礼拝説教「狭い門から入れ」詩編 第51編1〜21節 マタイによる福音書 第7章13〜14節 「狭い門から入りなさい」。これが、本日、冬期総員礼拝において私たちに与えられたみ言葉です。このみ言葉ほど、一般によく知られており、しかも間違った意味で用いられている聖書の言葉は他にないと言えるのではないでしょうか。時あたかも受験のシーズンです。多くの若者たちが、狭い門を突破するために苦労しています。そのようにこの言葉は、受験とか就職とかにおいて使われるのです。入学や採用の定員に対して、志望者が多く、何人、何十人に一人しか入れないということになると「狭い門」になり、それが少ないと「広い門」になるのです。人気の高い、多くの者が行きたいと望むところは狭い門になり、そうでないところは広い門になるのです。 しかし、聖書を学び、礼拝を守っている私たちは、「狭い門から入りなさい」という主イエスの教えが、そのような意味での狭い門を目指すことを教えているのではないことを知っています。「狭い門から入りなさい」とは、倍率の高い難関を突破しなさいということではないのです。いやむしろ逆だと言えるでしょう。主イエスの教える狭い門は、14節の言葉を用いれば、「命に通じる門」ですが、「それを見いだす者は少ない」と言われています。これは、見つかりにくい門なのです。そこに門があり、入り口があり、道がある、しかも命に至る道があるということに、なかなか気づかない、門があることには気づいたとしても、そこから入って行きたいと思う人は少ない、そういう門なのです。ですからこの門には、多くの人々が殺到してみんなが入ろうとする、ということはありません。入試などの「狭い門」は、みんなが入ろうとするから狭くなるのですが、この門は、もともと狭く、みすぼらしく、見栄えがしないのです。多くの人々はその門を見向きもしないのです。そういう意味では、入試などにおける「狭い門」はむしろ、「そこから入る者が多い」広い門だと言えるでしょう。 主イエスは、多くの人々が見向きもしない、みすぼらしく、見栄えのしない門からこそ入れと教えられました。それはどういうことなのでしょうか。ここには、門のことだけではなく、「道」のことが語られています。「滅びに通じる門は広く、その道も広々として」いるのに対して、「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか」と言われています。広々とした道と細い道、そのどちらを歩むか、という教えでもあるのです。広々とした道とは、楽な、歩きやすく楽しい道ということでしょう。細い道とは、険しく歩きにくい、苦労の多い道でしょう。その二つの道の内で、険しい、苦労の多い道の方をこそ歩め、と主イエスは教えておられると言うことができると思います。広い道、楽な道を歩んでいくことは、その時はいいかもしれないが、後になって決してよい結果を生まない、結局モノにならずに終わってしまう、細い道、険しく苦労の多い道を歩くことはその時はつらいことだが、しかし後になってよい結果が生まれる、よい実を実らせることができる、そのようにこの教えを理解することができるのです。そうするとこのことは、主イエスのみが教えておられることではなくて、古来言い伝えられてきた人間の知恵の一つだということになります。日本の諺にも、そのようなことを教えているものがあります。例えば「艱難汝を玉にす」などというのはそれに当ると言えるでしょう。あるいは「若い時の苦労は金で買ってもしろ」などという、今では死語になってしまったような言葉もあります。アンデルセン童話の「蟻ときりぎりす」の話などは私たちに馴染みの深いものです。「狭い門から入りなさい」という教えはそれらと並ぶものなのでしょうか。 しかし私たちは勿論この主イエスの教えを、単なる人生の教訓として読むわけではありません。信仰の教えとして読みます。その場合には、この狭い門、細い道は、単に苦労の多い困難な道というだけではありません。これは、信仰の道です。神様を信じ、イエス・キリストを信じて生きる道です。この門を見いだす者が少ないということがそこで大きな意味を持ってきます。世の多くの人々は、神様のこと、その独り子イエス・キリストのことを見向きもしないのです。教会の礼拝に出席しようなどとは思わないのです。そんなところに門があり、歩むべき道があり、それが真実の命につながっているなどとは思わないのです。しかしここにこそ本当に入るべき門があり、歩むべき道がある、と主イエスは教えておられるのです。日曜日に教会の礼拝に集い、神様を信じて、主イエス・キリストによる救いを信じて歩むことこそが、狭い門から入り、細い道を歩むことなのです。しかしそれはまさに狭い門であり、みすぼらしい、見栄えのしない門であり、それを見いだす者は少ないのです。