主イエスの言葉は時として、私共が聞くに堪えない、とても飲み下すことが出来ない、そのような響きをもって私共に告げられることがあります。今朝私共に与えられております御言葉もそのような主イエスのお言葉の一つでしょう。多分、今朝与えられている御言葉を自分の愛唱聖句にしている人はいないだろうと思います。この主イエスの言葉が私共の耳に、心に、スーッと入ってこない。何かザラザラするような違和感を感じるのは、この主イエスの言葉が、普段私共が持っている主イエスのイメージとあまりに違うからではないかと思います。例えば、49節に「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」とあります。地上に火を投ずるために来た、地上に火が既に燃えていたらと願う。これは穏やかな言葉ではありません。地上に火が燃えさかっているイメージは、私共に空襲によって焼かれた街の姿を思い起こさせてしまいます。戦争のイメージです。このイメージは51節の「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」という言葉によって、より強められてしまいます。そこで私共は戸惑ってしまうわけです。主イエスは平和をもたらす為に来られたのではないのか。クリスマスにおいて天使達が歌ったのは「天には栄光」「地には平和」ではなかったのか。キリストは平和の主、平和の王ではなかったのか。今朝与えられているこの主イエスの言葉は、主イエスのいつも語られていることと矛盾しているようで、よく判らない。そんな思いを抱かせるのでしょう。
私は聖書を読んでいて思うのですが、今朝与えられているような、よく判らない所、スーッと入って来ない所、そういう個所こそ実は宝の山なのです。それは自分が聖書を読んでいて当然と思っていることが、本当にそうなのかと揺さぶられる時だからです。この個所の自分の読み方がそれで良いのかと点検される時でもあるからです。私共が聖書を読む、御言葉に聞くということは、それによって私共の信仰が新しくされる為でしょう。しかし、私共にはなかなか自分の信仰を新しくしようとしない所があるのです。一度信じると、それを変えられない。もちろん、信仰というものはそうそう簡単に変えてはならないものであることも確かです。しかし、神様に出会う、御言葉に出会う時、私共は神様というお方、主イエスというお方が、自分の信仰の理解という中に収まりきる方ではないことを知らされるのでしょう。私共は自分で造り上げた神様というイメージ、主イエス・キリストというイメージ、それを信じているのではありません。主イエスは、神様は、今も生きて働いて、私共と出会って下さる、生ける神なのです。決して、私共の頭の中のイメージのような方ではないのです。私共は自分のイメージとしての神様でもイエス様でもありません。私共が信じているのは、今も生きて働き給う「生ける神様」「生けるキリスト」であります。今朝、私共に与えられたこの主イエスの言葉によって、私共は自分の持つ神様、主イエスについてのイメージという偶像を壊していただき、新しく生けるキリストに出会わせていただきたい。そう心から願うものであります。
さて、主イエスがここで言われているのは、本当に戦争のようなことなのでしょうか。実は全くそうではないのです。私共がこの主イエスの言葉がよく判らないと思った第一の原因は、「地上に投じられた火」という言葉から戦争をイメージし、そのイメージをこの主イエスの言葉に押しつけていたからなのです。聖書の言葉は、聖書の言葉をもって解釈しなければなりません。これが聖書を読む時の原則です。
とするならば、49節はどうなるのでしょうか。49節のキーワードは「火」でしょう。この火が何を意味しているのか。それによって、この主イエスの言葉の意味は決定します。この火は、聖霊と結びついたものと考えて良いのです。決して、実際のメラメラと燃え上がる炎、戦場の火を指しているのではないのです。主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時、ヨハネは人々に向かって、「わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」と言われた、あの「火」です。この火は、裁きの火であり、清めの火です。全ての罪を焼き尽くす火です。主イエスは、この全ての罪を焼き尽くす火、人々に悔い改めを起こし、新しく生まれさせる火を、この地上にもたらす為に来られたと言われたのです。その火が既に燃えていたのなら、つまり、人々が既に神様に向かって悔い改め、神様に似た者として造られた者としての姿を回復して生きていたのなら。主イエスは、そのことをどんなに願っていたことでしょう。しかし、そうではなかった。人は神様を忘れ、己が腹を神として生きていた。だから、主イエスは火を投じなければならなかった。清めの火を、悔い改めの火を、裁きの火を投ずる為に来られたと言われたのです。
