論争の勝利
マタイによる福音書第22章の終わりのところを、本日の礼拝のための聖書個所として与えられています。ここには、41節にあるように、主イエスが、ファリサイ派の人々に一つの問いを投げかけて、それをめぐってあるやりとりが交わされ、そしてそこで主イエスが言われたことに対して、最後の46節に「これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった」とあるように、律法の専門家でありユダヤ人たちの宗教的指導者であったファリサイ派の人々が、誰も主イエスに言い返すことができない、ぐうの音も出ない、ということが起った、つまり、主イエスが、ファリサイ派の人々との議論、論争において完全な勝利を得られたということが語られています。ここで少しこれまでの流れを振り返って見たいのですが、22章の15節以下には、ファリサイ派の人々やその他の人たちが主イエスに質問をしてきたことが語られていました。その質問は、15節に「イエスの言葉じりをとらえて、罠にかけよう」とあるように、質問と言うよりも議論をふっかけ、陥れてやろうという悪意によるものでした。15節以下にはファリサイ派の人々のそういう問いがあり、23節からは今度は、ファリサイ派とは対立していたサドカイ派の人々も、同じように主イエスに質問をしてきたこと、そして34節以下には再びファリサイ派の人からの問いと、立て続けに三つの問いが主イエスにつきつけられたのです。主イエスはそれらの問いに対して、はっきりと、また誰も言い返すことのできない仕方でお答えになりました。そこに語られたことはどれも、議論のための議論ではなく、私たちの信仰にとってとても大事な教えだったことを私たちはこれまでに見てきました。そしてそのように質問に的確に、堂々とお答えになった主イエスが、今度は攻守所を代えて、ご自分から、ファリサイ派の人々に問うていかれたのです。その問いに対して、彼らは一言も言い返すことができなかった。沈黙するしかなかったのです。こうして、ファリサイ派の人々との論争において、主イエスは完全に勝利された。相手のサービスゲームをブレイクし、自分のサービスゲームを確実に決めてパーフェクトな勝利を得たのです。
メシアは誰の子か
主イエスが彼らに問うていかれたこと、それは、「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」ということでした。メシア、それはヘブライ語で「油を注がれた者」という意味で、もともとは神様によって特別な務め、例えば王、に任命された人のことでしたが、次第にそれが、神様が遣わされる救い主を意味するようになり、この当時は、人々の間に、メシアの出現を待ち望む「メシア待望」の思いが高まっていたのです。この「メシア」をギリシャ語に訳したのが「クリストス」という言葉で、ここの原文に使われているのもその言葉です。そしてそれが日本語に訳されて「キリスト」になったのです。ですからこの42節の主イエスの問いは、前の口語訳聖書では、「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」となっていました。「キリストは誰の子か」という問いを主イエスは彼らに投げかけられたのです。
メシアはダビデの子
「キリストは誰の子か」ともし私たちが問われたら、私たちはどう答えたらよいか迷ってしまうところです。「キリストとは主イエスのことだから、主イエスはマリアの子だし、系図の上からはヨセフとマリアの子となっている、あるいは、神の子という言い方もできる…」などといろいろ考えてしまいますが、しかし当時のユダヤ人にとって、この問いの答えは一つであり、それは誰でも知っている当たり前のことでした。「メシア、即ちキリストはダビデの子である」これがその答えです。「メシアはダビデの子」、それが、旧約聖書の信仰に生きる人々にとっての常識、基本中の基本だったのです。そのことは、神様がダビデ王に、「あなたの子孫にイスラエルを救うまことの王を立てる」と約束して下さったことに基づいています。「子」という言葉は、直接の子というよりも、「子孫」の意味です。ダビデの血を引く子孫に、救い主メシアが誕生する、その「ダビデの子」であるメシアを人々は待ち望みつつ生きていたのです。そしてこのことは同時に、誰がメシアであるかという、本物のメシアを見分けるための大事な条件にもなったのです。ダビデの子、ダビデの子孫でなければ本物のメシアではない、神様が約束して下さった救い主ではない、そこに、本物のメシアと偽物のメシアを見分ける一つの鍵があるのです。マタイ福音書も、新約聖書全体もこのことを前提として書かれています。マタイはその冒頭に、主イエスの系図を長々と語っていますが、それは「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」です。つまりあの系図は、主イエスがダビデの子であることを明らかにするためのものなのです。