富山鹿島町教会

礼拝説教

「揺らぐことなき幸い」
イザヤ書 5章8〜24節
ルカによる福音書 6章20〜26節

小堀 康彦牧師

 今朝、私共は主の御言葉を求めて、ここに集ってまいりました。ここにおいてしか与ることの出来ない、主の祝福に与る為であります。そのような私共に向かって、主は「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」と告げられます。私共は、この主の祝福に与った者として生きるのです。私共は、この主の祝福を知らない者として生きることは、最早出来ないのです。
 先週の礼拝において知らされましたように、これは祝福の言葉です。主イエスが御自身の目の前に集まった貧しい人々に向かって告げられた祝福の言葉です。この祝福の言葉は、これを告げられた方、まことの神であられる主イエス・キリストというお方と切り離して受け取ることは出来ません。それは実に単純なことです。皆さんの誰かが、今、実際に貧しさの中であえいでいる人に向かって、「あなたは幸せですね。」と言えるかということです。実際に飢えている人、泣いている人、憎まれている人に向かって、あなたは幸せですね、などと言えるかということです。もし、そんなことを口にしたら、お前に私の苦しみの何が分かるかと、腹を立てられてしまうでしょう。それは、自分が苦しい時に、誰かがやってきて、「あなたは幸いですね。」と言われたら、と考えれば分かることです。何と人の心を逆なでする人かと腹を立てるに違いないのです。どうして腹を立てるのか。それは、その言葉を発する人が、自分の苦しみとは関係のない所に立っているからです。自分は一人幸せそうな顔をして、何を言っているのかと腹を立てるのです。しかし、もし自分と同じ苦しみの中に立っている者が語るとしたらどうでしょうか。病気の苦しみの中にいる時、あるいは仕事がうまくいかずに悩んでいる時、借金で首が回らなくなっている時、その苦しみを一番知っていて自分の苦しみと運命を共にしている妻や家族が、「大丈夫。お父ちゃん、大丈夫。」そう言ったなら、私共は単純に腹を立てるということはないだろうと思います。「苦労をかけて、すまんな。」そんな風に言うだろうと思うのです。

 先週、私共はこの主イエスの祝福は、力ある神の宣言であるが故に、それは出来事となり、その祝福はそれに与った者を包む、ということを知らされました。今朝私共は、この主イエスの祝福の力の秘密について、もう一歩、分け入りたいと思うのです。主イエスの祝福の根拠、祝福の力の源です。この祝福が、単なる口から出まかせの空しい言葉ではなく、力ある宣言だという根拠であります。それは、この祝福の言葉とこれを告げられた主イエス・キリストとの関係にあります。この祝福の言葉は、その祝福を現実のものとする為に十字架におかかりになった方によって告げられたものであるということなのです。主イエスは、目の前の貧しい人々に向かって、「あなたがた貧しい者は幸いだ、神の国はあなたがたのものだ。」そう告げられました。この祝福が現実のものとなる為に、その貧しい者達が神の国に入ることが出来る為に、主イエスは十字架におかかりになったのであります。この祝福の言葉の背後には、主イエスの十字架という出来事があるのです。もちろんこの時主イエスはまだ十字架にはおかかりになっていません。しかし、私共はこの主イエスの言葉を、あの十字架の出来事と切り離して理解することは出来ないのであります。 私共が毎週の礼拝において告白している使徒信条には、「聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ」から、いきなり、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、」と飛んでいる。その間のことは何も記されていない。どうしてか。それは、神の子が人の子として低きに降られたクリスマスから始まり、罪人と共に十字架につけられる歩みの中に、主イエスの全てがあり、この関わりの中で主イエスの全ての業と言葉は理解されなければならないことを意味しているのです。十字架なしに、キリストのこの祝福の言葉は判らない。何故なら、あの十字架の出来事こそ、この主イエスの祝福を効力あるものとする根拠だからです。主イエスは、目の前の貧しい者達に向かって、その嘆きとは無関係の所に身を置いて、これを告げているのではないのです。そうではなくて、その嘆きの全てを我が身に引き受けて十字架につき、その全てを打ち滅ぼして復活する者として告げているのです。実際に、その人の為に神の国を与える為に十字架につく者として告げておられる。我が身の命と引き換えに与えられた祝福の言葉なのであります。
 コリントの信徒への手紙二8章9節「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」と告げられている通りであります。主イエスが私共の為に、私共に代わって貧しくなられた。その貧しさの極みに十字架があるのです。そして、その出来事によって、私共を豊かにして下さったのです。神の国の一切を受け取る者に私共をして下さったのです。私には、この主イエスの祝福の言葉が、十字架の言葉として、主イエスが十字架の上で告げられた言葉として聞こえてくるのであります。何と、壮絶な言葉でしょうか。神の御子が、その命と引き換えに与えて下さった祝福です。その祝福に力がないはずはないのです。主イエスの十字架が、この祝福の根拠です。私共の信仰心や、まじめさが根拠なのではないのです。だから、この祝福は、決して揺らぐことがないのであります。私共は、この祝福の中に生きる者とされているのです。

