主イエスは、「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」と言われました。これは、不意をついた言葉です。主イエスは、時々このように思いもよらない、不意をつくような言葉をもって、私共の目を覚まさせようとされます。この時もそうでした。一人の女性が、主イエスが口を利けなくする悪霊を追い出されるのを見て、「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」と言ったのです。これは主イエスに対してのほめ言葉です。今風に言えば、「こんな立派な息子を持ったお母さんは、何て幸せなんでしょう。」そう、この女性は言っただけなのです。これは、私共も日常的に口にしていることでしょう。ある人が、何かの賞をいただいた。音楽のコンクールでも、科学の賞でも、何でもいい。皆が、よかったですねと祝いの言葉をかける。その中には、必ず、「あなたのような息子を持って、あるいは娘を持って、お母さんは幸せ者ですね。」そんな言葉が入っているのではないかと思うのです。この女性はそのような何気ない、普通のほめ言葉として、こう言っただけだったと思うのです。ところが、主イエスは、その言葉を聞き流さなかったのです。主イエスは、その何気ないほめ言葉を聞き流さずに、この言葉を手がかりにして、本当の幸いとは何なのか、本当に幸いな人とは誰なのか、この私共が生きていく上での根本的な問題へと目を向けさせられたのであります。
皆さんは「幸いな人」というと、どんなイメージを抱くでしょうか。健康で、時間もお金も余裕があって、家族にも恵まれて、職場や友人にも恵まれて、休日にはのんびり、ゆったり過ごしている人。そんなイメージを持たれるかもしれません。しかし、そんな人はきっと居ないのだろうと思います。何か一つや二つは問題があり、課題を持ち、心配事を抱えながら生きているのが私共でありましょう。だったらそのような私共は不幸なのか。幸いとは言えないのか。そうではないのです。もちろん、そのようなものが与えられるということも、神様の恵みであり、まことに幸いなことであるに違いありません。主イエスは、そのようなものは何もいらない、必要ないと言われているのではないのです。そうではなくて、私共に何か欠けるものがあったとしても、問題を抱えているとしても、それでも、あなたは幸いであると言い切れる、そういう道があるのだと言われたのだと思うのです。
素晴らしい息子、自慢の息子が居る。それはそれで、本当に幸いなことであるに違いないのです。しかし、たとえそうでなくても、幸いと言い切れる道がある。それは、「神の言葉を聞き、それを守る」道だと言われたのです。何故か。それは、そのことによって、主イエス・キリストと私共が深くつながり、交わり、一つとされることが出来るからなのです。主イエスとつながる、主イエスと一つにされる。それこそ、私共に備えられている最も祝福に満ちた、幸いなことなのではないでしょうか。主イエスとつながり、一つとされるのは、血によってではありません。神の言葉を聞き、それを守ることによってなのです。多くの注解者は、ここでの主イエスの言葉にはルカによる福音書8章21節にある主イエスの言葉、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである。」と、同じ響きがあると指摘いたします。その通りだと思います。主イエスの母マリアと主イエスの兄弟が主イエスに会いに来たとき、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである。」と言われたのです。主イエスは神の言葉を聞いて守る人は、主イエスと血のつながりのあるマリアや兄弟達よりも、もっと真実に結び合わされ、一つとされた主イエスの兄弟、主イエスの家族となるのであります。主イエスご自身と、私共は血のつながり以上のきずなで結ばれるのです。だから幸いなのです。主イエスは、神の言葉を聞いて守る人と自分との間には、血を分けた兄弟・親子以上の結びつきがあるのだと告げられたのです。
