礼拝説教「愚かな男、賢い女」サムエル記上 第25章1〜44節 ローマの信徒への手紙 第12章17〜21節 本日の説教の題を「愚かな男、賢い女」としました。本日ご一緒に読む、旧約聖書サムエル記上第25章には、まさにそういう物語が記されているのです。ここに一組の夫婦が出てきます。夫の名はナバル、妻の名はアビガイル。3節によれば、「妻は聡明で美しかったが、夫は頑固で行状が悪かった」とあります。夫ナバルについてのこの言葉は、口語訳聖書では「剛情で、粗暴であった」となっています。頑固で、剛情で、粗野な男だったのでしょう。そういう男に、賢くて美しい妻がいる、言わば、「美女と野獣」というようなことでしょうか。しかしこの3節には、彼ナバルが愚かな男であった、ということは語られていません。剛情で粗暴あるいは行状が悪いということと、愚かであることは必ずしも一致はしません。乱暴者だから愚かだ、ということはないのです。彼は、2節によれば、「非常に裕福で、羊三千匹、山羊千匹を持っていた」とあります。これだけの羊や山羊の群れを管理し、維持し、そこから収入を得ていくことは、ただぼんやりとしていたら出来ることではありません。よほど計画的に群れを管理していかなければならないでしょう。彼はそういうことをきちんとしていたのですから、決して愚かな人ではないと思います。剛情で粗野なところはあるけれども、自分の仕事をきちんとわきまえており、部下たちに適切な指示を出し、財産を切り盛りしていくことができる、そういう人だったのです。そのナバルが、しかし「愚か者」と呼ばれています。それは25節です。そこに、「御主人様が、あのならず者ナバルのことなど気になさいませんように。名前のとおりの人間、ナバルという名のとおりの愚か者でございます」とあります。「ナバル」というのは「愚かな」という意味の言葉です。彼は「愚か者」という名前だったのです。何故そういう名前になったのか、それはわかりません。問題は彼が「名前のとおりの愚か者」だと言われていることです。「愚か者」とはよくつけたもので、本当にその通りの愚か者だ、と言われているのです。そう言っているのは、彼の妻アビガイルです。彼は妻から、愚か者と呼ばれているのです。 アビガイルが夫ナバルを愚か者と呼ぶのは何故なのでしょうか。聡明なアビガイルは、粗野な夫ナバルをいつも馬鹿にしていて、事あるごとに愚か者と呼んでいたのでしょうか。あんな粗野で愚かな男の妻でいる自分は不幸だといつも嘆いていたのでしょうか。そういうことではないようです。そのことは、この物語において彼女がしたことから伺い知ることができるのです。この物語は、ナバルとアビガイルの夫婦と、ダビデとの間で起った一つの事件を語っています。それはどんな事件だったのか、説明を加えながら見ていきたいと思います。 まず、後にイスラエルの王となるダビデが、この時どのような状態にあったのかを知っておかなければなりません。彼は神様に選ばれ、預言者サムエルによって油を注がれて王となることを約束されていましたが、現実のイスラエルの王はサウルであり、ダビデはその家来の一人でした。ダビデが戦いにおいて目覚しい働きをすればする程、サウルはダビデを、自分の王位を脅かす者として警戒するようになり、ついにはダビデを殺そうとして追いまわすようになりました。この時ダビデは、サウルの手を逃れて、あちこちを逃げ回っていたのです。前回、1月の終わりに読んだこの前の24章にも、ダビデがサウルに追われて洞窟の中に隠れていると、それと知らずにサウルがそこに入って来て、ダビデはサウルを撃ち殺す絶好の機会を得た、しかし彼はそれをしなかった、という話がありました。そのことによって、サウルはダビデに、お前の方が正しい、もうお前を追うことはしないと言いました。しかしこの次の26章には、再び同じようにサウルがダビデを追ってきた話が繰り返されているのです。その二つの話にはさまれて本日の個所があります。ダビデはサウル王によって命をつけ狙われており、荒れ野に隠れ住んでいる、それがダビデの今の状況なのです。 そのダビデのもとには、彼の手下となった人々が数百人いました。