礼拝説教「主の祈りを祈りつつ」 詩編 第34編1〜23節マタイによる福音書 第6章5〜15節 9月の始めから、マタイによる福音書第6章における「主の祈り」を礼拝において読んでまいりました。主の祈りはルカによる福音書の11章にもありますが、私たちが日頃祈っている形のもとになっているのはマタイ福音書のものです。前半三つ後半三つの計六つの祈りによる形はマタイのものなのです。その六つの祈りを一つずつ取り上げて読んでまいりまして、先週、第六の祈りが終わりました。六つの祈り一つ一つに込められている広く深い世界を見てきたのです。本日は、もう一度視野を広げて、主の祈りの全体を見つめつつ、私たちにこの祈りが主イエスによって与えられていることの意味、恵みを味わいたいと思うのです。 主の祈りは、主イエスのいわゆる「山上の説教」の中にあります。マタイ福音書の5〜7章が、主イエスが山に登り、そこで語られたとされている「山上の説教」です。この山上の説教は、主イエスのいろいろな教えをただ集めて並べたというものではありません。これは非常に周到に考えられた構造を持った説教となっているのです。そのことについては以前にも申しました。その時に申しましたように、これについては「聖書を学び祈る会」においてお配りしたプリントを見ていただきたいと思います。言葉だけで説明するのはなかなか難しいのですが、要するに、山上の説教は、その最初の部分と最後の部分が対応しており、それが一番外側の枠を作っている、そして最初の部分の次の部分と、最後の部分の前の部分とがやはり対応している、そういうふうに、外側から幾重にも枠が作られているのです。よく「たまねぎ」に喩えられます。そしてそのたまねぎの皮を外側からむいていって、一番中心の芯の部分にあるのが、主の祈りなのです。つまり主の祈りは、山上の説教の中心に位置づけられているということです。この主の祈りを囲んで、様々な教えが配置されているのです。そういう構造を見つめていくならば、主の祈りを主の祈りとしてだけ読むのでは不十分だということになります。主の祈りは、山上の説教全体の中に位置づけて読まれなければならない、あるいは、山上の説教の他の様々な教えとのつながりの中で読まれなければならないのです。逆に言えば、山上の説教の様々な教えは、みんな、主の祈りへと向けられているのです。 私たちがこれまでに読んできた部分と、主の祈りとの関わりについて、少し振り返ってみたいと思います。山上の説教は、「幸いの教え」から始まりました。主イエスが「このような人は幸いだ」と告げて下さったのです。この「幸いの宣言」から山上の説教が始まっていることは忘れてはならないことです。そしてその幸いとは、私たちが普通の感覚で言うところの「幸福」とは違うものです。「心の貧しい人々は幸いである」という最初の教えをとりあげるならば、「心の貧しい」とは、自分の中に、自分の心に、寄り頼むに足る、誇るに足る何物をも持っていない、ということです。自分の内に様々な意味での力や財産を持ち、それを用いてよい実りや成果をあげることができ、それに満足することができ、喜ぶことができることを私たちは幸福と呼び、それができる人を幸いな人と思うわけですが、主イエスが「幸いである」と宣言されたのは、そういうものを全く持たない人です。その人は何故幸いか。「天の国はその人たちのものである」からです。天の国とは神様のご支配です。神様が支配して下さる、その全能の力によって養い、支え、守り、祝福して下さる、自分の中にある何かではなく、この神様の恵みのご支配にこそ寄り頼んでいく、そこに本当の幸いがあると主イエスは宣言して下さったのです。それは、主の祈りを祈りつつ生きる者の幸いです。神様の御名をあがめ、御国、つまりご支配を求め、御心が行われることを求める、そして神様が自分に必要な糧を与えて下さり、私たちの罪を赦して下さり、誘惑から、悪い者の力から守って下さることを祈り求めていく、そのように主の祈りを祈る者の幸いが最初に宣言されていたのです。別の言い方をすれば、私たちがこれらの幸いに生きるために、主イエスは主の祈りを教えて下さったのです。 幸いの教えの次には、「あなたがたは地の塩、世の光である」という教えがありました。それは自分に与えられている幸い、恵みを自分だけのものにしておくのではなく、それを世の人々にきちんと示せということです。それに続いて、「わたしは律法や預言者を、つまり旧約聖書の教えを廃止するために来たのではなく、それを完成するために来たのだ」と語られていきます。そして「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われています。神様の恵みによって生きる幸いな者は、義、つまり正しい、よい行いに励むのです。律法学者やファリサイ派の人々は、律法の掟を厳格に守ることによって、義なる者、正しい者になり、それによって神様の祝福を得ようとしていました。それは、自分の中に正しさという富を蓄え、その豊かさに寄り頼んで生きようという思いです。