礼拝説教「前に向かって体を伸ばしつつ」申命記 34章1〜8節 フィリピの信徒への手紙 3章9b〜16節 小堀 康彦牧師 パウロは告げます。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」 パウロは「なすべきことはただ一つ」と明言いたしております。この一句を言い切れる人生は、まことに幸いなものではないかと思います。それは、悔いのない生涯と言って良いでしょう。この言葉は、自分が何の為に、どこに向かって生きているのか、明確に自覚し、そこに向かって集中して生きている者が語ることの出来る言葉でしょう。人間は生きていく上で、実際には様々なことをしなければなりません。毎日、雑多なことの繰り返しであります。しかし、その様々なことがバラバラではなくて、明確な一点に向かって為されている。そのような目的と集中を与えられている。それが私共キリスト者に与えられている歩みなのであります。
私共は主イエス・キリストの御業によって、既に罪を赦されました。しかし、未だその救いは完成していません。既に救われている。しかし、未だ完成していない。この「既に」と「未だ」の間で、完成に向かっての運動が起こります。その運動こそ、私共の人生を「なすべきことはただ一つ」と言い切れるものにするのです。 それが、9〜10節において言われていることなのです。パウロは、「キリストへの信仰による義」「信仰に基づいて神から与えられる義」をすでに与えられていると言うのです。この二つは内容としては同じことだと思いますが、要するに信仰によって義と認められる。信仰義認ということでしょう。これが与えられている。しかし、未だ、復活に達しているという訳ではない、と言うのです。それはそうであります。復活は終末において与えられるものでありますから、未だそれを得てはいない訳です。パウロはここで、そのことを何度も繰り返します。12節「既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。」13節「既に捕らえたとは思っていません。」ここで、既に得たとか、既に捕らえたとか言われているのは、何を得たとか、何を捕らえたと言っているのか。完全な者というのは、何を指しているのか。それは、終末に与えられる復活の恵みのことだろうと思われます。パウロは、それを得たい、それを捕らえたいと思い、為すべきことはこのことただ一つだと思い、走っていると言うのです。これが聖化の道です。ここには、聖なる欲望、聖なるあこがれとも言うべきものが表明されているのだと思います。キリスト者は、これを持つのです。神の国、終末、復活、完全への欲望、あこがれであります。それを得ようとして、その目標を目指して、ひたすら走る。それが私共の信仰の歩みであり、人生なのだとパウロは言うのです。
パウロはここで競技場で走る人をイメージしています。レースが始まれば、後ろを振り返ることなく、ひたすらゴールを目指して走る。何となく走るのではなくて、賞を得ようとして、真剣に走る。それが私共だと言うのです。私共は、何となく信仰生活を送っているというのではないのです。明確な目標、目あてがあって、そこに向かって走っているのです。その目標が、終末であり、神の国であり、復活であり、私共の救いの完成というものなのであります。私共の救いの完成は、私共が本当にイエス・キリストに似た者に変えられることによって、復活の体に甦ることによって実現するのですが、これはこの地上の生涯において実現されることはありません。私共は、ただ、これを求めて歩んでいるのです。
さて、パウロはここで自分が捕らえようと努めているのは、自分がキリスト・イエスに捕らえられているからですと申します。これは、先程申しました、義認と聖化の関係を指しています。自分がキリストに捕らえられている、キリストに愛され、キリストに知られ、キリストを着た者とされた。信仰によって義と認められる恵みを受けた。だから、捕らえようと努めている。キリストを愛し、キリストを知り、キリストを着た者にふさわしい者に変えられようと努めている。聖化の道を歩んでいるというのであります。キリストに捕らえられるという、救いに与る、キリストの恵みを知らされる、というキリストの恵みの出来事が先行しているのです。そして、その恵みに答えようとする歩みが、それに続いているのです。この順番は大切です。キリストに捕らえられている、愛されている、知られている、生かされている。このことがまずあるのです。そのことを知る故に、私共は後ろのものを忘れることが出来るのです。今まで、自分にとって大切だったものをどうでも良いと思うようになり、今まで頼りとしていたものを頼らないで良いようになるのです。
キリスト者の信仰の生涯は、しばしば出エジプトの旅にたとえられます。罪の奴隷であったエジプトから、神様の約束の地、神の国に向かっての旅というわけです。この旅で印象深いのは、40年の旅の最後に約束の地に入ったのは、最初に出エジプトの旅を始めた時の人の中の、ほんの一握りの人であったということです。あのモーセでさえ、約束の地に入ることは出来なかったのです。モーセはヨルダン川を渡る前に、ピスガの山頂に登り、約束の地を見渡すのです。しかし、約束の地には入れなかったのです。約束の地を目前にして、これを仰ぎ望みながら、この地上の生涯を閉じたのです。 [2004年7月25日] |