ソロモンの栄華
月の第四の主の日には、原則として旧約聖書、列王記上からみ言葉に聞いております。列王記は、ダビデの子ソロモンが父のあとを継いでイスラエルの王となったことから語り初められています。このソロモンの時代が、イスラエル王国の黄金時代、国が最も繁栄し、勢力を拡大した時でした。「ソロモンの栄華」と呼ばれる豊かさと平和の時代でした。その豊かさ、繁栄の様が、10章14節以下に語られています。その21節にはたとえばこのように語られています。「ソロモン王の杯はすべて金、『レバノンの森の家』の器もすべて純金で出来ていた。銀製のものはなかった。ソロモンの時代には、銀は値打ちのないものと見なされていた」。また23節以下にはこうあります。「ソロモン王は世界中の王の中で最も大いなる富と知恵を有し、全世界の人々が、神がソロモンの心にお授けになった知恵を聞くために、彼に拝謁を求めた」。このようにソロモンは富のみでなく、類い稀れな知恵に満ちた人だったのです。その知恵を聞くために多くの人が訪ねて来た、その代表が10章1節以下に出て来る「シェバの女王」です。シェバという国は今のアラビア半島の南の方だろうと言われますが、その女王が、難問奇問をもってソロモンを試そうとやって来たが、ソロモンに分からないこと、答えられないことは一つもなかった。シェバの女王はソロモンの知恵に完全に脱帽したと語られています。このようにソロモンは、富のみではなく知恵、賢明さ、賢さにおいても、これ以上ないと言えるほどの豊かさを得たのです。
このソロモンの栄華は、神様の恵みによる賜物であったことを、私たちは既に3章において読んできました。神様がソロモンに現れて、「願うものは何でも与えよう」と言われた時、ソロモンは、王として国を正しく治めることのできる知恵を求めたのです。神様はその求めを喜び、願い通りの知恵を与えると共に、富、豊かさをも与えると約束されました。この神様の恵み、祝福によってソロモンはあの繁栄、栄華を得ることができたのです。そしてソロモンが行った様々な事業、業績の中で最も大きなことは、主なる神様を礼拝するための神殿を建設したことだったということを、私たちは先月の終わりに、8章から読みました。そこにあるソロモンの神殿奉献の祈りには、主なる神様こそが天におられて世界とイスラエルを守り導いておられる方であり、民の罪に対しては懲らしめ、罰を与えられるけれども、悔い改めて神様に立ち帰る者を豊かに赦して下さり、恵みを与えて下さる方であるという信仰が語られています。この信仰こそが、ソロモンの統治の基本であり、そこに彼の優れた知恵と、そして経済的繁栄が結びついて、イスラエルの黄金時代が訪れたことを列王記は語っているのです。
ソロモンの罪
しかしその黄金時代は10章までで、本日の11章からは、それが崩壊していくことが語られ始めます。イスラエル王国は、ソロモン王のもとでの絶頂期の後、その子レハブアムの時代になると、北王国イスラエルと南王国ユダに分裂してしまうのです。そのことの種は、既にソロモンの治世において蒔かれていたのだということがこの11章に語られています。ソロモン自身が、その種を蒔いてしまったのです。そのことは、彼が多くの王妃や側室を抱えたことに起因していると語られています。3節によれば、ソロモンは七百人の王妃と三百人の側室を持っていたとあります。一日に一人を相手にしていっても、三年ぐらいかかっちゃうというものすごい数ですが、そのように沢山の女性を妻や妾にしたということが問題とされているのではありません。ソロモンの罪は女性の人権を無視したということではないのです。問題だったのは、1、2節にあるように、その中に多くの外国人の女性がいたということです。エジプトの王ファラオの娘を筆頭に、モアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人などの女性を妻としたのです。しかし2節にあるように、神様はこれらのいわゆる異邦人との交わりを警告しておられました。それは、イスラエル民族の血の純潔が失われる、というような話ではありません。「あなたたちは彼らの中に入って行ってはならない。彼らをあなたたちの中に入れてはならない。彼らは必ずあなたたちの心を迷わせ、彼らの神々に向かわせる」とあるように、彼らとの交わりが、イスラエルの人々の心を、主なる神様から離れさせ、彼らの神々に向かわせる原因となる、ということが問題なのです。そしてまさにそのことが、外国人の妻たちによってソロモンに起ったのです。そのことは、ソロモンが次第に年をとっていったこととも関係しています。若い時にはあんなに知恵に満ち、しっかりとした判断力があったのに、年をとり、体力、気力が共に衰えていくと、次第に妻たちの言いなりになっていってしまったということでしょう。4節にこうあります。「ソロモンが老境に入ったとき、彼女たちは王の心を迷わせ、他の神々に向かわせた。こうして彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった」。