富山鹿島町教会

礼拝説教

「約束の子の誕生」
創世記 21章1〜7節
ルカによる福音書 1章5〜38節

小堀 康彦牧師

 アブラハムの物語を共々に読み進めてまいりまして、今朝、アドベント第三の主の日にイサク誕生の出来事の御言葉が与えられました。私共はこのアドベントの日々、神の御子、イエス・キリストの誕生の出来事に思いを集めて過ごしている訳です。そういう中で、このアブラハムとサラの子、イサクの誕生という出来事の記事を読みますと、この二つの出来事、イサクの誕生と主イエスの誕生という出来事には、何か関係があるように思えてなりません。そう思って読んでまいりますと、今日与えられております創世記の記事とルカによる福音書には、多くの共通点があります。イサクの誕生の出来事は、主イエスの誕生、クリスマスの雛型になっている。そう言って良いのではないかと思います。
 イサクの誕生は、100才のアブラハムと90才のサラとの間に子が与えられたという出来事ですし、主イエスの誕生は処女マリアから生まれるという出来事です。どちらも、普通では考えられない、あり得ない誕生の仕方であります。そして、大切なことは、どちらも神様の約束の言葉の成就として生まれたということであります。今朝、私共はイサクと主イエス、更にもう一人加えてバプテスマのヨハネの誕生について、思いを巡らしつつ、御言葉を受けてまいりたいと思います。

 さて、創世記21章1〜2節「主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。」とあります。イサクの誕生は、神様がサラを顧みられて、サラを心にかけ、目を留め、そして全能の力を用いて行われた出来事でありました。アブラハムには、すでにイシュマエルという男の子がおりましたが、これは自分達の間には、最早子は与えられないと考えたアブラハムとサラが一計を案じて、アブラハムと若いサラの女奴隷ハガルとの間に生まれた子であります。神様はこのイシュマエルをも祝福されますけれど、アブラハムとの契約を受け継ぐ者は、この子ではなく、年老いたアブラハムとサラとの間に生まれる子、ただ神様の御業によって生まれる子でなければならないと言われまして、ついにアブラハム100才、サラ90才の時に、イサクが誕生したのです。これは、まさに神様の力による奇跡でありました。この出来事を通して、神様はご自身の計画を実現される為には、何でもなされるし、その力をお持ちであるということをお示しになりました。ここで、「主は、約束されたとおり」「神が約束されていた時期」という風に、「約束」という言葉が繰り返されております。神様は、アブラハムとサラとの間に子を与えるという約束をしておりました。前の年にアブラハムとサラとに現れて、来年の今ごろには子が与えられていると言われました。18章10節、17章21節にあります。アブラハムもサラも、それをすぐに信じることは出来ませんでしたけれど、神様はその約束の通りにイサクを与えられたのです。しかし、この神様の約束というのは、25年前、アブラハムが75才で神様の召命を受けてハランを出発した時に、すでに神様は「わたしはあなたを大いなる国民にする」と約束されたのですから、この時からアブラハムとサラとの間に子を与えるという約束はなされていたということが出来ると思います。つまり、イサクの誕生は、25年前の神様の約束に基づく出来事であったということであります。神様の約束の成就。それは、神様が自らのご計画に従い、ご自身の力をもってそれを為したということでありましょう。神様は、その救いの御業を為す時、いきなりそれを為すのではなくて、その御業に用いる者を選び、それを立て、約束の言葉を与え、その約束に基づいて御業を為されるということなのであります。それは、神様と私共との関係、神様が私共に求め、私と結ぼうとされている関係が、愛の交わりであるからに他なりません。神様は、私共をご自身の御業のパートナーとして求めておられるということなのであります。
 このことは、バプテスマのヨハネの誕生も、主イエスの誕生も同じであります。バプテスマのヨハネの誕生は、父であるザカリアが祭司としての務めをしている時に、御使いガブリエルによって、子が与えられるという御告げを受けたのです。何才であったのかは判りませんけれど、ザカリアも妻のエリサベトも高齢です。エリサベトは不妊の女でしたので、ザカリアはそれを信じ受け入れることが出来ませんでした。そこでザカリアはヨハネが生まれるまでの間、口がきけなくなってしまいました。この口がきけなくなったというのは可哀想なことではありますけれど、実に、この口がきけなくなるということによって、ザカリアは、自分が与えられた御使いの言葉は真実であるということを知らされたのでありましょう。ですからこの口がきけない期間、ザカリアは決して失意の中で日々を過ごしたのではなくて、神様の御業の成就を待ち望む、希望に満ちた日々を送ったのではないかと思うのです。そして、主イエスの誕生は、母となる処女マリアに、同じ様に御使いガブリエルが現れまして、あなたに聖霊が降り、男の子を産むと告げられました。マリアも、「そんなことはあり得ないことです」と、信じることが出来ませんでした。しかし、御使いに説得され、それを受け入れました。ヨハネの場合も、主イエスの場合も、御使いが、あなた方に子が与えられるという言葉を与えるのです。そして、それを聞いた者は、それをすぐに信じることが出来ないのですけれど、神様は語られた約束の言葉を実現されました。そして、ヨハネが、そして主イエスが誕生したのです。
 このように、アブラハムもサラもザカリアもマリアも、皆、御使いによって約束の言葉を受けた時、信じることが出来なかったのです。しかし、神様は「お前達が信じないのなら、このことは止めにする。」とは言われないのです。信じようと、信じまいと、神様はご自身が約束されたことは行われるのです。神様の約束とは、そういうものなのです。この神様の約束の言葉とは、神様がこのようにされるという、その御心・神様のご意志の宣言なのです。神様は、このようにされると決められたなら、私共が信じようが信じまいが、全能の力をもって、それを遂行されるのです。
 だったら、何も前もって約束することはないではないかと思われるかもしれません。しかし、そうではないのです。神様は前もってそれを告げることによって、私共にその御業のパートナーとなって欲しいのです。信じない者ではなく、信じる者になって欲しいのです。自分だけで生きている者ではなくて、神様と共に歩む者になって欲しいのであります。イサクもヨハネも主イエスも、皆、神様の約束によって生まれた子です。それは、この子の誕生によって、全能の神様が、その全能の力をお示しになったというばかりでなく、この出来事を通して、神様のパートナーとして共に生きる人間を私共にお求めになっておられるということなのであります。神様のパートナーとして生きる。それがキリスト者に与えられた、新しい生き方なのです。

