先週、私共は「善きサマリア人のたとえ」の御言葉を受けました。神を愛することと人を愛することが、分けることの出来ない、一つのことであることを知らされました。私共自身が、まず主イエスによって助けられ、介抱されるべき者であり、そのことを知らされた者は主イエスに従う者とされ、主イエスが歩まれたように歩もうとする者とされる。そこに新しい人の誕生。困難の中に生きる人の隣り人となって生きようとする人の誕生があることを学びました。さて、この「神を愛すること」と「人を愛すること」はどこまでも分けることは出来ないことなのですが、そのことを聖書はその書き方と言いますか、主イエスのお語りになったことの記事の並べ方、福音書の編集の仕方においてもはっきりと示しているのです。
「善きサマリア人のたとえ」は、ある律法の専門家が主イエスに対してなした「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」という問いかけから始まりました。主イエスは逆にこの人に「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」と問い返したのですが、この人は、神を愛することと人を愛することという正しい答えをした訳です。そして、隣人を愛するとはどういうことか、自分の隣人とは誰のことかということを、主イエスは「善きサマリア人のたとえ」をもって答えられた訳です。しかし、そうすると神を愛するということはどういうことなのか。これについては「善きサマリア人のたとえ」では十分に答えられていない。その様に思う方もいるだろうと思うのです。そして、今朝与えられている「マルタとマリアの話」なのです。聖書は、「善きサマリア人のたとえ」のすぐ後に、この「マルタとマリアの話」を置くことによって、神を愛することと隣人を愛することを1セットにして語ろうとしているのです。私は、「善きサマリア人のたとえ」は、すぐ後のこの「マルタとマリアの話」とワンセットになっているものだと考えています。善きサマリア人の話しか知らなければ、私共の信仰は隣人を愛するという方向にぐっと傾斜してしまうだろうと思います。神を愛するということは、隣り人を愛するということの陰に隠れてしまいかねません。極端な場合には、人に親切にしましょうということと、キリスト者として生きるということが、何も違わないようなことにさえなりかねないのであります。これは大変、判りやすいのですが、しかし、そのように変質してしまったキリスト教信仰には、命がありません。私はいつもこのようなことを考えるときには、明治の始めに大阪・和歌山・三重をわらじ履きで伝道されたヘール宣教師が語られた言葉を思い出すのです。それは「悪いことはやめましょう。良いことをしましょう。そんなつまらないことを伝える為に、私は日本に来たのではありません。」という言葉です。「悪いことはやめましょう。良いことをしましょう。」というのはつまらないことなのです。何故なら、そんなことは誰でも知っているし、そんなことの中に「命」があるわけではないからなのです。「善きサマリア人のたとえ」は、それだけで完結している話ではありません。その後に、この「マルタとマリアの話」が続いているのです。これが大切な所です。
今朝与えられている「マルタとマリアの話」も又、大変印象深い話です。一度聞いたら忘れられない話です。主イエスの一行が、ある家に入った。その家にはマルタとマリアという姉妹がいた。マルタが姉でマリアが妹です。マルタは主イエスの一行をもてなす為に、忙しく立ち働いた。一方、妹のマリアは主イエスの足もとに座って、主イエスの話に聞き入っていた。そこでマルタは主イエスに言いました。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」皆さんは、このマルタの言葉をどう聞くでしょうか。「何と了見の小さいことを言うのか。そんなことを言わずに最後まで働いていればいいではないか。」そう思うでしょうか。多分、そんな風に思われる方は少ないでしょう。「マルタの気持ちは良く判る。妹のマリアは何と気がきかないのだ。お姉さんといっしょに働いてあげればいいのに。」そう思うのではないでしょうか。