妻たちの影響によって、ソロモンの心は次第に他の神々の方に向いていってしまった。それは最初はおそらく、妻たちが、自分たちのもともと拝んでいる神々を拝み、犠牲をささげることを許してくださいと願ったことから始まったのでしょう。7、8節はそのことを語っているように思えます。「そのころ、ソロモンは、モアブ人の憎むべき神ケモシュのために、エルサレムの東の山に聖なる高台を築いた。アンモン人の憎むべき神モレクのためにもそうした。また、外国生まれの妻たちすべてのためにも同様に行ったので、彼女らは、自分たちの神々に香をたき、いけにえをささげた」。自分が拝むためではなく、妻たちのために、祭壇を築き、礼拝の場を与えてやったのです。しかしそういうことをしているうちに、いつのまにか、ソロモン自身の心も、主なる神様から離れ、妻たちの拝む偶像の神々に向かうようになってしまったのです。そのようにして、主なる神様に背き、他の神々、偶像の神々に心奪われてしまったことが、ソロモンの罪であり、それが、王国分裂の原因となったのです。
10章までに描かれているソロモンの姿と、この11章のソロモンの罪の姿との落差に私たちは愕然とします。あのソロモンがどうしてこんなことになってしまうのだろうか、と思うのです。しかし列王記は、10章までの間にも、ソロモンのこの罪の萌芽を語っています。それは、彼がエジプト王ファラオの娘を妻としたということです。そのことは既に、3章の始めのところに語られていたのです。また7章の8節と9章の24節にも、ソロモンが彼女のために宮殿を建てたことが語られていました。そのことはそこでは、特に問題とされているわけではありません。しかしそのことが、11章で語られていることの萌芽であったことは確かです。そのこと自体は罪とは言えないような小さなことが、次第に大きな罪へと成長していってしまう、ということがあるのです。そういう意味で、ソロモンの歩みはやはり繋がっています。ある時突然おかしくなってしまったわけではないのです。
ソロモンのこの罪の原因となったのが、彼が愛した女たちだったということがここに語られています。しかし私たちはこのことをあまり重要視してはならないでしょう。女のせいで男は罪を犯すのだ、という結論をここから導き出すことは、ソロモンは沢山の女性を妻にして女性の人権を踏みにじる罪を犯した、というのと同様に間違いです。ソロモンはある意味では、自分の愛した女性たちを大事にしたのです。自分の神々を拝みたいという彼女たちの権利を認めたのです。妻たちの権利など尊重したから彼は罪を犯すことになった、とも言えるのです。「女性の人権」ということをここで持ち出すなら、「男たるもの、妻の言いなりになどなってはならんのだ」という話にもなります。しかしそれは両方とも見当違いです。ソロモンの罪は、多くの女性を愛したことではありません。またそれは、女性のせいにすることができるものでもありません。4節の後半に語られているように、彼の心が、「自分の神、主と一つではなかった」、このことが彼の問題であり罪であり、彼に与えられていた祝福が失われていってしまう原因だったのです。
神との平和な関係
「主と一つではなかった」と訳されているところは、前の口語訳聖書では、「主に真実でなかった」となっていました。「一つ」とか「真実」と訳されているもとの言葉は、「シャーレーム」という言葉です。これは「完全な、十分な」という意味であり、それが人と神、あるいは人と人との関係において見つめられるときには「全く一つである、平和な」という意味になるのです。「シャーローム」という言葉が、旧約聖書の言葉、ヘブライ語において「平和」という意味であり、それが挨拶の言葉にもなっているということをお聞きになった方もいるでしょう。それと基本的に同じ言葉です。ですから「心が主と一つである」というのは、神様との間に、完全な、平和な関係がある、ということです。神様との間のその平和な関係を失ってしまったことが、ソロモンの罪だったのです。ここに、罪の根本、本質が示されています。人間が、弱さのために、誘惑に負けて、あるいは憎しみや悲しみの衝動にかられて犯してしまう個々の行為や語ってしまう様々な言葉、それらは勿論罪ですが、しかしそこに罪の本当の深刻さがあるわけではないのです。罪が本当に深刻な、人を滅ぼすものとなっていくのは、神様との平和な関係が失われてしまうこと、心が主と一つでなくなってしまうことによってです。罪を犯すことがあっても、神様との間に平和な関係があるなら、悔い改めることができるのです。神様ごめんなさいと立ち帰ることができるのです。ソロモンがあの神殿奉献の祈りで語っていたのはそういう神様との関係でした。神様を信じ、信仰をもって生きる者というのは、罪を犯さないで生きる者ではないのです。人間は弱いものであり、罪の心を持ち、誘惑や衝動に負けることも多々あります。それが問題なのではありません。大切なことは、その時に悔い改めて神様に立ち帰ることができるかどうかです。立ち返ることができるような関係が神様との間にあるかどうかです。主と心が一つである、神様との平和な関係があるというのはそういうことなのです。