王国の分裂
月の最後の主の日には、旧約聖書列王記上からみ言葉に聞いています。前回、3月には、第12章を読みました。そこには、ソロモン王の死後、イスラエル王国が南王国ユダと北王国イスラエルとに分裂したことが語られていました。ソロモンの家臣だったヤロブアムが、イスラエルの北部の10部族を率いて、ソロモンの子レハブアムに叛旗を翻し、北王国イスラエルの王となりました。レハブアムはユダ族とベニャミン族のみからなる南王国ユダの王となったのです。この分裂以降の、つまり13章以降の列王記の記述は、北王国イスラエルと南王国ユダという二つの王国それぞれの王の事蹟を語っていきます。しかもそれが、北は北、南は南と分けられてはおらず、北王国の誰々王の何年に南王国で誰が王になった…、というふうに一緒に語られていくのです。ですから、気をつけていないと、今読んでいるのはどちらの国の王様の話だったかわからなくなってしまうことがあります。そのように、南北両王国が、分裂はしたけれども同じイスラエルの民の王国として、一体性を持ったものとして描かれているのです。
北王国の王朝交代
南のユダ王国は、ダビデ家の王によって代々治められていきますが、北のイスラエル王国においては、王朝が次から次へと変わっていきます。それは最初の王であるヤロブアムが、もともとは家臣だったのが成り上がって王になったということですから、やむを得ないことだと言えるでしょう。「あわよくば自分も」と思う人が次から次へと現れるのです。本日の18章に至るまでにも、既に三回の王朝の転換が起っています。ヤロブアムの王朝はその息子のナダブまででした。バシャという人が謀反を起してナダブを殺し、王になりました。これが第一回の王朝交代です。そのバシャの子エラの時代に、戦車隊長の一人だったジムリという人が謀反を起し、エラを殺して王になりました。第二回の王朝交代です。しかし彼の天下は七日間しか続きませんでした。軍司令官だったオムリという人がジムリを攻めて破り、王となりました。これが第三回です。このように北王国イスラエルは、次々と政権が替わる、不安定な状況にあったのです。そしてこのように王朝がどんどん替わっていきましたけれども、どの王朝にも共通していることがあります。それは、「主の目に悪とされることを行った」ということです。それは、この王国の最初の王ヤロブアムが土台を据えたことを皆受け継いだということです。それは、金の子牛の像を造ってそれを神としてあがめ、また自分で勝手に祭司を立てて祭儀を司らせたということであったことを前回の12章において読みました。北王国イスラエルの代々の王朝は皆このヤロブアムの罪を受け継ぎ、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放し、約束の地を与えて下さった神である主との契約をないがしろにし、ユダ王国に対抗するためという自分の都合で造り上げた神を拝み、そのために勝手に整えた祭儀を行なっていったのです。
アハブ王
さて、本日の箇所である18章に登場する王は、アハブという人です。彼は北王国イスラエルの王であり、先ほど申しました第三回の王朝交代で王になったオムリの息子です。彼が王になったことは、16章の29節に語られています。そこからが、このアハブの時代の話です。このアハブは、それまでの北イスラエルの代々の王の誰にも勝って、主なる神様に対する罪を犯した人であったことが、16章30〜33節に語られています。「オムリの子アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った。彼はネバトの子ヤロブアムの罪を繰り返すだけでは満足せず、シドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。サマリアにさえバアルの神殿を建て、その中にバアルの祭壇を築いた。アハブはまたアシェラ像を造り、それまでのイスラエルのどの王にもまして、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行った」。アハブが妻に迎えたのがイゼベルという人でした。彼女は、聖書に登場する悪女の筆頭にあげられる人です。