先週、私はこの春から日本基督教団の教師となる人達の為の教師検定試験を行ってきました。今回は74名の方が受験いたしました。その全ての方々と検定委員全員とで面接をいたしました。人数が多いものですから、面接には必ずしも十分な時間がとれる訳ではありませんけれど、前もって提出されました今回受験するにあたっての文章を読ませていただきました。一人一人が様々な出来事を通して、主の召命を受け、この試験に至ったことが記されておりました。牧師の家庭に育った人もいれば、長い社会人としての信仰生活の後に献身を志した人もいます。一人一人、その献身に至る道は違いますが、皆ただ一人の主なる神様から召命を受けている。私は、改めて生ける神の御業の大きさ、広さ、豊かさを知らされた思いでした。もちろん、その一人一人には欠けがあり、なお十分な研鑽を積んでいただかなければならない人もおられる訳ですけれど、神様がその救いの御業を遂行する為にその一人一人を選び、召命を与え、献身へと至らせる。そこには、生ける神様のお働きの一つの証しが確かにありました。
私共はしばしば神様のお働きというものを、実に小さくしてしまいます。それは、自分に直接関わる所においてしか神様の御業に気が付かないからでしょう。そこで、私共の小ささ、自分の視野の狭さに神様を合わせてしまうという誤りを犯してしまうのです。しかし、神様は大きく、広く、豊かです。その御業を私共は知り尽くすことは出来ません。私共は、ただその神様の御業の一端に触れて、驚き、喜び、主をほめたたえるばかりなのであります。教師検定という、神様の選びの御業が現れる場に立ち会わせていただき、改めてそのことを教えていただきました。
今朝与えられております御言葉において、主イエスは、神の国を「からし種」と「パン種」にたとえています。この二つのたとえが示していることは、小さなものが大きく成長するというイメージを持って神の国の一面を表そうとしていることです。神の国、神様のご支配というものは、最初は誰も気付かないくらいに小さな出来事から始まるけれど、それは大きく成長していくということなのです。私は教師検定試験というものに立ち会いながら、このことを本当にそうだと思わされました。二千年前に、日本から遠く離れたユダヤの地にイエス・キリストが生まれ、その方が十字架にかかり、復活された。その時主イエスによって召された弟子は12人。それが、この春の日本基督教団だけで74名が伝道者としての歩みを始めようとしている。全世界では何万、何十万という伝道者が生まれるのでしょう。その分布は文字通り世界中からです。何という広がりでしょう。そして、その伝道者になろうと献身する一人一人に、主の召命の出来事がある。何という広さ、豊かさであろうかと思うのです。主イエスが「からし種」のたとえ、「パン種」のたとえで語られた神の国の成長力、成長性というものは、ここに確かに実現していると言わなければならないでしょう。つまり、神の国はすでに、ここにある。ここに始まっており、成長し続けているということなのであります。私共は、神の国をどこか知らない所に探し求める必要はないのです。すでに、ここに始まっているからです。神の国は、主イエスの到来と共に始まり、その後ずっと成長し続け、今も成長し続けているのであります。
新しく教師として、伝道者として立てられた者は、全国津々浦々の教会に遣わされていきます。そこに教会があるということは、この神の国の成長の営みが、二千年の間滞ることなく続いており、今もそこで継続しているということの、動かすことの出来ない証拠でありましょう。私は、知らない土地に行きますと、必ず十字架が目に飛び込んできます。不思議と十字架だけは見落とすことがありません。町から何時間も車で移動して、山間の道を車で移動しているときに、十字架を見つけることもあります。私はその時、驚きと感動を覚えます。それは「神の国はここまで来ている。」という思いがこみ上げてくるからです。教会ということに焦点を当てて語りましたけれど、それは私共一人一人のキリスト者に置き換えても同じだろうと思います。一人のキリスト者がそこに居る。それは、二千年の教会の歩み、二千年の神の国の成長の結果なのです。そして、この神の国の成長が今も続いているということは、その一人のキリスト者から更に新しい神様の救いの御業が今も起きているし、これからも起き続けていくということなのであります。私共が救われた。それは、私共を用いて神様の救いの御業が進展していく、その為なのです。他の理由はありません。
