富山鹿島町教会

礼拝説教

「主イエスの再臨」
ダニエル書 第12章1〜13節
マタイによる福音書 第24章15〜31節

憎むべき破壊者
 先週の礼拝において私たちは、主イエス・キリストが、この世の終わりについて、その徴について語られた、マタイによる福音書第24章の前半のみ言葉を読みました。そこには、「戦争の騒ぎや戦争のうわさ」、また「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる」ということが語られていました。先週の説教においても、私たちのこの世界は今まさにこれらのことが起ころうとしている瀬戸際にあると申しましたが、実際、先週の内に、米英軍によるイラク攻撃が始まり、新たな戦争が勃発しました。私たちはこのようなことが起こらないように、平和を祈り求めてきましたが、その願いも虚しく、戦いが始まりました。「これはフセイン政権に対する攻撃であってイラクの人々に対する攻撃ではない」というようなことをアメリカは言っているようですし、小泉首相もそんなことを言って攻撃支持を正当化していますが、軍隊どうしが誰もいない原野で戦って雌雄を決するような昔の戦争ならともかく、現代の戦争において、そんな理屈は通りません。必ず、民間人も巻き込まれ、傷つき、殺されていくのです。そのような戦争が始まるのを、私たちは止めることができない。手をこまねいて見ているしかない。まことに無力さを感じずにはおれません。この世界には、このような戦いを引き起こし、争い、憎しみ、そして破壊をもたらす大きな力が働いている、私たちはその力の前でまことに無力な者でしかないのです。
 本日の箇所の最初のところ、15節に、「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら」とあります。「憎むべき破壊者」、それは今申しました、この世界にうずまいている憎しみと破壊をもたらす力を体現している者と言ってよいでしょう。そういう者が「聖なる場所に立つ」。「聖なる場所」とは、人々が畏れかしこみ、敬う場所、具体的には神殿のことが考えられています。預言者ダニエルが言った、つまり旧約聖書のダニエル書に語られていることは、エルサレムの神殿に、異教の偶像が立てられ、それを拝んだり犠牲を献げたりすることが強制される、ということです。異教徒である外国の征服、支配によってイスラエルの人々にそういう大きな苦しみが襲うことが見つめられているわけですが、このことを私たちが置かれている世界の現実に当てはめて考えるならば、憎しみと破壊をもたらす力を体現しているような人が、人々があがめ、その指導に従っていくような、国の政治の中心となる立場、地位に着く、ということとして受け止めることができるでしょう。アメリカが言うように、サダム・フセインはそういう存在なのかもしれません。また、北朝鮮の金正日もそうでしょう。しかし今現在、最もこの「憎むべき破壊者」としての姿を示しているのは、アメリカのブッシュ大統領ではないでしょうか。第二次大戦以降、世界が、曲がりなりにも維持してきた、国連による紛争解決の道、国連決議なしに他国に武力行使をしてはならないという約束を踏みにじり、どの国のどの政権が危険であるかを自分が決め、そこには先制攻撃をする、というブッシュの政策は、この世界の平和維持の秩序を破壊するものだと言わなければならないと思います。そういう意味で私たちは、このイラク攻撃という戦争の行方のみでなく、このことを通して、この世界が、国際世界の秩序がどうなってしまうのか、という大きな不安を抱かずにはおれないのです。21世紀はあの9月11日の同時多発テロから始まりました。そこから始まった新しい動きが、今この新しい戦争の開始によってさらに加速度を増しています。私たちは、この世界は、どこへ向っているのか、この道の先には何があるのか、それは荒廃と滅亡をもたらす破局ではないのか、そういう不安の中に私たちはあるのです。
 主イエスはこれらのことを、この世の終りの徴、前兆として語られました。主イエスが語られたこれらの徴はどれも、暗いものです。私たちに恐怖を覚えさせるものです。もっと明るく楽しいばら色の未来を描いてくれたらよかったのに、その方が人々が喜んでその教えに耳を傾けたろうに、とも思います。しかしもしも主イエスがここでそういう明るくばら色の未来を語っておられたとしたら、今このような現実の中を生きている私たちにとって、それは虚しい、また自分たちとは関係のない絵空事の世界でしかないでしょう。私たちの、この世界の現実は、そのようなばら色の未来へと向っているのではなくて、まさにここに語られているような、苦しみと破局へと向っている、それゆえにこの聖書の言葉は、私たちにとってリアリティーがあるのです。現実味を帯びているのです。主イエスがここでお語りになったことを私たちは真剣に聞いていきたいのです。