それは、私たちの国日本でのみそうなのではありません。欧米の、いわゆるキリスト教国と呼ばれるところならばそうではないのかというと、それは違います。確かにそれらの国々では、教会が見向きもされないということはないかもしれない。多くの人々がなお洗礼を受け、クリスチャンとして生涯を送るのです。しかしそれは、その人々が、主イエス・キリストこそ命に至る門であり道であると本当に信じて、その道を歩もうとしているということではありません。日本人が、「うちは何宗で旦那寺はどこだ」と言うのと同じようなことである場合が多いのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われた主イエス・キリストを本当に信じて、礼拝に集い、主イエスによって与えられる命にあずかっていこうとする、その狭い門から入り、細い道を歩んでいく者は、いつの時代にも、どこの場所においても、決して多くはない、それを見いだす者は少ないのです。 そのような中で、私たちは、この日曜日、主の日の礼拝に集まってきました。世間の人々が見向きもしない、むしろもっと楽しいこと、充実したことが沢山ある、と思っている中で、神様を礼拝し、聖書のみ言葉を聞き、主イエス・キリストと共に生きるためにここに集ってきたのです。そのこと自体が、狭い門から入り、細い道を歩むことだと言えます。そしてこの礼拝において、一人の姉妹が信仰を告白し、洗礼を受けます。洗礼を受けるということは、特にこの国においては、狭い門から入り、細い道を歩んでいくという決断そのものです。姉妹が洗礼を受ける決心を与えられるに至るまでには、教会、聖書、信仰との最初の出会いから何十年もの月日が経っていることを伺っております。それだけの期間の、迷い、逡巡、時にはもう自分には縁がないという思いを経て、不思議な出会いと導きによって今日に至ったのです。そして今、ついに姉妹は狭い門の前に立ち、その門をたたき、「門をたたきなさい、そうすれば、開かれる」と教えられた主イエス・キリストの恵みに身を委ねて、細い道を歩んでいこうとしておられるのです。洗礼を受けるとはそういうことです。既に洗礼を受けている私たちは、このことを通してもう一度、自分が、狭い門から入り、命に至る細い道を歩んでいることに思いを致したいのです。それは決して見栄えのよい道ではありません。楽な道でもありません。世間の多くの人々は、その道を行こうとはしない、もっと別の道を歩もうとするのです。そういう意味では、私たちは世間の人々から取り残され、置いていかれてしまうような思いをするのです。しかし、主イエス・キリストと共に歩む、そこにこそ、本当の命に通じる道がある、それゆえに私たちは、どんなにつらく、また孤独であっても、この道を歩むのです。 狭い門から入り、命に至る細い道を歩むとは、このように、主イエス・キリストを信じ、洗礼を受けてキリストの体である教会の一員として生きることです。そのことを抜きにして、ただ、楽な道よりも苦労の多い道を歩んだ方が後から本当に幸せになれる、というようなことを考えていてもあまり意味はありません。そういうことは、何も聖書に聞く必要はない、世間の知恵がいくらでも教えていることなのです。けれども、このように私たちはこの教えを信仰における教えとして読むわけですが、そこで私たちがともすれば陥る落とし穴があるように思います。私たちにとっての狭い門は、洗礼を受け、教会に連なって、信仰者として生きていくことだ、それはその通りです。しかし私たちがそのことを、「我々は世間の人々とは違って、神様を信じ、礼拝を守り、信仰者として生きるという狭い門から入り、いろいろと苦労やつらいこともある信仰者としての細い道を歩んでいる。多くの人々はこの門に気づかず、そこを歩もうとしないが、我々はこの正しい門、命に至る道を見出したのだ」というふうに受けとめてしまい、つまりこのことが私たちの自負や誇りになってしまうとしたら、それはおかしなことになってしまうのです。何がおかしいかというと、その時には、私たちは、自分の歩んでいるこの門、この道こそが、立派な、そして将来を約束された門であり、道であると言っていることになるからです。そういう思いは、倍率の高い一流大学や一流会社に入ることによってこそ人生が開け、幸せになれる、というのと、基本的には少しも変わらない思いです。いわゆる狭い門を突破して、人もうらやむ学校や会社に入った人が、「我々は人一倍努力して、苦労して、難関を突破し、この地位を得た」と誇る。それに対して私たちが、「いや、あなたがたが歩んでいる道は実は滅びに至る道であって、私たちが歩んでいるこの道こそが、本当の幸せ、命に至る道なんだ」と誇る。これはもう人間の誇りと誇りの醜いぶつかり合いに過ぎません。