時が近づいた
本日与えられている聖書の箇所は、いわゆる受難週の木曜日の深夜、主イエスが逮捕された場面です。その最初のところに、「イエスがまだ話しておられると」とあります。何を話しておられたのかというと、その前の、先週読んだ箇所の最後のところ、45、46節です。主イエスは逮捕される直前、ゲツセマネという所で祈っておられました。祈りにおいて、この後起こる逮捕と裁き、そして徹底的に侮辱され、十字架につけられて殺されるという苦しみに備え、その悲しみ、恐怖と戦っておられたのです。そして、「わたしの思いではなく、あなたの御心が行なわれますように」という祈りによって、その戦いを戦い抜き、今やはっきりと、父なる神様のみ心に従って十字架の死への道を歩み通す決意を与えられたのです。この悲しみ苦しみの中での祈りの戦いを、共に祈って支えてくれと主イエスに頼まれていた弟子たちは、眼を覚まして祈っていることができずに、眠り込んでしまいました。主イエスは結局お一人でこの祈りの戦いを戦い抜かれたのです。そのゲツセマネの祈りの場面の最後に、眠り込んでしまっている弟子たちに主イエスが語られたのが45、46節のみ言葉です。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」。ここには、弟子たちが眠り込んでいる間に、いよいよ主イエスが捕えられる時が近づいたことが語られています。私たちが信仰において眠り込み、祈りを失い、休んでしまっている、その間に、決定的な危機が訪れるのです。そうなったらもう眠ってはいられない、休んではいられないのです。弟子たちがそうであったように、さっきまで呑気に眠り込んでいたのが、あわてふためくのです。パニックに陥るのです。そこで適切な対応ができるかどうか、それが本日の箇所の一つの主題です。そしてそれと並んで、この45、46節のみ言葉は、主イエスが、「罪人たちの手に引き渡される」、そのことへ向かって、ご自分から決然と進んで行かれるお姿を示しています。「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」という言葉からそれがわかります。「裏切る」という言葉は「引き渡す」という意味です。わたしを罪人たちの手に引き渡す者が来た。主イエスはそこへと、ご自分から進んで行こうとしておられるのです。
剣や棒
主イエスを裏切る者、引き渡す者、それは「十二人の一人であるユダ」です。最後の晩餐の後、姿を消したユダが、祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆を引き連れて、主イエスを捕えにやって来たのです。彼らは、「剣や棒を持って」やって来ました。この時主イエスと共にいたのは、ユダを除く十一人の弟子たちだけです。しかも彼らは、武装した集団ではありません。そんな者たちを相手にするのに、何人いたのかはわかりませんが大勢の人々が、剣や棒を持って来る、それはあまりにも物々しい姿です。そこに、主イエスを捕えようとしている人々の心理状態が伺えると思います。何故こんな武装をして来るのか、それは、彼らが恐れているからです。こわがっているのです。剣や棒を持って来るのは、そういう内心の恐れの現れです。何故そんなに恐れるのか、それは、彼らが、自分たちのしていることが間違ったことだということを、内心では知っているからです。うしろめたい思いがあるからです。そういう思いが、過剰な自己防衛を生んでいるのでしょう。
ユダの恐れ
主イエスを裏切ったユダの姿もそれを表しています。彼は、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と前もって合図を決めておいて、そして主イエスのもとに来て、「先生、こんばんは」と言って接吻したのです。ユダの裏切りの接吻として、絵の題材にもなった場面ですが、これは要するに、ユダが、自分の裏切りの意図を隠して、弟子の一人として主イエスに近づいたということです。しかし、剣や棒を持った多くの人々を引き連れてやって来たのですから、その意図は見え見えです。それでもユダがこんな友好的なふりをしようとするのは、主イエスをだまそうとしていると言うよりも、主イエスと正面から対決することを恐れているからではないでしょうか。ユダが主イエスを裏切った理由は語られていませんから、いろいろと推測されていますが、理由が何であったにしてもそれは人として正しいことではありません。やましいことです。やましいことをする時に人は、堂々と正面からはできないのです。ユダがこんな見え見えの芝居を打った理由はそこにあると思います。彼もまた、剣や棒を持って来た人々と同じように、恐れているのです。こわがっているのです。
友よ