また、20章29節以下には、二人の盲人が、エリコからエルサレムへと向われる主イエスに向って大声で叫び、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と願ったことが語られています。それは主イエスこそダビデの子、救い主であられるという信仰の表明です。そして次の21章には、エルサレムに入られた主イエスを、人々が「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と叫んで喜び迎えたことが語られています。主イエスこそダビデの子なる救い主であられる、ということはこの福音書の前提であり、新約聖書全体を貫く基本なのです。ですから、主イエスの問いに対してファリサイ派の人々が、「ダビデの子です」と答えたのは、正解であり、全く当然のことだったのです。
メシアはダビデの子か
ところがそれに対して主イエスは、さらに問いを重ねていかれました。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか」。ダビデ自身がこう言っているではないか、と主イエスは言われたのです。ここに引用されているのは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編110編の最初のところです。これは「ダビデの詩」と言い伝えられているものの一つですので、これを歌っているのはダビデ自身である、ということがこのみ言葉の前提となっています。そのダビデが、「わたしの主」「わが主」と呼んでいる人がいる。その人は、主なる神様から、「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」というみ言葉を与えられているのです。この「わたし」は主なる神様です。主なる神様がこのように、「あなたの敵を足下に屈服させる」と宣言し、「わたしの右の座に着け」と言っておられる方、それこそが来るべきメシア、救い主です。この詩は、メシアのことを預言している詩なのです。その預言をダビデが語った時、ダビデはメシアのことを「わたしの主」と呼んだ。「わたしの子」「わが子」とは言っていないのです。「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか」というのが主イエスの問いです。
この問いによって主イエスは何を語ろうとしておられるのでしょうか。ダビデがメシアを「主」と呼んでいるのだから、メシアはダビデの子ではない、ということでしょうか。しかしメシアはダビデの子であることはこの福音書のみならず新約聖書全体の前提であると申しました。それを否定してしまったら、あの系図も無意味になってしまうのです。そういうことが意図されているわけではありません。それでは主イエスは何故こんなことを言われるのか、ファリサイ派の人々の揚げ足とリをして楽しんでいるだけなのか、そんなことはありません。ここで主イエスは、彼らの、メシア、救い主に対する基本的な姿勢を問題にしておられるのです。
主イエスの権威をめぐる論争
そのことを確かめていくために、このファリサイ派の人々と主イエスの論争がどのように始まり、どういう経過をたどったのかを振り返って見たいと思います。先ほどは、22章15節以下でファリサイ派の人々が悪意ある問いを主イエスに投げかけたことまで遡りました。しかし主イエスとファリサイ派の論争、対立はさらにその前から続いているのです。それはそもそもどこから始まるかというと、21章23節からです。そこに、祭司長や民の長老たちが主イエスを詰問したことが語られています。ここでは祭司長と長老たちですが、45節では「祭司長たちやファリサイ派の人々」となっていますから、祭司長、長老、ファリサイ派は一体であると考えてよいでしょう。彼らが主イエスに詰問したのは、「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」ということでした。「このようなこと」というのは、直接にはその前の12節以下の、神殿の境内で売り買いをしていた人々を主イエスが追い出したという、いわゆる「宮潔め」のことを言っているのでしょう。しかしまたそこには、神殿の境内で子供たちが主イエスを、「ダビデの子にホサナ」とほめたたえているのに彼らが腹を立てたことも語られています。それは先ほど申しましたように、エルサレムに来られた主イエスを人々が喜び迎えた叫びでもあります。つまり主イエスは、ダビデの子であるメシアとしてダビデの町エルサレムに来られ、そして神殿の主である神様から遣わされた者として、そこを強盗の巣のような欲望の場にしていた人々を追い払われたのです。それらの、主イエスの、ダビデの子、メシアとしての行動の全体が「このようなこと」です。何の権威でそんなことをするのか、誰がおまえにそんな権威を与えたのか、と彼らは主イエスに厳しく問うたのです。それは問いと言うよりも、「おまえにダビデの子、メシアとしての権威などないはずだ。そんな権威は認めない」ということです。彼らとの論争はこのように最初から、主イエスの、ダビデの子、メシアとしての権威をめぐるものだったのです。