主イエスの教えは、信仰を持っていない世間の大多数の人々に対して、信仰者である私たちが、自分たちこそ正しいんだと誇っていくために語られたものではないのです。もしも私たちがそのように自分の信仰を、自分が信仰者として生きていることを、誇るような思いになるとしたら、その時私たちにとって、信仰は、「広い門、広い道」となっているのです。「広い門、広い道」というのは、見栄えのよい、つまりそこを歩んでいる者が誇り得るような門であり道です。「狭い門、細い道」とは、みすぼらしく見栄えのしない、つまり誇りようがない門であり道です。主イエスは私たちに、そのような門から入り、そのような道を歩めと教えておられるのです。ところが私たちは、自分が歩んでいる道を誇りたくなる。人の歩んでいる道と自分の歩んでいる道を見比べて、こっちの方がいいんだと言いたくなるのです。けれどもそう思ったとたんに私たちは、「狭い門から入り、細い道を歩め」という主イエスの教えを捨ててしまっているのです。主イエスが求めておられるのは、私たちが常に、自分の歩む信仰の道が狭く、細いものであることを意識することです。言い換えれば、その歩みが私たちの誇りにはなり得ないことを覚え続けることです。私たちの入る門はあくまでも狭い門であり、私たちの歩く道はあくまでも細い道なのです。 この狭さ、細さは具体的にはどういうことなのでしょうか。そのことを知るためには、この教えが置かれている文脈、流れを見なければなりません。今私たちは、マタイ福音書5〜7章の「山上の説教」を読んでいます。この山上の説教がはっきりとした構造を持っているということをこれまでに何度も申しました。その構造を見つめるならば、この7章13節から、山上の説教の結びの部分に入るのです。先々週に読んだ7章12節までが、山上の説教の中心部分です。13節は、12節と並ぶ一つの教えではなくて、5章21節から7章12節に至る中心部分の全体を意識しつつ、この説教の結び、しめくくりを始めているところなのです。ですから、「狭い門、細い道」の教えは、抽象的、一般的に、「より困難な道を歩め」と言っているのではありません。狭い門から入り、細い道を歩むとはどのようなことであるかは、これまでのところに語られてきたのです。5章20節に、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」とありました。狭い門から入り、細い道を歩むとは、この、律法学者、ファリサイ派の人々の義にまさる義に生きることです。それがどのようなことであるかが、5章21節以下に、様々な仕方で示されてきたのです。最初に語られていたのは、「殺すな」という律法の教えに対して、ただ人を殺さないというのではなくて、むしろ積極的に人を愛し、敵対する者との和解に努めなさいということでした。それこそが、狭い門から入り、細い道を歩むことなのです。そしてそれらの教えは、5章43節以下の、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」という教えへと集約していきます。そしてそこには、「あなたがたの天の父の子となるためである」とあります。神様が、「あなたがたの天の父」と呼ばれています。神様が、天の父として、私たちを恵み、養い、守り、導いていて下さる、その天の父の下で生きるところに、敵を愛し、迫害する者のためにも祈る歩みが与えられるのです。それこそが、狭い門から入り、細い道を歩むことです。そして6章に入ると、偽善に対する警告が語られていきます。偽善とは、「見てもらおうとして、人の前で」何かをすることです。偽善者の思いは、常に人に向いています。人の評判、人からどう思われるかということを気にして生きているのです。主イエスはそれに対して、「あなたがたの天の父」の報いをこそ求めよと言われます。それは、心を天の父なる神様の方に向けて生きなさいということです。人を見つめることをやめて、天の父なる神様を見つめて生きるようになることによってこそ、人に見てもらおうとする偽善から解放されるのです。それこそが、狭い門から入り、細い道を歩むことです。6章19節以下には、「地上に富を積むのではなく、天に富を積め」という教えがあります。地上の富、それは私たちが何らかの意味で自分のものとして持っているもの、自分の力、自分の正しさです。そういう自分の中にあるものに寄り頼んで生きようとすることが、地上に富を積むことです。言い換えればそれは、自分の誇りに生きようとすることです。それに対して天に富を積むとは、よいことをする、という意味ではなくて、天の父なる神様の恵みを見つめ、それに寄り頼んで生きることです。自分が何を持っているか、どんな立派なことをすることができるか、ということではなくて、神様が天の父として自分を養い、導き、守って下さる、そのことを見つめて生きるのです。