 ザカリアの妻エリサベトは、バプテスマのヨハネを身ごもります。そして、こう言いました。1章25節「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」エリサベトは、ヨハネを身に宿すという出来事を通して、神様が私に目を留めて下さった。私は神様に忘れられている者ではない。神様に目を留められ、愛されている人間である。そう実感したのです。神様のあわれみのまなざしに生きている自分を発見したのです。
 サラもそうでした。サラも又イサクを産んだ時、6節「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」と申しました。神様が、私に笑いを与えて下さった。この笑いは、イサクという名前と掛けている訳ですが、イサクの誕生によって、サラに笑いが与えられたのです。この笑いは、来年の今ごろには子が与えられると言われた時に、そんなことがどうしてあり得ようかと、神様の言葉を信じず、あなどり、陰で笑ったような、ニヒルな、鼻で笑うような笑いではありません。この笑いは、実に神様のあわれみを心から信じ、喜びに満たされた笑いです。神様のあわれみの中に自分が生かされていることを知る時、私共は心から笑える者となるのであります。このサラの笑いは、マリアへと続いています。
 マリアは御使いに男の子を産むと告げられた時、それを信じ受け入れることは出来ませんでした。しかし、御使いガブリエルに説得されます。その説得の材料となったのが、親類で、高齢になってヨハネを身ごもったエリサベトでした。このエリサベトの高齢での出産の雛型として、サラのイサクの出産があることは間違いありません。ですから、ガブリエルがマリアに対して、36〜37節「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」と言った時、言葉には表れておりませんけれど、あなたはアブラハムとサラがイサクを産んだことを忘れたのか? 信じないのか? そういう意味合いがあったと思うのです。イサクの誕生は、ユダヤの人々にとって、誰も知らない人はいない、有名な話だったからです。マリアが、御使いに「神にできないことは何一つない。」と言われた時、マリアは、創世記18章14節で、御使いが自分の言葉を信じないで笑ったサラに対して言った「主に不可能なことがあろうか。」という言葉を思い起こしたのではないかと思うのです。神の民の出発となったアブラハム、その子イサクによって受け継がれた神様の祝福が、ユダヤの民の原点にある訳です。マリアは、この御使いの言葉の中に、新しい神の民の誕生までは知ることは出来なかったにしても、何かただならぬ神様のご計画と、その御業の成就というものを感じ取ったのではないかと思います。
 マリアは主イエスを身ごもった時、有名なマリアの賛歌を歌いました。その歌は、こう始まります。47〜48節「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。」ここでもマリアは、「この主のはしためにも目を留めてくださった」と言うのです。だから、主をあがめ、神様を喜びたたえるのです。サラも、エリサベトも、マリアも、皆、自分の上に注がれている神様のいつくしみに満ちたまなざしを知ったのです。だから、喜んだのです。実に、クリスマスというのは、この神様のまなざしが、自分の上にも注がれていることを知る時なのでしょう。そして、サラやエリサベトやマリアと共に、主を喜び、主をほめたたえる時なのだと思うのです。
 「彼は笑う」という意味の名を付けられたイサクの誕生、それはまことの喜びの主、イエス・キリストの誕生を指し示しているものです。イサクは、この子の誕生によって、笑いが与えられた。主イエスは、この子の誕生によって、まことの喜びが人々に与えられたということなのであります。

 子どもが生まれるということはうれしいことであります。それが我が子や孫であれば尚更でしょう。現代は少子化が進んでいます。そこには、子が生まれることへの素朴な喜びが薄らいでいるのではないでしょうか。しかし、子が生まれるということは、その背後に神様のあわれみに満ちたまなざしと、大きなご計画というものがあるのです。クリスマスになりますと、教会以外の所でも、教会に来ていない人達も、クリスマス会が行われます。みんな、クリスマスを祝いたいのです。それは、誰もが自分に注がれている神様の憐れみの眼差しを、意識はしていないのですけれど、神様に造られた者としてどこかでそれを知っているからなのではないでしょうか。神様の哀れみの御心なしに、この地上での命を与えられる者は一人もいないのですから。生まれてくる幼子には、神様の御心とごけいかくがあるのです 。そしてそれは、私共が心から笑い、喜びに満ち、主をほめたたえる者となるという計画であり、神様のパートナーとして生きる者となる、なって欲しい、そういう御心があるのでありましょう。イサクもヨハネも主イエスも、決して楽しい楽な人生を送った訳ではありません。しかし、神様に与えられた私共の人生には、面白可笑しく生きるということ以上の、もっと深い喜びがあるのであります。それは、神様と一つにされるという喜びです。サラもエリサベトもマリアも、そのような喜びを私共に証ししているのでありましょう。
 アドベントの日々、この喜びが、主イエスによって、全ての人に、つまりこの私にも与えられているということを心に刻ませていただき、主をほめたたえつつ、クリスマスへの備えの日々を、一日一日を歩ませていただきたいと思います。

[2005年12月11日]

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