富山鹿島町教会

礼拝説教

「日毎の糧を与えて下さい」
出エジプト記 16章1〜31節
ルカによる福音書 11章1〜4節

小堀 康彦牧師

 「主の祈り」を学び4回目になります。「主の祈り」は、まことに短い、幼子も祈ることの出来る祈りであります。しかし、この祈りは実に豊かで、何回学んでも、学び尽くすことが出来ない程です。この「主の祈り」についての本は、数え上げることが出来ない程出版されております。私の手元にあるものだけでも10冊は下りません。二千年の教会の歴史において、祈りについて語ろうとすれば、誰でもこの「主の祈り」について語らねばなりませんでした。この短い「主の祈り」の中に、私共の祈りの全てがあるからです。もっと正確に言えば、キリストの教会の祈りはこの「主の祈り」に導かれて営まれてきたのです。この「主の祈り」は、私共を「祈りの世界」というとてつもなく広い世界に迷うことなく導いてくれる確かな案内人であり、その祈りの世界の入口であり、終着なのです。まさに私共の祈りは、「主の祈り」に始まり、「主の祈り」に終わると言って良いだろうと思います。私共が最初に覚えた祈りは、この「主の祈り」であり、私共がこの地上の生涯を終える時に祈る祈りも又、「主の祈り」なのでありましょう。
 私はこんなことを想像します。自分が年をとり、いよいよ最期という時に、子や孫が自分の枕元に来て、お父さん、おじいちゃん、一緒に祈ろうと言って、「主の祈り」を共に唱えてくれたのなら、自分は何と幸いなことかと。そんなうまい具合にはいかないかもしれませんけれど、そんなことを考えるのです。ついでに、「主我を愛す」を歌ってくれたら、もう最高だと思う。
 「主の祈り」に導かれて、私共の祈りは為されるのです。私共の全ての祈りは、この祈りを自分の言葉に言い換えていくということなのでしょう。私共の祈りの生活において、主の祈りに導かれて祈るということは、具体的には主の祈りの一つの祈りを祈ると、それを敷衍して自由な祈りの言葉が導かれていくということであります。実際にやってみるとこうなるでしょう。「天にまします我らの父よ」と祈るとその祈りに導かれて、「あなたは天におられます。永遠から永遠まで、あなたは私共の上におられます。私の全ての歩みは、あなたの御手の中にあるのです。私は今、あなたのおられる天を見上げます。そこには、代々の聖徒がおり、私の愛した者達がおり、誰よりも主イエス・キリストご自身がおられます。私もやがて時が来れば、そこに行くことになるでしょう。主なる神よ、その日が来るまで、私の歩みを、霊において、肉において守って下さい。」 あるいは、「あなたを父と呼べる幸いを心から感謝します。あなたは、我らの父です。私の父であり、あなたによって造られ、あなたに愛されている全ての者の父です。あなたを父と呼ぶことが出来る為に、御子は十字架におかかりになられました。その恵みの御業の故に、私は今日あるを得ています。まことに感謝です。どうか、この恵みの中に私が生涯、とどまることが出来ますように。あなたを共に父と呼ぶことが出来る友を、兄弟姉妹を私に与えて下さり感謝いたします。どうか、共々にあなたの子として、あなたの守りの中を健やかに、あなたの御言葉に従って歩むことが出来ますように。」 このような祈りが導かれていくのでありましょう。これは私の今の祈りです。これは「主の祈り」に導かれた自由な祈りです。私共は、日々の祈りの中で、このように「主の祈り」に導かれて祈るということを、意識して行っていったら良いのではないか、そう思うのです。「主の祈り」は、まことに「祈りの学校」なのです。祈りを学ぼうとする者は、皆、この学校の生徒にならなければならないのです。この主の祈りから、祈るということを学ばなければならないのです。この祈りは、全ての祈りを生み出していく源泉のような豊かさに満ちているのです。ですから、ただこれを唱えるというだけではなく、もちろん、これを唱えるだけでも本当に素晴らしいのですが、更にこれに導かれて祈りを豊かにしていくということも大切なことなのでありましょう。その為には、この祈りが示している「祈りの心」ともいうべきものを、私共は良く知らなければならないでしょう。その為に、私共は「主の祈り」についての学びを、このように何回にもわたって行っているのです。この学びを通して、私共がいよいよ「主の祈り」を自分の祈りとしていく、豊かな祈りの者とされていく、その為の学びなのです。

