「イエスはある所で祈っておられた。」そう今朝与えられております御言葉は私共に告げております。イエス様はどんな風に、何を祈っておられたのだろうか。誰も想像することでしょう。福音書には、主イエスが祈っておられたことが、しばしば記されています。しかし、何をどのように祈られたのかを記している所は多くありません。もちろん、ゲツセマネの祈り、あるいはヨハネによる福音書17章の主イエスが捕らえられる前の大祭司の祈りと呼ばれている所もあります。しかし、主イエスが日常的にどのように祈られていたのかは、良く判らない所があるのです。しかし、今朝与えられた御言葉において、主イエスは、弟子達に「祈りを教えてください」と願われて、「祈るときには、こう言いなさい。」と言って、「主の祈り」を教えたと記されています。この「主の祈り」について言えば、マタイによる福音書6章にも記されておりまして、現在私共が唱えている「主の祈り」は、このルカによる福音書に記されているタイプではなく、このマタイ型なのですけれど、いずれにせよ、主イエスは弟子達に「主の祈り」を教えて下さった訳です。
いったい、主イエスはご自身でもこの「主の祈り」を祈っておられたのかどうか。これについては、全く別の議論がされています。一つは、これは主イエスが弟子達にこのように祈りなさいと教えた祈りであって、主イエスご自身の祈りとは違うという理解です。もう一方は、この「主の祈り」は、主イエスご自身が祈られていた祈りを、弟子達に口うつしに教えられた祈りなのであって、主イエスも又、このように祈っておられたのだという理解です。私は、この「主の祈り」は、主イエスが祈られていた祈りの言葉と全く同じではないかもしれないけれど、主イエスご自身も祈られた祈りなのではないか。そう考えています。もちろん、祈りというのは、まことに神様の御前に自由にされる中で生まれてくるのでありますから、主イエスが、いつでもこの「主の祈り」ばかりを祈られたということはあり得ないでしょう。しかし、「主の祈り」に表されている祈りの心とでもいうべきものをもって、神様との交わりの中に生きていた。そう言うことは出来るのではないかと思うのです。
「主の祈り」というのは、キリストの福音が伝えられた所では、必ず伝えられ、たとえ言葉が違っていても、全世界のキリスト者が祈りを一つに合わせることが出来る祈りです。私の前任地の東舞鶴教会には幼稚園がありましたけれど、その子ども達は皆、この「主の祈り」を毎日、唱えておりました。多分、意味は良く判っていなかったと思います。しかし、三才になったばかりの子、つまり、言葉を話し始めたばかりの子が、「天にまします、我らの父よ。」と祈るのです。お父さんやお母さんは、このことの意味をよく判っていなかったかもしれません。しかし、その後、20年、30年たって、その間、教会学校などに行ったことがない子でも、周りが「天にまします、我らの父よ。」と祈り始めると、この言葉が口に出てしまうのです。三才で覚えた「主の祈り」は、一生忘れることが出来ないのです。まさに「三つ子の魂百まで」です。これは、本当に素敵なことではないでしょうか。私共は、この「主の祈り」を知っている。それは、主イエス・キリストというお方と、祈りにおいて一つとなることが出来るということなのです。
弟子達は、主イエスに「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください。」と申しました。多分、バプテスマのヨハネは自分の弟子達に「ヨハネの祈り」とでも言うべきものを与えていたのでしょう。弟子達は、自分達も主イエスの弟子として、主イエスの弟子らしい祈りを求めたのであります。これは正しい求めでありました。だから、主イエスは弟子達に「主の祈り」を与えられたのでしょう。主イエスの弟子として生きる。それは、「主の祈り」を知っている者として生きる、「主の祈り」によって示されている神様との交わりの中に生きるということなのであります。
