富山鹿島町教会

礼拝説教

「信仰の戦い」
ダニエル書 3章1〜30節
フィリピの信徒への手紙 1章27〜30節

小堀 康彦牧師

 今朝、私共に告げられております神の言葉は、「キリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」という言葉です。
 私共は、自分がクリスチャンらしい人間であるかと問われたならば、皆、赤面するしかありません。世の人は、クリスチャンに対して、勝手なイメージを持っているものです。優しくて、親切で、物静かで、微笑みを絶やさない。今まで、私はたくさんの牧師やクリスチャンと出会ってきましたけれど、そのようなイメージにピッタリの人になど出会ったことがありません。私自身、まことに短気でありますし、少しも静かでありませんし、まことにガサツな人間です。この教会の歴代の牧師先生の顔を思い浮かべますと、鷲山先生、山倉先生、大久保先生、藤掛先生、まことに性格・雰囲気ともバラバラです。皆、ちっとも似ていません。しかし、皆、立派な牧師でありました。私は、クリスチャンらしい、あるいは、牧師らしい性格だとかというものは、存在しないのだと思います。私共は、みんな違います。「みんな違って、みんな良い」のであります。私共は信仰が与えられたからといって、性格が変わるわけではありません。無口な人がおしゃべりになる訳でもありませんし、おしゃべりな人が急に無口になる訳でもありません。ただ、こういうことはあると思います。今まで、無口だった人が、「あの人は暗いね」と言われていた。その人が、同じように無口でいながら、「あの人は落ち着いている人だ」と言われるようになる。おしゃべりな人が、「あの人は本当にうるさいわね」と言われていたのが、「あの人がいると本当に明るくなるね」。そういう変化はあるだろうと思います。それは、その人の中で、性格というよりも、生き方と申しますか、生きる姿勢と申しますか、或いは他者との関わり方と言いますか、そういうものが変わるからなのだろうと思います。

 私共に求められているのは、福音にふさわしい性格というものではなくて、福音にふさわしく生きるということなのであります。では、福音にふさわしく生きるとはどういうことなのか? 聖書はここで、それは「戦うことだ」と告げるのです。今朝、与えられた御言葉の中に、「戦う」という言葉が何度も繰り返し使われております。福音にふさわしく生きるということが、戦うことであるというのは、あまりピンとこないかもしれません。福音にふさわしく生きるというのは、平和に生きること、心穏やかに平安に生きることなのであって、おおよそ戦うこととは正反対のように思われるかもしれません。しかし、私共が信仰者で生涯あり続けるということは、決して楽なことではありません。どうしても戦うということが必要なのであります。戦うことが求められてしまうのであります。しかし、この戦いとは、自分以外の何者かに向かって戦いを挑むというような戦いとは少し違うのです。仮想敵を想定して、こいつをやっつけなければ信仰の戦いに勝利できないといって戦うようなものではありません。もちろん、私共の信仰をおびやかす者に向かって戦うということもあると思います。そういう時もあるでしょう。しかしそれ以上に、私共の「信仰の戦い」というものは、自分の中に潜む、不信仰に対しての戦いということになるのではないかと思うのであります。日曜日にこのように礼拝に集うということ自体が、私共にとって一つの戦いでありましょう。あるいは、日々の生活の中で、祈りの時間を確保するということも又、戦いでありましょう。しかし、もっと厳しい戦いを強いられることがあります。それは、苦しみの時です。
 信仰者は、どこかでこういうことを前提としている所があります。それは、「自分は神様を信じ、神様に仕えている。だから、神様は私に良いことをしてくれるに違いない」というものです。「私は、教会に行っている。ちゃんと献金もしている。だから、神様は私に良いことをしてくれるはずだ。」というものです。それは正しいのです。確かに神さまは、私共に良いことをして下さるのです。しかし、神さまが私に良いことをして下さるということは、私が良いことと考えていることをして下さることであるとは限らないのです。神様が良いと思うことと、私共が良いと思うことは、同じではないのです。そして、神様は神様が良いと思われることをして下さるのです。このズレが、私共が苦しみにあう時、私共の信仰に深刻な危機をもたらすのです。神様は私を愛しておられるはずなのに、どうしてこんな苦しみを神様は与えるのかという思いが頭をもたげる。神様の愛、神様の御支配が信じられなくなるという危機であります。このような時は、信仰者の生涯において、必ず訪れるのです。この様な危機を乗り超えなくては、この自分の中に沸き上がってくる不信仰と戦わなければ、私共が生涯キリスト者であり続けるということは、出来ないのであります。

29節「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」と告げます。これは、実に驚くべき言葉です。私共は、誰も苦しみになど出会いたくありません。こちらから進んで苦しみを求める人はいません。しかし、苦しみは避けようもなく、向こうからやって来ます。そのような苦しみに対して、聖書は、それは恵みとして与えられたものだと告げるのです。何故、苦しみが恵みなのか? これはなかなか判りにくいことであります。理屈に合いません。私共の頭の中で理解しようとしても、はみ出してしまいます。しかし、苦しみの中でなおもキリストをより頼んで、その苦しみの時を乗り超えた者には、この苦しみが恵みとして与えられたということが、本当のことだと判るのではないかと思います。
 苦しみの時を通して、いよいよ深く、確かに、キリストと自分が結び合わされていることを知るようになるからであります。ペトロの手紙一1章6・7節に「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」と記されている通りです。試練を通して、私共の信仰は練り清められるのであります。ゆるがぬ信仰へと成長させられるのであります。私はそのような何人もの「信仰の証人」と出会ってきました。