主イエスが「からし種」「パン種」と言われた時、それは何を指していたのか。これは様々に理解することが出来ますし、又されて来ました。しかし、その根本にあるのは、主イエスの御業であり、主イエスの御言葉であり、主イエスご自身ということなのだろうと思います。そして、主イエスの御業・御言葉・主イエスの命を宿す者は、神の国の成長に仕え、用いられ、生かされていくということなのであります。
さて、主イエスがこの「からし種」と「パン種」のたとえを話されたのは、このルカによる福音書においては、安息日に主イエスが腰の曲がった婦人をいやされた時でした。たとえ話というのは、大変理解の幅が広いものです。ですから、聖書の意図に沿ってたとえ話を理解しようとする場合、そのたとえ話が置かれている文脈というものがとても大切になります。ルカによる福音書においては、安息日に主イエスが腰の曲がった婦人をいやされた時に語られということになっています。このことをきちんと弁えて、このたとえ話を理解したいと思います。
皆さんもご承知のように、当時安息日、今の土曜日ですが、ユダヤ教においてはこの日には何もしてはいけないことになっておりました。安息日規定というものは、十戒の第四の戒から始まって、時代と共にどんどん具体的に、これはしてはいけない、これをするならここまで、という実に細かな規定が作られていったのです。この日、主イエスはいつものように会堂で教え、安息日の礼拝を人々と共に守っておられたのです。そこに、18年もの間、腰が曲がって伸ばすことの出来ないでいた女性が居ました。病名は判りませんが、一種の腰痛のようなものではなかったかと思います。年齢も判りません。主イエスはこの女性を見て呼び寄せ、一言「婦人よ、病気は治った。」と言われたのです。すると、この女性はいやされ、腰がまっすぐになり、神を賛美したのです。
問題はその時に起きました。会堂長がこの主イエスのいやしの業を見て腹を立てたのです。何故なら、当時、安息日には病気をいやすことも禁じられていたからです。病気をいやすことも仕事と考えられていたからです。ただし、例外はありました。命に関わるような病気に対しては治療をしても良かった。急患はいいということです。しかし、この女性は18年間も、この腰の病に苦しんでいたのですから、これは急患とは言えません。慢性疾患です。そこで会堂長は、「主イエスのなさったいやしは律法違反である。」と考え、腹を立てたのです。まして、隠れてやるならいざ知らず、会堂において、堂々と人々の前でやるというのは、いかにも律法など問題にしていないと言わんばかりであり、そのことが余計に会堂長を腹立たせたのかもしれません。会堂長は、主イエスのいやしを見て喜んでいる群衆に向かって、「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」そう言って、クギをさしたのです。
主イエスは、この会堂長の言葉に真っ向から反対し、毅然とこう言われました。15〜16節「しかし、主は彼に答えて言われた。『偽善者たちよ。あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。』」家畜は安息日だからと言って、水を飲ませない訳にはいきませんので、それは良いとされていたのです。牛やろばは安息日にも縄を解いてやるのに、どうしてアブラハムの娘であるこの女性を、サタンの縛りから解いてやるのがいけないことなのか。安息日であっても、それをしても良いし、いや安息日こそそれをすべき日なのではないか。そう主イエスは言われたのであります。ここで、主イエスは安息日とは何なのか、その根本を問題とされたのです。
そもそも安息日とは何の為の日なのでしょうか。出エジプト記20章の十戒が与えられた所には、20章8〜11節「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」とあります。主なる神様が六日間で天地を造られ、七日目に休まれた。だから、神様は安息日を祝福し、聖別されたのです。つまり、安息日は神様の祝福を受け取り、神様の為に献げる日なのです。「何もしない」ということが目的の日ではなかったのです。神様の祝福を受け、神様を喜び、神様に感謝を献げる日です。神様に造られた者が、神様と共にあることを覚え、喜び祝う日なのであります。神様を喜び、神様に献げる日でありますから、自分の為の仕事はしないということなのです。
