祝宴への招き
礼拝において、マタイによる福音書を読み続けておりまして、本日から、第22章に入ります。ここには、主イエス・キリストが語られた一つのたとえ話が記されています。ある王が、王子の結婚の祝いの祝宴を催し、そこに人々を招いたという話です。今日の私たちで言えば、結婚披露宴への招待ということですが、これは王様が、王子のために催す披露宴なのですから、そこらの披露宴とは格が違う、まことに盛大な、豪華な宴会へと人々が招待された、そういう話なのです。この話が、神様と人間の関係を、つまり人間の側から言えば信仰の事柄を語っている、たとえ話というのはそういうことです。この宴会を催した王様が神様のことであり、そこに招かれた人々が私たち人間のことです。神様と私たちの関係とはこのようなものだ、信仰とは、神様から、祝宴への招きをいただくことなのだとこのたとえ話は語っているのです。
このことは、私たちが普通に、信仰というものについて抱いているイメージとは随分違うことなのではないでしょうか。私たちは、信仰というと、何かかしこまって神様を信じ、その命令に従ってよいことに励む、そういう真面目で堅苦しいものという印象を持っています。信仰を持っている人というのは、真面目で立派だけれどもちょっと付き合いづらい、という目で見られたりもするし、私たちクリスチャン自身も、信仰者というのはそういうものだと考えて、自分はそういうちゃんとした信仰者らしい生活はどうもできない、と思ったりするのです。けれどもこのたとえ話は、信仰をもって生きることは、喜ばしい宴会の席に招かれて、ごちそうにあずかることだと言っています。私たちはこのたとえ話によって、信仰というものについてのイメージを改める必要があるのではないでしょうか。たとえば今私たちはこのようにして礼拝に集っています。このことをどう受け止めるか。私たちが、新年早々から、なんとご苦労なことに朝早くから教会に集まって牧師の難しい話を聞くという真面目なクリスチャンとしての「おつとめ」を守っている、そういうふうに受け止めるのか。それとも、神様が毎週日曜日の朝に、私たちを喜ばしい祝宴へと招いて下さっている、その招きに預かっていると受け止めるのか。特にこの礼拝では、聖餐にあずかります。聖餐は、神様が私たちを招いて下さっている喜びの食卓です。そこで実際にいただくのは、小さなパンの一切れと、一口のぶどう液ですが、それにあずかることによって私たちは、神様が主催して下さっている喜びの宴席に連なるのです。礼拝を守ることはそのような神様の招きにあずかることなのです。そのことをこのたとえ話は教えています。先週、共に礼拝を守ってきた教会員の飯野純吉さんが天に召されました。その前夜式においても葬式においても、飯野さんの面影を偲びつつ繰り返し申しましたことは、飯野さんが、本当に喜んで礼拝を守っておられたということです。不自由な体と病気をかかえた中で、健康や条件が整えられて礼拝に出席することができた時には、やっと来ることができましたと本当に嬉しそうでした。飯野さんはまさに、礼拝を、神様からの喜ばしい祝宴への招きとして受け止め、その招きに応えてこの席に連なることを喜びつつ歩まれたのです。
招きに応じない人々
ところが、そのような姿とは違って、このたとえ話には、王からの祝宴への招きに応じようとしない人々のことが語られています。当時の宴会は、前もって招待の通知をしておき、そしていざその祝宴の時になってもう一度使いを送って、「準備が整いました、さあおいで下さい」と招く、というやり方だったようです。王はそのようにして、招いてあった人々に家来たちを遣わし、「さあ、婚宴においでください」と告げさせたのです。ところが、招かれていた人々はそれを無視したとあります。王の招きを無視して、一人は畑に、一人は商売に出かけたのです。「私は仕事が忙しい、今日はやらなければならないことがある。礼拝に行っている暇はない」ということです。あるいはさらに、6節には、「また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった」とあります。招きに応じないだけでなく、その招きを伝えに来た者たちをも激しく拒否し、その人たちが自分の生活を脅かし、侵害する者であるかのように敵対したのです。このこともまた、私たちの中に起る現実なのではないでしょうか。