三つのたとえ話
この主イエスの権威についての問答において、主イエスはご自分の権威をはっきりとお示しになることをなさいませんでした。27節の「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」という言葉でこの問答は終わっています。そのように主イエスはご自分の権威についてのはっきりとした言明をなさらなかったのですが、それに続いて語られた三つのたとえ話は明らかにこのことを意識した話になっています。21章28節以下には「二人の息子のたとえ」があります。父の求めに対して、「いやです」と拒否したが後で考え直してその通りにした息子と、「承知しました」とよい返事をしながら実行しなかった息子が対比されています。本当に父の、つまり神様の権威を重んじ、そのみ心に従っているのはどちらなのか、ということが問われているのです。そして次の33節以下には、「ぶどう園と農夫のたとえ」があります。主人からぶどう園を貸し与えられながら、それを私物化し、主人の取り分を渡そうとしない、そして主人が遣わした息子をすら殺してしまう悪い農夫たちの話です。主人の信頼を裏切り、主人の権威もその息子の権威も認めようとしない頑な僕たち。45節には、祭司長やファリサイ派の人々が、イエスは自分たちのことを言っていると気づいて激怒したとあります。それは彼らが、自分たちの姿とこの農夫たちの姿が重なると意識したことの現れなのです。そして22章1節以下には「婚宴のたとえ」があります。王子の婚宴への王の招きに応えようとせず、自分の用事に出かけてしまう人々のことが語られています。彼らもまた、王の権威も王子の権威も尊重していないのです。それを軽く見て、それよりも自分の都合を大事にしているのです。このように主イエスがここで語られた三つのたとえ話はどれも、神様の権威、その遣わされた子の権威を認めず、従おうとしない者たちの姿を描き出しています。これらのたとえ話によって主イエスは、あの「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」という問いにはっきりと答えておられるのです。主イエスがこのようなことをする権威は、主なる神様の権威であり、主イエスはそれを、神の独り子として、父なる神様から与えられているのです。
主イエスの問いかけ
しかし彼らはその主イエスの、父なる神様からの、ダビデの子、メシアとしての権威を認めようとしません。むしろ先ほど見たように、その主イエスの言葉尻をとらえて陥れようとして悪意ある質問を重ねてくるのです。そういう流れの最後に、主イエスが彼らにつきつけたのが本日のところの、「メシアはダビデの子ではなく、主ではないのか」という問いです。それはもはや、メシアは誰の子孫として生まれるか、ということではありません。ダビデにとっても、救い主メシアは、「主」と呼んでその権威の下にひれ伏し、従う相手ではないのか。あなたがたは私の権威を問題にし、それを受け入れようとしないが、そもそもあなたがたは神の権威、メシアの権威に服するという姿勢を持っているのか。あなたがたは、これはメシアだとか、これはそうではないとか、自分たちの権威によって判定することができると思っている。「ダビデの子」という言葉が、あなたがたにおいては、ダビデの権威を担っている自分たちがメシアをも判定することができるという意味になってしまっており、メシアが「ダビデの主」であることが忘れ去られているのではないか。主イエスはそういう問いを彼らにつきつけられたのです。それは実は、21章23節以下のあの主イエスの権威をめぐる問答において、主イエスが彼らに逆に問われたことと同じ問いです。主イエスはあそこで、「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」と問われました。ヨハネの洗礼の権威はどこからか、ということです。彼らはそれに対して、「分からない」と答えたのです。しかしそれは、分からないのではなくて、答えられないのです。ヨハネの洗礼は天からの、神様の権威によることだと言えば、それを受け入れず無視した自分たちの間違いを認めることになるし、それを人からの、つまり本当の権威などない、ヨハネが勝手にしたことだと言えば、ヨハネを神からの預言者として尊敬している群衆の支持を失うことになるのです。だから「分からない」と答えるしかない。そこに、彼らの姿勢がはっきりと現れています。つまり彼らには、自分を犠牲にしたり、人からの批判を受けても神様の権威に従うという思いはこれっぽっちもないのです。神様の権威など実はどうでもよいのであって、大事なのは自分たちの権威、自分たちの立場を守ることなのです。主イエスの問いによってそのことが明らかになったのです。主イエスと彼らの論争の最初に、既にそのことが明らかになっています。そして今、その論争のしめくくりに、もう一度、「メシアはあなたがたの主ではないのか」という主イエスの問いと、それに答えることができず、沈黙するしかない彼らの姿によって、そういう彼らの根本的な罪が明らかにされたのです。
