富山鹿島町教会

礼拝説教

「復活」
詩編 第16編1〜11節
マタイによる福音書 第28章1〜15節

復活
 礼拝においてマタイによる福音書を読み進めてまいりまして、いよいよ最後の28章に入ります。主イエスの復活を語っている章です。この章をご一緒に読み、マタイによる福音書からの説教を終えると同時に、私はこの教会を去ることになりました。マタイを読み始めた時にはそのようなことは全く考えていませんでしたが、主の不思議な導きを感じます。
 この28章は主イエスの復活を語っていると申しました。しかし、これはどの福音書にも共通することですが、主イエスが生き返った、その遺体が息を吹き返し、むくむくと起き上がった、ということはどこにも語られてはいません。語られているのは、主イエスの遺体を納め、大きな石で蓋をされ、封印がなされ、番兵まで置かれていた墓が、からっぽだったということ、それから、生きておられる主イエスが婦人たちや弟子たちに出会って下さったことです。聖書が語る主イエスの復活は、勿論肉体をもっての復活です。主イエスの思い出が弟子たちの心に残り続けたとか、魂だけが戻ってきたというような話ではありません。しかし聖書は、主イエスの肉体がどのように生き返ったかということには興味を持っていないのです。復活の本質をそういうところには見ていないのです。主イエスは墓の中にはもうおられない、生きた方として私たちに出会って下さる、それが復活です。

墓を見つめる女たち
 厳重に封印され見張られていた墓が空だったことを最初に見たのは、何人かの女性たちでした。1節には、「マグダラのマリアともう一人のマリア」とあります。この二人の女性が、週の初めの日、つまり、安息日である土曜日が終わって新しい週の最初の日である日曜日の明け方に、主イエスの墓に行ったのです。主イエスは金曜日の午後に十字架の上で死なれ、その日没からは安息日が始まるので、その前に急いで十字架から取り下ろされて葬られました。その日没から土曜日の日没までが安息日で、その間には何もすることができません。安息日が終わって、そして夜が明けるのを待ちかねたように、この女性たちは主イエスの墓に行ったのです。彼女らは何をしに行ったのでしょうか。マルコ福音書ではここは三人の女性たちになっていますが、彼女たちは主イエスの遺体に香料を塗るために行ったのです。しかしマタイにはそういう記述はありません。1節の終わりにあるように、この二人の女性は、「墓を見に行った」のです。しかもこの「見る」という言葉は、「じっと見つめる」というような、強い言葉です。日本語には「行ってみる」という言い方がありますが、そこには「見る」という意味はほとんどありません。それとは違ってここは、「墓を見つめるために行った」と言われているのです。遺体に香料を塗って丁寧に埋葬をし直すため、というようなことではなく、主イエスの葬られた墓を見つめるために彼女らは出かけた、そこに、マタイの記述の特徴があります。そしてそのことは実は既に27章61節にも語られていたのです。ここにも、「マグダラのマリアともう一人のマリア」が登場します。彼女らは、主イエスの遺体を引き取って自分の新しい墓に埋葬したアリマタヤ出身のヨセフについていって、遺体が墓に納められ、大きな石で蓋がなされ、皆が立ち去った後も、「墓の方を向いて座っていた」のです。つまりここでも彼女らは、主イエスの墓をじっと見つめていたのです。何をするでもなく、墓をじっと見つめて座っている二人の女性たち。その姿は異様です。愛する者の死の悲しみによって心が砕けてしまった、日常の生活の何にも手がつかなくなってしまった、そういう姿であると言えるでしょう。この「もう一人のマリア」は主イエスの母マリアではないか、という説があります。愛する息子の死、しかも非業の死を嘆き悲しむ母親の姿がここにあると言うこともできるのです。

あの方は、ここにはおられない
 深い嘆き悲しみの内にただ墓を見つめて座っている、この朝も、そのためにのみここへやって来たこの女性たちに、主イエスの墓が空であるという事実が告げられます。大きな地震が起ったとあり、それは天使が、墓を塞いでいる石をわきへ転がしたことによるのだとありますが、しかしこのことによって主イエスが復活したのではありません。天使が石をわきへ転がしてくれたから、復活した主イエスが墓から出て来れたのではないのです。この出来事は、彼女たちに、主イエスの墓が空であることを示すためのものです。主イエスご自身は既に復活してここにはおられないのです。天使が彼女たちに告げたのもそのことでした。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない」。あの方は、主イエスは、ここには、この墓の中にはもうおられない、それが、復活ということです。主イエスが葬られた墓を見つめて嘆き悲しんでいる、それは主イエスに対する深い愛の現れではあるけれども、その愛が深ければ深いほど、絶望も大きい、それがあの女性たちの姿です。主イエスの復活は、その絶望はお門違いだと告げるのです。主イエスの墓を見つめている、それは主イエスを、もう死んで過ぎ去った過去の思い出の中の存在、歴史上の人物としてしまっていることです。すばらしい人だったけれども、結局死の力に捕えられてしまい、そこから逃れることはできなかった、主イエスをそういう方として見つめているのです。しかしそれは見つめる所が違う、あなたがたが見つめるべきものは墓ではない、そこには主イエスはおられないのだ、と天使は告げたのです。「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。天使はそう言って彼女たちに、空の墓を見せます。彼女らは、「遺体の置いてあった場所」、しかし今は主イエスのおられないその場所を見るのです。そのようにして彼女らは、確かに死んで葬られた主イエスが、もう墓の中にはおられないことを知らされたのです。

