主イエスが宣教を始められた時は、およそ30才であったと、聖書は記します。聖書の中で、主イエスの年令についての記述は、ここにしかありません。しかしここでも、「およそ30才」とありますように、明確に「ちょうど30才」と言っている訳ではありません。実際には、28才だったのか、あるいは33才だったのか、正確な所は判らないのです。ただここで、おおよそ30才であったと言われている、この30才という年令には、単に主イエスのこの時の年令がだいたい30才であったという以上の意味があったのではないかと思われます。何故、ルカは主イエスの系図を示す前に、おおよそ30才であったと記したのか。そこには、ある意図があったと思うのです。
旧約聖書の中で、30才ということに着目して調べてみますと、三つのことが判ります。一つは、祭司が神様の前でご用に当たることが出来るようになったのが30才であったということです(民数記4章3節)。もう一つは、創世記41章46節にありますが、ヤコブの子ヨセフが、エジプトの王ファラオの前に立って夢を解いて次に起きることを預言したのが、30才でした。そして、何よりも、ダビデが王となったのが30才だったのです(サムエル記下5章4節)。ということは、神様のご用に当たる者として公の仕事に就く、それが30才という年令だったのではないかと思うのです。更に言えば、この三つの例は祭司・預言者・王の職を示していると見ることも出来ます。つまり、主イエスが30才で宣教を始められたということは、この主イエスの宣教という業は、まことの祭司・まことの預言者・まことの王としての業であったということを示しているのではないかと思えるのです。
そして、ルカは主イエスの長い系図を記します。系図などというものに、私共は正直な所、あまり興味はないかもしれません。それは、とてもまともな感覚だと思います。自分は誰々の血を引いていると言った所で、意味はないと私も思っています。私共は誰にでも、父と母がいる訳です。その父と母にも両親がいる訳で、二代さかのぼっただけで4人の人の血が自分には流れていることになります。三代前までいけば8人、四代前にいけば16人、五代前にいけば32人となります。これを計算していきますと、20代前にさかのぼりますと、約130万人にまで増えるのです。25代前で2160万人、30代前になると7億9千万人ということになります。ばかばかしい程の数字になります。何故ばかばかしいかと言いますと、これは当時の日本の人口の何十倍にもなってしまうからです。ということは、私共は、どこかで共通の先祖を持っているということになるのでしょう。しかし、系図というものは、そういうことは示さないのです。系図というものは、その中からある特定の筋だけを引いてくるものです。それは父親だけをたどる、あるいは母親だけをたどる、あるいは跡取りだけをたどる。そういう法則性を持たなければ、その人の系図は、無数に出来るということになるのです。ですから、系図というものは、その人にとって都合の良い特定の筋を引いてきて出来上がる。そういうものなのです。日本では、○原という性の家は、全て平安時代の藤原家に繋がることになってるという話を聞いたことがあります。みんな藤原家に繋がり、自分の家系を誇ろうとするのであります。
ということは、系図というものには、どんな系図であるにせよ、それによって何かを示したいという意図があるということになるのであります。ということは、今朝はルカによる福音書が示す主イエスの系図が与えられていますが、私共は、この系図を前にして、この系図が示そうとしたことは何なのか、そのことに目を向けなければならないということになるでしょう。
主イエスの系図といえば、私共がすぐに思い起こすのは、今日与えられているルカによる福音書の系図ではなくて、マタイによる福音書の冒頭にある系図だろうと思います。この二つを比べてみますと、いくつかの共通点と、いくつかの相違点があることに気付きます。この共通点と相違点は、そのままマタイによる福音書とルカによる福音書の、この系図を示す意図の共通点と相違点を示すことになります。
