富山鹿島町教会

礼拝説教

「罪人を招く為に」
ホセア書 11章8〜9節
ルカによる福音書 5章27〜32節

小堀 康彦牧師

 キリストの教会は、いわゆる善男善女の集いではありません。しかし、かといって、もちろん悪人達の集まりでもありません。宗教改革者ルターは、キリスト者のことを「義人にして罪人」と申しました。キリスト者は最早罪を犯すことのなくなった人ではない。しかし、すでに神様によって罪を赦された者である。罪を赦された罪人の集い。それが教会なのであります。私共は罪を犯さなくなった者ではありませんけれど、罪を赦され、神の子とされています。この義人にして罪人、罪人にして義人。この神様の御前における二重性こそが、教会の姿であり、教会に集う私共の姿なのであります。私共は、このことを良く弁えておきませんと、教会につまずく、教会における交わりの中でつまずくということが起きてしまいます。私共は教会生活において、つまずきたくありませんし、又人をつまずかせたくないと思います。その為には、この「義人にして罪人」ということを、お互いにきちんと弁えていなければならないのであります。そうでないと、自分のことは棚に上げて、あの人はおかしい、赦せない、あれでもクリスチャンかなどという言葉が口から出てくるということになりかねないのであります。
 実に、今朝与えられた御言葉において、ファリサイ派の人々や律法学者の人々は、つまずいたのです。主イエスを中心とした罪人たちの交わりにつまずいたのです。どうして主イエスは、こんな人達と食事を共にしているのか。神様から遣わされた人であるならば、こんな人達と一緒に食事をしてはいけない。自分達のような、清く正しい人と一緒でなければならない。こんな人達が神の民、神の家族の一員であるはずがない。そう考えたからです。彼らの理解で言えば、神の民というのは、善男善女の集いでなければならなかったのであります。ところが、主イエスが一緒に食事をした人々は、ファリサイ派の人々から見れば、とてもそうは見えなかったということなのです。

 主イエスがこの時一緒に食事をしていたのは、徴税人と呼ばれる人達でした。徴税人、口語訳聖書では取税人と訳されておりましたが、この職業の人たちは当時ローマが支配しておりましたユダヤの人々から税金を集める権利をローマから買い、そして税金を集めるという人達でした。今風に言えば、税務署が民間委託されたようなものと考えても良いかもしれません。しかしこの職業の人たちは、ユダヤの人々から見れば、自分達から税金と称して金を取り、それをこともあろうか自分達を支配しているローマに収める。もう日本語で死語になってしまっていますが、「売国奴」という言葉がピッタリすると思われている人々だったのです。ユダヤの選民思想、民族主義から言えば、神の民である自分たちの敵、つまり神の敵ということになります。この人たちは、当時罪人の代表のように考えられていた人々だったのです。律法を守ることによって救われると考える人々は、この徴税人達と交わることを一切禁じておりました。まして一緒に食事をするなど考えられない。社会的にも、徴税人の裁判における証言は無効とされていたのです。いわゆる、普通の人としての扱いを受けていなかった。しかし、金はある。それが徴税人と呼ばれる人達だったのです。
 ところが、主イエスは収税所に座っていたレビという徴税人に目をとめ、「わたしに従ってきなさい」と言って御自分の弟子として召し出されたのです。このレビという名前は言うまでもなく、十二部族の中のレビ族と同じ名であり、しかもこのレビ族というのは祭司の一族です。聖なる部族と言っても良い。ですからこの徴税人は、間違いなく神の民イスラエルの一員だったのです。しかし、彼は徴税人となったが故に、神の民の一員として受け入れられることを拒まれていたのです。主イエスは、この失われていた神の民の一人に目をとめました。27節に「レビという徴税人が座っているのを見て」とあります。この「見て」というのは小さな言葉ですけれども、主イエスのこの徴税人に対しての関わり、思いというものを示しています。この時の主イエスのまなざしはどのようなものだったのかと思います。神のあわれみを宿した、深いまなざしだったに違いないと思います。徴税人である彼を責めるのではなく、あなたはそこで何をしているのだ、あなたは神の愛を受けている者ではないか。さあ、私と一緒に新しく生きよう。私はあなたを罰しない。あなたの全てを赦し、あなたと共に生きる。そんな悲しみと憐れみをたたえたまなざしではなかったかと思います。彼はこの主イエスのまなざしにとらえられます。主イエスは彼を招かれました。「わたしに従ってきなさい。」彼は、主イエスの招きに応えて、全てを捨てて主イエスに従う者、主イエスの弟子となりました。
 これと同じ記事が、マタイとマルコに記されています。特にマタイでは、この徴税人の名前がマタイとなっています。そう、マタイによる福音書を記したマタイです。この記事は、このマタイに証言、「自分が主イエスに出会い、弟子とされたのはこういうことによってだ、あの時主イエスは私を見つめられた。そして、私に従ってきなさいと言われたのだ。私は喜び、驚き、全てを捨てて従った。」というような、生き生きとした証言を元にして記されているのでしょう。マタイは、その生涯の中で何度も何度もこの事を語ったに違いないのです。徴税人だった自分が主イエスに招かれ、このように新しく生きる者にされた。その喜びの証言がここにはあるのです。十二弟子の一人であり、後にマタイによる福音書を記したマタイ、彼の元の職業が徴税人だった。これは、小さなことではありません。キリストの教会は、その出発において、当時社会では受け入れられることのなかった人が加えられていたのです。キリストの教会は、その出発において、いわゆる善男善女の集まりではなかったということなのです。ファリサイ派の人々や、律法学者の人々は、これにつまずいたのです。これを受け入れることが出来なかったのです。