彼女はシドンの王の娘だったとあります。つまりイスラエルの民ではない、外国人です。その彼女が、シドンの人々が拝んでいたバアルという神をイスラエルに持ち込んだのです。アハブはそれを積極的に受け入れ、首都であるサマリアにバアルの神殿を建てました。またここには「アシェラ像を造り」とあります。アシェラもバアルと並ぶこのカナン地方の偶像の神です。要するにアハブはイゼベルの影響のもとに、北王国イスラエルに、カナンの地の異教の偶像の神々を持ち込み、その祭儀を行なっていったのです。ヤロブアムが造った金の子牛の像は、イスラエルの民をエジプトから解放した主なる神を表すものとして、つまり人々がエルサレム神殿に行かなくてもその神を礼拝できるようにするために造られたものでした。主なる神様をそのような偶像にすることが大きな罪だったわけですが、アハブがしたことは、主なる神とは全く別の、異教の神々を拝むようになるという、格段に深い、大きな罪だったのです。
預言者エリヤ
このアハブ、イゼベルの時代に、北王国に現れた主なる神様の預言者がエリヤでした。エリヤは、主なる神様に仕える者として、アハブ王と王妃イゼベルに対峙し、命の危険にさらされながら対決したのです。エリヤのことは17章から語られています。そこには、彼が主なる神様のご意志によってイスラエルにひどい旱魃が起こり、数年にわたって雨が降らず、露も降りないと告げたことが語られています。その預言通りになり、今イスラエルは旱魃によるひどい飢饉の中にあります。18章の2節の後半以降に語られているのはその状況です。アハブ王は宮廷長オバドヤを呼び、国中の泉や川を見回り、どこかに水がないかを探そうと言っているのです。このオバドヤという人についての記述の中に、イゼベルの犯したさらなる罪のことが語られています。4節にあるように、彼女は主の預言者たちの多くを切り殺したのです。バアルを初めとするカナンの神々をイスラエルに導入しようとする彼女にとって、主なる神様のみに仕えるべきことを教える主の預言者たちは邪魔な存在だったということです。多くの主の預言者たちが、イゼベルによる迫害によって殉教の死を遂げたのです。このような状況ですから、主の預言者の中心であるエリヤも当然迫害の対象であり、アハブはエリヤを見つけだして捕えようとしています。エリヤは神様の導きによっていろいろな所に匿われた、ということが17章に語られています。しかし18章に入ると、神様はエリヤに、「行ってアハブの前に姿を現せ」と言われます。いよいよ、アハブと正面から対決し、主こそまことの神であられることを示すべき時が来た、そしてそのことによって主は旱魃を終わらせ、雨を降らせて下さる、ということが告げられたのです。
イスラエルを煩わす者
このようにしてエリヤはアハブと対面します。それが16節以下です。アハブはエリヤを見るとこう言います。「お前か、イスラエルを煩わす者よ」。アハブにとってエリヤは、自分の支配に服さず、国の結束を乱す者です。また、今人々が苦しんでいる旱魃を預言した者でもあります。それはアハブに言わせれば、この旱魃はエリヤのせいだ、エリヤがこのような苦しみを国にもたらしたのだ、ということになるのです。エリヤが自分とこの国を煩わせている、とアハブは思っているのです。それに対してエリヤは、「わたしではなく、主の戒めを捨て、バアルに従っているあなたとあなたの父の家こそ、イスラエルを煩わしている」と言います。イスラエルの民を本当に煩わし、このような苦しみの原因を作っているのはあなただ、あなたが主なる神様を捨て、バアルに従っていることこそ、国の歩みを誤らせ、民を苦しめているのだ、というのです。そしてエリヤは提案します。「あなたとイゼベルのもとにいるバアルとアシェラの預言者たちを皆集めなさい、私は彼らと一人で対決し、どちらがまことの神であるか、イスラエルを煩わしているのは私なのかそれともあなたなのか、それをはっきりさせようではないか」。
どっちつかずの民