4節には、ソロモンの心が、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかったと言われています。ダビデは主なる神様と心が一つだったのです。しかしそのダビデも、多くの罪を犯した人でした。部下であるウリヤをわざと戦死させて、その妻だったバト・シェバを奪ったりもしたのです。このバト・シェバがソロモンの母です。しかしダビデはその罪を指摘され、責められた時に、主なる神様に自分の罪を告白し、神様どうぞ赦してくださいと願ったのです。つまり主なる神様に向かって悔い改めたのです。それが、彼の心が主なる神様と一つだった、平和な関係がそこにあったということです。しかしソロモンは、他の神々に心を向けてしまった。それは、弱さや誘惑に負けて何か失敗をしてしまうこととは根本的に違います。彼はそれによって、悔い改め、立ち帰る相手を失ってしまったのです。
悔い改めを求める神
ここに、主なる神様と、他の神々、人間が造り出した偶像の神々との根本的な違いがあります。主なる神様は、私たちに悔い改めを求める方です。主なる神様を信じることと悔い改めることとは一つなのです。悔い改める、それは私たちがそれまでの歩みを方向転換することです。変えられることと言ってもよいでしょう。主なる神様は私たちに方向転換を求めるのです。変えられることを求めるのです。それを受け入れて、心の向きを変えて歩み出すことが主なる神様を信じる信仰なのです。しかし他の神々、人間が造り出した偶像の神々は、そういうことを求めません。その神々は、私たちに悔い改めを求めるのではなくて、私たちの歩みをいろいろな点で助けてくれると言うのです。それは、いろいろな助けが欲しいという人間の思いの投影だからです。そういう神々は私たちに決して「悔い改めよ」とは言いません。「あなたは変えられなければならない」などとは言わないのです。言うとしても、それは私たちにとってまことに心地よい仕方で、もともと求めている方向へと変えられることを求めるのです。ですからそこには「悔い改めへの求め」はないのです。主なる神様と偶像の神々のこの違いを私たちは覚えていかなければなりません。そしてこのことを覚えることから、さらに二つのことを考えさせられるのです。その第一は、私たちが聖書に語られている主なる神様を信じて生きているつもりでいるとしても、もしもその神様が私たちに悔い改めを求めておられることを意識していないならば、自分の歩みの向きを変えて常に神様のもとに立ち帰ることが信仰なのだということを意識していないならば、私たちが信じているのは実は主なる神様ではなくて、私たちが勝手に作り上げた偶像に過ぎないということです。第二は、主なる神様から心が離れ、他の神々、偶像に心を向けてしまうことは、単に信じる神を取り替えるということではなくて、悔い改める道を失うということ、立ち帰るところを失うということなのだ、ということです。ソロモンが陥った罪とはそういうことだったのです。
愚かな金持ちのたとえ
それにしてもソロモンは何故このような罪に陥ってしまったのでしょうか。先ほど申しましたように、それを「妻たちに唆されたから」ということで片付けてしまうことはできません。罪の本質は神様との間の平和な関係を失ってしまうことだという先ほどのことからすれば、罪の原因は自分の外にあるのではないのです。人のせいにすることはできないのです。外のことがきっかけになることはあっても、根本的には罪は自分の心の中から生れてくるのです。ソロモンの心にどのような思いが生まれたのか、そのヒントとなるであろう個所として、本日共に読まれた新約聖書の箇所、ルカによる福音書第12章13節以下を選びました。ここには主イエスが語られた、「愚かな金持ちのたとえ」というたとえ話があります。倉に収まり切れないほどの豊作を得た金持ちが、倉をもっと大きなものに建て直してそこに財産を仕舞い込むことによって、「自分の人生はもう安心だ、大丈夫だ」と思ったという話です。神様は、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われました。彼は愚かな者になってしまったのです。その愚かさとは、財産によって人生が支えられると思ったことです。さらに言えば、自分の人生を本当に支え、導いておられる神様を見失ったことです。もう一言言えば、その神様が自分の人生、命にストップをかけることができる、それを終わらせることができる方であることを忘れてしまったことです。つまり彼は、自分に方向転換を求める、変わることを求める、悔い改めを求める、そういう神様から目を背けたのです。そして自分の得た財産に拠り所を求めていった、それは自分の歩みを助け、支えてくれるだけの、財産という偶像に心を向けていったということです。しかし人間の人生を、命を本当に導き支えているのは財産ではない、偶像の神ではないのです。私たちの歩みを支えてくれるだけの偶像の神は、いざという時、本当に必要な時、危機の時に、何の支えにも力にもならないのです。それに対して、私たちの命を終わらせることのできる神、人生に絶対的なストップをかけることができる神との交わりに生きている者は、いざという時、危機の時に、その神のもとに立ち帰ることができるのです。そして本当の支えを得ることができるのです。私たちに悔い改めを求める神様と共に生きることができるのは本当に幸いなことです。主なる神様から心が離れて偶像に心を向けてしまうという人間の罪は、いけないことだとか何だとか言う前に、このまことの幸いを失ってしまうという悲劇なのです。