 では、どうして主イエスはこの徴税人を招かれたのでしょうか。主イエスはこう言われています。31,32節「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」主イエスは罪人を招いて悔い改めさせる為に、罪人を救いに与らせる為に、失われている神の民を見出す為に来られた。神様の救いは、まさに罪人に向かって開かれている。そのことを示す為に、主イエスはこの徴税人を招かれたのであります。それは、キリストの教会が建ち続ける限り変わることのない、神様の救いの御心であります。私共は誰一人として、神様の救いに与る権利や、良き所があった訳ではない。第一、私共は皆、異邦人であります。まことの神を知らず、それ故に偶像を拝んで育った者です。ファリサイ派の人々や律法学者の人々から見れば、決して神様の救いに与れるはずのない者達でした。しかし、神様は私共を招き、一切の罪を赦し、神の民の一員として加えて下さいました。まことにありがたいことであります。神さまの選びとは、いつもそういうものです。神の民イスラエルは、エジプトの奴隷だったのです。イスラエルが優れていて、神さまに選ばれるに相応しい民であったから選ばれたのではない。イスラエルは、このことを「過ぎ越の祭り」たびごとに思い起こしました。このことを思い起こし続けることによって、神の民は神の民であり続けたのです。私共もそうです。私共もこのことを忘れてはなりません。そうでないといつの間にか、自分達が徴税人と同じであったことを忘れ、ファリサイ派の人々と同じように考えたり、口走ったりしてしまうことになりかねないからです。そしてそうなりますと、この時ファリサイ派の人々が、主イエスの招きにつまずいた様に、私共もつまずいてしまうということになりかねない。
 主イエスの招きには、一切の差別が入りようがないのであります。社会的な地位も立場も、人間的な性格も富も、一切関係ないのです。そこには、主イエスが私を招かれたという、絶対的な神様の救いの御心と御業だけが支配するのであります。この神様の絶対的な御心と御業とは、罪人をも招き、赦し、生かし、用いるというものでしょう。何度も罪を犯した神の民イスラエルを赦し続けられた神様の御心なのです。この神さまの御心が具体的な形となって現れたのが、主イエス・キリストというお方なのでしょう。この神様の罪人を救わないではおかないという絶対的な救いの御心と救いの御業との前に、私共はただ感謝をもってぬかずくしかありません。ここにキリストの教会という神の民が生まれたのです。この世界には、様々な差別が存在します。人種差別、民族差別、職業、学歴、様々です。病気、あるいはハンディキャップ、身体的障害、知的障害というものもあるでしょう。この日本には、被差別部落の問題もあります。しかし、それらのものが、このキリストの教会の交わりの中に入ってくることは断じて許されていないのです。主イエス・キリストの招き、召し出しというものだけが意味を持つのです。
 多分、この福音書が書かれた頃、キリストの教会の中ではユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間の溝というものが、大変大きな問題としてあったのではないかと思います。この問題を乗り超えていくのに、この主イエスの言葉、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」が決定的な力となったことは確かなことだと思います。