その火を投ずる為に、主イエスは何を為されようとされたのか。それが次の50節です。「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」主イエスが受けねばならない洗礼、それは十字架であります。主イエスはこの時、既にご自身が受けねばならない十字架の苦しみを見ておられたのであります。ここに示されている主イエスの言葉の激しさは、十字架の激しさなのであります。何としても人々を、私共を救わずにはおかない、自ら十字架にかかっても、それを成し遂げねばならない、主イエスの愛の激しさであります。それが「火」という表現を生んでいるのです。主イエスは、人間の願望や要求や期待に応える為に来られたのではありません。聖霊の火、全ての罪を焼き尽くす、滅ぼし尽くす清めの火、悔い改めをもって私共を新しく作りかえる火を投ずる為に来られたのです。
私共は、この主イエスの激しい言葉の前にたじろぎます。自分が何を求めて主イエスの前に集まって来たのか、自らの姿を点検させられるからです。私共は今朝、何を求めて主イエスの御前に集ってきたのか。主イエスの火によって、焼かれることを求めて来たのか。それとも、主イエスに自分の求める目に見える幸いも求めて来たのか。どうなのか。主イエスのこの激しい言葉は、私共にその決断をも迫るのであります。
主イエスを信じ、主イエスと共に生きるということは、どうしてもこの決断を求められるのであります。自分は何を求め、何の為に、どこに向かって生きるのか。そのことに対しての明確な決断を求めるのであります。主イエスの火に焼かれた者は、他の何よりも神を愛し、キリストを愛する者となります。自分の栄光を求めず、神の栄光を求める者となります。神の国に入ることを、人生の目的とする者となるのです。
キリストの火は、その火に焼かれた一人の中で燃え上がるものではありません。飛び火するのです。そして、周りの人々もキリストの火に燃える者となっていくのです。キリストの火はそのようにして、二千年をかけて全世界に燃え広がり、そしてこの富山の地にまでやって来ました。この火は、キリストの命の炎でもあります。主イエスの十字架によって投ぜられた炎だからです。キリストを信じる者は、このキリストの炎を我が内に宿す者となるのであります。我が内なる罪を絶えずこの炎によって焼き尽くしていただく者であります。神様以上に心ひかれ大切にしようとする全てを、焼き尽くしていただく者となるのであります。
しかし、主イエスが地上に平和をもたらす為ではなく、分裂をもたらす為に来たとはどういうことなのでしょうか。それは、この主イエスの十字架の御業によってもたらされた火、キリストの火、聖霊の火は、それによって焼かれた者と、そうでない者とを分けることになるということであります。それは、一つ家の中においても起きてしまう。悲しいことではありますが、クリスチャン・ホームに育った方でなければ、ここで主イエスが言われたことには、どこか心当たりがあるのではないかと思います。日曜日に教会に来る。そのこと自体が、一軒の家の中では少なからぬさざ波を立てることになるのです。だったら、信仰を捨てるのか。そうはいきません。ここに私共の命がかかっているからです。
高倉徳太郎という牧師がいました。大正時代を代表する牧師です。私の前任地の隣町の綾部市というところで生まれました。今でも高倉神社というものがあるほど、実家は綾部市の旧家で、お父さんも事業家でした。彼は東京帝国大学に進みますが、そこで植村正久に出会います。そして、牧師になろうと東京帝国大学を辞めて、植村正久の東京神学社に入ろうとした時、父親から「親を殺す気か」という電報が届きます。高倉は、「子の為に親は死ね」と電報を送ったと言われています。すさまじい親子です。この高倉牧師の激しさは、主イエスの愛の激しさ、キリストの火で焼かれた激しさなのではないのかと思うのです。