復活させられた
 主イエスはもう墓の中には、死者の中にはおられない。「復活なさったのだ」と天使は告げます。この言葉は正確に訳すならば、「復活させられたのだ」という受け身の形です。聖書は主イエスの復活を、主イエスが自分の力で復活してきた、とは語りません。復活は、父なる神様のみ業なのです。父なる神様が、主イエスを復活させたのです。復活は主イエスのご生涯における最大の奇跡であると言えますが、それは主イエスがなさったことではなくて、父なる神様のみ業です。復活は主イエスの偉大な力を示しているのではありません。復活において、主イエスは、父なる神様の救いの恵みを受けておられるのです。それゆえに私たちは、同じ恵みが、復活の命が、私たちにも与えられるという希望を抱くことができるのです。主イエスの死は、私たちの罪を背負っての、私たちの身代わりとしての死でした。その主イエスを復活させて下さったことによって、父なる神様は、私たちの罪が赦され、新しい命が与えられる恵みを示して下さったのです。主イエスの復活は、私たちの復活の先駈けなのです。

恐れ
 主イエスはもう墓の中にはおられない、復活して、生きておられる。そのことを告げ示されることは、恐ろしいことです。祭司長たちに命じられて墓の蕃をしていた番兵たちは、「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」とあります。彼らはまさに恐怖に捕えられているのです。あの女性たちも恐れました。しかし彼女たちの抱いた恐れは、恐怖とは違うものです。それは、生けるまことの神が今ここに働いておられ、主イエスが生きておられる、ということを示される恐れです。主イエスが墓の中におられると思っている間は、そこには悲しみや嘆きはあっても、恐れはありません。しかし主イエスが、墓の中に死んで横たわり、もう過去の存在となっていると思っていたのが、そうではない、今生きて私たちと出会い、私たちに働きかける方なのだということを示されるのは、喜ばしいことと言うよりもむしろ恐ろしいことです。死んで墓に横たわっている主イエスは、私たちに語りかけたり問いかけては来ません。そういう主イエスを相手にしている限り、私たちは自分が変わる必要はないのです。主イエスを、お守りのように自分の懐に入れておいて、必要な時だけ出して来ることができるのです。しかし復活された主イエスとの関わりにおいてはそうはいきません。そこで私たちは、生きている方と出会い、その出会いによって変えられなければならないのです。復活の主イエスとの出会いとはそういうことです。その恐れが、私たちのこの礼拝にもなければならないのです。そういう意味で礼拝は、「楽しい集会」ではありません。そこには恐れが伴うのです。

恐れるな
 天使は彼女たちに「恐れることはない」と語りかけています。ここも直訳すると「あなたがたは、恐れるな」となります。「あなたがたは」という言葉が原文にはあるのです。それは一つには、番兵たちとは違ってあなたがたは、ということでしょう。番兵たちは、地震が起こり墓をふさいでいた石が転がされたことで、幽霊に遭うような恐怖を感じたのです。あなたがたはそのように恐れることはない、というのが一つの意味です。しかしもっと大事な意味をこの「あなたがたは」は持っています。それは、神様が彼女らに「あなたがた」と語りかけておられる、神様が彼女らをご自分の相手として、交わりを持とうとしておられるということです。神様が私たちに、「あなた、あなたがた」と語り掛け、そして「恐れるな」と言って下さるのです。復活して生きておられる主イエスと出会うことはある意味で恐ろしいことだと申しました。その恐れは、神様ご自身が「あなたがたは恐れるな」と語り掛けて下さることによってこそ乗り越えられるのです。なぜなら神様はそこで、喜ばしい知らせを告げて下さるからです。それがここでは主イエスの復活の知らせです。それがどのような意味で喜ばしい知らせなのかが、7節以下にさらに語られていくのです。