 今日は、第四の祈り、「我らの日用の糧を今日も与え給え」です。やっと、自分の祈りが来たと思う方もおられるかもしれません。確かに、「主の祈り」の始めの3つの祈り、「御名を崇めさせ給え、御国を来たらせ給え、御心の天になるごとく地にもなさせ給え」は、どちらかと言えば神様の為の祈りであります。しかし、この第四の祈りからは、私共の為の祈りであります。この「日用の糧」というのは、文字通り私共が毎日食べるもののことです。英語では daily bread 、まさに日毎のパンです。私共は食べるものがなければ生きていけません。当たり前のことです。戦中、戦後の食糧難の時代を経験している人も少なくなってきました。あの時代、毎日の食べるものを確保することが毎日の大仕事でありました。経験された方には、あまり思い出したくない記憶だろうと思います。しかし時代が変わり、食べ物を平気で残す、捨てるという状況に日本はあります。いつの間にか、毎日食べられるということを感謝するという思いさえ薄れて来ている。私のように食べ物を残せない人は、成人病になってしまうという時代です。そういう時代にあって、この「我らの日用の糧を今日も与え給え」との祈りは、もう必要なくなったのでしょうか。この祈りは時代遅れとなったのでしょうか。そうではありません。そのような時代であればこそ、いよいよこの祈りは私共になくてはならない祈りとなってきているのであります。
 私共はこの祈りにおいて、私共の日用の糧は神様が与えて下さるものであるということに改めて気付かされるのであります。神様に向かって「与え給え」と祈るということは、そういうことでありましょう。先程、出エジプト記16章をお読みいたしました。ここには、天からのマナをもって、イスラエルの民が出エジプトの旅の40年間を養われたという出来事が記されておりました。この出エジプトという出来事は、神の民が誕生した出来事であります。個人としては、神の民はアブラハムまでさかのぼりますけれど、「神の民」として形成されたのは出エジプトの出来事の時、シナイ山において十戒が与えられ、神様との契約を結んだ時と言って良いでしょう。この出エジプトの旅は40年も続いた訳ですが、この間、イスラエルの民はマナという不思議な食べ物によって養われ続けたのです。彼らが旅をしたのは荒野です。畑も作れないし、木の実だって無い。そういう荒野を40年も旅をし、その間、神様はマナをもって養い続けられた。このことは、神の民というものは、何よりも神様の養いの中で生かされている民であるということを肝に銘じさせる為であったと言って良いと思います。神様の御手の中に、自分の命がある。そのことを知らされている者が、神の民なのであります。出エジプトの旅は、神様が約束の地に神の民を導く為の旅でした。この旅と、私共の神の国に向かってのこの世の旅を、重ねて理解することも出来るでしょう。この私共の地上での生涯は、神の国という約束の地に向かっての旅です。とするならば、この旅において必要なものは、出エジプトの旅においてイスラエルの民に与えられたように、私共にも与えられるはずなのです。そう信じて良いのです。

 私共は神様によって生かされているのではなくて、自分の努力、自分の稼ぎで生活している。そう考えてしまう者なのであります。しかし神様は、「そうではない、あなた方の命は私が養っているのだ」と言われているのです。この神様の養いを認め、これに感謝し、これを求めつつ生きる。それが神の民の生き方なのだということなのであります。私共の、神様を認めず、神様に感謝をしないという傲慢の罪は、実に私共が毎日食べている、その食べ物に対する態度に表れるのであります。食事に対しての姿勢に現れて来るのであります。
 キリスト者にとって、食事を前にしての祈りの習慣は無くてはならないものだと私は考えています。この食前の祈りにおいて、私共は食事の度ごとに、主の養いの中に生かされているということを心に刻むからであります。食前の祈りという習慣は、この「我らの日用の糧を今日も与え給え」という祈りから導かれた当たり前の習慣なのであります。キリスト者である親が、自分の子に教えなければならない、基本的な習慣です。教会で食事をする時に、もう待てなくて、「アーメン、アーメン」と言っている幼子の声を聞くことがあります。前任地の教会でもそうでした。幼子は、お祈りして「アーメン」と言わなければ食べられない、逆に「アーメン」と言えば食べられると思っているのでしょう。「アーメン」と「いただきます」が同じなのかもしれません。私は、その幼子の声を聞く度に、良い訓練をされているなと思って、うれしくなるのです。