毎週教会に集うようになる。午後の奉仕もするようになる。そういう中で、家の中で一人だけ教会に来ている人であるならば、「あなたは家と教会とどちらが大切なのか。」これ程露骨ではないにしろ、それに近い反応を家族から受けたことのない人はいないでしょう。その時に、「私は教会を大切にする。」そんなことを言ってはいけません。家族も大切なのです。神様が与えて下さった、かけがえのない交わりなのです。反対されないように知恵を使わなければならないでしょう。家族の理解を得るまでは、礼拝だけ、あるいは夕礼拝だけ、そういう時期もあるのだろうと思うのです。そして、何よりも、心を尽くして家族に仕える営みを実践しなければなりません。その無言の行いの中で、家族に理解を求めていかなければならないのだと思います。本当にこの人は家族を、自分達を愛してくれている。そのことが伝わり、この人が信じているものを、私も知りたい、そういう思いが起きてくることを私共は待たなければならないのでしょう。それは、地域や会社においても同じことなのだろうと思います。ただ、このキリストの火は裁きの火でもある訳ですから、愛する家族が共に救いに与ることをあきらめることは、私共には出来ません。
主イエスは分裂をもたらす為に来たと言われる。しかし、この主イエスの言葉は、いわゆる宗教戦争のようなものをもたらす為に来たと言っているのではないのです。そうではなくて、家族に代表されるような地上の交わり、秩序というものが既にある訳ですが、主イエスはそれは本当にそのままのあり方で正しいのか?そう言われているのではないかと思うのです。例えば一夫一婦制です。これはキリスト教によってもたらされたものです。つまり、家族・夫婦といえども、キリストの火によって焼かれなければ、本来の姿、神様の御心にかなった姿になっていくことは出来ない。そういうことではないのかと思うのです。家族は家族であるのではなくて、家族になっていかなければならない。キリストの火によって、そのあり方を清められていかなければならないということなのだと思うのであります。私共は家族みんな仲良く暮らしたいと思います。それは、大それた大きな望みというようなものではないでしょう。ささやかな望みです。しかし、このささやかな恵みが与えられる為には、実は自分の家族がキリストの火によって焼かれる、悔い改める、それがなければならないということなのではないでしょうか。家族とは自然にあるものではなくて、キリストの火に焼かれたものとして、恵みとして新しくされなければならない、新しく受け取り直さなければならないということなのではないかと思うのであります。
53節の「父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」という言葉は、先程お読みいたしましたミカ書7章6節の言葉を意識されての言葉でしょう。ミカ書7章6節「息子は父を侮り、娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ。」とあります。このミカ書の証言は、アッシリアによって北イスラエル王国が滅ぼされる、その直前の証言であり、神様の裁きを告げているのです。神様の求めるものが何もない、正義は失われ、皆が私欲に走り、隣人も信用出来ない程に人々の心は乱れた。そのことを記す最後に、家族の中の争いを告げているのです。このような時代であるが故に、神の裁きが来るというのです。主イエスがここでミカ書を引かれたということは、まさに主イエスは神の裁きを行う者として来られたということを告げられたのだと思うのです。主イエスはまことの愛の審判者です。この方の前で、偽りの愛は暴かれます。この方の火によって新しくされなければ、私共の愛は清められないのです。しかし、このミカ書の証言は7章7節で「しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。」という神の救いを待ち望む証言へと続いているのです。父と子、母と娘、しゅうとめと嫁とが争うのは、裁きの前の姿、キリストの火によって清められる前の私共の姿なのであります。主イエスの火によって、私共は焼かれ、清められ、新しくされ、まことの平和を造り出す者とされていくのであります。
[2007年2月11日]
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