弟子たちに
 天使は彼女らに、弟子たちに伝えるべき言葉を託します。「急いで行って弟子たちにこう告げなさい」。その弟子たちとはしかし誰のことでしょうか。主イエスには十二人の弟子たちがいました。しかし彼らの中で、ユダは裏切り、絶望の内に自殺してしまいました。ペトロは主イエスを三度、呪いの言葉さえ口にして「そんな人は知らない」と宣言しました。そして他の弟子たちも皆、逃げ去ってしまったのです。主イエスの十字架の死と埋葬を見届けたのは彼らではなく、女性たちでした。つまり、今やもう主イエスの弟子などと言える人々はどこにもいないのです。しかし天使は「弟子たちに」と言います。ここも直訳するなら「彼の弟子たち」となっています。彼の、つまり主イエスの弟子たちと強調して言われているのです。神様はなお彼らを、主イエスの弟子と呼んでいて下さる。そこに、弟子たちに告げられるべき喜ばしい知らせ、罪の赦しの宣言があります。そのことはさらに、彼女たちに託された言葉にも示されています。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」。これが、彼女らに託された弟子たちへの言葉でした。主イエスは復活して、(ちなみにここも、正確には「復活させられて」と受け身の形になっています)、弟子たちより先にガリラヤへ行かれる、そこで復活された主イエスに会うことができる。ガリラヤとは、弟子たちの故郷であり、彼らが主イエスと出会い、弟子になった所です。つまり彼らの信仰の原点です。復活された主イエスがそこで彼らと再び出会って下さる、原点からもう一度やり直して下さる、彼らを主イエスの弟子として、信仰者としてもう一度最初から立て直して下さるのです。そのガリラヤへ、主イエスが彼らより先に行っておられることにも、大きな恵みが示されています。弟子たちはガリラヤから主イエスに従ってこのユダヤのエルサレムまで来ました。しかしそこで結局主イエスに従い通すことができず、挫折してしまったのです。信仰者として歩み出したけれども、その歩みを全うすることができなかったのです。そのように挫折した彼らが、すごすごと帰っていく先がガリラヤです。「故郷に錦を飾る」というのとは正反対の、挫折して夢も希望も失い、ぼろぼろになった姿で帰っていくのです。そのガリラヤに、復活された主イエスが先に行っておられる、そこで彼らを待っておられ、迎えて下さる、その主イエスによって彼らは再び、弟子として、信仰者として立てられるのです。それはもはや自分の力や信仰心によってではありません。主イエスにどこまでも従っていく、という彼らの決意や自負はもう打ち砕かれたのです。そういう人間の思いや力ではなく、私たちの弱さや罪の全てを背負って十字架にかかって死んで下さった主イエスによって、その主イエスを復活させて下さった父なる神の恵みによって、私たちは弟子として、信仰者として立つことができるのです。

恐れながらも大いに喜び
 「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」と8節にあります。「恐れながらも大いに喜び」、これが私たちの信仰の基本的な姿です。生けるまことの神様の前に立つことは、恐ろしいことです。決して気楽なことではありません。礼拝は、お気楽なものではない、恐れを伴うのです。しかしそこには、恐れと共に、主の恵みのみ言葉による大きな喜びがあります。その喜びは、他では味わうことができない、神様からの「あなたがたは恐れるな」という語り掛けによってのみ与えられる喜びなのです。

復活の主イエスとの出会い
女性たちは、この喜ばしい知らせを携えて、それを伝えるために、墓を後にして走って行きました。するとその途上で、主イエスが行く手に立っておられたのです。彼女らが復活された主イエスに出会ったのはこのようにしてでした。主イエスは復活された、という福音を告げ知らされ、大きな喜びの内にそれを語り伝えるために走り出していく、墓に身を向け、墓を見つめていた者が、主の復活を告げる言葉によって向きを変えて、墓から兄弟たちのもとへと急いでいく、その歩みの中でこそ、復活された主イエスとの出会いが与えられるのです。私たちは、復活された主イエスと出会うことによって初めて復活を信じるようになるのではありません。「主イエスは復活され、生きておられる」と告げる言葉を先ず与えられるのです。この女性たちも、実際に見たのは、からっぽの墓のみです。主イエスの復活は、天使の告げた言葉によってのみ示されたのです。その告げられたみ言葉を受け止め、それに従って彼女たちは走り出しました。そうやって走って行く途中で、主イエスが彼女たちに出会って下さったのです。私たちが、復活された主イエスと出会うのもこのようにしてです。納得できたら信じようと思っている間は、主イエスの復活を信じることはできません。まずみ言葉を信じて受け入れるのです。そうやって歩み出す中で、生きておられる主イエスとの出会いも与えられていき、復活を本当に納得することができるようになっていくのです。