22章1,2節によれば、それは彼の親族たちや、また暮らしに困った者たち、借金で首がまわらなくなった者たち、この社会に不平不満を抱いている者たちです。要するに社会からつまはじきにされたならず者たちがダビデのもとに集まって群れをなしていたのです。ダビデはその群れを統率して、ある時はペリシテ人と戦ったり、またある時はペリシテの王の傭兵、雇われ軍隊となったりしていました。そのようにして、サウルの手から逃げまわりつつ、自分に従っている群れを養っていたのです。ナバルとの関係が生じたのもそのような歩みの中ででした。ナバルは大規模な家畜所有者です。その手下たちが家畜の群れを率いて荒れ野に出ていき、そこで牧草を食べさせるのです。しかし荒れ野には、突然襲ってきて家畜を奪い取る略奪者がいます。ダビデとその部下たちは、そういう略奪者から家畜の群れを守る働きをしてやったのです。そのことが、15、16節の、ナバルの従者の言葉に語られています。「あの人たちは実に親切で、我々が野に出ていて彼らと共に移動したときも、我々を侮辱したりせず、何かが無くなったこともありません。彼らのもとにいて羊を飼っているときはいつも、彼らが昼も夜も我々の防壁の役をしてくれました」。つまりダビデの部下たちは、ナバルの家畜の群れの用心棒のような働きをしたのです。それは単なる好意からではありません。そのことの見返りを期待してのことです。そのように群れを守ってやるかわりに、何か祝い事があったりする時には、出かけて行って何がしかの引き出物をもらう、援助を受けるのです。4節以下に語られているのはそういうことです。「荒れ野にいたダビデは、ナバルが羊の毛を刈っていると聞き、十人の従者を送ることにして、彼らにこう言った。「カルメルに上り、ナバルを訪ね、わたしの名によって安否を問い、次のように言うがよい。『あなたに平和、あなたの家に平和、あなたのものすべてに平和がありますように。羊の毛を刈っておられると聞きました。あなたの牧童は我々のもとにいましたが、彼らを侮辱したことはありません。彼らがカルメルに滞在していた間、無くなったものは何もないはずです。あなたの従者に尋ねてくだされば、そう答えるでしょう。わたしの従者が御厚意にあずかれますように。この祝いの日に来たのですから、お手もとにあるものを僕たちと、あなたの子ダビデにお分けください』」」。羊の毛を刈る時というのは、一年に一度の大きなお祭りの時だったのでしょう。そこへ10人の部下を遣わして挨拶を送り、援助物資を要求するのです。用心棒をしてやった料金をよこせということです。 ところが、ナバルはこのダビデの要求を断りました。10節以下、「ナバルはダビデの部下に答えて言った。『ダビデとは何者だ、エッサイの子とは何者だ。最近、主人のもとを逃げ出す奴隷が多くなった。わたしのパン、わたしの水、それに毛を刈る者にと準備した肉を取って素性の知れぬ者に与えろというのか』」。これを聞いたダビデは、400人の部下を率いてナバルのもとに攻めていこうとします。ダビデの思いは21節以下に語られています。「荒れ野で、あの男の物をみな守り、何一つ無くならぬように気を配ったが、それは全く無益であった。彼は善意に悪意をもって報いた。明日の朝の光が射すまでに、ナバルに属する男を一人でも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰してくださるように」。ダビデは、ナバルの拒絶に対する報復をしようとしているのです。群れを守ってやったのは、見返りを期待してのことです。それを与えようとせず、善意に悪意をもって報いるならば、よろしい、皆殺しにしてやろう、ということです。これが、ここに描かれている状況なのですが、これを分かりやすく理解するには、ダビデとその群れを暴力団だと思えばいいのです。暴力団ダビデ一家です。盛り場の店の用心棒をしてやる、喧嘩があったりしたらそれを収拾してやる、そのかわりに金を要求するのです。もしそれを払わないと言えば、店をメチャメチャにしてやろうか、というわけです。ダビデがしていることはそれに似ています。ただ、今日の日本の社会と、三千年前のパレスチナの社会とを同列に考えてしまうことはできません。