礼拝説教「ふつつかな僕です」創世記 50章15〜21節 ルカによる福音書 17章1〜10節 小堀 康彦牧師 「ふつつかな僕です。すべきことをしたに過ぎません。」今朝与えられておりますルカによる福音書17章10節の口語訳です。私は、この聖書の言葉を読みますと、ある一人の牧師を思い出します。大村勇という牧師です。旧メソジストの牧師であり、青山学院の神学部で教えられ、阿佐ヶ谷教会の牧師を長くされた方です。日本基督教団の議長を務め、新潟の敬和学園の理事長や東京神学大学の理事長を長く務めてくれた方でもあります。この方が、東京神学大学の理事長を退かれる時、東京神学大学のチャペルで送別説教をなさいました。多分、大村先生が最後の役職を退かれる時ではなかったかと思います。この後、老人ホームに入られたのではないかと思います。私は学生として、その説教を聴きました。自分が務めた数々の要職には一つも触れず、「ふつつかな僕です。すべきことをしたに過ぎません。」という御言葉を、御自分の牧師としての最後の言葉として、私共に告げられました。この聖書の御言葉と、それを語る大村先生の人格が一つになった、心にしみ入る説教でありました。当時、神学生であった私の心に、「牧師とはこういう者なのか。」と心に深く刻み込まれました。そして、自分も引退する時、あるいは、この地上の生涯を閉じる時、この御言葉と共にありたいと思いましたし、今も思っております。なにしろこの言葉は、主イエス御自身が「こう言いなさい。」と教え、命じられている言葉なのでありますから、これが言えるようにしておくということが、私共には求められているのでありましょう。しかし、私共が人生の最後にこの言葉を語ることが出来る為には、それに至るまでの日々の信仰の歩みにおいて、この御言葉と共に生きているということがなければならないのでしょう。日々の歩みにおいて、自分は大した者だと思いながら生きていて、最後になってから「ふつつかな僕です」などとは言えませんし、言ったとしてもそれは嘘になるでしょう。私共は、この御言葉を座右の御言葉として、心に刻んで生きる者として召されているのだと思うのであります。
さて、この口語訳の「ふつつかな僕」、新共同訳では「取るに足りない僕」と訳されている言葉ですが、この訳ですと、「十分な仕事が出来ない僕」「満足なことが出来ない僕」という意味で受け取られそうですが、そういう意味ではありません。10節を見ますと、「自分に命じられたことをみな果たしたら」とあります。つまり命じられたことを全て果たすことが出来る僕であろうとも、「ふつつかな僕」なのです。この「ふつつかな僕」とか「取るに足りない僕」と訳されております言葉は、少し長い訳になりますが、「自分のしたことの報酬を求める資格のない僕」という意味なのです。どんなに立派に仕事を成し遂げたとしても、それを誇り、その報酬を求める資格がない僕ということです。何故なら、それは「僕」だからです。僕とは奴隷ということです。僕は畑で働き、羊を飼い、家に戻れば主人の食事の支度をし、給仕をします。主人が全てを食べ終わってから、やっと自分の食事です。大変なことです。しかしそれは、僕としては当然のことをしているだけなのであって、特に偉い訳ではないし、それをしたからといって特に主人からほめられるということでもないのです。
主イエスは、それは出来るし、そうなれるのだと私共を招いて下さっています。5〜6節「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったとき、主は言われた。『もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう。』」私共も信仰を増して欲しいと思うでしょう。キリストの香りを放つ者として、キリストの愛に生き、キリスト者として為すべきことを淡々と為していくことが出来る者になる為に、私共は信仰を増して欲しいと思う。しかし、主イエスは信仰は別に増さなくても、増えなくてもいいのだ。あなた方は、自分の信仰の力が小さいと思っているかもしれないけれど、そうではない。信仰の力とは、神様が私共の信仰を通して働いて下さるのであって、神の力があなた方を通して顕れるのだ。だから、からし種一粒の信仰でもあれば、桑の木に「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、そうなると言われたのです。「からし種一粒の信仰があれば」というのは、マタイによる福音書では「山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。」と言われています。桑の木が海に移るのも、山が移るのも、どちらもとても出来そうにない、あり得ない、そういうことが「からし種一粒の信仰があれば出来る」と言われている訳です。これは、信じて祈ればどんなことでも出来る、という風に理解されることも少なくありません。しかし、そうではなくて、どんな小さな信仰であっても、それは神様が与え、神様が働かれる場なのであって、それ故神様が私共を通して事を起こし、事を成し遂げて下さるのであるから、神様は全能の方なのであるから、私共には不可能なことであっても、出来る。自分に出来るか出来ないか、そんな所で考えていてはいけない。そう、主イエスは言われたのでありましょう。
ここで、主イエスに弟子達が「わたしどもの信仰を増してください。」と願ったのはどうしてか、そのことを改めて見てみますと、それは主イエスが3〜4節で「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」と言われたからなのです。一日に七回です。一日に七回ということは、二時間おきに罪を犯しても赦せと言うのです。私共は、嫌なことを一回言われただけでも、その人のことをなかなか赦せません。「何であんたにそんなことを言われなければならないのか。」そんな思いが、ずっと心の中にとどまって、時にはその一言がずっと心の底に沈んで、固まって、何年も何十年も忘れることが出来ず、赦すことが出来ない。そういうことだってあるでしょう。主イエスの弟子達だってそうだったのではないかと思います。しかし、「赦し」は神の民の特質を示しています。神の民は、その出発の時から「赦し」によって成立していたのです。
ここで「赦し」ということについて、この主イエスの言葉に従って、少し考えてみましょう。主イエスはここで、「とにかく赦せ」とは言われていません。赦しに至るプロセスがあることを主イエスは言われています。第一に「戒めなさい」ということ、第二に「悔い改めたなら」、そして最後に「赦しなさい」と続いているのです。私共はしばしば、「赦しなさい」という所だけを聞いて、何でも赦さなければならないと思い込んでしまう所があります。しかし、赦す前に「戒める」ということが、罪を犯した人に、まず私共が為さなければならないことなのです。その人の罪・誤りを指摘し、悔い改めを求めることであります。私共にとって苦手なのは、実は赦すこと以前に、この「戒める」ということなのではないかと思います。 今朝は、一人の婦人が洗礼を受けます。主の僕として、新しく生きる者となります。私共と共々に、互いに戒め、悔い改め、赦し、主の僕としての道を全うさせていただくよう、心より願うものであります。 [2007年7月1日] |