主イエスは、このユダの裏切りの接吻に対して、こう答えられました。「友よ、しようとしていることをするがよい」。ここで第一に注目すべきことは、主イエスがユダに「友よ」と呼びかけておられることです。主イエスはユダが「わたしを裏切る者」だということをよく知っておられるのです。このユダが自分を引き渡そうとしていること、その接吻が愛や友情の印ではなく、毒を含んだものであることを知っておられるのです。しかしそれでも主イエスはユダを「友」と呼んでおられる。そこには、主イエスがユダに対して常に心を開いておられることが示されていると言えるでしょう。主イエスと私たちの関係が切れてしまうことが起るのは、私たちが主イエスに対して心を閉ざしてしまうからです。ユダも主イエスに対して心を閉ざして、裏切り、引き渡したのです。しかしそのような私たちに対して、主イエスは、決して心を閉ざしてはしまわれません。主イエスはいつも私たちを「友よ」と呼び、私たちが心を開くのを待っておられるのです。
しようとしていることをするがよい
その後の、「しようとしていることをするがよい」というお言葉の意味ははっきりしません。原文の文章がそもそも不完全で、はっきりしないのです。以前の口語訳聖書は、「なんのためにきたのか」と訳していました。いろいろに訳す可能性があるわけですが、主イエスはユダが何のために来たのかをよく知っておられ、そのことをご自分から進んで受けようとしておられるわけですから、「しようとしていることをするがよい」の方が文脈に合っていると言えると思います。つまり主イエスは、ユダに対して心を開いているのみでなく、彼がご自分に対してしようとしている悪事、裏切り、その結果としての逮捕と十字架の死の全てを、受け入れておられるのです。そのことがこのお言葉によって示されていることは確かでしょう。
剣を取る者は剣で滅びる
このようにして、ユダの手引きによって主イエスは逮捕されました。主イエスご自身は、全く何の抵抗もせずに、捕える者たちに身を委ねられたのです。しかし、イエスと一緒にいた者の一人が、剣を抜いて大祭司の手下に打ちかかり、片方の耳を切り落としたと51節に書かれています。イエスと一緒にいた者の一人とは、弟子の一人ということです。そしてヨハネによる福音書ではそれはシモン・ペトロだったと語られています。誰であるにせよ、このように、弟子の一人が主イエスの逮捕に抵抗をしたのです。すると主イエスはその弟子にこう言われました。52?54節です。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」。ここに、本日の説教の題にも掲げた大変有名な言葉、「剣を取る者は剣で滅びる」が語られています。これは、マタイ福音書のみに出て来る、特徴的な言葉です。このお言葉を、本日ご一緒によく味わっていきたいのです。
恐れによって剣を抜く
「剣を取る者は皆、剣で滅びる」とあります。しかし「皆」という言葉は原文にはありません。意味としては、それを補って訳すことができるでしょう。「およそ剣を取る者は剣で滅びる」という意味なのです。つまりこれは、大祭司の手下に打ちかかった弟子だけに語られた言葉ではなく、もっと一般的な真理を語った教えです。ですからそれは今日の私たちも真剣に聞くべきみ言葉なのです。それでは、私たちはこのみ言葉をどのように聞くべきなのでしょうか。ここにどのような真理が教えられているのでしょうか。私たちがすぐに思い浮かべることは、武力や暴力によっては何も解決しない、ますます問題をこじれさせ憎しみが憎しみを生む悪循環に陥るだけだ、ということです。このことは、今パレスチナで繰り広げられているテロとイスラエルによる攻撃の繰り返しを見ても明らかです。あのような血で血を洗う戦いを繰り返している人々は、どうして、「剣を取る者は剣で滅びる」という真理がわからないのだろうか、と私たちははがゆい思いをするのです。その他にも、世界にはいろいろな紛争、対立があり、それによって傷つき死んでいく人々が沢山あります。そういう現実を見るにつけ、私たちは、「剣を取る者は剣で滅びる」という主イエスのお言葉の真実を思うのです。けれども、それで私たちはこの主のお言葉を正しく理解していると言えるのでしょうか。そうではないと思います。剣を取る者の愚かさ、ということだけを見つめているのでは、このお言葉の本当の意味は見えて来ないのです。弟子の一人が剣を抜いて大祭司の手下に打ちかかった、その弟子の心を思い見なければなりません。彼はなぜそんなことをしたのでしょうか。大切な先生を守るためでしょうか。ここで主イエスが捕えられたら、主イエスによる救いの働きが頓挫してしまうからでしょうか。そうではないだろうと思います。彼は、こわかったのです。恐怖にかられたのです。それで、剣を抜いてやみくもに打ちかかって行ったのです。つまりこの弟子は、恐ろしさの余りパニックに陥っていたと言った方がよいでしょう。そこに、「剣を取る」ことの本質があるのです。剣を取って振り回すのは、恐ろしいからです。こわいからです。やらなければやられる、という思いに捕えられているからです。主イエスを捕えにやって来た人々が、「剣や棒を持って」来たことにもそういう思いが現れていると先程申しました。剣や棒で武装しているのは、彼らが恐れているからです。その恐れの原因にはうしろめたさもあります。うしろめたい、やましいことをする時に、人は恐れを覚えるのです。それで剣を取り、それを振り回すのです。この弟子も、立場は全く反対だけれども、彼らと同じことをしていると言えるでしょう。恐れによって剣を抜き、切りかかったのです。
