礼拝説教イースター記念礼拝「墓場からの復活」 詩編 第16編1〜11節 マタイによる福音書 第8章28〜34節
「たたかいは終わり、主は死に勝たれた。主をほめたたえよ、ハレルヤ」。
28節に、「イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると」とあります。向こう岸とは、ガリラヤ湖の向こう岸、その南東の方角に広がる、当時デカポリスと呼ばれていた地方のことです。そこは、ユダヤ人の地ではなく、異邦人たちの住む外国でした。主イエスは弟子たちと共に舟に乗ってその異邦人の地へと行かれたのです。するとそこに、「悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た」のです。「墓場から出て」とあります。彼らは墓場を住処としていたのです。それは次のところに「二人は非常に凶暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった」とあることと関係があるでしょう。マタイはこのように簡単にしか記していませんが、この人たちの様子は、マルコ福音書の5章3節以下にはこのように詳しく描写されています。「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」。マルコは一人であったと考えているようですが、一人であれ二人であれ、これはおそろしい狂気の姿です。悪霊にとりつかれることによる症状はいろいろあったようですが、これはその中で最も凶暴な、周囲の人々に危害を加え、とても一緒に暮らすことができないような状態です。そのような人が墓場に住んでうろつきまわっているのですから、「だれもその辺りの道を通れないほどであった」のはよくわかります。ところで私たちはこのような描写を読むと、「ああこれは重い精神障害だ、昔の人はそれを悪霊に取りつかれたと考えたのだ」などと思ってしまいがちですが、そんなふうに呑気に他人事のように言ってはいられない現実が私たちの周りにはあるのではないでしょうか。この人たちは要するに、凶暴で手のつけられない者たちです。そういう人が社会の中に、共同体の中にいる。それを家庭にあてはめてみれば、いわゆる家庭内暴力ということになります。あるいは、最近大きな問題になってきているのは、ドメスティック・バイオレンスということです。夫や父親が、妻や子供に暴力をふるう、家族はそれにびくびくしながら生活しているという事態があるのです。そういう暴力は男だけのものではありません。母親も含めた親が、子供を虐待して死なせるということが相次いで事件となっています。最も身近な共同体である家族の中に、そのような手のつけられない暴力が、凶暴さが生じてきているのです。しかもそれが、子供が親に反抗して暴れるというだけではもはやなくなっている、親自身の中にもそういう凶暴さが存在しているのです。それに、事はそのような具体的暴力がふるわれるかどうかだけではないでしょう。この人たちの姿というのは、人と普通に関わることができない、交わりを持つことができないという姿です。それは暴力をふるうという仕方で外に向かって表れるだけではなくて、自分の殻の中に閉じこもってしまい、人に心を開かないという形でも表れます。いわゆる「引きこもり」です。学校生活においては、いわゆる不登校です。周りの者たちはそれをどうすることもできずに、おろおろとしてしまう、それもこの人たちの状況と似ていると言えるでしょう。そしてそれはもっと一般化して考えてみれば、この人たちには思いが通じない、言葉が通じないということです。人々はこの二人と対話ができないのです。コミュニケーションが取れないのです。それもまた私たちがしばしば体験することです。特に今日、世代間の対話が非常に難しくなってきています。「若い者は何を考えているのかわからん」という言葉は、いつの時代にも繰り返されてきたのかもしれませんが、今はそれが特に激しく感じられているのではないでしょうか。私たちは、言葉が通じない相手を恐れます。得体の知れない思いを抱くのです。お互いがお互いを、得体の知れない相手と思ってしまう、そういうギャップが私たちの間には生まれてしまっているのではないでしょうか。ガダラの人々も、この二人のことを、得体の知れない化け物のように思っていたのです。そのように考えてみると、この悪霊に取りつかれた人の話は、遠い昔の、別世界の話ではありません。昔の人は悪霊の存在を信じていたが、今はもう科学が発達したから、悪霊に取りつかれるなどということはなくなった、とは言えないのです。この悪霊は今もなお活動しています。いや、今の方がむしろより活発になっていると言えるかもしれません。 そして私たちがそこで見つめなければならないのは、あの人が、この人が、悪霊に取りつかれている、ということではなくて、今のこの時代そのものが、悪霊の支配を受けているということです。そういう意味では、私たち自身も多かれ少なかれこの悪霊の影響を受けていると言わなければならないでしょう。自分は悪霊に取りつかれてはいない、正気だ、と言える者はいないのです。私たちが、人を傷つけ、互いに傷つけ合い、人との交わりに破れ、言葉が通じなくなり、お互いにお互いを得体の知れない者のように感じてしまう、そこには、ここに語られているのと同じ悪霊の支配があるのです。 この二人が、墓場に住んでいたというのは意味深いことです。