エリヤはまたイスラエルの全ての人々にも呼びかけます。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え」。イスラエルの人々は、主なる神様を信じたらよいのか、バアルを信じたらよいのか、どっちつかずに迷っている、はっきりせよ、とエリヤは言います。これは私たちに対する言葉でもあると言えるでしょう。私たちは、二つの神の間で、どちらを信じようかと迷う、ということはないかもしれません。そういう意味では、私たちの置かれた状況はエリヤの問いかけの前に立たされたイスラエルの民とは違うようにも思います。しかしエリヤが問うているのは、実は、どちらの神を信じるのか、ということではありません。どちらの神に「従うのか」と彼は問うているのです。あなたがたは誰に従うのか、ということです。神様を信じるとは、その神様に従うことです。従うことがなければ、信じているとは言えません。イスラエルの人々にこの時欠けていたのは、この「従うこと」なのです。彼らの中にも、心の中では「自分は主なる神様を信じている、バアルやその他の偶像の神々はイゼベルが外国から持ち込んだもので、そんな神々は信じない」と思っていた人は沢山いたのだと思います。けれども心の中ではそう思っているとしても、それを公に言い表し、主こそ神だ、バアルなどの異教の神々は人間が作り出したものに過ぎないのだからそんなものを拝むべきではない、と声をあげることはしていないのです。イゼベルの迫害を恐れて口をつぐんでいるのです。エリヤはそのような人々に向かって、それは、主を神としていないのと同じだ、主が神であると信じるなら、主に従うことを言葉と行動によって示さなければ嘘だ、と言っているのです。それは私たちにもそのまま当てはまることです。神様を信じる信仰においては、傍観者に留まっていることはできないのです。「従う」という決断が求められるのです。
エリヤとバアルの預言者の対決
さてこのようにして、バアルの預言者450人と、エリヤ一人の対決が、カルメル山上で行われました。二頭の牛が用意され、いけにえとして裂かれ、薪の上に乗せられます。人間が火をつけるのでなく、預言者の呼びかけに答えて天から火を送ってそのいけにえを焼き付くし、自ら献げ物を受け取る神こそがまことの神だ、という対決です。まずバアルの預言者たちが自分たちの祭壇を用意し、バアルに呼びかけます。26節にこうあります。「彼らは与えられた雄牛を取って準備し、朝から真昼までバアルの名を呼び、『バアルよ、我々に答えてください』と祈った。しかし、声もなく答える者もなかった。彼らは築いた祭壇の周りを跳び回った」。バアルの預言者たち450人が大声で呼ばわっても、何の答えもありません。彼らは「祭壇の周りを跳び回った」とありますが、これは宗教的な踊りでしょう。日本でもそうですが、祭りには踊りがつきものです。踊りを神に奉納して呼びかけるのです。450人の祭司たちが大声で呼ばわりならが踊り回るのですから、大変に熱狂的な有り様です。しかし天からは何の答えもない。27節にはこうあります。「真昼ごろ、エリヤは彼らを嘲って言った。『大声で呼ぶがいい。バアルは神なのだから。神は不満なのか、それとも人目を避けているのか、旅にでも出ているのか。恐らく眠っていて、起こしてもらわなければならないのだろう』」。おまえたちの神はどこかへ出かけていて留守なのか、それとも居眠りをしているのか。それで彼らはますます大声で呼ばわります。28節以下「彼らは大声を張り上げ、彼らのならわしに従って剣や槍で体を傷つけ、血を流すまでに至った。真昼を過ぎても、彼らは狂ったように叫び続け、献げ物をささげる時刻になった。しかし、声もなく答える者もなく、何の兆候もなかった」。バアルの祭司たちは、剣や槍で自分の体を傷つけ、血を流しながら呼ばわるのです。宗教的興奮状態の中で、おどろおどろしい、気味の悪い儀式が行われていくのです。しかしそれでも何の答えもない。そこで次にエリヤが登場します。彼は「壊された主の祭壇を修復した」とあります。つまり、アハブの迫害によって破壊された主の祭壇がこのカルメル山上にあったのでしょう。エリヤはそれを十二の石によって築き直したのです。それはイスラエルの十二の部族を現しています。つまり、今は北と南に分裂してしまっているイスラエル全体が主なる神様の前で一つの民であることが現されているのです。そしてエリヤは祭壇の周囲に溝を堀り、薪と雄牛を整えると、その上に瓶の水を注ぐように命じます。