ペンと剣
ところで、この「剣を取る」ということについて、私たちはさらに思いを深めなければならないと思います。最近読んだある本の中に、「ペンは剣よりも強い」ということが語られていました。この言葉を普通私たちは、暴力や武力によってではなく、言論によって戦い、事を実現していく、というよい意味に理解しています。しかしその本において著者が語っていたことは、マスコミが、不十分な取材と思い込みによってある人を悪者と決めつけ、自分は正義の味方であるかのようにその人を非難攻撃する、そういう無責任な記事によって当事者がいかに傷つけられたか、ということです。つまりペンによって、剣による以上の苦しみや被害を受けることがある、ということです。そういう意味ではペンも、つまり言葉も、「剣を取る」のと同じ働きをすることがあります。剣を振り回して、暴力や武力に訴えなければこの主イエスの教えに従っているということではないのです。私たちは、言葉という剣を取り、それを振り回して人を傷つけ、殺してしまうということを、けっこう日常的にしているのではないでしょうか。そういう意味では、この主イエスのお言葉は、「言葉で人を傷つける者はその言葉で滅びる」というふうにも受け止めるべきものです。そして剣にしても言葉にしても、それが人を傷つけるものになってしまうのは、それを用いる者が、恐怖に捕えられているからです。このままでは自分がやられてしまう、という恐れ、不安、あるいは相手に対する疑心暗鬼がある時に、剣も、言葉も、人を滅ぼすものになるのです。
主イエスの権威と服従
主イエスは弟子たちに、剣をさやに納めよとお命じになり、その理由を語られました。それが53節です。そこには、主イエスがもし父なる神様にお願いすれば、今すぐに、十二軍団以上の天使の大群を送ってもらい、捕えようとしている者たちや裏切り者を蹴散らすことができるのだ、ということが語られています。主イエスはそのような神の子であられるということですが、ここでそれが語られた目的は、恐怖のあまり剣を取ろうとする弟子たちに、「こわがる必要はない」ということを示すためです。恐怖によってパニックに陥り、剣を振り回している弟子たちに、主イエスはご自分の大いなる力と権威をお示しになるのです。そしてその上で、「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」と言われます。「必ずこうなると書かれている聖書の言葉」、それは神様が既に旧約聖書においてお示しになった救いのご計画、ご意志です。主イエスが今捕えられ、十字架にかけられていくのは、この神様のご意志、ご計画によることなのです。主イエスは十二軍団以上の天使の大軍を呼ぶ権威と力を持った方だけれども、父なる神様の御心に服従するために、今こうして捕えられようとしておられるのです。このことが分かることによって、私たちは「剣を取る」ことの原因となっている恐れ、不安から解放されるのです。「剣を取る者は剣で滅びる」という主イエスのお言葉の本当の意味はここにこそあります。つまり主イエスはここで、剣を取ること、暴力や武力に訴えることの愚かさを語っておられるだけではないのです。そういうことは愚かなことだと知ったからそれで、剣を取らずに生きる者になれるわけではないのです。大事なことは、主イエスの神の子としての力と権威を知ることです。そしてその主イエスが、父なる神様の御心に従って、十字架の苦しみと死を引き受けて下さったことを知ることです。それは他でもない、私たちの罪の赦しのためでした。神の独り子であられる主イエスの十字架の死によって、私たちは救われたのです。この主イエスの救いの恵みの中で生きる時に、私たちは「剣を取る」生き方とは違う、まことの平和への道を歩むことができるようになるのです。弟子たちは、主イエスが神の子としての権威と力を持った方であり、その主イエスが父なる神様の御心に従って苦しみへの道を歩んでおられるのだということが分かっていませんでした。それは彼らが、先週のあのゲツセマネにおける主イエスの祈りの戦いにおいて、共に目を覚まして祈っていることができなかったからです。主イエスと共に、「わたしの願いではなく、あなたの御心が行なわれますように」と祈ることができなかったからです。そのために彼らは、主イエスが罪人たちの手に引き渡されるいざという時が来たら、パニックに陥ったのです。恐怖に捕えられてしまったのです。そして、剣を抜いて振り回したかと思えば、最後には皆、主イエスを見捨てて逃げてしまったのです。