このことは、私たちにとって他人事ではすまないことです。私たちが、神様と、その独り子主イエスと関わりを持ち、信仰者として生きようとする時に、私たちもこの問い、「メシアはあなたがたの主ではないのか」という問いを主イエスから受けるのです。私たちは、神様について、主イエスとその救いについて、信仰について、教会について、様々な疑問を抱くし、問いを持ちます。そのこと自体はいけないことではないし、むしろ大切なことです。聖書の教え、教会の信仰は、疑いを持ったり疑問を抱いたりすることを罪として拒むものではありません。「鰯の頭も信心から」のように何でもただ鵜呑みにして信じることが求められているのではないし、カルト宗教のように、マインド・コントロールによって、自分の頭で考えることができなくなり、ただ教えられた通りに考え、語り、行動するようになることがよい信仰者になることではないのです。わからないこと、疑問に思うことはあっていいし、それを問うていくことは大切なことです。しかしそこで私たちが常に覚えておかなければならないのは、私たちは、神様や、救い主メシアである主イエスを、判断し、判定し、裁き、これは本物だとか偽物だとか、これは受け入れてもよいがこれは受け入れられないとか、そういう者ではないのだということです。私たちは、神様のプレーをジャッジする審判ではありません。それでは立場が反対です。私たちの問いは、常に、神様の、主イエスの権威を受け入れ、それに服するという思いによって問われていかなければならないのです。神様の権威を否定したり、主イエスを拒否するという思いによって何かが問われるとしたら、それはこのファリサイ派の人々が主イエスを陥れようとして問うたのと同じことになってしまいます。そこにおいては主イエスは私たちにとって、「ダビデの子」「メシア」「キリスト」という称号を持った一人の人に過ぎません。その人がどうであろうと、その人のことをどう思おうと、私たちの生活に、人生に、何の影響もないのです。しかし神様を信じ、主イエスを信じるというのは、神様を、そしてその独り子であるイエス・キリストを、「わたしの主」として信じ、受け入れ、従うことです。その時に初めて私たちは、主イエス・キリストという方と本当に相い対し、交わりをもって生きることができるのです。そうでなければいつまでたっても私たちは主イエスに対して「分からない」と逃げるか、沈黙するしかないのです。
最後にもう一つのことを見つめておきたいと思います。主イエスはこのように、ファリサイ派の人々との論争において完全に勝利されました。彼らはぐうの音も出ずに沈黙するしかなかった、もはやあえて質問する者もなかったのです。しかしこの主イエスの勝利によって私たちの救いがもたらされたのではありませんでした。ぐうの音も出ないほどに敗北した彼らは、心を入れ替えて主イエスを信じたのではありません。沈黙のままで、あとはひたすら主イエスを抹殺するために動いたのです。この後23章から25章にかけては主イエスの教えがまとめられており、そして26章からは受難の物語です。主イエスの権威をめぐる論争における勝利は、十字架の死への歩みを加速しているとも言えるのです。このことは、主イエスの権威が私たちの間で本当に確立するのは何によってか、ということを示していると言えるでしょう。主イエスの権威は、それをめぐる論争に勝利することによって確立するのではないのです。私たちのこととして言うならば、私たちは誰かに説得されて、もはや反論の余地のないほどに論証されて、ぐうの音も出なくなって、それで主イエスを信じるようになるのではありません。私たちが誰かに伝道をしようとする時も同じです。いっしょうけんめい説得して、納得させて、だから主イエスを信じなさいといくら言っても、それで相手が信仰を得ることはありません。そのような論証や説得はむしろ反発をもたらすのみということの方が多いでしょう。論争から信仰は生まれないのです。論争においては、私たちはせいぜい、主イエスの前にただ沈黙することにしかならないのです。それはまだ信じたわけではないし、救いが与えられたわけではありません。私たちが救われるのは、そのように敵意を抱きつつ沈黙するしかない私たちのために、その私たちの罪を全て背負って、主イエスが十字架にかかって死んで下さったことによってです。主イエス・キリストは、論争に勝利するためではなく、私たちのために身代わりになって命を捨てて下さるために、この世に来られたのです。このことによってこそ、主イエスの権威は私たちの上に確立するのです。私たちは主イエスのこの十字架の恵みにふれる時にこそ、主イエスの権威を受け入れ、それに服する者となるのです。黙り込むしかなかった私たちの口が開かれて、「あなたこそ私の主、私の救い主です」と告白するようになるのです。そのようにして私たちは、主なるイエス・キリストのもとで生きる者となるのです。
牧師 藤 掛 順 一
[2003年2月9日]
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