花の日礼拝説教「天の父なる神さまは、あきらめない」ルカによる福音書 15章11〜32節 小堀 康彦牧師 今日は、花の日の礼拝です。幼子たちが、ここに飾ってある花のように、健やかに成長して花を咲かせるようにと願い、礼拝を守っています。今日は礼拝の後で、このお花を病気の人やお年寄りの人の所に持っていきますけれど、「花の日」は、お年寄りの人の日ではなくて、子どもたちの日なのです。ですから、午後には焼そば大会もするのです。今日は、1才から90才までの人たちがいっしょに礼拝しています。いつもは、教会学校で別れて礼拝している子どもたちも、いっしょです。子どもたちも、青年も、大人も、お年寄りも、みんな、神さまに愛されている、神さまの子どもです。神さまが私たちをどんなに愛して下さっているか、今朝はイエス様がお語りになった「たとえ話」から聞いてみましょう。これは「放蕩息子のたとえ」と呼ばれている、とても有名なたとえ話です。
お兄さんと弟の二人の兄弟がいました。二人ともお父さんの羊や山羊や牛を飼ったり、畑の仕事をして、お父さんの仕事を手伝っていました。ある日、弟がお父さんに言いました。「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください。」お父さんには、この二人の息子しかいませんから、財産を二つに分けて、一方を弟にあげました。羊とか山羊とか牛とか、土地も分けてもらったかもしれません。お父さんは、弟がそれを使って自分で働いていくのだと思ったのだと思います。ところが、弟は何とその財産を全部売ってしまったのです。そして、財産を売ったお金を持って、遠い国に行ってしまいました。弟は、毎日お父さんの仕事を手伝ったりしているのが、嫌だったんでしょうね。弟は、遠い国に行って、財産を売ったお金で、毎日遊んで暮らしていました。たくさんあったお金も、毎日遊んで暮らしているうちに、全部使ってしまって、何も無くなってしまいました。そんな時、ききんが起こりました。食べ物がなくなり、弟は本当に困りはててしまいました。弟は豚の世話をする仕事に何とかありつきました。弟は、お腹がすいて、お腹がすいて、豚が食べているエサを見ては、自分もそれが食べたいと思う程でした。でも、誰も自分に食べ物をくれる人はいませんでした。弟は悲しくなりました。その時、弟が思い出したのが、お父さんのことでした。お父さんの所が嫌で出てきてしまったけれど、お父さんといっしょにいた時は良かったな。雇い人もたくさんいて、雇い人たちにだって、みんなお腹いっぱい食べる物があった。それなのに、自分は豚のエサさえ食べたい程、お腹がすいて、何も食べる物がない。何て自分はみじめなんだろう。そうだ、お父さんの所に帰ろう。お父さんの所に帰ってあやまろう。財産を分けてもらって、それを使い果たしてしまったのだから、今さら、「ただいま」なんて言って帰れないけれど、お父さんにあやまって、雇い人の一人にしてもらおう。そうすれば、こんなみじめな生活からは抜け出せる。弟は、遠い国からお父さんのいる所に帰ることにしました。 ところで、お兄さんはどうしたでしょうか。お兄さんは、弟が戻ってきた時、畑で仕事をしていたのです。家に帰ってくると、何やら家の方から、楽しそうな音楽が聞こえてきました。何があったのかと不思議に思って、僕に聞いてみました。すると僕は、「弟さんが帰って来られました。無事に帰ってきたというので、お父さんが喜んで、お祝いしているのです。」と言うではありませんか。お兄さんは、怒ってしまいました。家に入ろうとしません。お兄さんは、あんな勝手に家を出て行って、財産を使い果たしてしまったダメな弟の為に、お父さんは何をこんなに喜んでいるんだ。お父さんは、自分の為にこんなに喜んでお祝いしてくれたことなどないではないか。不公平だ。そう思ったのだと思います。お兄さんの気持ちは判ります。このお兄さんは、弟のことが好きではなかったのでしょう。でも、お兄さんは勘違いをしています。お父さんは、お兄さんの為に盛大なお祝いをしたことはないかもしれませんけれど、お父さんと一緒にいることが出来る。それが一番幸いなことなのです。お兄さんは、いつもお父さんと一緒だから、それがどんなに素晴らしいことなのか、忘れてしまっていたのだと思います。どうか、皆さんは忘れないで下さい。天の父なる神さまに向かって、こうしてお礼拝が出来る。「天の父なる神さま」と言ってお祈りすることが出来る。それが、私たちに一番幸せなことなのです。そして、天から溢れてくる喜びを、いっしょに受けて、神さまといっしょに喜び、みんないっしょに喜んでいきましょう。 [2006年6月11日] |