この人たちは要するに、王からの招きを、喜ばしい祝宴への招きとして受け止めていないのです。自分の生活、自分が中心となり、王となって生きている人生への妨害、余計なおせっかいだと思っているのです。私たちも、神様からの招き、呼びかけ、礼拝への誘いをそのように受け止めてしまうことが多いのではないでしょうか。そのように受け止めているから、たとえ礼拝を守っていてもそれを、つらい「おつとめ」を果しているように感じたり、あるいは逆に自分はすべてを犠牲にして毎週礼拝を守っている、ということを何かすごく立派なことをしているかのように誇ってみたりすることが起るのです。ここに出て来る、招かれていたのにそれに応じなかった人々とは、私たちのことだと言わなければならないと思うのです。
有り難い招き
このたとえ話においては、招かれていたのにそれに応じなかった人々に対して、王は怒り、軍隊を送ってその者どもを滅ぼしたとあります。そして町の大通りに家来たちを遣わし、その者たちの代わりに、「見かけた者はだれでも」婚宴に連れて来るように命じたのです。そのようにして、最初に招かれていたのとは別の人々が、この祝宴にあずかるようになったのです。このことは、21章の終わりのところにあった、「ぶどう園と農夫のたとえ」と重なります。クリスマスの礼拝において読んだあの箇所においても、主人を主人と思わず、ぶどう園を自分たちのものにしてしまおうとした農夫たちは滅ぼされて、他の、ちゃんと主人を敬う農夫たちにぶどう園が貸し与えられていくことが語られていました。そのように、もともと神様の恵みをいただいていた者が、それに応えることをしなかったためにその恵みを失い、代って別の人々がその恵みにあずかっていくことがこれらのたとえ話によって語られているのです。その、「もともと恵みをいただいていた者たち」というのは、21章45節によれば、祭司長たちやファリサイ派の人々です。つまり当時のユダヤ人の宗教的指導者たちです。神様の民であるユダヤ人の先頭に立って、神様を信じ、その独り子である主イエスを信じ受け入れなければならないはずの彼らが、主イエスを受け入れようとせず、むしろ敵対し、抹殺しようとしている、そういう姿がこれらのたとえ話に示され、その彼らが神様によって捨てられてしまうことが語られているのです。そしてその彼らに代って、新しくぶどう園を貸し与えられる者たち、あるいはこの祝宴に招かれる人たちとはどういう者たちなのか、そのことを、本日のたとえ話は語っています。それは、町の大通りで見かけた者はだれでも、なのです。10節には、「そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった」とあります。王は、王子の結婚の祝いのこの宴席を、なんとしても一杯にしたいのです。祝宴に空席があるほど寂しいことはありません。礼拝に空席があるのも同じです。この席がいつも一杯になるような礼拝を守りたいものです。神様はそのことを望んでおられるのです。そしてそのために神様は、「誰でもいいから見かけた者を引っ張って来い」と家来たちに命じたのです。その結果、「善人も悪人も皆」集められて、宴席は一杯になったのです。これもまた、今この礼拝に集められている私たちの姿です。私たちの礼拝堂はなかなかいっぱいにはなりませんが、しかし今集まっている者たちだけを見たって、善人もいれば悪人もいるではありませんか。みんな善人のような顔をして集まっていますが、ひと皮むけば、どうしてどうして、悪いもの、罪をごまんと抱えている者たちです。講壇の上に立って平気な顔で説教などしているのが一番の悪人かもしれません。とにかく言えることは、私たちがこうして礼拝に集い、神様の祝宴にあずかっているのは、私たちがそれに相応しい、立派な、もともと招かれるべき者だったからではないということです。私たちはもともとは、町の大通りをただ歩いていた者です。それこそ日々自分の生活のことであくせくし、神様のことなど考えずに、また隣人のことよりも自分のことを大事にして生きていた者です。そのような私たちが、しかしある時に、神様が遣わされた人との出会いを通して、この宴席へと、礼拝へと連れて来られたのです。神様は、「誰でもいいからみんな連れて来い」とお命じになりました。だから私たちも来ることができたのです。神様の喜びの宴に列席することなどもともとは考えられないような私たちが、ただ神様の招きによってここにいるのです。本日読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書55章の1節以下にも、神様のそのような招きの言葉が語られています。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」。支払うべき価を持っていない者も来い、ただで、水を、穀物を、ぶどう酒と乳を与えると神様は言っておられるのです。神様を礼拝するとは、この神様の、まことに有り難い招きにあずかってみ前に出ることなのです。