逃げなさい
 本日の箇所で主イエスが先ず言っておられることは、憎むべき破壊者が聖なる場所に立つのを見たら、「逃げなさい」ということです。これは意外なことかもしれません。憎むべき破壊者の支配と戦え、その破壊の力が世界を覆ってしまわないように抵抗せよ、とお命じになってもよさそうなものです。そうではなくて、ただ「逃げなさい」と言われる。それは、憎むべき破壊者に一切抵抗してはならない、という教えではないでしょう。私たちは勿論、神様が造って下さったこの世界を正しく管理し、守るために立てられた人間として、そのような力に抵抗し、戦わなければなりません。この世界が争い、憎しみ、戦争ではなく、和解、共存、平和への道を歩むために力を尽くすことが必要なのです。このみ言葉はそのことを否定しているのではありません。ここで見つめられているのは、しかしそのような私たちの努力にもかかわらず、憎しみと破壊をもたらす力は無くならないし、むしろ私たちを飲み尽くそうとするのだ、ということです。その最後ぎりぎりのところで、自分の陣地を守り続け、そこで玉砕しなくてよい、陣地を捨てて逃げなさいと主イエスは言っておられるのです。しかもそこには、家の中のものを持ち出そうとするな、ということが語られています。つまり、直ちに、何も持たずに、着の身着のままで逃げよというのです。それはもう、一端退却して体制を整える、というようなことではありません。闘うことを放棄するのです。言い換えれば、神様に委ねてしまうのです。「もう私にはどうすることもできません。後は神様お願いします」と下駄を預けてしまうのです。それでよい、と主イエスは言っておられるのです。何故ならば、憎むべき破壊者、憎しみと破壊をもたらす力は、私たちが戦って勝利することができるようなものではないからです。私たちはその力の前で、多少の抵抗をすることはできても、根本的には打ち負かされるのです。勝つことはできないのです。この世界に破局をもたらす力はそれほどに強いのです。その力によって、21節にあるように、「世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来る」のです。憎むべき破壊者はそういうとてつもなく大きな苦しみを私たちにもたらすのです。私たちはそれに抵抗することができない、逃げるしなかいのです。しかし逃げて、逃げおおせることもできない。22節にこうあります。「神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう」。憎しみと破壊をもたらす力に打ち勝つことのできる者は一人もいないのです。ただ神様が、その苦しみの期間を縮めて下さることのみが、私たちの救われる道です。そして神様は、選ばれた人たちのために、その期間を縮めて下さるのです。憎しみと破壊をもたらす力による苦しみによって私たちが滅びてしまわないようにして下さるのです。「逃げなさい」というのは、この神様の恵みに委ねなさいということなのです。

偽メシアの出現
 23節以下には、偽メシアや偽預言者が現れるから、それらを信じるな、ということが語られています。世の終わりには、偽のメシア、つまり偽物の救い主が現れるのです。彼らは、「大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとする」。つまり、彼らによって、驚くべき奇跡が行なわれたりするのです。そういうものを見ると、「選ばれた人たち」、つまり主イエスこそキリスト、救い主であると信じた信仰者たちであっても、いやここにこそ本物の救い主がいるのではないだろうか、と思ったり、あるいはこの人こそこの世に再び来られたキリストなのではないだろうか、と思ったりすることがあるのです。けれども主イエスはここで、そららの者たちを信じてはならない、と言っておられます。たとえどのような驚くべき業をするとしても、それらは、本物のメシア、救い主ではないと断言しておられるのです。何故そのように断言することができるのか、その理由は27節に、「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである」と言われています。「人の子が来る」。「人の子」とは主イエスがご自分のことを言われる言葉です。つまり主イエスがもう一度この世に来られること、いわゆる主イエスの再臨ということが語られています。その再臨の主イエスこそ、真実な救い主なのです。そしてその主イエスの再臨は、「稲妻が東から西へひらめき渡るように」起こるのです。天を東から西へと一瞬の内にひらめき渡る稲妻、それは、何ヶ月も、何年もかけて徐々に、というものではないし、また、全ての者がそれをはっきりと見るものです。光ったのか光らなかったのかよくわからない、などということはないのです。救い主イエスがもう一度来られることもそのようにして起こる。つまりそれはまたたく間の出来事であり、また、全ての人が直ちにそれと分かるような出来事なのです。ですから、「この人こそ救い主かもしれない」とか、「あそこにどうも救い主が来られたようだ」というような話は全て眉唾なのです。本当の救い主、主イエスがもう一度来られたなら、全ての人が、直ちに、それと分かるのです。そうでない者は皆偽物だから、そういうものを信じてはいけないと主イエスは言っておられるのです。

