富山鹿島町教会

礼拝説教

「神の似姿に造られて」
創世記 1章24節〜2章4節a
エフェソの信徒への手紙 4章17〜24節

小堀 康彦牧師

 神様は7日間で天と地にある全てのものをお造りになられたと聖書は告げます。もちろん、この7日間というのは、文字通りの一日24時間としての7日間、168時間のことではありません。そうではなくて、この7日間というのは、神様が定められた時間の単位と申しますか、時間のサイクルと申しますか、全ての時間の基準というものを示しているのです。ですから、私共は7日間を一つの単位とする時間の流れ、つまり、一週間を単位とする時間の中を生きているのです。
 私共の現在使っておりますカレンダーは、全て7日間を一つの単位とするものとなっておりますので、これを当たり前のように使っておりますけれど、このカレンダー・暦の出発点は、この7日間で神様が天地をお造りになられたという聖書の記述にあるのです。もし、人間が自分の都合で暦を作るとすれば、きっと7日間をひとめぐりとするようなものは作らないだろうと思うのです。7という数字は、実に扱いにくい数字だからです。扱いやすいということならば、10日とかをひとめぐりの単位として考えるだろうと思います。日本語で、上旬、中旬、下旬という言い方がありますが、これなどは10日で一ヶ月を三つに分けた言い方な訳です。月の満ち欠けを基にした太陰暦では、一ヶ月が29.5日ですから、ほぼ30日としていますし、最初に太陽暦を使ったエジプトでも一ヶ月を30日として、一年で5日間は暦にない特別な日として休みにしたということです。一ヶ月が30日ならば、7日間をひとめぐりにするのは何とも不自然なことと言わねばならないでしょう。何故神様は7日で天地を造られたのか。10日でなかったのか。あるいは30日でなかったのか。本当の所は、神様に聞いてみなければ判りませんけれど、私はこの7日が不自然であるという所に大きな意味があったのではないかと思うのです。太陽暦にしても太陰暦にしても、太陽や月という自然を観察して作られたものです。つまり、暦というものは太陽や月に基づいている訳で、ここに時を支配するものとして太陽や月を崇める、拝むということが起きても当然なことなのです。
 現代の日本でも、星占いのようなものが日常的になっている所がありますけれど、古代においては、趣味やヒマつぶしの問題ではなくて、この暦によって生活の全てが決まってしまう所があったのです。今でも日本には、田植えをする日とか、葬儀をしてはいけない日だとか、お見舞いに行ってはいけない日のようなものが残っていますけれど、これは人間が暦によって、あるいは暦の基にある自然によって支配されていることを示しているのでしょう。神様は、7日間で世界を造られ、それを時間のひとめぐりとすることによって、私共は自然や暦によって支配されているのではなく、天地を造られた唯一人の神様の御支配のもとに生きている、そのことを示そうとされたのではないかと思うのです。神様は7日目に全ての創造の業を完成されて、安息されました。それを覚えて、私共も又、7日に一日ずつ休む。神様を礼拝し、神様をほめたたえる為の日として安息する訳です。機械的に7日に一度、その日がめぐってくれば、その日が田植えの日だろうと休む。悪い日だろうと何だろうと喜び祝う。このことによって、私共は暦や自然の支配というものから、自由にされたのであります。実に、7日目に神様が休まれたということは、神様の創造の御業を告げるこの物語のつけたしのようなものではなくて、その目的とも言うべきものなのであります。七日目の安息日を守る者として人間が生きるように、神さまは七日間で神さま天地をお造りになられたのです。私は星占いなどというものが大嫌いなのですが、それは、人間というものは、生まれた日とかで何かが決まってしまうような存在ではないのであって、それは神さまに造られた「人間」の尊厳というものを、著しく傷つけるものだと思うからなのです。人間はそんなものから自由なのです。そういうものから自由なものとして神様に造られているのです。

 28節に、「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」とあります。ここに「従わせよ」「支配せよ」とありますように、人間は自然に支配される者としてではなくて、自然を支配する者として造られているのであります。ですから、ヘビとか牛とかそういうものを神様として拝むというのは、全くナンセンスだということなのです。もちろん、それは自然を人間の好き勝手に、どのように扱っても良いということではありません。地球の温暖化、環境破壊といったエコロジーの問題は、この一句の誤解にあるとも言えます。確かに人間は、他の被造物とは違います。キリスト教は、動物の命と人間の命を同じ価値として見ることはありません。豚の命と、私の命、我が子の命が同じなはずがないのです。しかし、それは他の被造物をどのように扱っても良いということではありません。この「従わせよ。」・「支配せよ。」という言葉の理解ですが、これは「管理せよ。」という風に理解すべきなのだと思います。つまり、人間は自然の主人ではなく管理人だということです。この世界の主人はただ一人、神様だけなのです。管理人は主人の御心に従って、管理しなければならないのです。管理人が主人のように自分の思いのままにこの世界を扱ってはならないのです。それが私共人間に与えられている責任なのであります。神様によって人間が造られたということは、人間がそのように神様の御前に責任ある者として生きるように造られたということなのであります。その責任をわきまえずに、まるで自分が主人であるかのように思い上がった所に、間違いがあったのだと思うのです。