 さて、教会が善男善女の集まりではないことは判った。だったら、単なる罪人の集まりか。そうではないのです。主イエスは「罪人を招いて悔い改めされるため」と言われました。キリスト者はただの罪人ではなく、悔い改めた罪人、悔い改め続けている罪人なのであります。ここで徴税人レビ・マタイは、主イエスの招きに応えて何もかも捨てて、主イエスに従ったのです。悔い改めたのです。生きる方向を180度転換したのです。ここに、キリストの弟子としての新しい人間が誕生したのです。彼は、そのことを喜んで、主イエスを招き、大勢の友人達との宴会を催したのです。
 キリストと出会い、新しい歩みが始まったことへの喜びに満ちた宴会、これが教会の交わりなのです。その中心には、主イエスがおられる。聖書では、大切な場面において必ずと言って良い程に食事が出てきます。これは、食事の席というものが最も親しい、楽しい交わりを示しているからなのでありましょう。
 私は教会に来るまで、クリスマスやイースターの時に持たれる祝会のようなものを知りませんでした。老いも若きも、男も女も、幼子までも、一つ所に集まり、楽しく食事をして喜び祝う。酒など無くても本当に楽しい。私は、この祝会の楽しい、親しい交わりの中に、神の民としての教会のイメージがあるのではないか。そう思っているのです。もちろん、神学的に言えばこの宴会のイメージは聖餐に受け継がれているとも言えます。しかし、それだけではない。祝会という交わりの中にも、教会の姿が現れ出て来ているのではないかと思うのです。
 私が神学生であった頃、教会は礼拝の民なのであって、交わりと称して祝会や食事会を行うのは、教会の本質を見失わせるものだという雰囲気がありました。そのように明言する人達もいました。その主張には、私共が忘れてはならない大切なものを含んでいると思います。しかし、牧師として生きるようになり、少しこの事に対しての考え方、印象が変わってきました。礼拝が中心。それは間違いのないことです。しかし、この礼拝の交わりは礼拝だけでは終わらない。ここから教会には他にはない交わりが形成されていくはずなのです。礼拝は祈りと御言葉と言いかえても良いでしょう。この祈りと御言葉は、必ず交わりを生み出していくものなのです。何故なら、それは永遠の三位一体の愛の交わりに与ることだからです。私共が一つ心となって祈り、一つの御言葉に養われる中で、神の愛に触発された交わりが形成されていくのです。その交わりは、喜びに満ちたものであり、この世の差別が入り込んできようがないものであり、主イエス・キリストが中心にいて下さるものです。この交わりは、罪によって堕落していくような交わりではない。そうではなくて、私共を天上へと引き上げていくような聖なる交わりなのです。罪に堕することに対しては大変厳しい、しかして全ての罪人を悔い改めによって受け入れていく交わりです。この地上には、他のどこにも存在しない交わりです。私は、この交わりの中に身を置くことの出来る幸いを、心から感謝しています。教会という所は、私共が考える以上に、大らかで、広く、喜びに満ちている所なのではないでしょうか。三位一体の神さまの交わり与る交わりだからです。この交わりの中に生かされていることを感謝しつつ、この一週も又、神の民の一人として主の御前を歩んでまいりたいと思います。

[2005年5月22日]

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