四つの瓶に満たされた水が三度にわたって薪といけにえの牛の上に注がれ、その水が周囲に掘られた溝に満ちたのです。それは一つには、薪も雄牛も水びたしにして、人間の力では絶対に火がつかないような状況を作り出したということです。もう一つは、四つの瓶で三度、つまり合計十二杯の水が注がれたというところに、やはりイスラエルの十二部族が意識されています。十二杯の水は、イスラエルの十二部族の、神様に犠牲をささげる礼拝の火をかき消そうとする不信仰を象徴していると言えるでしょう。そのような状態にしておいて、エリヤは祈りました。36、37節です。「献げ物をささげる時刻に、預言者エリヤは近くに来て言った。『アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう』」。すると、「主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くした」のです。人間の不信仰によるあらゆる妨害にも打ち勝って、神様がご自身を示して下さったのです。これを見た人々は、「主こそ神です。主こそ神です」と言いました。どっちつかずに迷っていた、はっきりと主に従うことが出来ないでいた民が、その信仰を公に言い表し、主に従う者として歩み出すことができたのです。このようにしてエリヤは、ただ一人で、450人のバアルの預言者と対決し、勝利したのです。
私たちにおいては
このエリヤの勝利はある意味でまことに痛快な話です。主なる神様こそがまことの神であり、バアルを初めとする偶像の神々は、人間が造った偽りの神であり、呼んでも答えることができない、虚しい存在であることがこのようにして明らかにされたのです。しかし私たちは、この話をただ痛快に思うだけではすみません。アハブの時代の、預言者エリヤのもとではこのようなことが起ったわけですが、私たちにおいてはどうなのでしょうか。私たちにおいても、このようなすばらしい出来事が起こるのでしょうか。そして誰もが「主こそ神です」と叫ばずにはおれなくなる、そういうことはあるのでしょうか。それがないならば、この話は単なる昔の一つの物語に過ぎないのであって、私たちの信仰者としての歩みに何の力も与えてはくれないのです。
主イエスの十字架
このことを考えていくために、一つのことに注目したいと思います。それは26節に、バアルの預言者たちが、いけにえの雄牛を準備し、「朝から真昼まで」バアルの名を呼んだとあることです。さらに29節には、「真昼を過ぎても、彼らは狂ったように叫び続け、献げ物をささげる時刻になった」とあります。この「献げ物をささげる時刻」というのは午後の3時ごろのことだと思われます。バアルの預言者は、朝から午後の3時に至るまで、いけにえの雄牛の周りで呼ばわり続けたのです。そしてエリヤは、36節にあるように、「献げ物をささげる時刻に」、つまり午後の3時ごろに、祭壇を整え、祈りました。すると天からの火が下ったのです。このような時間の経過がここに描かれていることに注目する時に、思い起こさせられることがあります。それは、主イエス・キリストの十字架の日のことです。マルコによる福音書の第15章によれば、主イエスが十字架につけられたのは午前9時でした。そして昼の12時に全地が暗くなり、午後3時に至り、午後3時に主イエスは息を引き取られたのです。ちょうどこのカルメル山上でのエリヤとバアルの預言者の対決と重なり合うような仕方で、主イエスは十字架にかけられ、死なれました。そしてその主イエスの十字架の死は、私たちの罪の赦しのためのいけにえとしての死でした。神様の独り子であられる主イエスが、ご自身の命を犠牲として神に献げて下さり、その犠牲を父なる神が受けて下さったことによって、私たちの救い、罪の赦しの恵みが実現したのです。それはちょうどエリヤの整えた犠牲を、主なる神様が天からの火によって受け入れて下さり、それによって主こそまことの神であられることを示して下さったことと重なります。つまりアハブの時代にエリヤと人々に与えられた、主こそまことの神であられることを示すしるしは、今、私たちには、主イエス・キリストの十字架の死という仕方で与えられているのです。私たちは、神様の独り子イエス・キリストの十字架の死を見つめることによって、「主こそ神です」という信仰を与えられるのです。十二杯の瓶の水によって水びたしになった祭壇を主の火が焼き尽くした、それは、イスラエルの十二部族の不信仰に神様が打ち勝って、ご自身が神であることを示して下さったことを象徴していると申しました。主イエスの十字架の死は、私たちの不信仰、神様に背き逆らう罪の全てに神様が打ち勝って下さり、その赦しの恵みを神様ご自身が備えて下さる、そのことを、象徴としてではなくまさに具体的に実現しているのです。