墓場は、生きた人間の居場所ではありません。死んだ者の場所です。つまり彼らは、生きながら、死んだ者になってしまっていたのです。「生ける屍」という言葉がありますけれども、まさに彼らは、生きてはいながら、死んだも同然だったのです。それは彼らが、人々と、よい交わりを持って共に生きることができないからです。言葉を通じ合わせることができないからです。そのように人との関係を失ってしまう時、私たちは死んだのと同じになってしまうのです。彼らが墓場に住んでいたことは、そういうことを意味しているのです。しかしそこにはもう一つの事情もあるのではないでしょうか。それは彼らが町の人々からつまはじきにされ、追い出されて墓場に住んでいる、ということです。彼らは一般の人々のもてあまし者だったのです。すぐ暴力をふるい、話も通じず、得体の知れない存在です。そんなやつらは町に置いておけない、ということになったのでしょう。人々の間から追い出されて、彼らは墓場に住むようになった。それは人々が彼らを、もう死んでしまったもののように見ていた、という思いの表れです。あいつらはもう死人と同じだ、という思いです。私たちは、自分と言葉が通じない相手を、分かり合うことができない相手を、しばしばそのような目で、もう死んだ者、失われてしまい、いないのと同じ者として見てしまうのではないでしょうか。悪霊に取りつかれ、墓場に住んでいるこの人たちの姿、また彼らを墓場に追いやっている人々の姿、そこに、私たちの、また私たちの社会の縮図を見ることができるように思うのです。 この悪霊に取りつかれた二人が、主イエスのもとに来たのです。彼らはたまたまそこにいたのではありません。「やって来た」というのは「会いに来た」という言葉です。彼らはわざわざ主イエスのもとにやって来たのです。何のためでしょうか。主イエスに、「悪霊を追い出して、私たちを救ってください」と願うためでしょうか。そうではありませんでした。彼らはこう叫んだのです。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」。これは、悪霊に取りつかれた人の叫びと言うよりも、悪霊そのものの叫びです。悪霊が、その人の口を通して語っているのです。悪霊に取りつかれた人は、悪霊の言葉を語ってしまうのです。自分の言葉を語ることができなくなるのです。それによって、人と言葉が通じなくなり、交わりが失われ、得体の知れない存在になってしまうのです。このことも私たちはしっかりと見つめておかなければならないでしょう。この人たち自身の心の中には、「悪霊を追い出して、助けてください」という思いがあるのです。しかし口から出る言葉は、「俺たちにかまわないでくれ、苦しめないでくれ」という悪態なのです。その悪態を、その人たちの本心として受け止め応対してしまったら、大きな間違いを犯すことになるのです。主イエスはそうはなさいませんでした。主イエスは、この人たちの心の底にある、声にならない、救いを求める叫びを聞き取りつつ、彼らを支配し、その言葉をねじ曲げている悪霊と対決なさるのです。 主イエスは悪霊と対決なさる、と申しました。しかしここで私たちが見つめなければならない最も大事なことは、悪霊が、最初から、自分たちの負けを認めているということです。彼らは主イエスを、「神の子」と呼んでいます。主イエスの正体を、つまり主イエスが、単なる一人の人間ではなく、神の独り子、まことの神であられることを彼らは知っているのです。そして、そのまことの神であられる方に、自分たちは太刀打ちできないことを知っているのです。だから、「かまわないでくれ」と言うのです。これは、主イエスと関わりを持ちたくないということです。「まだその時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」。「その時」とはいつのことか、それは、この世の終わりに、主イエスが最終的に勝利され、父なる神様のご支配が完成する時のことでしょう。その時には、神様に敵対する力である悪霊は滅ぼされるのです。悪霊はそのことを知っています。終わりの日が来れば、自分たちの支配はもう立ちゆかなくなることを知っているのです。悪霊が人々を支配し、思い通りにあやつることができるのは、その終わりの日までなのです。ところが、まだその終わりの日は来ていないのに、主イエスがやってきて、自分たちを滅ぼそうとしているのです。主イエスはまだ一言も語っておられませんけれども、悪霊たちにはそのことがわかるのです。そして彼らは、自分たちがその主イエスに対抗できないことを知っているのです。だから彼らは最初から逃げ腰です。30節以下。「はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで、悪霊どもはイエスに、『我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ』と願った」。主イエスが一言も言っておられないのに、彼らはもう、自分たちがこの二人の人から追い出されてしまうことを知っているのです。そのことを前提として、追い出すならあの豚の群れに乗り移らせてくれと言っているのです。豚というのは、ユダヤ人たちの間では汚れた動物とされていました。その汚れた動物になら、乗り移らせてくれるだろう、そこに、人間の中にいるように快適なわけにはいかないけれども、何とか住処を得られるだろう、ということです。