 さて、神様は7日目に休まれる前、6日目に家畜や動物と共に人間を造られました。家畜や動物を五日目に、そして人間だけを六日目に造られたのではない。このことは、人間が動物や家畜と同じ部類に入るということであり、人間の思い上がりをたしなめる、そんな意図を思わされるのです。しかしそれにも関わらず、ここで神様は、人間を造られた時にだけ特別な意図をもって創造の御業をなされたということが記されています。26節「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』27節「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」とありますように、神様は人間をご自身に似た者として造られたというのです。ここで問いが生まれます。それは、私共の一体何が、どこが神様に似ているのかという問いです。この問題は二千年のキリスト教会の歴史の中で、実に様々な議論がくり広げられてきました。今、そのような議論のすべてをここで紹介するいとまはありませんけれど、これは「 Imago Dei論 」と呼ばれている議論です。 imagoというのは、イメージという言葉の語源になった「像」という意味の言葉です。Deiは神ですから、「神の像の論」あるいは「神の似像論」とも言います。神学の教科書を開けば、必ずこれについての論述があるという、とても大切な議論なのです。何故なら、この「神の像」を問うことによって、人間とは一体何なのかということを問うことになるからです。人間とは一体何なのか? この根本的且つ重大な問いに対してのキリスト教の答えは、全てこの「神の像」についての考えを展開したものであると言っても良いと思います。
 この「神の像」について、ある人は「人間に理性があること」が神の似姿であると言い、ある人は「人格を持っていること」、ある人は「自由であること」、ある人は「霊性を持っていること」、つまり祈れることだと言います。その他、挙げればきりがありません。それらはどれも当たっていると思います。しかし、私は今その中の一つを確認したいと思います。それは愛です。ヨハネの手紙の中で、「神は愛である。」と告げられております(ヨハネの手紙T 4:10)から、神の似姿に造られた私共も又、愛する者、愛の交わりを形成する者として造られていると言うことが出来ると思います。それは私共が神様との愛の交わり、そして人間同士の愛の交わりを形成する者として造られたということです。私共がそのように現在生きているかどうかではなく、そのように生きる者として造られているということです。つまり、人間には「あるべき姿」というものがあるということなのです。人間は自由であります。それも神の似姿の「しるし」と言えるでしょうが、問題はこの自由をどのように用いるのかということなのです。人間には、この自由を用いるべき方向があるのです。神さまと、また隣人の人間と愛の交わりを形成していくために自由を用いなければならならいのです。それを破壊するために用いてはならないのです。それが、神様が私共を造られた意図というものです。
 「男と女に創造された。」ということも、そういうことの文脈の中で理解されなければならないのでしょう。男と女の愛というものも、本来は人間を造られた神さまの愛、神様の中にある三位一体の永遠の愛の交わりを写し出すものであるということなのでありましょう。しかし、現実にはそのようになっていないということがあるかもしれません。それは、3章において記されている罪が私共の中にあるからなのでありましょう。とすれば、どうやって本来の神様に造られた神の似姿を回復するのかということです。この本来の私共のあるべき姿、今は見失い、判らなくなってしまっている神の似姿を回復すること。それが救われるということなのであります。
 私共は、神様がご自身に似せて造られた人間の姿をそこなうことなく保持された唯一人の方を知っています。第二のアダムである主イエス・キリストであります。つまり、罪を犯す前のアダムの姿、神様に造られたままの本来の人間の姿を回復するということは、この主イエス・キリストに似た者に変えられるということにほかならないのであります。

 先程、エフェソの信徒への手紙4章17節以下をお読みいたしました。ここには、その筋道が明確に示されています。17〜18節「そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。」パウロは「強く勧めます。」と語り始めます。これはどうでもよいことではなくて、本当に大切なことなのです。だから、どうかきちんと聞いて欲しい。そういう思いを込めて、パウロは語るのです。最早、キリストを知る前と同じように歩んではいけない。神の命から遠く離れた生き方をしてはいけない。キリストを知り、キリストに結ばれ、キリストに学んだ以上、以前のような生き方は出来ないはずなのです。22節後半〜24節「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着けるのです。神にかたどって造られた新しい人とは、キリストでしょう。キリストを着るのです。それが、神様に似た者として造られながら、その姿を失ってしまった人間に与えられている、ただ一つの回復の道であり、神様に似た者として造られた人間の、歩まなければならない道なのです。
 「キリストを着る」というのは、コートを着るように手軽に着ることは出来ません。心の底から新しくされなければならないのです。それは悔い改めということであり、新しく生まれるということでしょう。それは一瞬にして起きるということではありません。御言葉によって、造り変えられ続けていくことです。ですから、私共にとって大切なことは、あきらめないということです。終末において、主イエスが再び来られ、救いが完成し、キリストに似た者として復活するその日まで、この営みは続くからです。私共は、自分を小さく見てはいけません。私共はこの天地を造られた、唯一人の神様に似た者として造られているのです。そして神様は私共を見て、極めて良かったと大満足されたのです。ですからこの私共を造られた神様を悲しませる歩みをしてはならないのです。この一週間、神様にかたどって造られた新しい人を身に着けた者として、共々に主の御前を歩んでまいりたいと思います。

[2004年9月19日礼拝]

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