 この主の祝福の中に生かされているという現実を、明確なイメージで語っているのが、詩編の23編です。この詩編は葬儀の時などに、しばしば読まれるものですが、それは死さえもこの主の祝福を破ることは出来ないということを示しているからなのだろうと思います。詩編の第23編。すでに覚えてしまっている人も多い、最も有名な詩編です。今、この詩編の全てを見ていく時間はありません。この後半の5節と6節だけを見たいと思います。5節「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。」これは、力ある主人の天幕の中で憩うイメージです。天幕の外は、自分を苦しめる者が満ちている。しかし、この天幕の中には力ある主人を恐れ、自分を苦しめる者は誰も入ることが出来ない。この天幕が主の祝福の一つのイメージです。主の豊かな食卓を囲んで、まことにおだやかな、平安な宴の中に身を置くのです。悩み、苦しみ、嘆きがない訳ではない。天幕の外は敵で満ちている。しかし、この天幕の中は別なのです。神様との親しい交わりの中、ここには全き平安がある。これが、主の祝福に守られて生きるということなのです。この食卓を聖餐卓と受け取ることも出来るでしょう。そして6節です。「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。」とあります。私共が恵みと慈しみを追い求めるのではないのです。私共がどこに行こうとも、主の恵みと慈しみの方が、私共を追いかけて、とらえて離さないというのです。これが、主の祝福の中に生きる者のイメージなのです。どこに生きていても、どの様な状態の中に生きていても、主の恵みと慈しみの方が、私共を追いかけてくるのです。
 私共はこの主の祝福の中に生きた多くの証人を思い起こすことが出来ます。例えばヤコブです。彼は兄エサウと仲たがいをし、故郷を離れます。しかし、神の恵みと慈しみは彼をとらえて離しません。彼は、多くの子供と財産とを与えられ、兄エサウと和解し、神の民イスラエルの源となりました。あるいはその子ヨセフ。彼はエジプトに売られ、奴隷となり、更に牢獄に入れられます。彼は何も悪くないのに、そのような歩みを強いられました。しかし、神の恵みと慈しみは彼を追いかけ、とらえて離しません。そして、彼は遂にエジプトの宰相にまでなり、出エジプトへとつながる神様の救いの歴史の中に役割を果たすことになりました。
 私共もそうなのです。主の祝福を受けた者として生きるということは、どこに行っても、どんな境遇の中にあっても、神の恵みと慈しみが自分を追いかけてくる。来るなと言っても来てしまうのです。そして、そのことを知らされた者は、決して主の御前から離れようとしないのです。だから、「主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」となるのです。