私は今まで多くの婦人の方々とこの「マルタとマリアの話」を読んできましたが、ほとんどの人、いや全員と言っても良いかもしれません、皆、マルタに同情的なのです。そしておもしろいことに、多くの人が自分とマルタを重ねて読むのです。聖書を読む時の一つの大切な態度は、その聖書が語っている人の誰かと自分を重ねるということです。聖書に出てくる誰かと自分とを重ねないような読み方では、自分に語られている神の言葉として聖書を読むことは出来ません。聖書の言葉を自分に語られている言葉として読む時、そこでは必ず自分と重ねて読むということが起きるのです。多くの婦人は、マルタと自分とを重ねて読むようです。多分、自分の日常と重なるとの思いがあるからでしょう。逆に自分とマリアを重ねる人には、あまり会ったことがありません。これも時代を反映しているのかもしれません。問題はそこからです。自分とマルタを重ねて読む人は、そこでどうしてもマルタを弁護しようとしてしまうということが起きるのです。つまり、主イエスのマルタに対しての答え、41節「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」これを、マルタを批判している訳ではない。そう読むのです。実際、最近の注解書を読みますと、そのように読んでいるのも少なくないのです。
確かにマルタには言い分があるのです。「イエス様の一行が来た。もてなすのは当然のことではないか。なのに、どうして妹は何もしないで、自分にばかりさせるのか。私だって、イエス様の話を聞きたいですよ。しかし、そうもいかないじゃないですか。」マルタの声が聞こえるようです。聖書にはそこまでは書いていない。しかし、この時マルタはこう思っていたはずだと誰もが容易に想像します。それは、このマルタの姿には自分の日常の姿があると思うからでしょう。更に、「皆がマリアだったらどうする。マルタだって必要だ。マルタの様な人がいるから、世の中回っているのではないか。」そんな声も聞こえてきます。確かに、気を遣い、体を使って奉仕して下さる人がいるから、この教会の日々も動いているのです。マルタの奉仕に意味がない、ムダなことだということでは決してないのです。しかし、問題があるのです。これを聞き逃してはなりません。それはマルタが「多くのことに思い悩み、心を乱している」ということです。このことをきちんと聞かなければならないのです。マルタを弁護したいあまりに、主イエスが告げられたことを聞き落としてはならないのです。これを、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」という問題とを重ねて見るならば、隣人を愛するということは、ただそれだけでいくならば、神を愛するということと切り離されてしまうならば、人は必ずマルタのように、心を乱すことになってしまうということなのだろうと思います。
マルタが特別なのではないのです。マルタは別に嫌々主イエスの一行をもてなしていた訳でもないでしょう。彼女にしてみれば、当然のことを、当然のようにしていただけだと思うのです。特別良いことをしているという意識もなかった。実に自然であったと思います。その意味では、善きサマリア人と同じだったと言っても良いでしょう。しかし、マルタの心は乱れていたのです。ここに、良いことをしましょう、人に親切にしましょうというだけではどうにもならない、私共の現実があるのではないでしょうか。何度も言いますが、マルタは嫌々やっていた訳ではないのです。当然のことを当然のこととしてやっていただけなのです。しかし、心が乱れたのです。
その原因は何かと言えば、マリアだったのです。マリアも一緒に働いてくれて、主イエスの一行が「世話になったね、ありがとう」とさえ言ってくれれば、マルタは十分だったのです。ところがマリアは働かない。そこに、どうして自分だけがという思いが湧いてきてしまったのです。マルタは正しかったのです。正しいことをしていたのです。しかし、その正しいことをする中で、このような思いが湧いてきた。正しいことをしているならば私共は罪と無関係でいられるのでしょうか。そうではないのです。そして、彼女はこの問題、この罪に気付いていないのです。人は正しいことをしている時、しばしばこのような誘惑に陥るものなのです。自分の正しさから人を裁き始めるのです。もっと言えば、自分の正しさを人から評価して欲しいという思いからもなかなか自由になれないのです。ここでマルタはマリアに直接言わず、主イエスに訴えています。ここには、マルタの主イエスに評価して欲しいという思いも現れているのだと思うのです。人に評価されたいという思いと、人を裁くという思いとは、一つにつながっている心の動きです。
マルタの訴えに対しての主イエスの答えは、意表をつくものでした。皆さんなら、マルタにこのように言われたら、どう答えるでしょうか。「マルタよ、あなたは良くやってくれている。本当にありがとう。マリアにも手伝うように、私からも言おう。」そんな風に答えるのではないでしょうか。多分、そう答えるのが、このような時には万事が丸く収まる、知恵のある答えということになるのでしょう。しかし、主イエスはそのようにはお答えにならなかったのです。マルタに対して、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」と言われたのです。