法律によって秩序づけられた法治国家ではなく、警察などというものもない当時の社会においては、家畜所有者と、荒れ野の武装集団との間には、このような相互援助、持ちつ持たれつの関係があったということでしょう。その相互援助を拒絶したとたんに、武装集団は略奪者に変わる、そのことを覚悟しなければならないのです。 ナバルはこのように、ダビデへの援助を拒絶し、両者は敵対関係になりました。そのことを従者から聞いた妻アビガイルが、夫には黙って直ちに行動を起こしたのです。18節以下「アビガイルは急いで、パンを二百、ぶどう酒の革袋を二つ、料理された羊五匹、炒り麦五セア、干しぶどう百房、干しいちじくの菓子を二百取り、何頭かのろばに積み、従者に命じた。『案内しなさい。後をついて行きます。』彼女は夫ナバルには何も言わなかった」。そして彼女は、攻めてこようとしていたダビデと出会い、その前にひれ伏したのです。24節、「彼女はダビデの足もとにひれ伏して言った。「御主人様、わたしが悪うございました。お耳をお貸しください。はしための言葉をお聞きください」。そして、先ほどの25節に続きます。そこに、「ナバルはその名の通りの愚か者です」という言葉があるのです。彼女が用意した品物は、ダビデへの贈り物です。それはダビデが10人の部下を遣わしてナバルから受けようとした援助に見合うものでした。彼女は、夫が拒絶した援助を、あるいは用心棒料を携えて行き、夫に代わってそれを支払おうとしているのです。その中で彼女は、「わたしが悪うございました」と言っています。そこは口語訳聖書では「このとがをわたしだけに負わせてください」となっています。つまり、私の責任ですから、夫を赦して下さい、ということです。彼女は、夫の犯した失敗、善意に悪意をもって報い、いたずらに敵対関係を作り出してしまったことを、自分の責任として詫び、関係の修復を求めているのです。つまり夫の失敗を自分が背負って償おうとしているのです。そこには、夫を守り、家を守ろうとする彼女の思いがひしひしと伝わってきます。このままでは夫は殺され、この家は滅んでしまう、それを何とか防ごうとしているのです。彼女が夫を「その名のとおりの愚か者です」と言っているのはそのためです。ですから彼女は、決して夫ナバルを馬鹿にしているのでも、恨んでいるのでもありません。むしろここには、夫の失策を代わって償い、家を守ろうとするけなげな妻の姿があると言えるでしょう。ある説教者は、この物語を学ぶことは、これから結婚をしようとしている人にとって、また結婚生活の様々な問題に直面している人にとって、最上の学びとなると言っています。このアビガイルのような妻こそ、本当に賢い妻、家庭を支えていくことができる妻なのです。しかしそこで勘違いしてはならないのは、これは妻たる者に対してだけ、夫の欠点や失敗を代わって負うことを教えている、ということではない、ということです。この場合にはたまたま妻がそうであっただけで、同じことは夫に対しても言えるでしょう。妻の失敗や欠点を代わって負ってそれを補っていくことができる夫こそ、本当に賢い夫、家庭を支えていくことができる夫なのです。 さてしかし、私たちがこの話から読み取っていくべきことは、そのような夫婦の関係についての教えなのでしょうか。アビガイルのような賢い妻あるいは夫になろう、ということでしょうか。そうではありません。それはむしろ枝葉のことです。この話が語っている本当に大事なことは別な所にあるのです。ここには、ナバルの愚かさとアビガイルの賢さが対比されています。ナバルは、ダビデの要求を断ることが何を意味し、それがどんな結果を生むかを見通すことができなかった、そこに彼の愚かさがあった、アビガイルはそれを敏感に察知し、夫の愚かさをカバーするために直ちに、適切に行動した、そこに彼女の賢さがあった、私たちはこの話をそのように読んでしまいがちです。しかしそれは、話のごく上っ面だけを見ているに過ぎません。ナバルの愚かさとアビガイルの賢さの本質は、そのような状況判断や先を見通す力の問題ではないのです。要はこの二人が、ダビデをどう見たか、です。ナバルは10、11節でこう言っています。「ダビデとは何者だ、エッサイの子とは何者だ。最近、主人のもとを逃げ出す奴隷が多くなった。