そこから、6章25節以下の、「思い悩むな」という教えが生まれてきます。何を食べようか何を飲もうか何を着ようかと思い悩むのは、自分が何を持っているかによって人生が決まると思うからです。しかし主イエスは、「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」とおっしゃいました。神様が天の父として、子である私たちを愛し、必要なものを必要な時に与えて下さる、その天の父の恵みを見つめ、それに信頼して生きるところに、「思い悩み」からの解放があるのです。これこそが、狭い門から入り、細い道を歩むことです。また、7章7節以下には、「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」という約束の言葉がありました。それは、「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」からです。天の父なる神様の恵みがあるから、私たちは、大胆に門をたたくことができるのです。命に通じる門を自分の力で開いて入っていくことは私たちにはできません。しかし天の父なる神様がその恵みによって門を開き、私たちを迎え入れて下さるのです。その恵みに信頼して、私たちは門をたたくのです。洗礼を受けるというのはそういうことです。それが、狭い門から入り、細い道を歩むことなのです。このように、山上の説教において教えられてきたことは、私たちの天の父となって下さった神様の下で、神様の守りと導きと養いを信じて、その子として生きることです。それゆえに、山上の説教の中心には、「主の祈り」があるのです。「天におられる私たちの父よ」と神様に呼びかけ祈りつつ生きること、それが天の父の子としての歩みです。狭い門から入り、細い道を歩むとは、主の祈りを祈りつつ生きていくことなのです。そして主の祈りを祈っていく中で私たちは、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と祈りつつ生きる者となるのです。それは、自分が神様の前に罪人であることを認め、悔い改めて、その赦しを神様に願い求めていくことです。本日共に読まれた旧約聖書の個所、詩編第51編は、罪の告白と悔い改めを語っている代表的な詩です。主の祈りを祈りつつ、この詩編51編の詩人と共に自分の罪の赦しを神様に祈り願いつつ歩むこと、それが狭い門から入り、細い道を歩むことなのです。そしてこのことと分かち難く結びついているのが、自分に罪を犯す者を私たちが赦すということです。自分は赦さないけれども神様には赦してもらうということはできないのです。主の祈りを祈ることによって私たちはこのことに直面させられます。それは大変に困難なことであり、自分が一方的に苦しみを負い、損をしなければならないようなことです。けれどもそのことを、天の父なる神様に祈りつつ受け止めていくことによってこそ、あの「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」という教えに生きることができるのです。それこそが、狭い門から入り、細い道を歩むことなのです。 私たちが歩む信仰の門は狭く、その道は細い。その狭さ細さとは、このように、自分の力や所有に寄り頼むことをせず、人からの評価を求めず、苦しみを負い、自分は損をして人を赦すという狭さであり細さです。それは、決して私たちの誇りにはなり得ない歩みです。自分は世間の人たちよりも狭い門から入り、細い道を歩んでいるのだ、などと自慢できるようなことではないのです。それはむしろ人々から、何と馬鹿なことをしているのか、何とみじめな生き方かと軽蔑されるような歩みなのです。狭い門から入り、細い道を歩むとはそういうことなのだということを、私たちは忘れてはならないのです。そしてそれは、主イエス・キリストが、私たちのために歩んで下さった道なのです。主イエスは、私たちのために、狭い門から入り、細い道を歩み通して下さったのです。その行きつく先は、全ての人から見捨てられての、十字架の上での死でした。しかしこの主イエスの、みじめな、人々から軽蔑され捨てられる歩みこそが、復活の命に通じる道だったのです。このことによって、主イエスの父なる神様が、私たちの罪を赦して下さり、天の父となって下さり、私たちを神様の子として新しく生かして下さったのです。洗礼は、私たちが、この主イエスの十字架の死にあずかって古い自分が死に、主イエスの復活にあずかって新しい命に生きることを表わしています。洗礼によって私たちは、私たちのために狭い門から入り、細い道を歩み通して下さった主イエス・キリストと結び合わされるのです。そして私たちも、主イエスと共に、狭い門から入り、命に通じる細い道を歩んでいくのです。 牧師 藤 掛 順 一 [2001年2月4日] |