神の怒り
ソロモンの心が主なる神様から離れてしまった、その罪に対して神様はお怒りになられます。11節以下には、神様がその怒りのゆえに、王国をソロモンの手から裂いて取り、家臣に渡すということ、つまりイスラエル王国の分裂が予告されています。さらに14節以下には、ソロモンに敵対する何人かの者たちが興され、彼らによって王国が脅かされていくことが告げられています。一人はエドム人ハダド、彼はエドムからエジプトに亡命していた人ですが、ダビデの死後帰国し、イスラエルを南東方面から脅かす存在となりました。もう一人はエルヤダの子レゾン、彼はダマスコで支配者となったとありますから、北東、シリヤ方面からの脅威となりました。そして三人目がネバトの子ヤロブアムです。前の二人が外国人であるのに対して、この人はイスラエルの人、エフライム族の出身であり、ソロモンに仕える家臣でした。28節にあるように、なかなか有能な人物で、ソロモンは彼をヨセフ族、つまりヨセフの子から出たマナセ族とエフライム族全体の労役の監督に任命したのです。このヤロブアムがある時、アヒヤという預言者と出会いました。アヒヤは自分の着ていた真新しい外套を十二切れに引き裂き、ヤロブアムに、この内の十切れを取るように言います。これは、「預言者の象徴行為」と呼ばれるもので、こういうある具体的な行動によって、そこに象徴的に示されている神様のみ心を伝えるというものです。そこに示されている神様のみ心とは、イスラエルの十二の部族の内の十部族が、ソロモンの手から引き裂かれて、ヤロブアムに与えられるということです。このヤロブアムが、次の12章で、北王国イスラエルの最初の王となるのです。ソロモンの王国が引き裂かれてその家臣に渡される、その家臣とはこのヤロブアムのことなのです。
神の約束
このようにここには、12章に語られていくイスラエル王国の分裂が予告されているわけですが、しかしここで神様が繰り返し語っておられるもう一つのことは、ソロモンが生きている間はそれをしないということです。また、王国を分裂させて、十二の部族の内の十までも他人に渡すけれども、ソロモンの子孫に一つの部族を残すということも繰り返し言われています。ここには十二引く十は一という不思議な計算があります。南ユダ王国はユダ族とベニヤミン族との二部族によって構成されていくのですが、しかしベニヤミン族のことは事実上問題にされていないということでしょう。いずれにせよ、ソロモンの子孫の王国が存続していくことが語られているのです。それはすべて、彼の父ダビデのゆえです。主なる神様と一つの心で歩んだダビデのゆえに、その血筋が絶えてしまうことのないために、36節の言葉で言えば、「わが僕ダビデのともし火がわたしの前に絶えず燃え続けるように」、そのために神様が計らって下さることが繰り返し語られているのです。それは単にダビデとその子孫への同情ということではありません。神様は、このダビデの子孫に、本当の王、救い主を誕生させて下さるという約束を既に与えて下さっているのです。ソロモンの罪によっても、その神様の約束、救いの約束は決して反故になってしまうことはない、ということがこのことによって示されているのです。神様は、このソロモンの罪による王国の分裂、さらにはその後の人々の罪によって両王国とも結局滅んでいくわけですが、そういう人間のどうしようもない罪を乗り越えて、救いの約束を貫き、実現して下さったのです。それが神様の独り子イエス・キリストにおいて起ったことです。主イエス・キリストは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、私たちの罪を赦して下さいました。神様と私たちとの間に平和な関係を回復し、私たちが神様と一つの心で生きることができるようにして下さったのです。それは言い換えれば私たちが、神様に立ち帰り、悔い改める道を開いて下さったということです。主イエス・キリストの救いを受け、神様を信じて生きる私たちは、罪を犯さない者になるのではありません。弱い人間である私たちは、これからも、様々な罪を重ねながら生きていくのです。しかし独り子イエス・キリストが、私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちは、主イエスの父なる神様のもとに、立ち帰ることができるのです。悔い改めの道が開かれているのです。この本当の幸いを見失わずに歩んでいきたいのです。
牧師 藤 掛 順 一
[2003年1月26日]
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