礼拝説教2004年11月28日 魚津教会「主は来られる」 マタイによる福音書 25章1〜13節 小堀 康彦牧師 今日からアドベントに入ります。アドベント。私共はこれを「待降節」と訳しております。主イエスの誕生、主イエスが天より降り人ととなられたクリスマスを待つという意味の言葉です。しかし本来、この言葉に「待つ」という意味はありませんでした。ラテン語のadovenio、「来る」という言葉から生まれたものです。この言葉の名詞形はadoventusで「到来」という意味になります。アドベントの意味は、主は来られるということなのです。イスラエルの民は、長い旧約の歴史の中を歩みながら、救い主の誕生を待っていました。それと同じ様に、私共も又、主イエスが再び来られるのを待っている。キリストの教会の一年の歩みは、このアドベントから始まります。救い主の誕生を待ち望んでいたイスラエルの歴史と重ね合わせながら、主イエス・キリストが再び来たり給うを待ち望む、このアドベントの歩みから教会は新しい一年の歩みを始めてきたのです。主イエスが何時来られるのか、それは誰も判りません。判りませんけれど、必ず来られる。私共キリスト者の歩みは、このいつ来られるか判らない、しかし必ず来られるこの主イエス・キリストの再臨、終末というものに向かって備えをなし続けるという所にあるのでありましょう。
私はこの四月に東舞鶴教会から富山鹿島町教会に赴任してまいりました。富山鹿島町教会は私を迎える前の半年間、無牧の時を過ごしました。それは、心細い、寂しい、つらい日々でした。富山鹿島町教会に来て、何度もその話を聞きました。魚津教会は、大藤先生の体調が急激に悪くなられ、東京の病院に入院される中で、同じ様な心細い、不安を抱えておられることと思います。そういう中で、私が代務者として立てられました。ウェラーさんと共々に、大藤先生の代わりにはならないでしょうけれど、精一杯、出来るだけのお手伝いをさせていただきたいと思っております。今朝、私は初めて魚津教会の講壇を守ることになった訳ですが、与えられました御言葉は、主イエスがなされた、いわゆる「十人のおとめのたとえ」と言われるものです。今の魚津教会にとって、この御言葉が与えられたということも又、神様の不思議な導きと配慮があるのだと感じております。
このたとえ話において、花婿というのは再び来られる主イエスを指しています。婚宴の席というのは、神の国、天国の喜びを示しています。10人のおとめとは、教会のことです。私共がこのたとえ話を聞いてすぐに思うことは、自分はこの10人のうちのどちらのグループに入るのだろうかということではないかと思います。自分は賢いおとめのグループか、それとも愚かなおとめのグループか。そして、はなはだしい場合は、あの人は愚かなグループだ、この人は賢いグループだなどと思い始める。しかし、そのような読み方は主イエスがこのたとえ話を語られた意図を取り違えていると言わなければならないと思います。もしそんな風に読みますと、私共は皆、不安になるしかないのではないでしょうか。自分は賢いおとめのグループに入ると自信を持って言える人そう居るものではないからです。実際、ここには何人いるでしょうか。又、自分は賢いおとめのグループに入ると自信を持って言える人がいるとすれば、きっとそういう人は、あの人は愚かなおとめのグループだなどと人を上から見下して、裁き始めるに違いないのです。自分が愚かなおとめのグループに入ると思う人は自信を失い、自分は救われないのではないかと不安になる。賢いグループに入ると思う人は高慢になり人を裁き始める。どっちにしても良いことはありません。主イエスがここでお語りになったのはそういうことではないのです。 皆さん、このアドベントの時をどのようにお過ごしになられるでしょうか。私は先週から、クリスマスのリースを作り、それを病床の人々の所や、独居の老人の方々、心に重荷を担って歩んでいる人々の所に届けてきました。30ケぐらい届けたと思います。少し早いサンタクロースですと言いながら、もう少しでクリスマスですよと告げて回る。クリスマスは単に2000年前に、イエス様がお生まれになったから喜び祝うのではありません。あの主イエスが再び来られる、その日に目を向け、その日の喜びを、今、ここで先取りして喜び祝うのです。クリスマスというのは、本当に不思議です。まだクリスマスを迎えていないのに、アドベントに入ると、いやその前から、私共はすでにクリスマスの喜びの中にまき込まれている。まだその日が来ていないのに、すでにその喜びの中につつまれる。私は、ここにこそ、クリスマスの喜びの秘密があるように思うのです。再臨の主イエスはまだ来ていない。しかし、すでにその日を待ち望みつつ、喜びの中に生きている。実にアドベントの日々は、私共のキリスト者の生涯そのものなのではないかと思うのです。
昔から、ここでおとめ達が用意していたり、していなかったりした油とは何なのか、大変な議論が繰り返されてきました。カトリック教会は、これを「行い」として理解してきました。主が来られるのを待つ者は、それにふさわしい「行い」がともなっていなければ、神の国に入ることは出来ないという訳です。プロテスタント教会は、これを「信仰」と理解してきました。そして、ある人は聖霊と理解し、ある人は愛と理解し、ある人は希望と理解しました。これだけ理解が多様にあるということは、逆に言えば正解はないとも言えるでしょう。私は、この油をどの様に理解するとしても、その油がなければダメだという警告として、このたとえ話を理解することに変わりはないと思います。しかし、主イエスは、ここで私共の信仰の歩みに、これがなければダメだという警告をお語りになられたのだろうか、そうではないと思うのです。そうではなくて、私は再び来る、必ず来る、遅くなったように見えても必ず来る。だから、その日を待ち望み、希望を持って生きよ、そう告げられたのではないかと思うのです。
このたとえ話の中で、5節ですが、主イエスは賢いおとめも、愚かなおとめも、共に眠り込んでしまったと言われます。私共は眠い時がある。そういう時はどうしようもない。私も説教の準備をして本を読みながら、眠くなったらどうしようもありません。目を開けていられません。そういうものです。皆さんだってそうでしょう。賢いも愚かもない。眠くなったら、どうしようもないのです。眠ってしまうのです。主が来られるのを待ち望みつつ歩むというのは、何をするにも緊張して生きることではないのです。こんなことをしていてはダメだ、もっと信仰に励まなければ、愚かなおとめ達の様に天国に入れない、そんな風に生きることではないのです。主を待ち望むということは、もっとおおらかに、主が来られる、全ては主の御手の中にある、だから大丈夫だ、そういう健やかな歩みへと私共を導いていくのであります。主イエスは、私共にもっと熱心に、もっと真剣に生きよと言われているのではなくて、私は再び来るのだから、安心して、その日に備えてなすべき務めをしなさい。私は、あなたに、そのような健やかな歩みを備えている。そう告げられたのだと思うのです。 [2004年11月28日魚津教会礼拝] |