婚礼の礼服
ところがこのたとえ話には、さらにもう一つ、私たちにとって不可解な、またつまずきを覚えるようなことが語られています。11節以下です。王が客を見ようと入ってくると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いたのです。その者は結局この宴席から追い出されてしまうというのです。これはどういうことなのでしょうか。見かけた者は誰でもと言っていたのです。だから善人も悪人も皆集められて来たのです。この祝宴にあずかるのに、何の資格も、相応しさもいらないということだったのではないのでしょうか。だいたい、町の大通りから皆連れて来られたのです。婚礼の礼服など着ているわけがない、とも思います。それについてはこんな説明がなされます。王様が催すこの宴会のための礼服は、王様自身が用意していたのであって、客は来て、王の準備しているその礼服に着替えて宴席につくのだ、だから誰でも皆礼服を着てこの席につくことができる。ところがこの人だけは、王が用意した礼服を着ようとしなかったのだ。なるほどそういうことなのかもしれません。しかしこういうたとえ話であまり細かいことを詮索しても意味はありません。確認しておくべきことは、誰でもいいからとこの宴席に集められた人々が皆、礼服を身につけていた中で、この人一人だけは、それを身につけていなかったということです。この人も、それを身につけようと思えばできたのです。しかしそれをせずに宴席についたのです。そのことが、宴席の主人である王にとがめられ、彼は追い出されたのです。
礼服とは何か
このことは、神様の祝宴にあずかるのに、何の資格も相応しさもいらないが、しかしそこには、私たちの側で整えなければならない最低限の備えというものがあることを教えています。「礼服」が象徴しているその備えとは何なのでしょうか。ただ神様の招きによって礼拝へと導かれている私たちが、整えなければならないものとは何なのでしょうか。「礼服を身につける」というのは、この祝宴を催している主人を敬うという思いの現れであると言えるでしょう。この祝宴を開き、そこに自分たちを招いて下さった、全く相応しくない、招きに当然あずかるべき者などではない自分を、喜びの宴にあずからせ、ごちそうして下さる、その主人である神様に感謝し、神様を敬う思い、それこそがこの「礼服」に象徴されていることなのです。それは、招かれるに相応しい何か立派な行いをするというようなことではありません。むしろ、神様からの招きを招きとして覚え、感謝してそれを受けることです。あの、最初に招かれていた人々に欠けていたのはまさにそのことでした。彼らは、招きを招きとして受け止めていなかったのです。招いて下さった方を尊重する思いがなかったのです。招きに感謝する気持ちもないのです。そしてむしろ、こんな招きは迷惑だぐらいに思っているのです。俺は自分の好きなようにしたいのに、こんな招きに応じていたらまともに仕事もできない、やりたいこともやれない、自由に生きられない、と思っているのです。礼服を身につけなかったこの人は、結局そういう人々と同じことをしているのです。礼服とは、神様が無条件で、ただで、全く相応しくない罪人である私たちを、招いて下さり、祝宴にあずからせて下さっている、そのことを覚え、感謝し、神様を敬うことです。自分は今その礼服を身に着けてこの礼拝の場にいるだろうか、そのことを私たち一人一人が自分に問うてみることを、このたとえ話は求めているのです。
招きにふさわしいのは
