富山鹿島町教会

礼拝説教

「神様が与えた夢によって」
創世記 37章1〜11節
ルカによる福音書 2章8〜20節  

小堀 康彦牧師

 今日から創世記37章以下に記されておりますヨセフ物語から御言葉を受けてまいります。3年前に創世記の1章〜11章、天地創造からバベルの塔までを、2年前には12章からのアブラハム物語を、そして昨年はヤコブ物語を御一緒に読んでまいりました。そして今回は、創世記の最後の部分であるヨセフ物語をご一緒に読んでまいりたいと思います。この部分は、次の出エジプト記につながっていく所です。どうしてイスラエルの民がエジプトから脱出しなければならなかったのか。イスラエルの民がどうしてエジプトで暮らすようになったのか。そのことを示している訳ですが、もちろんその理由を記しているだけではありません。このヨセフ物語は、神様の御支配、神様の摂理とも呼ぶべきものが私共の人生にはあるということを明確に示しているのです。この「神様の摂理」というものが、ヨセフ物語の中心テーマであると言っても良いと思います。このヨセフ物語に記されている出来事は、ヨセフという一人の人の人生の上に起きた、まことに悲惨な罪の現実と神様の不思議な導きです。自分の兄弟によってエジプトに売られ、奴隷となり、更に監獄に入れられる。しかし、夢を解くという不思議な出来事でエジプトの王に仕えるようになり、エジプトの宰相にまでなり、飢饉で食べるものに困った父のヤコブと兄弟達をエジプトに招く、というのが大筋です。ここに出てくる人々は、誰も神様の操り人形ではありません。みんな自分の思い、意志で生き、行動します。それは、目をそむけたくなるような、愚かで、わがままなものである時もあります。しかし、それさえも神様は用いて、御自身の御心、御計画を成就されていくのです。私共はこの物語を読み進みながら、何度も自分達の置かれている罪の現実を思い起こすことでしょう。しかし、それと同時に、この罪の現実を超えて実現されていく神様の救いの御計画、神様の摂理に目を向けていくことになるでしょう。ヨセフ物語は、今から三千年以上前に、この日本から遠く離れた中東の地で起きたことです。しかし、この物語を導かれた神様は、今も生きて働き、現代の日本に生きる私共をも、同じように守り、支え、導いて下さっているのであります。

 さて、今朝与えられております御言葉は、2節「ヤコブの家族の由来は次のとおりである。ヨセフは十七歳のとき、兄たちと羊の群れを飼っていた。まだ若く、父の側女ビルハやジルパの子供たちと一緒にいた。」と記します。ここで少しヤコブ物語を思い出しましょう。ヤコブには何人もの妻がおりました。このこと自体が問題なのですが、三千年以上前のことです。今はそれには触れません。ヤコブは兄のエサウと父イサクの財産をめぐってトラブルになり、故郷に居ることが出来なくなり、遠く離れた母の兄ラバンの所に身を寄せました。そしてラバンの娘ラケルに恋をし、これと結婚する為に7年間ラバンのもとでただ働きをしたのです。ところが、いざ結婚という時になって、ラバンがヤコブと結婚させたのは姉のレアでした。ヤコブはラケルと結婚する為に、更に7年の間ただ働きをしなければなりませんでした。やっと結婚出来たラケルでしたが、ラケルとの間にはなかなか子供が出来ませんでした。レアとその召使い、更にラケルの召使いとの間には10人もの男子が生まれました。聖書には記されていませんけれど、10人が男の子だけというのは考えられませんから、それと同じくらいの女の子が与えられたと考えて良いと思います。しかし、ラケルには子どもが与えられませんでした。そして、やっと11番目に与えられた男の子が、最愛の妻ラケルとの間に生まれたヨセフだったのです。
 ヤコブはヨセフを可愛がりました。溺愛というべき可愛がりようです。それは他の兄達とは全く違う待遇を与えるという形で現れました。3〜4節「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。」とあります。ヨセフに与えられた「裾の長い晴れ着」というのは、王侯貴族が着るような服をイメージしていただければ良いでしょう。兄達は何を着ているかと言えば、ヤコブの家の仕事は羊飼いですから、当然羊を飼う野良仕事用の服でした。今で言えば、ヨセフが身に付けているのは高級ブランド品のスーツ、兄達はいつもジーパンとTシャツ、そんな感じでしょう。しかも2節の終わりには、「ヨセフは兄たちのことを告げ口した。」とあります。ヨセフは兄達の仕事ぶりを父に、「○○兄さんは今日はこんな失敗をしたよ。」、「今日は○○兄さんが仕事をさぼっていたよ。」、そんな報告をしていたのでしょう。これでは兄弟というよりも、主人と使用人という関係です。兄達が「ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった」というのは当然でしょう。