 前任地の教会に、三番目の子を出産の後、産後うつ病になられたTさんという婦人の方がおられました。大変重い症状でした。通常、数ヶ月で良くなるということでしたが、そうはなりませんでした。一年しても、二年しても良くならない。この病は、朝起きるのが大変辛い。そして、大勢の人がいる所に入っていけないのです。しかし、その人は決して礼拝を休まれませんでした。一番後ろの端の席に座り、ただ主の助けを求めるように、礼拝に与っていました。全身で、ただ御言葉を受けようとしていました。礼拝が終わると、人と話をすることが出来ず、飛ぶように帰られておりました。そんな日々が、一年、二年、三年と続きました。ただ主だけをより頼んでいる、すがりつくように、ただ神様に頼っている、そのことが礼拝に与る時の姿勢を見ただけで、私にも判りました。苦しい日々でした。しかしそれから、少しずつ、少しずつ、良くなられ、今では前と同じように、教会学校の教師が出来るようにまでなりました。しかし、その人は病気の前と後では、明らかに変わっていました。主の御支配をいよいよ確かに信ずる者とされたのです。そして、その方が病気の時に、一番心配しておられ、心を痛めていたお母さんも教会に来られるようになりました。「娘が一番辛い日々の中で、ただ神さまの助けだけを求めている。その姿を見ながら、私もその神さまを知りたいと思った。」とのことでした。そして、そのことを一番喜んだのも、彼女でした。自分のような弱い者を、何も出来ずただ神さまの助けだけを求めている私を、神様は用いて下さった。そう言って喜びました。私がこちらに来る前に、一番上の娘さんと二番目の娘さんが、洗礼を受けられました。
 この女性の為に、同じ教会学校の教師であった者たちを始め、皆が祈っていました。毎日、皆が、その人の為に祈っていました。その祈りは、一年、二年、三年と続きました。皆が共に戦ったのです。その人の病気の苦しみを私共は判りません。しかし、その人が苦しみの中で、主をより頼み、戦っているのは判りました。私共はその人の為に祈ることしか出来ませんでした。しかし、その祈りの中で、私共は、その人と共に同じ信仰の戦いをしていたのであります。

 信仰の戦いというものは、一人でするものではないのです。本人は一人で戦っていると思っているかもしれません。しかし、そうではないのです。信仰の戦いというものは、同じ信仰に生きる者が共に戦うものなのです。それは、祈りの戦いなのです。27節「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており」とあります。聖霊という一つの霊によって立てられている私共は、互いに結び合わされた者として、共に戦うのであります。又、30節に「あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです」とあります。パウロは福音の故に牢獄に入れられています。そのパウロと、フィリピの教会の人々は共に、同じ戦いを戦っていると言うのです。それは、福音に敵対する諸々の霊との戦いであり、不信仰との戦いなのであります。キリスト者は、どんな苦しみの中にあっても、ただ一人で、単独者として戦っているのではないのです。共に戦っているのです。同じ戦いの中に生きている群、それがキリストの教会なのであります。この富山鹿島町教会の中にも、様々な戦いを強いられている兄弟姉妹がいます。私共は、その方々に告げていかねばなりません。あなたがたは一人で戦っているのではない。私もあなたの為に祈っている。共に戦っている。そして何よりも、主イエス・キリストご自身が聖霊を注ぎ、共に戦っていて下さることを。
 週報にありますように、先週33歳の若さでAKさんが天に召されました。ここで前夜式・葬儀がなされました。ご家族の方々は、長く看病の日々が続いていました。その日々の中で、毎日このことを覚え、祈りをささげ、共に戦っていた方々がいることを私は知っています。

 先程、ダニエル書の3章をお読みしました。ここにも、一つの戦いが記されています。バビロン捕囚の中で、金の像を拝むように強要された、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴという三人のユダヤ人の話です。彼らは、金の像を拝まなければ、燃え盛る炉に投げ込むとおどされました。その時の三人の答えが17・18節に記されています。「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません」。ここで、「そうでなくとも」と言われていることに注目しなければなりません。神様はこの危機的状態から、きっと救ってくださるでしょう。そう信じている。しかし、「たとえ、そうでなくても」金の像を拝むことはしない。そう告げるのです。「たとえ、そうでなくても」と言い切る所に、信仰があるのです。神様の御前に真実に立ち続けようとする信仰があるのであります。自らの中の不信仰と戦う信仰です。自分の思い・自分の願い・自分の希望はある。しかし、神さまがとえそうされなくても、私は神さまを信じる。そう告げているのです。
 そして、ここで「三人」の者が共に燃え盛る炉に投げ込まれたのです。一人ではなかった。ここには意味があるのだと思います。一人の信仰は弱い。私共は自分で良くそのことは判っています。その為に、神様は私共に信仰の友を与えて下さっているのです。この恵みを感謝したい。この三人も、きっと共に祈り、支え合ったに違いないのであります。信仰の戦いを支えられた者は、いつまでも支えられ続けるわけではありません。支えられた者が、今度は支える者となるのです。そのようにして、教会は一つの霊によって立っていることを証ししてきたのですし、証ししていくのであります。
 そしてこの時、この三人の者と共に燃える炉の中に、もう一人の者がいたのです。聖書はそれが誰であったか明確には告げていません。しかし、25節「私には四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして、何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」と告げられています。神の子のような姿。これは、主イエス・キリストを知っている私共には、主イエス・キリストとしか思えないでしょう。この炉の中に入れられた三人と共に主イエス・キリストがおられ、彼らを守って下さったのであります。実に、私共は共に戦う信仰の友、共に戦う主イエス・キリストとの交わりの中に生かされているのであります。
 この一週間、共に主に立てられた者として、信仰の戦いを、真実に戦ってまいりたいと思います。共に祈り合い、支え合いながら。

[2004年5月23日]

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