そうではなくて、全く無一物の貧しい者として神様のご支配、その恵みと導きに寄り頼んで生きる幸いを主イエスはお示しになりました。その幸いに生きる者は、実は律法に縛られている人以上に、義を行うことができるのです。よい行いができるのです。そのことが、5章21節以下に、「律法にはこう教えられている、しかしわたしは言っておく」という形で、様々に語られていきました。その最後にあるのが、5章43節以下の「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」という教えです。律法が教えているのは、「隣人を愛しなさい」ということです。この教えを拒否したり否定する人はいないでしょう。「隣人愛」は全ての人が認める普遍的な教えです。しかし私たちは、その隣人の範囲を定めることによって、その外にいる人を敵とし、憎んでいく傾向を持っています。隣人を愛することが同時に敵を憎むことになるのです。主イエスはそれに対して、「敵を愛せよ」と言われます。それは、私たちが思っている隣人の範囲をどこまでも広げさせようという教えです。隣人を愛することは、敵をも愛することによって初めて本物になるのです。それは、主の祈りの中の、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」という祈りとつながります。敵を愛するとは、赦すことに他なりません。自分に対して罪を犯す者、即ち敵を赦すこと、それが敵を愛することなのです。神様の恵み、それは私たちの罪を赦して下さる天の父としての恵みです、その恵みによって生かされる幸いを与えられている者は、隣人のみでなく敵をも愛し、敵をも隣人としていく、そういうより優る義に生きることができる、そのために、主の祈りが教えられているのです。 律法との対照の中で、主イエスの教えるより優る義に生きることが教えられた後、6章に入ると、偽善への警告が語られていきます。主イエスの弟子たち、信仰者たちも、律法学者やファリサイ派の人々以上のよい行いに生きる、そのよい行いがしかし偽善に陥ることを戒めているのです。偽善とは、「見てもらおうとして、人の前で」よい行いをすることです。つまり、自分のよい行いを人に見てもらおうとする、人から誉められたり、評価されることを求めることです。自分の正しさに寄り頼んでいく所には必ずそういうことが起こります。何故なら自分の正しさというのは人との比較によって確認されるからです。あの人より自分の方が正しい、ちゃんとしている、と思うと安心するのです。主イエスはそのように人の目を気にすることを偽善と呼び、よいことをする時にはそれを人目につかせるなとおっしゃいます。それは、「隠れたことを見ておられる父」の前でそれをするためです。つまり目を人から父なる神様に向けよということです。そしてそのことの中で、本日朗読された祈りについての教えが語られていくのです。祈りこそ、天の父なる神様に目を向け、神様の前で生きることです。ところがその祈りも、会堂や大通りの角に立って、つまり人に見せようとしてする者たちがいる。そういう偽善者の心は、神様に向かってはおらず、人にしか向いていないのです。そうではなくてあなたがたは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉じて、隠れたところにおられる父に祈れと主イエスは言われます。それは、あなたがたの心を本当に天の父なる神様に向けなさい、ということです。そういう祈りの中でしないと、それ自体はよいことである行いが偽善に陥っていくのです。ですから、信仰者が神様の恵みの中でよい行いに励んでいく、それが本当に「幸い」の証となっていくためには、祈りが不可欠なのです。主の祈りはそういう流れの中で教えられています。主の祈りにおいて、「天におられるわたしたちの父よ」と神様に語りかけ、神様との交わりに生きることの中でこそ、私たちの行いは自分の業を人に誇るような偽善から解放されて、地の塩、世の光としての働きとなるのです。 もう一つ、祈りについて教えられていることがあります。それは、異邦人のようにくどくどと祈るな、ということです。それは祈りの長さの問題ではなく、どのような神様に祈るのかということから来る違いです。主イエスは、あなたがたは天の父なる神様に祈るのだとおっしゃいました。その天の父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだと言われました。私たちは、いっしょうけんめい言葉を尽して願わなければ聞いてくれないような、疎遠な神に祈るのではないのです。私たちが祈る相手は天の父です。私たちを愛していて下さり、願わなくても、私たちに本当に必要なものを、必要な時に与えて下さる方です。私たちはこの天の父なる神様の子供とされているのです。そこに神様の恵みがあります。その恵みは主イエス・キリストによって与えられています。主イエスこそ、神様の独り子です。神様に向かって「天の父よ」と祈ることができるのは、本当は主イエスただ一人なのです。