礼拝説教「信仰の戦い」ダニエル書 3章1〜30節 フィリピの信徒への手紙 1章27〜30節 小堀 康彦牧師
今朝、私共に告げられております神の言葉は、「キリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」という言葉です。
私共に求められているのは、福音にふさわしい性格というものではなくて、福音にふさわしく生きるということなのであります。では、福音にふさわしく生きるとはどういうことなのか? 聖書はここで、それは「戦うことだ」と告げるのです。今朝、与えられた御言葉の中に、「戦う」という言葉が何度も繰り返し使われております。福音にふさわしく生きるということが、戦うことであるというのは、あまりピンとこないかもしれません。福音にふさわしく生きるというのは、平和に生きること、心穏やかに平安に生きることなのであって、おおよそ戦うこととは正反対のように思われるかもしれません。しかし、私共が信仰者で生涯あり続けるということは、決して楽なことではありません。どうしても戦うということが必要なのであります。戦うことが求められてしまうのであります。しかし、この戦いとは、自分以外の何者かに向かって戦いを挑むというような戦いとは少し違うのです。仮想敵を想定して、こいつをやっつけなければ信仰の戦いに勝利できないといって戦うようなものではありません。もちろん、私共の信仰をおびやかす者に向かって戦うということもあると思います。そういう時もあるでしょう。しかしそれ以上に、私共の「信仰の戦い」というものは、自分の中に潜む、不信仰に対しての戦いということになるのではないかと思うのであります。日曜日にこのように礼拝に集うということ自体が、私共にとって一つの戦いでありましょう。あるいは、日々の生活の中で、祈りの時間を確保するということも又、戦いでありましょう。しかし、もっと厳しい戦いを強いられることがあります。それは、苦しみの時です。
29節「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」と告げます。これは、実に驚くべき言葉です。私共は、誰も苦しみになど出会いたくありません。こちらから進んで苦しみを求める人はいません。しかし、苦しみは避けようもなく、向こうからやって来ます。そのような苦しみに対して、聖書は、それは恵みとして与えられたものだと告げるのです。何故、苦しみが恵みなのか? これはなかなか判りにくいことであります。理屈に合いません。私共の頭の中で理解しようとしても、はみ出してしまいます。しかし、苦しみの中でなおもキリストをより頼んで、その苦しみの時を乗り超えた者には、この苦しみが恵みとして与えられたということが、本当のことだと判るのではないかと思います。
前任地の教会に、三番目の子を出産の後、産後うつ病になられたTさんという婦人の方がおられました。大変重い症状でした。通常、数ヶ月で良くなるということでしたが、そうはなりませんでした。一年しても、二年しても良くならない。この病は、朝起きるのが大変辛い。そして、大勢の人がいる所に入っていけないのです。しかし、その人は決して礼拝を休まれませんでした。一番後ろの端の席に座り、ただ主の助けを求めるように、礼拝に与っていました。全身で、ただ御言葉を受けようとしていました。礼拝が終わると、人と話をすることが出来ず、飛ぶように帰られておりました。そんな日々が、一年、二年、三年と続きました。ただ主だけをより頼んでいる、すがりつくように、ただ神様に頼っている、そのことが礼拝に与る時の姿勢を見ただけで、私にも判りました。苦しい日々でした。しかしそれから、少しずつ、少しずつ、良くなられ、今では前と同じように、教会学校の教師が出来るようにまでなりました。しかし、その人は病気の前と後では、明らかに変わっていました。主の御支配をいよいよ確かに信ずる者とされたのです。そして、その方が病気の時に、一番心配しておられ、心を痛めていたお母さんも教会に来られるようになりました。「娘が一番辛い日々の中で、ただ神さまの助けだけを求めている。その姿を見ながら、私もその神さまを知りたいと思った。」とのことでした。そして、そのことを一番喜んだのも、彼女でした。自分のような弱い者を、何も出来ずただ神さまの助けだけを求めている私を、神様は用いて下さった。そう言って喜びました。私がこちらに来る前に、一番上の娘さんと二番目の娘さんが、洗礼を受けられました。
信仰の戦いというものは、一人でするものではないのです。本人は一人で戦っていると思っているかもしれません。しかし、そうではないのです。信仰の戦いというものは、同じ信仰に生きる者が共に戦うものなのです。それは、祈りの戦いなのです。27節「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており」とあります。聖霊という一つの霊によって立てられている私共は、互いに結び合わされた者として、共に戦うのであります。又、30節に「あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです」とあります。パウロは福音の故に牢獄に入れられています。そのパウロと、フィリピの教会の人々は共に、同じ戦いを戦っていると言うのです。それは、福音に敵対する諸々の霊との戦いであり、不信仰との戦いなのであります。キリスト者は、どんな苦しみの中にあっても、ただ一人で、単独者として戦っているのではないのです。共に戦っているのです。同じ戦いの中に生きている群、それがキリストの教会なのであります。この富山鹿島町教会の中にも、様々な戦いを強いられている兄弟姉妹がいます。私共は、その方々に告げていかねばなりません。あなたがたは一人で戦っているのではない。私もあなたの為に祈っている。共に戦っている。そして何よりも、主イエス・キリストご自身が聖霊を注ぎ、共に戦っていて下さることを。
先程、ダニエル書の3章をお読みしました。ここにも、一つの戦いが記されています。バビロン捕囚の中で、金の像を拝むように強要された、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴという三人のユダヤ人の話です。彼らは、金の像を拝まなければ、燃え盛る炉に投げ込むとおどされました。その時の三人の答えが17・18節に記されています。「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません」。ここで、「そうでなくとも」と言われていることに注目しなければなりません。神様はこの危機的状態から、きっと救ってくださるでしょう。そう信じている。しかし、「たとえ、そうでなくても」金の像を拝むことはしない。そう告げるのです。「たとえ、そうでなくても」と言い切る所に、信仰があるのです。神様の御前に真実に立ち続けようとする信仰があるのであります。自らの中の不信仰と戦う信仰です。自分の思い・自分の願い・自分の希望はある。しかし、神さまがとえそうされなくても、私は神さまを信じる。そう告げているのです。 [2004年5月23日] |