少し横道に入りますが、この安息日というものをとてもまじめに受け取ったのが長老派、改革派であったということは覚えておいて良いと思います。主イエスは、ここで安息日などどうでも良いと言われたのではないのです。日曜日に店が開いているのは、もう世界中で当たり前になっていますけれど、それは20世紀の後半からのことで、20世紀の前半までは日曜日には店が閉まったままであるという国や地方が世界中にあったのです。長老教会が国民教会となっているスコットランドの選手が、日曜日にオリンピック100mの予選があって棄権したという話、これを映画にしたのが「炎のランナー」ですが、この話は20世紀の前半のことです。又、金沢で伝道したトマス・ウィンは、日曜日の礼拝に行く時には馬車を決して使わなかったと言われています。十戒に、「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」と言われているからです。主イエスのこの行動と言葉を、安息日などどうでも良いのだと読んでは間違いであります。
主イエスはここで、本来の安息日を回復したのです。本来の安息日。それは、神の国の先取りです。神様の祝福を受け、神様を喜び、神様をほめたたえる。それは、まさに神の国の先取り、神の国の写し絵なのです。だとすれば、どうして18年も苦しんでいたこの婦人がいやされたことを共々に喜び祝うことが出来ないのでしょうか。「喜ぶ者と共に喜ぶ」ことは、まことに神の国にふさわしいことであるはずであります。神様は確かに六日間で天地を造られ、七日目に休まれました。しかし、神様は安息日にいつも休んでいるのでしょうか。神様は安息日には何もしていないのでしょうか。そんなことはないでしょう。先程お読みした詩編121編4節「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。」とある通りであります。神様はまどろむことなく、眠ることなく働き、この世界を支え、守り、支配しておられる。安息日は、この神様の御業を覚え、神の国を待ち望みつつ、この神様を喜び、神様に感謝し、神様をほめたたえる日であったはずなのです。
今、主イエスがなされた腰の曲がった婦人をいやすという御業は、その神様のお働きなのです。安息日にも休まれない神様の御業、それがここに現れたのです。そうであるならば、どうして、これを喜び、神をほめたたえないのか。神の国は、ここに始まっているではないか。確かに、その出来事は腰の曲がった婦人をいやすという小さな出来事でしかない。しかし、すでに始まった。神の国が始まった。どうして、それが見えない。どうして、それを認めようとしない。主イエスは、そう言われたのであります。腰の曲がった婦人が主イエスによっていやされたこの安息日の時、すでに神の国は来ていた、神の国は始まっていたのです。しかし、それを知らず、それ故に神様をほめたたえることが出来なかった会堂長。主イエスは、そのような者であってはならないと私共に告げておられるのでしょう。私共は心を開き、目を開き、今為されている神の国の出来事、成長し続けている神の国の出来事を見なければなりません。そして、神の国の喜びに与り、主をほめたたえるのであります。
終末に向かって成長し続けている神の国。国を超え、民族を超え、文化を超え、全ての民を招き続け、神の民が生まれ続けている。その神様の御業に刮目しなければなりません。それは小さな出来事の中にすでに現れているのです。私共が今朝、ここにおいて主を礼拝している。ここに既に現れているのです。神の国は、今、ここに始まっているのでしょう。神を知らず、それ故に神様に祈ることも出来なかった私共が、赦され、神の子とされ、御国の世継ぎとされ、礼拝を守っている。驚くべき事であります。
私共は、ただ今から聖餐に与ります。神の国が成長していく全ての所で、この聖餐は守られて来ました。この聖餐こそ、神の国の成長の力の源であります。主イエス・キリストの十字架の出来事が、この聖餐を通して、全世界に伝えられ、受け取られ、神の国がそこに突入し続けているのです。この聖餐に与り、代々の聖徒達は主をほめたたえ、すでに始まっている神の国を喜び、やがて完成される神の国の祝宴を仰ぎ望んで来たのです。今、私共も共々にその恵みに与りたいと思います。
[2007年3月4日]
へもどる。