「必要なことはただ一つだけ」です。しかも「マリアは良い方を選んだ」と続きますから、この必要なただ一つのこととは、主イエスの言葉に聞き入ることとということになります。ここで、主イエスが「何を食べようか、何を着ようかと思い悩むな。…ただ神の国を求めなさい。」(ルカによる福音書12章22節−)と言われたことを思い起こします。主イエスの言葉に聞き入り、神の国を求めること、それが必要なただ一つのことなのです。ここに命があるからです。「自分の正しさに生きることでもなく、人の評価を気にすることでもない。そんなことで思い悩むな。あなたは、そんなことに思い悩まないで良い者として召されているではないか。私が、今、ここに居るではないか。それなのに、どうして心を散々にしているのか。必要なことはただ一つのことではないか。」そう主イエスは言われたのであります。マルタは、必要なただ一つのことを見失っていたのです。そこに、マルタの問題があったのです。
マリアは良い方を選んだのであり、マリアからそれを取り上げてはならないのです。何故なら、ここに命があるからです。主イエスの言葉に聞き入り、主イエスとの交わりの中に自分の全てを注ぎ込む。ここに命があるのです。だから、マリアから、私共から取り上げられてはならないのです。
現代は皆が忙しいのです。子どもから年寄りまで、誰もが忙しいのです。何かヒマであるということが、罪悪であるかのように、忙しくしている。私も人のことは言えません。自分の手帳のスケジュール表に白い日があると、この日は休めるとホッとするというよりも、この日は何をしなければいけないか考え始める。ほとんど病気かもしれません。古くから、このマルタとマリアの話は、能動的生き方と、受動的生き方の二つが示されていると考えられてきました。このような読み方が全く正しいとは思いませんが、そのように読む中で何が重んじられてきたかを知ることは意味があるでしょう。受動的生き方の典型が修道院の生活です。能動的生き方はいわゆる何かを生産するような生活です。そして、中世までは受動的生き方こそがより正しい、より豊かな生き方であると考えられてきました。しかし、現代という社会においては、受動的生き方はほとんど何の価値も与えられておりません。受動的生き方だけが大切であり、意味のあるものと見なされるようになりました。これと、現代人が皆忙しがっているというのには、深い関係があるのだろうと思います。そのような現代社会の中で、私共はマリア的生 、受動的生き方の意味と価値とを回復していかねばならないのでありましょう。それは、祈りの回復と言っても良い。祈りを忘れた現代人は、忙しさの中で、我を忘れているのではないか。そしてこのままなら、忙しさの中で、心を滅ぼしていってしまいかねない。そういう所で、私共は生きているのでありましょう。
私共はヒマだから礼拝に来ている訳ではありません。「必要なただ一つのこと」を確保する為です。これを失えば私共は自分の正しさの中に生きるしかなく、人を裁き、人の評価にばかり思い悩まざるを得ないからであります。マルタは、この時自分一人が働いている、奉仕していると思っていました。しかし、この時最も根源的な所で仕えて下さっていたのは主イエス・キリストご自身に他ならなかったのであります。主イエスがこの家に訪れ、主イエスが福音を語り、神の国へと招いて下さっていたのです。マリアは、その招きに応えたのです。主イエスは、マルタも又、マリアのように主イエスの言葉に耳を傾けて欲しかったのではないでしょうか。主イエスの言葉に聞き、主イエスとの交わりの中に生きる中で、私共は心を乱すことなく、健やかに隣り人を愛する道へと進んでいけるのであります。ここに、「神を愛すること」と「人を愛すること」が健やかに結ばれていくただ一つの道が拓かれるのであります。
私共はただ今から聖餐に与ります。この聖餐は、私共が奉仕する前に、主イエス・キリストが私共の為に命を捨てられた、究極の奉仕を私共に思い起こさせます。この主イエスのサービスに与り、私共は神と人とにサービスする者とされるのであります。この主イエスのサービスに与ること。これこそ、私共にとって無くてはならぬものなのであります。
[2006年7月2日]
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