先週、私共の教会は北陸連合長老会の交換講壇で、ハイデルベルク信仰問答の問一とその答えに示されている、神様の恵みに共に与りました。私共の教会は内城恵牧師の説教に与り、私は七尾教会で説教いたしました。あのハイデルベルク信仰問答の問一と答えに示されている信仰は、私共が受け継いできた信仰の中核です。ハイデルベルク信仰問答の問一はこう問います。「私共が生きるにしても死ぬにしても、唯一の慰めとなるものは何なのか。」その答えは、私共が身も魂も主イエス・キリストのものとされているということなのだ。そう言い切るのです。
主イエスが、幸いな人というのは、神の言葉を聞いてそれを守る人であると言われたのは、実にそのことによって、私共が「主イエスのものとなる」からなのです。主イエスの本当の家族となるからなのです。主イエスの持つ、良きもの全て。永遠の命であり、全き平安であり、喜び、愛、正義、憐れみ、真実、それら全てを与えられるからであります。だから幸いなのであります。
主イエスは、ここで招いているのです。何気なく言った、この女性の賞め言葉の揚げ足を取っているのではないのです。そうではなくて、あなたも幸いになれる。幸いな者になろう。そう招いておられるのです。神の言葉を聞き、それを守るなら、あなたも幸いな者となる。私は、あなたをそのまことの幸いへと招く為に来たのだ。そう告げておられるのであります。私共は、今朝も神の言葉を聞く為にここに集まってきています。それは、この主イエスの招きに応え、この主イエスの約束を信じ、まことの幸いに与る為なのであります。
この神の言葉を聞き、それを守る為に必要なことは何なのでしょうか。それは悔い改めることだと、主イエスは「ヨナのしるし」をたとえながら教えられました。
「悔い改める」とは、反省することではありません。あれが悪かった、これが悪かったと反省するだけなら、人はすぐに出来ます。もっとも、本当に自分が悪かったと認めるということも、これはこれでなかなか大変なことではあるのですけれど、しかし「悔い改める」ということは、過去を反省するだけではないのです。これからの生き方を変えるということが、「悔い改める」ということのためにはどうしても必要なのです。だったらどのように変えるのか。それは、自分の考えや思いや願い以上に大切なことがある。それは神様の言葉に従って生きることだ。そのように変わるということなのであります。神様の前にひざまずく者として生きるということであります。
神様の言葉を聞くだけでは、私共は変われません。聞いて、それを守ろう、それに従って生きていこう。その歩みを実際に始める所から、私共は変えられていきます。そしてそこに、私共のまことの幸いへの道が開かれていくのであります。
さて、主イエスは「今の時代の者たちはよこしまだ。」と言われました。大変厳しい言葉です。どうして主イエスはそのように言われたのでしょうか。それは、人が悔い改めようとしないからなのです。しかし、それは何もイエス様が生きておられた二千年前の時代だけのことではないでしょう。いつの時代でも、人は変わろうとしないのです。自分を神様の前に小さくすることが出来ず、神様の前に尊大になり、神様に向かってこう言うのです。「私に信じて欲しかったら、私の望む奇跡を起こしてみろ。そうしたら信じてやろう。」これが「しるし」を求める人の心のあり様なのです。何と傲慢な心でしょうか。主イエスはそれを見抜いて、「何とよこしまなのか。」と言われたのです。主イエスの周りには、いつもこの「しるし」を求める人々が集まっていたのです。しかし、主イエスは、それらの人々の求めに応じて奇跡を起こして見せるということは、一度もなさらなかったのです。もちろん、主イエスは奇跡を行う力をもっておられましたし、実際多くの奇跡を行いました。しかし、一度として、奇跡を見たら信じてやろうというような、「しるし」を求める人の求めに応じたことはなかったのです。