 さて、主イエスは四つの「幸いである」との祝福を告げた後、それに対応するように四つの「不幸である」という言葉を告げておられます。富んでいる人、満腹している人、笑っている人、人にほめられる人、であります。この四つは、前の幸いを告げられた人々と正反対の人々です。この不幸だと言われている人々とは、私共の普通の感覚で言えば、これこそ幸いな人と言うべき人々です。しかし、主イエスは不幸だと言われた。このような言葉に出会うと、富んではいけない、満腹してはいけない、笑ってはいけない、人にほめられてはいけない。そんな風に考えかねないところが私共にはあります。そして、クリスチャンは、陰うつな顔をして、やせていて、貧しくなければというようなイメージを作りかねないのです。そして、そのイメージの第一の標的になるのがたいてい牧師です。私自身、牧師になったばかりの頃、ある人が牧師には車が必要でしょうと言って、丈夫な外車をプレゼントすると申し出てくれました。私は、若造の牧師が外車を乗り回していたら、田舎で伝道は出来ませんと言って断りました。その人は、「そんなものかね。牧師とは、不便なものだね。」と言われました。私は、あの時、外車をお断りしたのをもったいないことをしたとは、少しも思っていませんけれど、その人の「牧師とは不便なものだね。」という言葉は、どこか心に引っかかっています。自分自身、どこかで、牧師としてのイメージに縛られている所があるのではないかと思う。しかし、主の祝福に生きるということは、この主の祝福の中で自由になるということです。欠けのある私が、貧しさの中、嘆きの中にある私が、すでに主の幸いを受けている。この喜びの中に生きる時、私共は今の自分の状態というものに振り回されず、主の与える幸いの中に、感謝と喜びの中に生きるようになるということでしょう。
 だったら、この主イエスの四つの「不幸だ」という言葉は、どう受け取るべきなのでしょうか。これも又、実に単純なことではないでしょうか。これも、前の祝福と同じ様に、富んでいるから不幸だ、満腹しているから不幸だ、という風に読むべきではないのです。富んでいること、満腹していることは不幸の条件ではないのです。そうではなくて、この人々が不幸だと言われているのは、富んでおり、満腹しており、笑っており、人にほめられている故に、すでに今の自分の状態に満足しているが故に、主イエスのもとに来なかったからなのです。主イエスのもとに来ない。それ故、その人には確かにこの地上での幸いはすでに与えられているだろうけれど、それは一時的なものであり、やがてそれを失うことになる。そのような目に見える幸いだけを求めている者は不幸だ。神の国の豊かさに与ることが出来ないから。そう、主イエスは言われたのでありましょう。ここで、私共の本当の幸いはどこにあるのか。神の国にある。そして、それを与える為に私は来た。そういう、主イエスの宣言を私共は聞くのであります。

 主イエスは言われました。「神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、全てのものは与えられる。」(マタイによる福音書6章33節) まさに、私共の目標が、この神の国と神の義とに向けられているかどうか。そして、主イエスにそれを求めて、請い、願い、祈っているかということが問われているのであります。主の家に帰り、生涯、そこにとどまろうとしているか、ということなのであります。主イエスのもとに来ること。これだけが、主の祝福を受け取る、唯一の条件なのです。そして、主イエスのもとに来た者は、たとえその人がまだ気付いていないとしても、すでに主の祝福の中に生き始めているのです。教会とは、礼拝とは、そういう所なのです。この場に身を置くこと。そのことによって、私共はすでに、主の揺らぐことのない祝福の中に生きる者とされているのです。たとえ、気付かなくてもです。そして、その人もやがて気付くでしょう。自分が嘆きの中にあった時、すでに主の祝福が自分を包み、一切の悪しき力から守られていたことを。そして、それに気付いた時、主を高らかにほめたたえる者となるのです。この礼拝で歌われている讃美歌の一言、一言が、これは自分の歌だ、自分のことが歌われていることを知るのです。礼拝が、主を讃美する場であるということは、そういうことなのであり、私共がここに招かれているということは、私共が既に主の祝福の中にあることを知り、そして共に主をほめたたえよう、そう促されているということなのであります。 

[2005年7月17日]

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