しかしその主イエスが、私たちに、「あなたがたもこう祈りなさい」と言って、主の祈りを教えて下さいました。そこにおいて「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけることを命じ、また許して下さいました。この主イエスの恵みによって私たちは、天の父なる神様の子として生きることができるようになったのです。その恵みの印として、またその恵みの中に私たちが生き続けるために与えられたのが主の祈りです。「天にましますわれらの父よ」と呼びかけるこの祈りを祈りつつ歩むことによって私たちは、神様が主イエスによって私たちを子として下さった、その恵みを確認していくのです。そしてそれこそが、私たちに与えられている幸いです。心の貧しい人々が幸いであるのは、自分の内に何の豊かさも正しさも立派さも持っていない者が、主イエス・キリストにおける神様の恵みによって、神の子とされ、その養いと導きの下で生きることを許されているからです。それは、主の祈りを祈りつつ生きることができる幸いなのです。 このように、主の祈りは山上の説教においてこれまで語られてきたことの一つ一つと密接に結び合っており、また様々な教えが主の祈りへと集約していくという構造があります。それはこの後の、山上の説教後半の部分においても同じです。そこにおける教えも、主の祈りと密接に結び合っており、言わば主の祈りから導き出される教えなのです。主の祈りはそのように山上の説教全体の中心なのです。このことは、私たちの信仰においてどのような意味を持つのでしょうか。 第一にそれは、主の祈りを祈ることが、私たちの信仰の中心であるということを意味しています。主イエス・キリストを信じる信仰に生きるとは、主の祈りを祈りつつ生きることです。主の祈りは私たちの信仰あるいは信仰生活の、一つの表れであったり、一環であったりするのではありません。主の祈りを祈ることこそが信仰であり信仰生活です。信仰生活の中に祈りという一部門があり、その第一項目として主の祈りがあるのではないのです。主の祈りは山上の説教全体の中心であり土台であるように、私たちの信仰生活の中心であり土台なのです。それでは家で主の祈りさえしていれば、教会の礼拝に来なくてもいいのか、なんていう屁理屈は成り立ちません。主の祈りを祈ることは、その言葉をただ唱えることとは違います。私たちが、主イエス・キリストの恵みによって私たちの天の父となって下さった神様に、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけ、「御名があがめられますように」と本当に祈るならば、神様を共にほめたたえ、そのみ言葉を聞く礼拝に集わずにはおれなくなるのです。そのように、主の祈りは、それが本当に祈られていくならば、そこに祈りを超えた信仰の生活を生み出していきます。山上の説教の中心に主の祈りがあることの第二の意味はここにあります。山上の説教は、私たちの信仰者としての生活、生き方を非常に具体的に教えています。先程の、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」という教えもそうです。「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」という教えもそうです。これらは非常に具体的な生活上の教えであって、私たちは日々このような事態に直面しながら生きているのです。そこにおいて山上の説教は具体的に私たちの生き方を教えます。そういう生き方、生活の背後に、主の祈りがあるのです。主の祈りを祈りつつ生きるところに、ここに教えられているような生き方、生活が生み出されてくるのです。それは決して「こうしなければならない」という掟や、道徳律を守るということではありません。私たちの天の父となって下さった神様に呼びかけ、その神様の御名を崇め、御国が来るように、御心が行われるように祈っていくことの中から、そのような生き方、生活が生まれてくるのです。主の祈りを祈りつつ生きる者の生き方がここに教えられています。またここに教えられているように生きることは、主の祈りを祈ることなしにはあり得ないのです。主の祈りなしにこれらのことを掟として、道徳として実行しようとしても、そんなこととてもできない、と思って挫折していくだけでしょう。主の祈りにおける、天の父なる神様との交わり、神様の子として、神様に必要な糧を与えていただき、罪を赦していただき、誘惑から守っていただく、という関係なしには山上の説教の教えは本当に私たちの生活となることはないのです。 従って主の祈りは、主イエス・キリストの十字架と復活の恵みによって罪を赦されて新しくされ、生かされた私たちを、信仰の生活へと送り出していく、その橋渡しをします。主の祈りを祈ることこそが信仰であり、それを祈る者は信仰の生活へと遣わされていくのです。祈りと生活の結合がここにあります。信仰と生活と言ってもよいでしょう。