 ここまで話せば、皆さんは父親のヤコブが悪い、そう口を揃えて言われると思います。ヤコブ、別の名をイスラエル。彼の12人の息子達からイスラエルの12部族が生まれていく、神の民イスラエルの出発となった人です。普通なら、神の民イスラエルの出発は、大変な人格者であるヤコブと、大変仲の良い12人の息子達から始まった。そういう話を期待したい所です。ところが、聖書が記すヤコブとその息子達は、全く違うのです。どうしてでしょうか。理由は単純だと思います。ヤコブも12人の息子達も、そんな人ではなかったからということでしょう。聖書は真実の書です。嘘で固めた理想の人など出てこないのです。ヤコブは、本当に困った父親だったのです。息子達も大変仲が悪かった。この短い箇所に、兄弟たちはヨセフを「憎んだ」という言葉が三回も出てくるのです。とんでもない家族です。しかし、神様はそのような崩壊寸前のとんでもないヤコブの家族を用いて、神の民を起こされたのです。聖書はヤコブやヤコブの家族の素晴らしさを語るのではなくて、神様の御業の素晴らしさを語るのです。
 ここで、ヤコブはとんでもない父親であったと批判するのは簡単です。しかし、私共はヤコブを批判すれば、それでこの聖書を読んだことになるのでしょう。ヤコブを批判すればそれで済むのでしょうか。そうではないと思います。ここに記されている家族の姿は、私共の現実なのだと思うのです。今日の説教の備えをしながら読みました文章の中に、「若い親はヤコブを厳しく批判するだろう。しかし、年老いた親の批判はそれ程厳しくないかもしれない。」というのがありました。そうかもしれないと思い、はっとしました。私の前任地の教会には幼稚園がありました。幼稚園のお母さん達と聖書を読んでこの箇所に来たとき、私は確かに「ヤコブはとんでもない父親です。こんな子育てをしていれば、家庭がめちゃくちゃになるのは当たり前です。」そんな風にお母さん達に離していたのを思い出したのです。私も若かった。しかし年老いた親は、自分の子育ての結果を知っているのです。そして冷静に見れば、満点の子育てなんてありません。自分の子育ては完璧であったと言える親など一人も居ないでしょう。皆、欠けがある。どうしてこうなってしまったのかということが、何人もの子供がいれば必ずそういうことが起きてくる。そして、自分もヤコブを批判していればそれで済むという立場ではないことが分かるのでしょう。ヤコブ程ではないにしても、愚かな親、そして兄弟同士がしっくりこない。一方は甘やかされ過ぎ、一方は愛されていないと感じる兄弟。そして一方にばかり甘い親。ここにあるのは、私共の現実そのものなのであります。しかし、このような中で、私共は明るい明日をどのように展望することが出来るのでしょうか。