わたしのパン、わたしの水、それに毛を刈る者にと準備した肉を取って素性の知れぬ者に与えろというのか」。これがナバルのダビデ理解です。つまり、そんなやつは知らん、大方、主人のもとを逃げ出した奴隷の親玉か何かだろう、そんな素性の知れぬ者に贈り物をするいわれはない、ということです。それに対してアビガイルはダビデの前にひれ伏し、こう言っています。28、29節です。「主は必ずあなたのために確固とした家を興してくださいます。あなたは主の戦いをたたかわれる方で、生涯、悪いことがあなたを襲うことはございませんから。人が逆らって立ち、お命をねらって追い迫って来ても、お命はあなたの神、主によって命の袋に納められ、敵の命こそ主によって石投げ紐に仕掛けられ、投げ飛ばされることでございましょう」。ダビデについての理解のこの違い、そこに、愚かなナバルと賢いアビガイルの違いの本質があるのです。ダビデは、神様が選び、油を注いで、将来イスラエルの王となるべく立てられた者です。そのダビデをどう理解し、受け止めるか、ナバルは、「そんなやつは知らん」と言いました、主人のもとを逃げ出した奴隷扱いしました。それはナバルがダビデのことを知らなかったからと言うよりも、これが、この時ダビデが現実に置かれていた状況だったということです。ダビデはまだ、王でも何でもない、荒れ野にたむろする武装集団の親玉に過ぎません。しかも現在の王であるサウルから追われ、命をつけ狙われている者です。逃げ出した奴隷を主人が追うようにダビデは追われているのです。ですから、「そんな者は知らん、関わりになりたくない」と言う方がよほど現実に即した、賢明な対応なのです。それでダビデが攻めて来るなら来い、こちらにも手勢がいる、迎え撃って撃退するまでだ、あわよくばダビデの首を取ってサウル王に献上しよう、そうすれば王のお覚えもめでたくなる…ナバルはそこまで考えたかもしれません。ですからナバルがしたことは、愚かな事というよりも、現実を見据えた賢明な対応だったのです。それに対してアビガイルはダビデに何を見ているか。「あなたは主の戦いをたたかわれる方で」と言っています。「人が逆らって立ち、お命をねらって追い迫って来ても、お命はあなたの神、主によって命の袋に納められ、敵の命こそ主によって石投げ紐に仕掛けられ、投げ飛ばされる」と言っています。また30節では、「主が約束なさった幸いをすべて成就し、あなたをイスラエルの指導者としてお立てになる時が来る」とも言っています。つまり彼女が見つめているのは、主なる神様のみ業です。しかもそれらはまだ目に見える現実とはなっていない、ただ約束として与えられている事柄です。彼女は目に見える現実に逆らって、ダビデに与えられている主なる神様の約束のみ言葉を見据えたのです。つまりここに対比されているのは、目に見える現実だけを見つめ、それを自分で判断して、自分で道を切り拓いていこうとしている者の姿と、目に見える現実の背後にある、主なる神様のみ心を見つめ、それこそがこの世を導き、支配していることを信じ、また神様の約束のみ言葉こそが実現していくことを信じる者の姿なのです。そこに、ナバルの愚かさとアビガイルの賢さがあったのです。ある人が、このナバルの愚かさは、ルカによる福音書第12章において主イエスが語られた「愚かな金持ちのたとえ」の金持ちの愚かさと同じだと言っています。ある金持ちが、これから先何年も暮らしていくのに十分な財産を得たと安心していたが、神様は、「愚かな者よ、お前の命は今夜の内に取り去られるのだ」と言われたという話です。この人の愚かさは、私たちの人生を本当に支配しているのは、目に見える財産などではなく、神様なのだ、ということを見つめていなかったということです。ナバルの愚かさはまさにこれと同じであると言えるでしょう。目に見えるところによってではなく、神様のみ心をこそ見つめ、約束のみ言葉を信じて、それによって歩むアビガイルの姿こそ、本当に賢い、本当に見つめるべきものを見つめている人の姿なのです。 そしてこのアビガイルの賢さは、神様によって選ばれた者であるダビデ自身にも、救いとなりました。アビガイルの言葉によって、ダビデはナバルへの報復をやめたのです。そのことをダビデはこう言い表しています。