喜びなさい
 彼女らに出会って下さった主イエスは、「おはよう」と声をかけられました。「おはよう」と訳されている言葉は、言葉の意味としては「喜べ」ということです。その言葉が、通常の挨拶の言葉として用いられていました。それゆえに、今は朝ですから「おはよう」と訳したのです。しかしこの言葉には、「おはよう」というだけでは表し得ない深い意味が込められていると言うべきでしょう。「喜べ」というもともとの意味がここでは生きているのです。復活された主イエスが、私たちに出会って、「喜びなさい」と語り掛けて下さるのです。主イエスはさらに、天使たちが彼女らに告げた言葉をもう一度与えて下さいます。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。天使の告げた「恐れるな」を主イエスご自身がもう一度与えて下さるのです。その後に語られている弟子たちへの言葉もほぼ天使が告げたものと同じです。しかし一つだけ、大きな違いがあります。それは主イエスが弟子たちのことを、「わたしの兄弟たち」と呼んでおられることです。天使は、「彼の弟子たち」と言っていました。そこにも、神様が、つまずき裏切った彼らをなお主イエスの弟子と呼んで下さっている恵みが示されていました。しかし主イエスはさらに彼らを「わたしの兄弟たち」と呼んで下さるのです。それは私たちに対しても与えられている呼び掛けです。私たちも、あの弟子たちと同じように、主イエスを裏切り、信仰において挫折し、とうてい弟子と呼ばれることなどできない者です。いやむしろ先週もその前の週も見つめたように、主イエスを十字架につけて苦しめ、「それでも神の子か」と嘲る者たちの中に私たちの姿があるのです。その私たちを、主イエスは「わたしの兄弟」と呼んで下さるのです。私たちの罪のゆえに十字架にかかり、そして復活させられた主イエスが、その罪を赦して下さり、父なる神様のもとでの兄弟、主イエスを頭とする神様の家族の一員に招き入れて下さるのです。この恵みによって「喜びなさい」と語り掛けていて下さるのです。
 この喜びは、他では味わうことができない、主イエスのみが与えて下さるものです。私たちは人間どうしの間でも、様々な喜びを与え合います。「喜びなさい」と語り合うことがあります。けれどもそのように私たちが与え合う喜び、私たちが「喜べ」と言う喜びは、罪と汚れに満ちたものです。たとえばユダは、主イエスを裏切って引き渡す時に、「先生、こんばんは」と言って接吻したと26章49節にあります。この「こんばんは」が、同じ「喜べ」という言葉なのです。この場合は夜だから「こんばんは」と訳したのです。あるいは27章29節で、総督の兵士たちが主イエスを王に見立ててその前にひざまづき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って侮辱したとあります。この「万歳」と訳されているのも「喜べ」という言葉です。私たち人間は、「喜べ」と言いつつ相手を裏切ったり、侮辱して苦しめたりするのです。しかし主イエス・キリストは、そのような私たちの罪による苦しみと侮辱と死を全て引き受け、背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。それによって私たちの罪を赦して下さったのです。その主イエスが復活して、今私たちに「喜びなさい」と語り掛けておられる。そこには、人間の与える喜びとは違う、本当の喜びがあるのです。

礼拝と伝道
 「婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」とあります。「ひれ伏す」という言葉は、後に「礼拝する」という意味になっていきました。この女性たちの姿に、私たちの礼拝のひな形があります。「足を抱く」という言葉は、「足にしっかりとすがりつく」ということです。復活して生きて私たちと出会って下さり、「喜びなさい」と語り掛けて下さる主イエスの前にひれ伏し、その足にしっかりとすがりつく、それが私たちの礼拝なのです。その礼拝において、喜びのみ言葉を与えられた彼女たちは、礼拝から押し出されて、その喜びの知らせを伝えるために走っていきます。礼拝において、復活された主イエスと出会い、「喜びなさい」と語り掛けられた私たちは、その喜びを携えて、それを伝えるために走るのです。それが伝道です。それは、「それ走れ」とお尻をたたかれて仕方なく、あえぎながら走っていくようなことではありません。私たちはもう、墓を見つめて泣いている必要はない、死が全てのものの最終的な支配者ではない、主イエス・キリストにおける神様の恵みが、死の力を打ち破り、新しい命を与えて下さる、罪の中で悲しみ苦しんでいる私たちを、復活して生きておられる主イエスが、「わたしの兄弟」と呼び、「喜びなさい」、「わたしの恵みのゆえに、あなたがたは喜ぶことができる」と告げて下さっている、その喜びに生かされて私たちは走るのです。走り方は人によって様々です。若い人とお年寄りでは、男性と女性では、健康な人と病気や障害を持っている人では、当然違った走り方になるのです。しかし私たちがどのような状況の中にあろうとも、復活された主イエスは生きておられ、私たちに真実の喜びを与えて生かして下さるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年8月17日]

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