真の平和への道
「剣を取る者は剣で滅びる」。この言葉を私たちは、主イエス・キリストを神の子としての権威を持っておられる方と信じる信仰としっかり結びつけて読まなければなりません。そうでないと、この言葉は大変無責任な、情緒的な、絵空事に終わってしまうのです。クリスチャンの中には時々、軍隊、軍事力は人を殺すためのものだからいけない、そういうものを持つべきではない、という単純なことを言う人がいます。軍事力によって国を守ることは、「剣を取る者は剣で滅びる」というみ言葉によれば間違っている、だから自衛隊もなくし、日米安保も破棄して、アメリカ軍にも出て行ってもらうべきだ、と言う人もいます。そうすれば日本は平和な国になる、というのです。それは一つの崇高な主張だと思います。しかしそれを本当に主張するならば、それに合わせて私たちは覚悟をしなければならないでしょう。それは、例えば北朝鮮がミサイルを打ち込んで来ても、それによって多くの人々が死ぬようなことがあっても、一切報復をしないで、それを甘んじて受けるという覚悟です。剣を取ることをやめるというのはそういうことであって、敵が攻めて来ることがあっても、一切抵抗せず、なすがままにさせるということなのです。主イエスがここでしておられるのはそういうことです。「悪人に手向かうな。右の頬を打たれたら左も向けよ」という教えを、主イエスはまさにそのままに実行しておられるのです。父なる神様の御心に従って、苦しみと、十字架の死への道を歩み通す、というのはそういうことです。この主イエスの歩みに従って、私たちの国も、「我々の願いではなく、あなたの御心がなりますように」と祈りつつ、苦しみと死を、神様の御心として受け入れていく。軍事力を放棄するとは、そういう覚悟を国民の多数が持つということでしょう。そこまで言わないで、ただ軍事力はいけない、と言っているのでは、無責任な絵空事にしかならないのです。私たちキリスト者は、「剣を取る者は剣で滅びる」という主イエスのお言葉の本当の意味をしっかりとわきまえ、主イエスこそ神の子、この世の全てを支配する権威を持っておられる方であることを信じ、その主イエスが私たちの救いのために十字架の苦しみと死への道を歩んで下さったことに感謝し、この主イエスを信じる信仰を伝え、広めていくことを第一の課題として歩むべきです。この信仰によってこそ私たちは、剣を取ることの原因である恐怖や不安から解放されるのです。そして、主イエスの父である神様のご支配を信じ、主イエスがその御心に従って苦しみの道を歩まれたように、私たちも、神様が与えて下さる道を、たとえそれが大きな苦しみを伴うものであっても、それに従って生きる者であることができるのです。そこにこそ、本当の平和への道が開かれていくのです。私たちの国が、この信仰によって、一切の剣を放棄して、それによって起るかもしれない一切の苦しみをも、主のみ心として受け入れる覚悟をすることができるならば、まさにこの世界に本当の平和を実現していくためのすばらしい貢献をすることができるでしょう。
息吹−枯れた骨の復活
そして最後にもう一つのことを申します。「剣を取る者は剣で滅びる」と語り、自らそれを実行して十字架の死への道を歩み通された主イエスを救い主として信じることは、その主イエスを死者の中から復活させて下さった父なる神様を信じることと切り離すことはできません。剣を取ることなく、十字架の死へと歩み通した主イエスに、神様がその死に打ち勝つ新しい命を与えて下さったことを信じるがゆえに、私たちも、剣を取る生き方とは違う、苦しみを負って主イエスに従っていく道を歩むことができるのです。主イエスの父であられる神様が、私たちにも復活の命を与えて下さる、その信仰こそが、「剣を取る者は剣で滅びる」というみ言葉に生きる生活を生み出すのです。そしてそれこそ、本日行なわれる伝道のためのコラボレーション「息吹?枯れた骨の復活」のテーマでもあります。枯れた骨、それは死んでしまった者たちです。エゼキエル書の言葉に即して正確に言えば、殺された者たちです。彼らが生き返る望みはもはやない、絶望が支配している世界、それが、枯れた骨の満ちた谷です。しかしそこに、主なる神の息吹、聖霊の風が吹き来る時に、それらの枯れた骨が復活する、新しい生命が与えられ、新しい群れが起されていくのです。私たちはこの、神の息吹、聖霊による復活の希望を与えられています。それゆえに、その希望に支えられて、「剣を取る者は剣で滅びる」というみ言葉に生きることができるのです。
牧師 藤 掛 順 一
[2003年6月22日]
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