このように、ここでの主イエスと悪霊の対決は、対決などと呼べるものではないのです。主イエスの、神の子としての圧倒的な力、権威の前に、悪霊はただ恐れ、逃げ腰になり、何とか生き延びることだけを考えているのです。主イエスと悪霊との関係はこのようなものなのだ、ということが、ここから私たちが読み取らなければならない最も大事なメッセージです。悪霊は、最初に見たように、私たちを支配し、この時代を支配し、私たちから言葉を奪い、交わりを奪い、手のつけられない存在にしてしまいます。私たちはその悪霊の力の前に無力であり、それに翻弄され、どうしてよいかわからずに右往左往してしまうのです。しかしその悪霊の力も、神様の独り子、主イエス・キリストの前では、このように無力なのです。主イエス・キリストは、悪霊に対して、このように圧倒的に勝利する方なのです。 「豚の群れの中にやってくれ」という悪霊の願いに対して、主イエスは「行け」と言われました。本日の個所で、主イエスがお語りになっているのはこの一言だけです。しかしその一言が、すさまじい力を持っています。この一言によって悪霊はこの人たちから出て、豚の群れの中に入ったのです。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、みんなおぼれ死んでしまったのです。これは何を意味するのか。悪霊たちは、なんとか豚の群れの中に住処を得ようとしたのです。しかしその豚の群れが、彼らが入ったとたんに湖に身を投げて死んでしまった。それは、その豚の群れと一緒に悪霊たちも滅ぼされてしまったということです。悪霊たちはついに豚の群れの中にも住処を得ることができずに、主イエスによって打ち滅ぼされてしまったのです。この世の終わりに起るはずの、悪霊の滅びが、主イエスによって今この時に起ったのです。そしてその主イエスの勝利によって、それまで凶暴で、誰もそばに寄れず、人との交わりを持つことができず、墓場に住むしかなかった二人の人が、救われたのです。正気を取り戻したのです。人と言葉を通じ合わせ、交わりを持つことができるようになったのです。死んだも同然であった彼らが、もう一度新しく生きることができるようになったのです。彼らは墓場から復活したのです。 主イエス・キリストのよみがえりによって私たちに与えられているのは、この恵みです。
「主は敵を破り、死は今、滅びた。高らかに歌え、ハレルヤ」。
「永遠のいのち、われらにくださる、主を宣べ伝えよ、ハレルヤ」。 私たちのこの世は、またそこを生きる私たちの人生は、悪霊の、罪の力の支配を受けています。そのことは、世の終わりまで変わることはないでしょう。しかし私たちは、その現実の中を歩みつつも、主イエスの復活によって、その罪の力、悪霊の支配が、最後には滅ぼされるものであることを知らされているのです。私たちの最終的な支配者は主イエス・キリストであり、そのご支配、力の前では、悪霊も、罪の力も、そして死の力も、全く無力なのだということを知らされているのです。主イエスの復活は、この世の終わりに、主イエスの勝利と支配が完全なものとなり、神様の恵みのご支配が完成する、その恵みの先取りとして与えられました。私たちは主イエスの復活を、その死に対する勝利を見つめることによって、悪霊の力に翻弄され、どうすることもできないこの世の暗い現実の中で、主イエスによる神の恵みの勝利を信じ、悪霊の力、罪の力の敗北を確信して歩むことができるのです。
先週の受難週祈祷会の奨励において、鈴木長老が、長崎にもいたことのある、マクシミリアン・コルベ神父のことを語られました。アウシュビッツ強制収容所において、処刑されようとした人の身代わりになることを自ら申し出て47歳で死んだ方です。百人の獄舎から一人の脱走者があった、その見せしめとして、十人に一人が何の関係もないのに殺されてしまう、それはまさに悪霊の支配が極まった地獄です。この悲惨な現実のどこに、神の恵みなどあるか、この現実を支配しているのは悪霊、悪魔、人間の罪であって、神などそこで何の力もない、いや神などもはやいないのだ、と思わずにはおれないような事態です。その中で、「自分がその人の身代わりになる」と申し出た人がいた。それは、自分を犠牲にしても人を愛する愛に満ちた人、などというような言葉で言い表すことができる事柄ではありません。それは、悪霊の支配、人間の罪の力、死の支配、それが、最後の支配者ではないことを知っている人のみがなしうることなのです。主イエス・キリストが、私たちの罪を背負って死に、その死に勝利して復活された、そこに、神様の恵みの、悪霊に対する、罪と死の力に対する勝利がある。この主イエスの力の前では、今人々を凶暴な悪魔に変え、人と人とを通じ合わせる言葉を奪い、人間らしい交わりを破壊し、墓場に閉じ込めようとする力がこの世を覆い尽くし、どんなに猛威を振るっていても、それはいつか必ず滅びていく。最後に勝利するのは、主イエス・キリストによる神様の恵みなのだ。たとえ自分の肉体の命はこの悪霊の力によって失われても、死に打ち勝たれた主イエスが、その復活の命にあずからせ、永遠の命を与えて下さる。その信仰こそが、この大いなる自己犠牲の源なのです。主イエス・キリストの復活は、私たちに、神様の恵みへのこのような確信、信頼を与えるのです。私たちはこの恵みへの信頼の中で、主イエスを復活させて下さった父なる神様をほめたたえながら生きるのです。 牧師 藤 掛 順 一 [2001年4月15日] |