を王とする国を築き、イスラエルを復興、繁栄させていく、ということになったはずです。あるいは少なくともそのことを目指して人々が主イエスのもとに続々と集まり、一大勢力となっていったはずです。ところが現実にはそうはなりませんでした。むしろ、ここで主イエスを喜び迎えた群衆たちは、その週の内に、今度は主イエスを「十字架につけろ」と叫ぶようになっていったのです。これは、「イエス様は理想的な王様だ」ということでは説明のつかない事態です。ろばに乗って来る、柔和で謙遜な王としての主イエスは、私たちの思い描く「理想的な王」とは違う方なのです。その違いを理解しなければ、主イエスを私たちの王として本当にお迎えすることはできないのです。
担ってくださる主
主イエスが柔和で謙遜な方であられるとは、どういうことでしょうか。先ほどの11章28節で、柔和で謙遜な方であられる主イエスは、疲れた者、重荷を負う者をご自分のもとに招いておられます。私のもとに来れば、休み、安らぎが得られると言っておられます。それは、主イエスが、私たちの疲れ、重荷を、共に背負って下さるということです。あるいは、疲れ、重荷を負って喘いでいる私たちそのものを、主イエスが背負って下さる、私たちの歩みの全体を担って下さると言ってもよいでしょう。主イエスの柔和さというのは、ただやさしいとか、穏やかだというのではなくて、私たちの人生を、存在を、根底から担って下さる、そういう力を内に秘めた柔和さなのです。そしてそのことは、主イエスの謙遜によって実現します。主イエスが謙遜であられる、それは、ご自分を低くされるということです。主イエスは、神様の独り子、ご自身がまことの神であられる方でした。まことの神であられる方が、神としての栄光を捨てて、この地上に、一人の人間として生まれて下さったのです。しかも主イエスがお生まれになったのは、エルサレムの王宮ではなく、ベツレヘムの馬小屋でした。最も貧しい、また誰にも顧みられない姿で、主イエスはこの世に来られたのです。そのような貧しさだけではありません。まことの神であられる主イエスは、十字架の死への道を歩んで下さったのです。十字架の死、それはこの世で最も残虐な方法での死刑です。人間としての尊厳の一切を奪い、虫けらのように、しかし苦しみだけはじわじわと長引かせて殺す、そういう死刑です。主イエスはその苦しみと死へと歩まれた。それは、私たちの罪を全てご自分の身に背負って下さるためです。私たちが、神様と隣人とに対して日々犯している罪の全てを、主イエスは引き受け、背負って、十字架の上で死んで下さったのです。これが主イエスの謙遜です。つまり主イエスの謙遜とは、威張らないとか、人を見下さないというようなところに止まるものではないのです。どうしようもない罪人である私たちのところに来て下さり、その私たちを丸ごと引き受け、背負って下さり、私たちが神様に赦され、神様の子供として新しくされて生きることができるために、ご自分の命を犠牲にして下さる、それが、主イエス・キリストの謙遜なのです。この謙遜によって、私たちは担われ、背負われています。私たちの存在を根底から担って下さる柔和さが主イエスの謙遜によって実現しているというのはそういうことなのです。
主イエスへの失望
主イエスが柔和で謙遜な方であるとはこういうことです。つまりそれは、主イエスが、私たちのために、苦しみを受け、十字架にかけられて死んで下さることなのです。柔和で謙遜な王は、私たちのために苦しみを受け、死んで下さる王です。それはもはや私たちが「理想的な王」ということで思い描く姿をはるかに超えている、つまり私たちが期待したり、望んでいる王とは全く違う王の姿なのです。このことこそが、ここで主イエスを喜び迎えた人々が、一週間の内に「十字架につけろ」と叫ぶようになっていった原因でしょう。いろいろと期待していた分、みんな主イエスに失望したのです。幻滅したのです。我々が求めているのはこんな王様ではない、と思ったのです。同じことは私たちにも起るでしょう。