キリスト者であるということ、キリスト者として生きるということは、何かキリスト教の教理を信じるというようなことではないのです。もちろん、教理は大切です。しかし、どんなに教理を学んでも、頭で理解しても、キリスト者になることは出来ません。もちろん、本当の所で、教理が判れば、その人は祈らざるを得ないのでありますが、この祈りと結びついていない教理というものは、単なる知識を増やすことでしかないのです。「聖書は神の言葉である」という教理が判るということは、聖書の言葉に触れ、この言葉に撃たれ、まことに悔い改めるということを抜きにはあり得ないでしょう。「三位一体」というキリスト教の根本教理が判るということも同じです。神様に向かって、「父なる神様」といって祈ることを抜きに判ることなどあり得ないのであります。実に、キリスト者であるということ、キリスト者になるということは、この「主の祈り」を自分の祈りとして祈る者になるということ、この「主の祈り」を祈りながら、神様に与えられた人生を生きるということなのです。
弟子達は「祈りを教えてください。」と主イエスに願いました。これは口語訳では、「祈ることを教えてください。」と訳されておりました。弟子達はここで、単に祈りの言葉を教えて下さいと言っているのではなくて、祈るということを教えて下さいと言っているのでしょう。そして又、主イエスも単に「主の祈り」という祈りの言葉を与えただけではなくて、「主の祈り」によって示されている、祈るということ、祈りの心とでも言うべきもの、まことの祈りの世界を弟子達に、そして私共に教えて下さったということなのであります。
それにしても、弟子達の願い、「祈りを教えてください。」という願いは、これ自体が実に素晴らしい祈りなのではないでしょうか。私には、この弟子達の願いも又、聖霊なる神様によって与えられた願いであると思えるのであります。
「祈ることを教えてください。」この願い、この問いを、私は求道者の方から何度も受けてまいりました。これは、まじめな問いです。真剣な問いです。教会に来るようになって、何度も祈るようにと勧められる。しかし、どう祈ってよいのか判らない。言葉が判らないということもあるでしょう。そもそも、祈ることが判らないということもあるかもしれません。あるいは、自分がしているこんな祈りで良いのだろうかという戸惑いもあるのかもしれません。それは、少しも変なことではないのです。この日本の文化の中で育った私共は、祈りと言えば、「家内安全、商売繁盛」しか知らなかったからであります。この「家内安全、商売繁盛」の祈りの特徴は、その祈りをささげる対象は誰でも良いということなのです。神社でもお寺でもお地蔵さんでもいいのです。山でも太陽でも星でもいい。自分の願いをかなえてくれるもの、かなえてくれそうなものなら何でもいいということなのです。これは何を意味しているかと言えば、私共が幼い時から知っている「家内安全、商売繁盛」の祈りは、祈りの対象としての何か、神様と言っても良いでしょうが、その祈りの対象と自分との関係は少しも問題ではないということなのです。私はいつも言うことですが、初詣で行っている人に、この神社の神様は誰ですかと聞けば、ほとんどの人が答えることは出来ないでしょう。あるいは、今年はこの神社、来年はこの神社という風に変わっても、少しも問題ではないのです。祈っている相手が誰であろうが、その神社で教えていることが何であろうが、少しも関係ないのです。私の願いさえかなえてもらえば、それで良いのです。
では、この祈りの姿勢と、主イエスが教えて下さった祈りの世界、「主の祈り」によって導かれる私共の祈りとは、どう違うのでしょうか。それは何よりも第一に、私共は自分の祈るべき方が誰であるか知っているということです。私共が祈りを捧げる方は、何となく漠然とした神様というようなお方ではないのです。主イエスは、ここで、まず最初に「父よ」と呼びかけることを教えて下さいました。マタイによる福音書では、「天におられるわたしたちの父よ。」となっており、こちらが私共が慣れ親しんでいる「主の祈り」の形になっている訳ですが、大切なのはこの「父よ」です。私共は、自分が祈りをささげるべき対象である方、神様に対して、「父よ」と呼んでいい、「父よ」と呼ぶ者として祈りをささげるということなのであります。この「父よ」というのは、何よりもまず、「主イエス・キリストの父」を意味しています。天地を造られた神様と主イエス・キリストは、永遠の三位一体の関係において、永遠から永遠まで、父と子の関係であります。主イエスが神様を「父よ」と呼ぶのは判るのです。しかし、主イエスは、私共も又、神様に向かって「父よ」と呼んで良い、呼びなさいと言われたのです。私共を神様に向かって「父よ」と呼ぶ関係へと招いて下さったのです。キリスト者であるかないか。それは、この天地を創造された全能の神様に向かって「父よ」と呼べるかどうかにかかっているのです。この短い一言、「父よ」が言えたなら、その人は間違いなくキリスト者なのです。さっさと、洗礼を受けたら良いと私は思います。