聖霊の働きによって
しかし主イエスの十字架が、私たちに与えられているしるしであるとしても、それでは私たちが、主イエスの十字架のことを聖書において読み、あるいはみ言葉を聞いたら、それで直ちに「主こそ神です」という信仰の告白を与えられるというわけではありません。そのことを私たちが、それは私たちが主イエスの十字架を直接この目で見たのではなく、聖書を通して、教会の教えを通して間接的に聞いているだけだからだ、あのカルメル山上の天からの火を見た人々のように、主イエスの十字架を直接に目撃したのなら、私たちも「主こそ神です」と叫んだだろう、と思うとすればそれは間違いです。主イエスの十字架の死を直接目撃した人々が皆信仰者になったわけではありません。そのことに全く心を動かされなかった人も大勢いたのです。神様がご自身を示して下さるときに、それによって心動かされ、信仰を与えられる人と、そうでない人とがいるのです。それは、いわゆる信心深い人、信仰的な感性を持っている人とそうでない人がいる、というような、人間の質の問題ではありません。エリヤは37節でこう祈っています。「わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう」。彼らの心が元に返る、つまり、主なる神様に立ち返り、再び主を信じ、主に従うようになる、彼らをそのようにしたのは、あなた、つまり主なる神様ご自身である、そのことを人々が知るようになるのだ、とエリヤは言っているのです。つまり神様がご自身を示し、現して下さって、人々が「主こそ神です」という信仰を告白するに至る、それは誰にでも自動的に起ることではなくて、神様ご自身が働いて下さり、そのようにして下さることによってこそ起るのです。カルメル山上でイスラエルの人々の心をそのように導いて下さったのも主なる神様ご自身でした。私たちが、主イエス・キリストの十字架の死を見つめる時にも、この神様ご自身のお働きがなければ、信仰に至ることはできないのです。そのことを語っているのが、本日共に読まれた新約聖書の箇所、コリントの信徒への手紙一の12章1節以下です。神様ご自身の働き、それはここに語られている聖霊の働きです。聖霊によらなければだれも「イエスは主である」とは言えない、つまり私たちが主イエスこそ私たちの救い主、神であられる、という信仰と告白を与えられるのは、聖霊の働きによるのです。私たちは皆、ものの言えない偶像のもとに寄り集まっている者です。それはいわゆる偶像の神というだけでなく、人間の造り上げたもので、大きな力があり、私たちの生活を豊かにし、喜びや慰めや平安を与えてくれそうに思えるものの全てのことです。私たちはそういう現代の偶像の前で呼ばわり、夢中で踊り回っています。しかしそれらのものは、「ものの言えない」偶像です。呼んでも呼んでも、本当の応答は返って来ない。呼びかける私たちの叫びのみが虚しく、騒々しく響き渡るのみなのです。しかし、生けるまことの神様は、独り子イエス・キリストの十字架の死を通して、本当に恵み深いご自身のお姿を私たちに現して下さっています。聖霊なる神が今私たちに働いてそのお姿を示して下さっているのです。この聖霊の働きを受ける時、私たちはこの礼拝において、あのカルメル山上の人々と同じ体験をすることができるのです。そして、「私たちのために十字架にかかって死んで下さった主イエスこそまことの神です」という信仰の告白を与えられるのです。
牧師 藤 掛 順 一
[2003年4月27日]
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