キリスト教は、葬式宗教ではありません。人が死んでから、忙しく働き始めるような宗教ではないのです。キリスト教は、その人が生きている時にこそ深く関わるのです。しかし、それは死というものを、あるいは死にともなう葬儀というものを、軽く考えているということではないのです。ただ、私共は自分の死というものを、自分が生きるということと切り離して考えることが出来ないということなのです。私共はキリストに結び合わされた者として生きています。とすれば、私共の死も又、キリストに結び合わされた者としての死であるということなのです。
牧師は、日常の勤めとして、病院を回ります。入院している教会員を訪ねていきます。ある時、死についてのシンポジュウムがありました。そこで、あるお坊さんが、牧師は病院に行けるけれど、自分達はなかなか行けない。自分達が行くと、まだ死んでもいないのに縁起が悪いと言われてしまう。自分達はしたいけれども、出来ないのだ。そう言われるのを聞いたことがあります。そういうものかと思いました。そして、入院すると病院に駆けつけることの出来る牧師の幸せを思いました。特に何をするという訳ではありません。聖書を読み、讃美歌を歌い、祈るだけです。時間も決して長くありません。15分か20分ほどです。そこで牧師がすることは、キリストはあなたと共にいるということを、思い起こしてもらうことなのです。私共は、死を迎えて、あわてて死の備えをするのではありません。このように、まだ元気に礼拝に集える。この時、すでに私共は死への備えを始めているのであります。もっと言えば、私共が毎週ささげているこの礼拝が、各々にとっての死への備えとなっているということなのであります。主イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事に思いを集め、その出来事によって今日あるを得ている自分を発見する。この礼拝こそ、何にも増して、私共の死への備えとなっているのであります。キリストと共に生きる者は、キリストと共に死ぬからです。
先週、各会の例会がありました。私は壮年会に出席しましたけれど、そこで話されていたことも、葬儀のことについてでした。誰も縁起が悪いなどと言いません。自分が死んだら、どういう葬儀になるかということが話される。それを聞きながら、ああ、教会だなと思いました。これは教会においては当たり前のことですけれど、世間ではあまりないことだと思います。自分の葬儀の話をするなど、縁起が悪いというのです。ところが教会では、自分の葬儀の時に歌われる讃美歌も聖書の言葉も、前もって自分で決めることが出来ます。私は、これはとても素敵なことだと思うのです。どうして教会においては、自分の葬儀のことを考えたり、話したりすることが平気でなされるのか。それは、私共は死によって全てが終わると考えていないからだと思います。十字架の死の後の復活の命を、私共は信じている。だから、葬儀について話すことがタブーとされていないのだと思うのです。この死で全てが終わるとは考えていない。
パウロは言います。21節「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」。これは、実に強烈な言葉です。自分の命が、すでに復活のキリストの命に包まれている。キリストの命が自分の中に注ぎこまれ、自分が生きるということが、キリストが生きることと一つにされている。そう語っているのであります。パウロはこれと同じことを、ガラテヤの信徒への手紙2章20節でもこう告げています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。イエス・キリストと出会うまで、彼は自分の力で生き、自分の頑張りで生きてきた。しかし、キリストと出会って、彼は変わってしまったのです。自分が生きているのではなく、キリストの恵みの故に生かされている。「自分が、自分が、」と思っていたパウロが、「キリストが、キリストが、」というように変わったのです。そしてその時以来、キリストにある平安、死さえも彼から奪うことの出来ない平安をパウロは与えられたのであります。パウロは、ここで「死ぬことは利益なのです」とまで語っていますけれど、それは今、自分は牢獄の中にいて、つらくてしょうがない、こんな苦しいのなら、いっそのこと死にたいとか、死の世界の方が平安だろうと言っているのではないのです。そうではなくて、彼は死によっても引き離されることのない、キリストとの命の交わりを確信しているのです。私共は、このような強烈な言葉に出会いますと、「それはパウロだから確信しているのであって、自分のような者には、とてもとても」というように考えてしまう所があります。確かに、私共にはパウロのような、牢獄の中に入れられようと、ゆるがないような確信というものはないかもしれません。死ぬのは恐いというのが、正直な思いです。しかし、確信しようと、しまいと、与えられている恵みに変わりはありません。パウロに与えられていたキリストの命に包まれているという事実は、私共にも、パウロとまったく同じ様に与えられているのです。