まず共通点を見てみましょう。マタイは、アブラハムからダビデ、ダビデからバビロン捕囚まで、バビロン捕囚から主イエスまでというように、時代区分をし、明確にアブラハムとダビデの子孫であるということを示しました。この点はルカも同じです。ルカは時代区分はしていませんが、ルカも主イエスが、アブラハムの子孫、ダビデの子孫であるということは確かに示しています。そして、マタイは、それぞれの時代区分が、14代、14代、14代という風に分けています。この14という数字は7×2です。この7という数はいわゆる完全数と言われるもので、主イエスの誕生が神様の完全な計画のもとになされたということを示しているのです。ルカはどうかといいますと、マタイのような時代区分がされているようには、一見した所見えません。ところが、数えてみますと、アダムからアブラハムが21人(7×3です)、イサクからダビデまでが14人(7×2です)、ナタムからシャルティエルつまりバビロン捕囚までですが21人(7×3です)、ゼルバベルからイエスまでが21人(7×3)となっているのです。やはり、ルカもマタイと同じ時代区分をしており、その全てが7の倍数になっていて、全部で7×11の77人となっているのです。やはりルカも又、主イエスの誕生が、神様の完全なご計画の中での出来事であったことを示そうとしているのです。
では違いは何か。第一に、すぐに判るのは、出てくる人数が違います。マタイが42人であるのに対して、ルカは77人です。これはルカがアブラハムより前のアダムまでを記していますので、その分を引いても57人と、マタイよりだいぶ多いのです。更に出てくる人の名前はどうかというと、アブラハムからダビデまでは同じですけれど、それ以外はほとんど違うのです。こうなりますと、この系図のどっちが本当なのかという気がしてきます。実際教会の歴史の中では、これについての議論が長くなされてきました。マタイは跡継ぎ、王の系列であり、ルカは実際の親の系列であるとか、マタイは父親のヨセフの系列であり、ルカはマリアの系列であるといった議論です。私は、これについては先程申しました様に、系図というものは無数に出来るものなのですから、どっちが本当か正しいかという議論は意味がないと思います。
第二の違いは、これが決定的に違うのですが、マタイはアブラハムから出発しているのに対して、ルカでは、アブラハムを超えてアダムにまで、そして更に神にまでさかのぼっているという点です。これは明らかにマタイは、主イエスをアブラハムの子孫、旧約の成就として告げようとしたということでしょう。一方ルカは、主イエスはアブラハムの契約を担うだけではなくて、アダムにまでさかのぼることによって、全人類への救い主として告げようとしたのではないかと思います。更に言えば、神にまでさかのぼることによって、主イエスを神の子として告げようとしたのではないかと思うのです。
このアダムでありますが、言うまでもなく人類最初の人であります。しかし、コリントの信徒への手紙一15章45節には、主イエスを指して、「最後のアダム」という表現があるのです。つまり、最初のアダムは自然の命、肉の体を持ち、地に属する者であったが、第二のアダム、最後のアダムとしての主イエス・キリストは、霊の体を持ち、霊の命を持ち、天に属する者である。そして、私共はアダムと同じ姿をとっているように、やがて復活した第二のアダムである主イエス・キリストと同じ姿に変えられるというのであります。この救いはユダヤ人という枠を超えて、全ての人に開かれている。それがルカがこの系図で示したかったことなのではないのかと思うのです。アダムまでさかのぼれば、私共全ての者が、この系図とつながりを持つのです。アダムは人類最初の人だからです。誰も主イエスは自分とは関係がないとは言えない。そこに、このルカの系図の意図があるのでしょう。
更にこの系図が神に至るということにより、アダムの罪によって破壊されてしまった神の似姿が、第二のアダムの主イエスによって回復されるということをも示しているのではないかと思うのであります。主イエスはまことの神の子であり、それ故に神様に向かって「父よ」と呼びかけることがお出来になりました。この神の子が、私共と同じアダムの子孫となられることによって、全人類の兄弟となって下さったということなのであります。主イエスが、神様に向かって「父よ」と呼びかけられた様に、私共も又、神様に向かって、「我が父よ」と呼びかけることが出来るようにされた。それが、神様の似姿を回復されるということの、一つの「しるし」なのであります。神の似姿として造られたアダム。しかし、神様との約束を破って禁じられた木の実を食べ、神の似姿を失ってしまったアダム。しかし、神様は時満ちるに及んで、再び本来の人間の姿を回復させる為に、愛する独り子を第二のアダムとして、アダムと同じ姿で世に下らせられたということなのであります。