礼拝を守り、聖書を読み、祈っているその信仰と、この世の具体的な現実の中でどう生きるかという生活とのギャップに悩むことがあります。そこにおいて私たちが先ずなすべきことは、主の祈りを祈ることなのです。「御名が崇められますように」という一言を祈るだけでも、自分が、自分の家族が、この社会が、神様の御名を本当に崇めるようになるための具体的な課題が山のように見えてきます。「御国が来ますように」と祈る時に、神様のご支配が確立していない、他の力の支配のもとに置かれている私たちの周りの様々な現実に対する働きかけ、取り組みが求められてきます。「御心が地の上に行われますように」という祈りから与えられる課題はそれこそ無数にあります。「私たちに必要な糧を今日与えてください」と祈る時、必要な糧を今日得ることができないでいる世界の多くの人々のことが思い浮かびます。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」という祈りは、私たちに、自分の罪を自覚させ、また主イエスが十字架にかかって死んで下さったことによって私たちの罪を赦して下さったのだから、私たちも人の罪を赦す者であれと求めておられる神様のみ心が伝わってきます。これらの課題を持って私たちはこの世の現実へと、この祈りによって送り出されていくのです。そしてその私たちが、「天におられるわたしたちの父よ」と祈る時、既に恵みによって神の子とされている者として、神様の父としての愛と計らいの中でこれらの課題と取り組んでいくことができることを示されるのです。 このように主の祈りは、私たちの信仰と生活の橋渡しをします。信仰が生活となり、生活が信仰に基づくものとなるために、主の祈りは大切な働きをするのです。そのことからさらに一歩進んで、私たちの、この社会における信仰の証しということをも考えたいと思います。私たちが、主の祈りを教えられ、それを祈りつつ生きていること、それは、この国のこの社会において、独特なことです。このような祈りを、この国の人々は知りません。この国にも祈りはあります。しかしそれはほとんどが、何かを願い求める祈願の祈りです。自分の、あるいは自分たちの願いをかなえてもらうために神仏に祈るという祈りしか、この社会の人々は知らないのです。その中で、私たちが、天の父として、私たちが願う前から必要なものをご存じであり、それを与えて下さる神様に、その御名が崇められるように、御国が来るように、御心が行われるようにということを真っ先に祈り願いつつ生きているということは、それ自体が大きな証しです。また私たちが自分のこととしては、「わたしたちに必要な糧を今日与えて下さい。わたしたちの負い目を赦して下さい、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救って下さい」と祈っていることも、この社会の常識にとっては驚くべきことなのです。私たちは、信仰の証しをするのに、何か特別なことをしようと思う必要はありません。主の祈りを心から祈り、それを祈っている者としての生活をしていけばよいのです。そこに、おのずと、この社会の普通のあり方とは違う、独特の、キリストの香りとでも言うべきものが表れてくるのです。信仰とは、何か特別なことをして生きることではありません。主の祈りを祈り、その祈りに支えられ導かれて生きることです。そこにこそ、主イエスを信じる信仰者としての生活が生まれ、そこからひいては「キリスト教的な文化」とでも言うべきものが生まれていくのです。 14,15節には、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」とあります。これは言うまでもなく、第五の祈り「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」の繰り返しであり、言い換えです。この第五の祈りだけがここにこうして繰り返され、言い直されている。そのことの意味を受け止めなければなりません。主の祈りを祈りつつ、それを祈っている者として生きていく、そこに、主イエスを信じる信仰者としての生活が生まれると申しました。主の祈りを祈っている者として生きるという時に、人の罪、過ちを赦すことと、自分の罪、過ちを天の父なる神様に赦していただくこととの関係についてのこの言葉は特別に重要な位置を持つのです。私たちは神様に赦していただかなければならない罪人です。その自分の罪の赦しを願い求めることは、自分も人の罪を赦すということなしにはあり得ないのです。主の祈りを祈りつつ生きるためにはこのことを避けて通ることはできません。繰り返し強調されているこのことを通して、主の祈りは私たちの生活に根付いていくのです。そしてそこに、世間一般の交わりとは違う、私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死んで下さった主イエスを信じる信仰者としての、主の祈りを祈っている者としての交わりが生まれていくのです。 牧師 藤 掛 順 一 [2000年11月19日] |