私共は、キリストを抜きにして、今の自分を考えることが出来るでしょうか。あるいは、キリストを抜きにして、自分の死を考えることが出来るでしょうか。もし、考えることが出来ないとするならば、私共はパウロと同じ、キリストの復活の命の中に包まれ、生かされている恵みの中に生きているのであります。そして、このキリストの命に生きる者は、自分の栄光の為ではなく、キリストの栄光の為に、キリストが大きくなる為に生きるようになるのであります。
ただ、ここで確認しておかなければならないことは、私共の信仰の歩みというものは、このキリストと一つにされている平安、キリストの恵みによって生かされている平安、それが第一であるということです。この平安なくして、神の栄光の為に、キリストの栄光の為に働くということは、大変空しいことに、あるいは、自分を苦しめることにさえなるのではないかと思うのです。
先週、安野屋集会の第一回目がなされました。Oさんのお宅でこれからも毎月開かれることになります。70代、80代、90代の方々の集会ですけれど、その集会の中で、自分は何が出来、何のお役に立つのか判らないというような発言がありました。私は、この言葉は真剣に受け止めなければいけないと思いました。なぜなら、この言葉は真面目なクリスチャンが高齢になった時に、必ずと言って良い程、心に浮かぶ言葉だからであります。何かをしなければ、何かの役に立たなければいけない。それが出来ない自分は、教会にご迷惑ばかりかけて、ということになる。年老いた人々が教会に迷惑をかける。そんなことは、あり得ないことでしょう。私共は、キリストの命と一つにされた存在なのです。良いですか、皆さん。私共は、何か出来るから、役に立つから、尊いとされるのではないのです。私共の中に、キリストが宿られているから、キリストの命と一つにされているから、尊いのであります。私共は、業による証しではなく、存在による証しというものに目を向けなければいけないのではないでしょうか。業による証しというところにだけ立つと、いつの間にか高慢になってしっているということが起きるのではないでしょうか。
私の前任の教会に、Nさんという方がおられました。94才で、昨年天に召されたのですが、この方は、50年以上、CSの教師をされ、教会の会計をされ、長老であった方です。晩年施設に入られ、見舞いに行っても、ほとんどいつも寝ておられました。しかし、日曜日になると、必ず「教会に行く」と言われる。施設の方が着替えをしてくれて、CSの教師達が、毎週、送り迎えをしました。車イスでいつも礼拝に来ておられました。この方の姿が、どれ程、教会員を、求道者達を励ましたことでしょうか。キリストと共にあるということが、どんなにスゴイことであるか、力に満ちたものであるかを、礼拝に出るという、その姿だけで、示し続けられたのです。皆さん、歩けなくなったのなら、車イスで教会に来ましょう。その姿が、福音とは何であるか、キリストの命に生かされるとはどういうことなのかということを、はっきりと示すのです。この教会は幸いなことにエレベーターがあります。この礼拝堂が、車イスだらけになったら、それこそ素晴らしいと私は思うのです。
パウロは、生きた方がいいのか、死んだ方がいいのか、私には判らない。しかし、生きていれば、フィリピの教会の人々の為に実り多い働きが出来るので、生きようと言います。そして、25・26節で「こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります」と申します。パウロは、どうやって、フィリピの教会の人々の信仰を深め、喜びをもたらすことが出来ると考えたのでしょうか。自分が再びフィリピの教会の人々の前に姿を現すことによって、どうしてフィリピの教会の人々の誇りを増し加えることが出来ると考えたのでしょうか。パウロのことですから、牢獄から出れば、再びキリストの福音を語り続けるつもりだったでしょう。それ以外に、彼はすることがなかったのですから。しかし、そのパウロの説教によって、パウロはフィリピの教会の人々の信仰を深めたり、誇りを増し加えるという風に考えていたのでしょうか。それも無いとは言えませんが、それ以上に、たとえ牢獄に入れられても、パウロの中に息づいていた信仰は、少しも弱らなかった。キリストと共にある、という事実は、少しもそこなわれなかった。この神様の恵みの事実によって、フィリピの人々の信仰を深め、誇りを増すことが出来ると考えたのではないかと思うのです。パウロが語ってきた福音が、この牢獄に入れられるという出来事を通して、どんなに真実であるかが証しされたからであります。パウロは自分の身に起きた福音の出来事の証人として立てられているのです。
ローマの信徒への手紙8章35〜39節において、パウロは語ります。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。……しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。これは、一人パウロにだけ与えられたものではありません。父と子と聖霊との御名によって洗礼を受けた、全ての者にすでに与えられている、神の恵みの現実なのです。
キリストの命は、皆さんの中に宿っています。そして、皆さんはその命に生かされることの恵みの証人として立てられているのです。その幸いと、責任とを覚え、ただただ忠実な僕として、主の御前に歩む一週間を、ささげていきたいと思います。
[2004年5月16日]
へもどる。