イエス様こそ、私たちの救い主だ、王様だ、しかも理想的な王様だ、この方についていけば間違いない、そう思って主イエスの周りに集まって来る私たちの期待は、そのまま実現することはないのです。そのような思いは打ち砕かれ、否定されずにはいないのです。ろばに乗って来る王というのは、みすぼらしい、そしてこっけいな姿だと申しました。ろばに乗ってよたよたと行進してくる王などというのは、実はこっけいなものなのです。笑いものでしかないのです。「ホサナ」と叫んで迎えた人々のことだけがここには語られていますが、きっとそこには、「何だありゃ。あいつあれで王様のつもりなんだってよ」と嘲笑っていた人々もいたに違いないと思うのです。たとえこの時にはそういう人はいなかったとしても、結局は全ての人が主イエスをそのように嘲笑うようになっていったのです。ろばに乗った主イエスを王として崇め、信じるなどということは、こっけいなことなのです。私たちがそこで一時、「いや、この王様は本当に柔和で謙遜な、理想的な王様なんだ」と信心深そうなことを言ってみたところで、その思いはいずれ、「十字架につけろ」という叫びに変っていくのです。あるいは弟子たちがそうであったように、主イエスのことを知らないと言って逃げ去っていくことになるのです。それが私たちの現実の姿です。主イエスはそのことをよくご存知の上で、敢えてこのようなこっけいな姿で、ろばに乗る王としてエルサレムにお入りになったのです。
ろばに乗る王
このエルサレム入城によって主イエスが私たちに示しておられることは、第一に、主イエスはまことの王であられるということです。主イエスは確かに、王として、この世に、私たちのところに来られたのです。主イエスを王としてお迎えすることが私たちの信仰なのです。しかし第二に示されていることは、その主イエスがどのような王であられるのかは、私たちの思いをはるかに超えているということです。私たちが「イエス様はこんなにすばらしい王様なんだ」と自分の心の中で納得し、感謝したり讃美したりする、そういう思いは、いとも簡単に、「十字架につけろ」という叫びに変っていくのです。私たちが主イエスをすばらしい王様だと思う、その私たちの思いが信仰だとすれば、その信仰はまことにはかなく、脆いものなのです。むしろ大切なことは、私たちが主イエスのことをどう思うかではありません。私たちがどう思おうと、それとは関わりなく、主イエスが、ろばに乗る王として、即ち私たちの罪を全て引き受け、身代わりになって苦しみと死を受けて下さるという徹底的に謙遜な王として、そしてそれによって私たちを根底から担い背負って下さる真実に柔和な王として来て下さったのです。それはいろいろな意味でこっけいなことです。神様が罪ある人間のためにご自身を犠牲になさるなんて信じ難い、という意味でもこっけいなことだし、それは人間にとって余りにも都合のよい、身勝手な教えではないか、という意味でもこっけいなことです。キリストの十字架によって罪が赦されたなんて、随分手前勝手な都合の良すぎる教えだと思う人は多いし、私たちだってそう感じるのです。しかし主イエスはそのようにして下さったのです。そのような王として来て下さったのです。そこに私たちの救いがあるのです。手前勝手だろうと、こっけいだろうと、そのことによってしか、私たちは神様の子供として新しくされ、担われて、背負われて生きる者となることはできないのです。主イエスがこのような王として私たちのところに来て下さったことを信じ、その主イエスを喜び迎えることが私たちの信仰です。私たちが主イエスのことをどんなにすばらしい王であると思うかではなく、主イエスが私たちのために、ろばに乗る王として、徹底的な柔和と謙遜をもって来て下さり、私たちを担い背負って下さっていることを信じ、受け止める時に、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」という歓呼の叫びが、もはや失われることのない、私たちの真実な叫びとなるのです。
牧師 藤 掛 順 一
[2002年11月10日]
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