 それは夢です。神さまから与えられる夢によって、私共は明るい明日に向かって歩み出すのだ。そう聖書は語っているのでしょう。ヨセフは神様から夢を与えられます。二つの夢ですが、内容は同じです。一つ目は7節「畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」 二つ目は9節半ば「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」 この二つの夢は、どちらもヨセフの兄弟、父であるヨセフまでもが、ヨセフを拝むというものでした。この夢は、ヨセフの兄達には、「ヨセフ、思い上がるのもいいかげんにしろ。」という思いを起こさせるだけでした。ヨセフの兄達の思いは当然でしょう。しかもこの時ヨセフは17歳です。17歳といえば、現代では高校生ですけれど、三千年以上前ならば、すでに一人前の男として仕事をしていなければならない年齢です。しかし、ここで兄や父に自分の夢の話をしているヨセフは、まことに幼い。今はやりの言葉で言えばKY、空気を読めない、そのものです。まさに、おバカなヨセフです。しかし、この甘やかされて育ったおバカなヨセフが成長し、神様に用いられ、遂にはこの夢の通りになるのです。
 私共は、この崩壊寸前のヤコブの家庭に、夢が与えられたということに注目しなければなりません。この夢は、この時には将来の何を指しているか、何のことなのかちっとも分かりませんでした。しかし、11節を見ると、「兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。」とあります。ヨセフの兄弟達は腹を立てただけでしたが、父ヤコブはこのヨセフの夢を心に留めたのです。神様が与えて下さる夢。それは自分達が予測することの出来る範囲を超えています。しかし、その夢によって示された出来事の中に、神様の御心があり、それは私共に慰めと平安と喜びをもたらすものであることを、私共は信じて良いのであります。
 父ヤコブも兄とのトラブルがあり故郷を出て行った時、夢を見ました。それは神の御使いが天にまで達する階段を上り下りするというものでした。そして、神様の祝福の約束、「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(28章15節)という言葉を受けたのです。この夢がヤコブのそれからの日々を支えました。だから、ヨセフの夢をも心に留めたのでしょう。
 皆さん、私共に必要なのは、困りはてた現実を前にして、どうしたら良い結果を生むことが出来るかというマニュアルではありません。そんなマニュアルは存在しないのです。人生にマニュアルはないのです。私共に必要なのはマニュアルではなくて、神様が与えて下さる夢なのです。神様が共に居て下さり、私を守り、支え、導いて下さるならば、こんな嘆きの現実が最終的なものであるはずがない。神の祝福、神の平安へと至る明日が必ずある。このことを信じることなのです。夢は、明日、三日後、十日後に実現するようなものではありません。ヨセフの夢も実現したのは何十年も後のことでした。

 神の民とは、いつもこの夢に生きてきた民なのです。神様が与える夢に生きてきた。ここで、夢を語り、夢に生き、世界を変えた一人の人を紹介しましょう。それはマルチン・ルーサー・キング牧師です。1963年8月28日、彼は有名な「私には夢がある」という説教をし、ワシントンに向けて行進しました。25万人の人達が彼に続きました。アメリカの公民権運動の中でのことです。ほんの40年程前のことです。当時アメリカでは、白人と黒人が同じバスに乗ることさえ出来ませんでした。今では考えられないことでしょう。こういう説教です。その一部を引用します。
 「私には夢がある。ジョージアの赤土の丘の上で、かつて奴隷であった者たちの子孫と、 かつて奴隷主であった者たちの子孫が、兄弟として同じテーブルに向かい腰掛ける時が 来るという夢が。
 私には夢がある。いつの日にか、私の四人の幼い子供たちが肌の色によってではなく、 人となりそのものによって評価される国に住む時が来るという夢が。」
 私共にも夢がある。全ての人の唇に、主をほめたたえる賛美があふれる日が来ること。世界から飢えも戦いも無くなり、互いに支え合う日が来ること。私共の家が、私共の子孫が、神様と人に愛され、神様と人を愛し、神様と人に仕える者となること。御国が来ること。御心が天になるごとく地にもなることであります。
 この夢に生きる時、世界に、私共に、私共の家庭に、希望が生まれる。この希望こそ、私共が自分を取り巻く困難な現実に飲み込まれ、罪の中に沈み込んでいくのを防ぐ力です。希望こそ、「ああ、もうダメだ。」と言いそうになった時、「まだ、ダメじゃない。」と言い得る力を与えるものなのです。
 神の民、キリスト者とは、夢見る者です。神様が与える夢を見るのです。そして、そこから来る希望の中に生きる者なのです。この希望は、死でさえも私共から奪うことが出来ません。私共は死を超えた復活という希望も与えられているからです。
 私共には夢がある。夢が与えられている。それは、神様が私共を愛し、私共をその御手の中で生かして下さっている、確かな「しるし」なのであります。神様が与えて下さった夢ならば、神様がその全能の力をもって実現して下さいます。それは、私共の見通しを超えたものです。神様の業だからです。
 どうか皆さん、この一週も、神様が与えて下さる夢と希望の中、為すべき務めに誠実に励んでまいりたいと思うのであります。

[2007年9月2日]

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