32節以下です。「イスラエルの神、主はたたえられよ。主は、今日、あなたをわたしに遣わされた。あなたの判断はたたえられ、あなたもたたえられよ。わたしが流血の罪を犯し、自分の手で復讐することを止めてくれた。イスラエルの神、主は生きておられる。主は、わたしを引き止め、あなたを災いから守られた。あなたが急いでわたしに会いに来ていなければ、明日の朝の光が射すころには、ナバルに一人の男も残されていなかっただろう」。ダビデはこのことによって、自分の手で復讐をし、手を血に染めることから守られたのです。ナバルはその後、神様に打たれて死にました。それを聞いたダビデは39節でこう言いました。「主はたたえられよ。主は、ナバルが加えた侮辱に裁きを下し、僕に悪を行わせず、かえって、ナバルの悪をナバルの頭に返された」。主なる神様ご自身が悪に対して裁きを下して下さる、報復をして下さる、それを人間がしてしまってはならない、ということがここに示されています。本日共に読まれた新約聖書の個所、ローマの信徒への手紙12章17節以下の、「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」という教えです。ダビデはアビガイルの賢さによって、自分で復讐をする罪に陥ることから守られたのです。 それは、ただ罪を犯さずにすんだ、ということではありません。前回読んだ24章においても、またその時に合わせて見た26章においても、ダビデは同じ罪に陥りそうになり、しかしその誘惑に打ち勝ったのです。何の罪も犯していない自分を執拗に追って来て、殺そうとするサウル、そのサウルに報復し、撃ち殺す絶好のチャンスを彼はそこで得たのです。しかし彼はいずれの場合も、「主が油を注がれた方に手をかけることはできない」と言って踏み止まりました。その二つの話にはさまれて語られている本日の個所も、同じ主題を語っていると言うことができます。自分で報復をしてやりたい、という思いが、様々な形で、繰り返しダビデを捕えようとしているのです。それはダビデの置かれている現実の過酷さのゆえでもあります。神様が自分を選び、油を注いで、王となる約束を与えて下さった、しかし現実には、サウルに追われて、荒れ野の武装集団の頭領としての生活をしているのです。こんな暮らしをいつまで続けなければならないのか、あの神様の約束は何だったのか、という思いが湧きあがってきます。それに加えて、25章の冒頭には、サムエルが死んだことが語られています。ダビデに油を注ぎ、あなたこそ、主が選ばれた新しい王だと告げたサムエルがもういないのです。それはダビデにとって、最大の精神的支柱を失ったような出来事だったでしょう。自分が神様に選ばれているということを保証してくれる人がいなくなってしまったのです。そのような動揺と不安の中でこのナバルの事件が起ったのです。怒りに身を委ねて、「この手で復讐してやる、皆殺しにしてやる」というどす黒い思いがダビデの胸に満ちました。その思いを静めたのがアビガイルでした。彼女はダビデに、「あなたは主の戦いをたたかわれる方だ」と告げたのです。「主なる神様があなたの命を守り、敵を滅ぼし、あなたをイスラエルの指導者としてお立てになるのだ」と告げたのです。サムエルの死によって、ダビデ自身が忘れかけ、疑いを抱き始めていた神様の約束が、アビガイルを通して再び告げられたのです。ダビデはそれによって、自分に与えられていた神様の約束に再び立ち戻ることができました。そして、自分の思いで復讐をしようとする誘惑に打ち勝ち、主なる神様の導きに身を委ねていくことができたのです。もしここで彼がナバルへの復讐を断行してしまっていたら、ダビデ自身も、ナバルと同じ愚か者になってしまったでしょう。目に見える現実だけを見つめ、その中で自分の力で道を切り拓こうとする者となってしまっていたでしょう。目に見える現実に惑わされず、主のみ心こそが成ることを信じたアビガイルの本当の賢さが、ダビデをも、この世の現実に足をすくわれ、自分の力で何事かをなしていこうとする愚かさに陥っていくことから救ったのです。そのことが、この「愚かな男と賢い女」の物語の心なのです。 牧師 藤 掛 順 一 [2001年3月25日] |