この神様に対しての「父よ」という一言は、自分達と神様との関係を明確に示しています。神様に向かって「父よ」と呼ぶ者は、神様の子とされているということです。罪人であり、神様に敵対していた私共が、主イエス・キリストの救いの御業に与り、神様との和解が与えられたのです。私共が神様に向かって「父よ」と呼び、神様は私共に向かって「我が子よ」と呼んで下さる。そういう関係に入ったということなのです。ここに、私共の祈りの世界が広がっていくのであります。この神様と私共が、父と子の関係にある。そのような関係へと私共は招かれている。この事実が私共の祈りの前提なのです。パウロがガラテヤの信徒への手紙3章26〜29節で「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」と言っている通りです。
神様を父と呼ぶのは、全てのキリスト者に与えられている恵みです。神様は私だけの「父」ではないのです。「我らの父」です。ここに、私共の祈りが、孤独な一人の祈りではなく、愛する兄弟姉妹と共に結び合わされた者の祈りであるということになるのです。この広がりの中で「家内安全、商売繁盛」という私個人だけの祈りや願いの枠が破られ、広げられていくことになるのです。ユダヤ人、ギリシャ人、奴隷、自由人という社会の枠さえも超えていく広がり、祈りによって導かれる新しい世界が与えられていくのであります。
どうか、祈りが判らないという方は、神様に向かって、「父よ」と呼びかけてみて下さい。その後の言葉が続かなくても良い。言葉が出なければ、黙っていれば良い。神様を思い、「父よ」と呼びかける。そこで、神様の御前に自分がいるということが判るまで、「父よ」と呼びかけてみて下さい。祈れないのなら、「祈れるようにして下さい。」と祈ったら良いのです。弟子達も、主イエスに「祈ることを教えてください。」と願ったのです。父なる神様に向かって、私共はその子として、心にあるがままを祈ったら良いのです。父なる神様の前に、その子どもとして立つ私共は、まことに自由なのです。子という者は、父に対して自由な者です。もちろん、子どもが悪さをすれば、父は叱ることもあるでしょう。しかし、子は父に叱られることによって、自分が子でなくなるなどということは考えてみないはずなのです。
皆さん、自分はキリスト者としてどうすれば良いのか、何をしなければいけないのか。それは、すでに十戒において示されています。私共はそれを神様の御心として受け取っています。しかし、そうであるにもかかわらず、私共はまことに自由なのです。神様の子とされているからです。この自由を忘れて、あれをしてはいけない、これをしてはいけない。そんな風に生きるのは止めましょう。神様との交わりの中で、自由に生きる。それこそ、父なる神様が私共に求めていることなのですから。この自由こそ、ファリサイ人達が知らなかった、主イエス・キリストによって与えられた神様との交わりなのであります。
神様を父よと呼び、まことに自由な神様との交わりに生きる所に、聖霊なる神様によって新しくされた人間の姿があるのであります。これこそ、エゼキエルが預言した、36章26節「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」と言われていることなのです。この主イエスによって与えられた「主の祈り」を祈りつつ、この祈りに導かれるようにして、新しい命の営みが始まるのであります。この救いの歩みに招かれていることを感謝して、主の祈りを唱えつつ、この一週の歩みを歩んでまいりたいと思うのです。
[2006年7月9日]
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