ここで主イエスは「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」と告げられました。「ヨナのしるし」とは、先程お読みいたしました旧約聖書のヨナ書に記されていることです。このヨナという人は、当時の世界帝国の首都ニネベに行って、悔い改めることを告げるようにと神様に命じられました。でもヨナはそれが嫌で、ニネベとは反対方向に向かう船に乗って、神様の命令に従おうとしなかったのです。ところが、ヨナを乗せた船は嵐に遭いました。ヨナは自分が神様の命令に背いた為にこの船が大嵐に見舞われたことを悟り、自分を海の中に投げ込むことを船の乗組員に申し出たのです。ヨナを海に投げ込むと海は静まりました。海に投げ込まれたヨナは、大きな魚に呑み込まれ、三日三晩、大きな魚の腹の中にいたのです。ヨナは魚の腹の中で神様に祈りました。すると、ヨナは陸地に吐き出されたのです。そして、ヨナはニネベに行って悔い改めよと宣べたのです。すると、神様を知らない、それ故に悪を行っていたニネベの人々が悔い改めたと聖書は記しています。主イエスが「ヨナのしるし」と言われたのは、三日三晩魚の腹の中にいたヨナが陸に吐き出された、あの不思議な出来事を指しています。つまり、主イエスが十字架におかかりになって、三日目に復活されること、この復活という奇跡以外は、与えられないと言われたということなのであります。ニネベの人々がヨナの言葉を聞いて悔い改めたように、主イエスの復活のしるしによって悔い改めよといわれたのです。復活、これこそ奇跡の中の奇跡です。私共は、このことの故に、主イエスをまことの神様と信じ、この方の言葉を神の言葉として聞き、これに従って生きようとするのです。そして、そこに何にもまさる幸い、神様の祝福が与えられると、主イエスは約束して下さったのであります。この復活の奇跡こそ、主イエスが私共の最も恐るべきもの、私共の一切の幸いを飲みつくしてしまう「死」を滅ぼす力を持っていることを示されたものです。この復活の「しるし」こそ、私共の幸い、生きるにしても死ぬにしても、私共から決して失われることのない幸いを保証するものなのであります。この復活の奇跡さえあれば、あとは何もいらない。これで十分。これさえあれば、私共は主イエスをまことの神と信じ、この言葉を聞き、これに従うことが出来る。そういうものなのであります。
南の国の女王、これはシェバの女王のことです。列王記上10章に記されていることですが、彼女はソロモンの知恵を求めて、遠くの国から、多くの宝物をたずさえてやって来たのです。彼女は異邦人でした。それにも関わらず、ソロモンの知恵ある言葉には、神の知恵があることを知り、これを求めたのです。だったら、主イエスの言葉を聞くあなた方はどうなのか。神の民ではないか。にもかかわらず、この主イエスの言葉に神の知恵を悟ることが出来ないのか。悟るなとするならば、どうしてこれに従わないのか、悔い改めないのか、「しるし」を求めるのかということなのです。ニネベの人々もシェバの女王も異邦人でした。しかし、彼らはソロモンの知恵を求めたり、ヨナの言葉で悔い改めたのです。しかし、今、あなた方の前にいる私は、ソロモンよりも、ヨナよりもまさる者ではないか。それなのにどうして私の言葉を聞いて守ろうとしないのか。悔い改めることなく、「しるし」を求めるのか。そう主イエスは言われたのであります。
私共は何を求めているのでしょうか。生きるにも死ぬにも、私共を力づけ、慰めることの出来る、まことの幸いでしょうか。それとも、目に見える、やがては消えていく幸いでしょうか。もし、やがては消えていく幸いならば、ここにはありません。しかし、生きるにも死ぬにも、私共を生かし、力づけるまことの幸いなら、ここにあります。ペトロが「美しい門」で足の不自由な男に告げた言葉と同じ言葉が私共にも告げられています。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」これが礼拝のたびごとに、私共に告げられています。私共は、「主イエスのものとされた」のです。だから、主イエスの名によって、立ち上がり、どんな時でも新しく歩き出すことが出来るのです。この礼拝において、主イエスの生ける言葉は今も語られ、告げられています。私はシェバの女王のように、遠くまで旅をする必要もありません。多くの宝物を持たなくても良い。ソロモン以上の知恵の言葉、神の言葉、まことの命の言葉を、ここにおいて聞くことが出来るのであります。まことに幸いなことであります。この幸いの中に、神の言葉の中に、とどまり続けたい。そう心から願うのであります。
[2006年9月17日]
へもどる。