主イエスの再臨
 このことは然し、本物の救い主、再臨の主イエスの見分け方、という問題ではありません。全ての前提となる一番大切なことは29節以下に語られています。「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」。「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」。これは、この世界が終わるということです。神様が、天地創造においてお造りになった太陽や月や星、それらが配置された大空、その全てがくずれ去り、この世が終わるのです。しかしこの世の終わりの中心は、そのような世界の崩壊ではありません。「人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」、これこそが、この世の終わりに起こることの中心です。人の子、主イエスが、大いなる力と栄光を帯びて、天から、もう一度来られるのです。その再臨が、またたく間に、全ての人が分かるような仕方で起こるのです。その時、主イエスの大いなる力と栄光が現れ、全ての人がそれを認め、その前に跪くということが起こるのです。主イエス・キリストの、神の子、救い主としての権威と力と栄光が明らかになり、その主イエスの父なる神様のご支配が顕わになり、完成するのです。そのことによって、今のこの世界は終わるのです。それはこの世界にとっては滅びであり破局ですけれども、同時に神様のご支配の完成、つまり神の国の完成です。ですからここに語られている世の終わりとは、主イエスの再臨によってこの世が終わり、神様のご支配の完成による新しい世界、神の国が始まるということなのです。まことの救い主であられる主イエスがもう一度来られたなら、そういうことが起こる。先ほどの、偽物のメシアを信じるなという教えもそのことを前提としています。本物の救い主イエスが来られたなら、この世界は終わり、新しい世界、神の国が始まるのです。それがまだ始まっていない、神の国が完成していない、今のこの世界がまだ続いている、その中で、「あの人こそ救い主ではないか」「ここにこそ再臨の主イエスがいるのではないか」などと言われるのは全て偽物なのです。ですから私たちが根本的に待ち望むべきことは、この世の歩みの中のどこかに、救い主が現れて、その方によって全てのことがよくなる、解決する、ということではないのです。私たちの希望は、この世の歩みの中で何らかの救いが実現することではありません。そうではなくて、主イエスの再臨によってこの世が終わり、新しい、神の国、神様のご支配の完成が与えられることにこそ、私たちの希望はあるのです。「逃げなさい」という教えも、このことに基づいています。「逃げなさい」というのは、自分で最後まで何とかしようとしなくてよい、神様に委ねなさいということだと申しました。それは、この世の歩みの中で神様が何とかうまくやってくれるだろう、ということではなくて、私たちが克服することのできないような大きな苦しみの中で、神様がその期間を縮めて下さり、つまり主イエスの再臨の時を来たらせて下さることによって、この世が終わり、神様のご支配が完成する、その救いを信じて、そこに希望を置くということなのです。

人の子の徴
 この世の終わりは、主イエスの再臨によってもたらされる、神様のご支配の完成、即ち、私たちの救いの完成である、ということがここに語られています。人の子、主イエスの再臨を私たちは希望を持って待ち望むのです。しかし30節には、「そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しむ」とあります。人の子の徴、主イエスの再臨の徴が天に現れると、何故人々は悲しむのでしょうか。そもそも、「人の子の徴」とは何だろうかと思います。それを見て人々が悲しむ、その徴とはどのようなものなのでしょうか。それはこういうものだ、とはっきりと語ることはできません。しかし古来多くの人が考えてきたのは、それは十字架の徴だろう、ということです。主イエスの十字架の徴が、天に現れる、それはつまり、主イエスの十字架の死が、はっきりと、誰もがわかる仕方で示され、明らかになる、ということでしょう。そのとき、地上の全ての民族は悲しむ、それは、自分たちこそ、神の子主イエスを十字架につけて殺した者であるということが明らかになるからです。人の子の徴、十字架の徴は、人々の、神様に背き逆らう罪を明らかに示し、主イエスの十字架の死は自分たちの責任であることを教えるものなのです。しかし主イエスの十字架刑は、ユダヤ人たちの訴えにより、ローマ総督ピラトの責任において執行されたものでした。そういう意味では、主イエスを十字架につけたのは、ユダヤ人であり、ローマ人なのです。彼らに責任があるのであって、他の者たちが、例えば私たちが責任を感じたりするようなことではないはずなのです。それにもかかわらず、全ての人々が悲しむ、それは、主イエスが、この自分のために、この自分の罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのだということを示されるからです。主イエスの十字架の死が、自分と何の関係もない他人事ではなくて、まさに自分のために神の独り子が苦しみを受け、死んで下さったという出来事だったのだということを示す、人の子の徴、十字架の徴はそういう働きをするのです。それゆえに全ての人々はそれを見て、自らの罪におののき、悲しむのです。その悲しみの中で人々は、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」のです。それは、主イエスが自分の罪を負って十字架にかかって死んで下さったことを知らされ、恐れとおののきをもって十字架の徴を見上げる、そこに、主イエスがもう一度来て下さり、神様のご支配、恵みのご支配を完成して下さり、神の国において新しく生かして下さるということです。人の子の徴、十字架の徴を見て悲しむ、その悲しみは、主イエスの再臨によって、救いの完成へと、真実の喜びへと変えられるのです。主イエスの再臨によってこの世が終わる時に、私たちはこのように、先ず、自らの罪をはっきりと示されるのです。今この世を歩んでいる中で、私たちは自分の罪をどれほど本当に見つめ、それを悲しんでいるでしょうか。勿論自分に罪があることは知っている、罪など犯していないなどと傲慢なことは思っていない、しかし、自分の罪が、主イエスを十字架につけて殺すほどのものだとは、私たちは思っていないのではないでしょうか。自分の罪の深さが、本当には分かっていない、だから、自分にも罪があるが、でもそれはこういうことのせいだとか、あの人のせいだ、などと責任転嫁をしたり、みんな同じようなことをしているではないか、と開き直ったりするのです。それは私たちが、自分の罪を本当に悲しむことができていないということです。しかしいよいよ主イエスが再臨され、この世が終わるその時には、私たちは、自分のために十字架にかかって死なれた主イエス・キリストの前に出ることになるのです。そこで私たちの罪が徹底的に明らかにされ、裁かれます。そしてその裁きを通して、神様が、主イエスの十字架の死による罪の赦しの恵みの内に私たちを新しく生かして下さるのです。