最初に招かれていた人々は、神様の祝宴に連なることができませんでした。招きを重んじることなく、それに応えようとしなかったからです。その人々は、「ふさわしくなかった」と8節にあります。神様の招きを感謝して受けようとしない人は、その招きにふさわしくないのです。それで神様は、もっとふさわしい人を招きました。それが、大通りを歩いている、善人も悪人も含んだ普通の人々です。彼らは、自分が王子の婚宴に招かれるなどとは思ってもいません。そんな身分ではないし、それに相応しい立派さはどこにもないのです。しかし神様の目から見たら、そういう人々の方がご自分の祝宴に連なるのにふさわしい人です。なぜならその人々の方が、神様に招かれたことを、驚きと喜びと感謝をもって受け止めるからです。そしてその招きを大事にするからです。神様の祝宴に招かれていることを驚きと喜びと感謝をもって受け止める人こそが、この招きにふさわしい人なのです。しかしこの招きへの驚きと喜びと感謝を失ってしまうならば、そして自分が招かれるのは当然だと思ったり、あるいはこんな招きはかえって迷惑だと思うようになるなら、私たちは礼服を身につけていない、ふさわしくない者としてこの祝宴の恵みを失ってしまうのです。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」というみ言葉によってこの話は締めくくられています。これは私たち、教会に連なり、礼拝を守っている者たちへの警告のみ言葉です。教会に招かれ、礼拝を守るようになったということが、それだけでそのまま、神の国の祝宴にあずかる救いを保証しているわけではないのです。神の国の祝宴にあずかるには、礼服が必要です。それはお金で買えるものでもなければ、よい行いを積み重ねることによって手に入れることができるものでもありません。神様の招きを、本当に有り難いこととして感謝して、その招きにあずかることを大切にしていくことこそがその礼服なのです。
聖餐の祝宴
私たちが、神様の招きを、本当に有り難いこととして感謝して受けるために備えられているのが、本日共にあずかる聖餐の恵みです。聖餐において私たちがいただくパンと杯は、主イエス・キリストが私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死んで下さった、その裂かれた体と流された血を表しています。私たちが神様に招かれて祝宴にあずかることができるのは、この主イエス・キリストの十字架の死という犠牲によってなのです。何の相応しさもない、善人も悪人も区別なく集められている私たちが神様の祝宴にあずかれるのは、主イエス・キリストが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったからなのです。聖餐にあずかることによって、私たちは、神様の招きが、独り子の命を犠牲にすることによって与えられた、本当に有り難いものであることを体験することができるのです。私たちは聖餐において、神様が備えて下さる恵みの食卓にあずかります。そしてこの食卓は、神様が約束して下さっている、神の国における盛大な祝宴、この世の終わりに、神様のご支配が完全に行き渡り、私たちの救いが完成するその時に催される祝宴の先取りです。私たちは聖餐にあずかることによって、神様が約束して下さっている、神の国における祝宴にあずかる備えをなし、また、そのことへの希望を新たにするのです。この聖餐を大切に守りつつ歩むことが、私たちが今身につけるべき礼服です。信仰を告白して洗礼を受け、教会の一員となった者は、聖餐にあずかって生きる者となります。その聖餐にあずかることを大切にしつつ、礼拝を守っていくことが、主イエス・キリストの十字架の恵みによる神様の招きに感謝して応え、礼服を身につけて招きにあずかっていくことなのです。亡くなった飯野さんは、礼拝を守ること、そして特に聖餐にあずかることを大きな喜びとして歩まれました。12月22日のクリスマス礼拝において、聖餐にあずかったことが、飯野さんの地上での最後の礼拝となりました。そのようにして飯野さんは、礼服を着て神様の招きに応える人生を全うされたのです。主の2003年、私たちも、主イエス・キリストによる神様の有り難い招きに感謝して応え、聖餐にあずかることを大切にしつつ、神様の備えて下さっている祝宴である礼拝を守り続けていきたいのです。
牧師 藤 掛 順 一
[2003年1月5日]
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