 この「主の祈り」を教えて下さった主イエスは、「命のことで、何を食べようか、体のことで、何を着ようかと思い悩むな。」と言われました。神様の養いの中にあるのだから、安心しなさいと言われた。この祈りにおいて私共は、「今日も与え給え」と祈るよう教えられています。5年後、10年後まで与えて下さいと祈るようには教えられていないのです。「今日」なのです。何故なら、明日は神様の御手の中にあることだからであります。今日の分だけで良い。私共の不安の多くは、将来のことに関してでありましょう。3年後、5年後、10年後、何かはっきりは判らないけれど、漠然とした不安がある。そういう人は少なくないでしょう。年齢の問題、景気の問題、税金、子供の教育・将来、自分の老後、数え上げたらきりがありません。しかし、その不安の一切を、神様に委ねなさい。明日は神様の御手の中にあるのだから。この祈りはそのように私共に教えているのでしょう。この「日用の糧」というのは文字通りには、食べ物のことでありますけれど、ルターはこれは私共の「日常の生活に必要な全て」を含んでいると申しました。そうなのだろうと思います。私共は自分たちの日常生活における必要の全てを、神様に与えてくださるように祈って良いのです。こんなことを祈って良いのかと悩む必要はありません。必要を満たしてくださるように祈って良いのです。しかし、「今日の分」です。それ以上を求める必要はないのです。
 私は牧師として、祈らなければならない課題がたくさんあります。教会員の方々の健康・信仰について祈らなければなりません。牧師の所には、そのような情報が集まってきます。牧師は、それを知っているだけで良いというのではないのです。その人のために祈らなければならないのです。あの人のこと、この人のこと、祈らなければなりません。その際に、私は夜祈るならば「あの人に今夜健やかな眠りが与えられますように」と祈ります。一年分の守りを祈るということはないのです。祈りとは、その日その日の求めを祈るのであり、その祈りは毎日紡がれていくものだからです。
 そしてこの祈りの中で、私共は、明日を神様に委ねることによって与えられる自由を手にすることになるのであります。自分の稼ぎが自分を支えているのではなく、その稼ぎもまた神様が与えてくださったものであることを知らされるのです。私共が手にしているものは、全て神様が与えて下さったものであり、それ故、それは神様の為に自由に用いることが出来るという自由であります。明日を思いわずらい、自分が持っているものにしばられるということからも、解放されるのであります。日毎の糧があれば良いのであって、それで十分であるということを知る者となるのであります。「人間、起きて半畳、寝て一畳」とでも言うべきものでありましょう。

 最後に、一つのことを確認して終わります。この「主の祈り」は、今まで何度も申し上げて参りましたが、私個人の祈りではないということです。全てが「我ら」の祈りなのです。「天にまします『我ら』の父よ」であります。そして、この第四の祈りも又、「『我ら』の日用の糧を今日も与え給え」なのです。私だけが、自分だけが今日食べられれば良いということではないのです。「我ら」なのです。「我ら」が食べられなければならないのです。この「我ら」はどこまで広がりを持つのでしょうか。少なくとも、この「我ら」が「自分の身内」という範囲を超えることは確かでしょう。この祈りは、私共の目を世界へと広げるものなのです。アフリカでアジアで南米で、今も多くの飢えの中にいる人々がいます。私共はそれを遠い国のことと言って済ませる訳にはいかないのです。その意味では、この祈りは、その前の祈り、「御国を来たらせ給え、御心の天になるごとく地にもなさせ給え」とも重なってくるのだと思います。同じ祈り心が、ここには流れているのです。この第四の祈りは、自分の日常の必要を神様に祈ることを教えているのですが、それにとどまらず、私共の目を世界に広げ、又、私共の心を富から自由に、自分が今日生かされていることを感謝する、そういう者へと私共を造り変えていく力があるのであります。この祈りと共に、この祈りに導かれて、この一週も又、主の御前を神の国に向かって歩んでまいりたいと思います。

[2006年7月30日]

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