選ばれた人たち
 31節には、再臨された主イエスが、天使たちを遣わして、選ばれた人たちを四方から呼び集めて下さることが語られています。本日の箇所には、「選ばれた人たち」という言葉が三度出てきます。神様に選ばれた人たちが救いにあずかる、というのです。それは、信仰者が、そうでない人たちに対して、自分たちは選ばれているんだぞと誇るような話ではありません。私たちが神様の救いにあずかるのは、ただ神様の選びの恵みによるのだ、ということです。私たちは皆、この世にうず巻く、憎しみと破壊をもたらす力の前で無力な者です。その力によってもたらされる大きな苦しみに耐えぬくこともできません。そして主イエス・キリストの前に立つ時、自分の正しさや、強い信仰を堂々と披露して見せるようなこともできません。むしろ、主イエスを裏切り、見捨てて十字架につけた罪人の一人であることを嘆き悲しみ、み前にくずおれるしかない者です。私たちの中には、神様の救いにあずかることができるような根拠は何一つないのです。しかしそのような私たちを、神様が、ただ憐れみと恵みによって選んで下さり、み子イエス・キリストの十字架による罪の赦しを与えて下さり、今この世において主イエス・キリストを信じて生きる者として下さっている、そして主イエスの再臨の時、この世の終わりの時には、神の国、神様のご支配の内に新しく生きる者として呼び集めて下さると約束して下さっているのです。この神様の選びの恵みを私たちはただ感謝して受けるのみです。そして私たちは、この選びの恵みが、今信じている人のみにではなく、さらに多くの人々にも与えられていることを確信するのです。この私を選んで恵みを与えて下さった神様が、他の人をも選び、救いにあずからせて下さらないはずはないのです。だから私たちは、この世にあって、主イエス・キリストによる神様の救いの恵みを宣べ伝えていく。伝道をしていくのです。それは、世の終わりに天に現れるあの人の子の徴、十字架の徴を、今、私たちの周りに、まことに不十分な仕方でだけれども示していくことであると言ってもよいでしょう。そしてそれこそ、憎しみと破壊をもたらす力に翻弄されているこの世界に対して、私たち教会が、キリスト信者がなすべき、またなすことのできる働きかけなのです。世界は今、新しい戦いによって苦しんでいます。破局への不安が私たちを捕えています。憎むべき破壊者が力を振るっています。しかし私たちは、この世界を本当に支配しているのはそのような力ではなく、主イエス・キリストの父なる神様が、この世界を導き、そして独り子イエス・キリストの再臨によってこの世界を終わらせ、神の国を完成して下さることを示されているのです。それゆえに、この苦しみと不安の時においても、いたずらに動揺することなく、主が与えて下さる平和を祈り求めつつ、主イエス・キリストの十字架による神様の救いの恵みを指し示しつつ、主イエスの再臨によるその救いの完成を待ち望みつつ、忍耐して歩み続けたいのです。最後に、本日共に読まれた旧約聖書の、ダニエル書第12章の9節以下をもう一度読みたいと思います。「彼は答えた。『ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている。多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた人々は悟る。日ごとの供え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられてから、千二百九十日が定められている。待ち望んで千三百三十五日に至る者は、まことに幸いである。終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう』」。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年3月23日]

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