何故、主イエスはアダムから数えて77人目なのか。それは判りません。ただ、ここには7×11という数字が示す、神様の完全なご計画の現れがあるということなのです。しかし、この77人の内、何人の名前を私共は知っているでしょうか。アダム、セト、それにノア、セム、族長のアブラハム、イサク、ヤコブ、ユダ、更にエッサイとダビデ、それにヨセフとイエス。それぐらいのものではないでしょうか。1割か2割ぐらいのものです。残りの人は、旧約聖書を開いても、系図の中に名前が出てくるぐらいで、何をした人なのかもよく判らない人がほとんどです。無名の人達と言って良いでしょう。しかし、この無名の人達も又、神様の完全なご計画の中では意味を持っていたということなのでしょう。普通、人が誇る家系図というものは、有名な人、その名を残した人々が先祖にいるというものが重要なのでしょう。しかし、この主イエスの系図は、そうではないのではないかと思うのです。主イエスは、家系図を誇る必要があったのでしょうか。神の子に家系を誇る必要など少しもなかったのです。とするならば、この家系図において誉れを得るのは、実はこの無名の人々だったのではないか。いや、有名なアブラハムやダビデでさえも、主イエスにつながった、そこにおいて本当の意味が明らかにされた人々なのではないか、そう思うのです。もちろん、アブラハムにはアブラハムとしての、ダビデにはダビデとしての、他の人と取りかえることの出来ない、固有の人生の意味はあった。しかし、その最も深い所での人生の意味、神様の完全なご計画の中での意味、死をもって終わらない永遠の意味、それは、主イエス・キリストと結ばれたことによって持ったのではないかと思うのです。私共は、毎週の礼拝において旧約と新約の両方を読みます。それは、旧約聖書を新約聖書の預言として考えているからです。つまり、旧約は新約の光を当てなければ、その本当の意味は判らない、隠されていると考えているのです。それは、旧約の人々の人生の意味が、このイエス・キリストの誕生に繋がることによって、確かな永遠の意味を持つこととなったということなのです。
私共も同じでしょう。キリストと結ばれた。そのことによって、私共の人生は永遠の意味を持つものとなったのです。私共も又、この地上の歩みにおいては無名のキリスト者としての歩みをなすでしょう。しかし、私共がキリストの救いに与り、神の子と呼ばれる者になったということは、主イエスの系図の中にある多くの無名の人達と同じように、神様の完全な永遠のご計画の中に位置を持つ出来事だったということなのであります。私共がこの地上の生涯を歩んだというしるしは、どこに残るのでしょうか。確かに我が子がいます。しかし、この子の孫ぐらいになれば、自分のことなど覚えていないないだろうと思うのです。私が名前を知っているのは、自分の祖父の世代までです。それより前は知りません。三代、四代後になれば、私が生きていたということを覚えている人も居なくなる。ただ墓に刻まれた名前だけが、かろうじて私という人間がいたということの記録を留めているに過ぎない。しかし、私共の歩みの全てが、キリスト結ばれることにより、永遠に神様に覚えられ、永久に意味を持つものとなったのであります。
こう言っても良いでしょう。この系図は、私共の系図となる。主イエスは子を産まなかったのですから、血筋を表すだけの系図ならば、この系図はこれで閉じられることになる。しかし、キリストの霊による子は、ここから全世界、全人類に向かって開かれた。ここから始まったのです。主イエスから十二使徒に、そこから何十代にわたって、その霊の系図はとぎれることなく続き、私共の所にまで届いたのです。それが、洗礼による系図です。これは系図としては残っていませんが、私共に洗礼を授けた牧師は、誰かから洗礼を受けているはずなのであって、その系図はとぎれることなく、十二使徒へ、そして、キリストへとつながっているのです。ということは、キリストを通して、私共もまた神様へと繋がっていくということなのであります。あるいは、キリストは私共の兄弟となって下さったのですから、イエスの兄弟の所に自分の名を入れても良いのかもしれません。いずれにせよ、この系図は、主イエス・キリストと私共の繋がりを示すものと言えるのであります。私共のこの地上の生涯の歩みは、主イエス・キリストと繋がることによって、神様によって全て覚えられています。このことを感謝しつつ、この一週も又、共に主の御前を歩んでまいりたいと思います。
[2005年2月13日]
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