神様は全てを知り、全てを支配しておられる。これは私共の信仰の中核であります。この世界の歴史も、私共の人生も、単なる偶然の集積ではなく、神様の御支配の表れだと信じています。この両親のもとに生まれたことも、この夫、この妻と結ばれたことも、この子が与えられたことも、神様の御心の中での出来事であると信じています。そこには私共の意志が働いてはおりますけれども、更に大きな神様の御支配のもとで、私共は生かされている。そう信じています。この神様の御支配を信じること、それが神様の摂理を信じるということであります。この神様の摂理を信じる時、私共は明日への希望に生きる者とされます。「どうせ何をしたって、神様が勝手に事を運んでいくのだから、何をしても同じだ。」と言って、あきらめ、投げやりになるのは、神様の摂理を信じているのではなく、人格のない、不気味な運命の奴隷になっているだけです。神様の摂理と運命とは全く違うのです。私共は運命などというものを信じません。私共を支配し、この世界を支配しておられるのは、訳のわからない運命などというものではなくて、全能の父なる神様であることを信じているからです。運命は私共を見放すかもしれません。しかし、神様が私共を見放すことは決してありません。私共を支配し、この世界を支配されているのは、この世界を造り、この世界を愛し、この世界が救われるために愛する独り子をお与えになったお方だからです。この神様の摂理というものを私共に知らせるために、神様は今朝、ヨセフという一人の人の上に起きた驚くべき出来事を私共に教えて下さいます。
アブラハム、イサク、ヤコブ。神様の祝福を受け継ぐ者として選ばれた神の民の父祖。ヨセフはヤコブ、別の名をイスラエルと呼ばれた男の11番目の息子として生まれました。ヨセフは幼い時より、神様から与えられる夢を見る者でした。それがヨセフにとって、いつも良い結果をもたらすとは限りませんでした。彼は、その夢を父や兄たちにあからさまに語ったが故に、兄たちの反感を買いました。その夢というのは、「わたしのワラの束が起き上がり、兄さんたちのワラの束がその周りに集まって来て、わたしのワラの束にひれ伏した」というものであったり、「太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏している」というものでした。兄たちは、「お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するのか。」と怒りました。ヨセフは年寄り子であり、父ヤコブの愛を一身に受け、兄たちのねたみも買いました。そして、ヨセフは兄たちによってエジプトに奴隷として売られてしまったのです。ヨセフが17歳の時でした。災難はそれだけではありませんでした。ヨセフを奴隷としていたエジプトの宮廷の侍従長ポティファルの妻が、ヨセフに言い寄ってきたのです。ヨセフはこれを拒みます。その結果、ヨセフは監獄に入れられてしまったのです。ヨセフの人生はどんどん、どんどん悪い方へ転がっていきました。ヨセフが特に悪いことをした訳でもないのにです。監獄の中では、給仕役の長と料理役の長の夢を解きました。その夢解きどおりに給仕役の長は元の職に戻り、料理役の長は処刑されてしまいました。ヨセフは給仕役の長に頼んでいました。「夢を解いたとおりになったなら、どうか自分を思い出し、王様に自分のことを話し、ここから出られるようにして下さい。」しかし、給仕役の長は、牢から出て元の職に戻ると、ヨセフのことなどすっかり忘れてしまったのです。それから2年がたちました。エジプトに奴隷として売られて来てから13年です。ヨセフも、給仕役の長が自分のことを思い出し、ここから出してくれるのを、もう諦めていたのではないかと思います。
時に、エジプトのファラオ、ファラオというのは王様ということです、その王様が夢を見ました。王が見る夢というのは、王の個人的なことでは済みません。エジプトの国全体に関わるのです。さっそく、王様は当時のエジプトの知識人たちを集めて、その夢を解かせようとしました。夢には神様のお告げという意味があると考えられていましたから、王様が見たこの夢を解くことは、エジプト全体の将来に関わる重大事であり、それを解くためには全エジプトからその道の専門家が集められたのです。現代の日本で言えば、首相の下に置かれる諮問会議のようなものかもしれません。しかし、全エジプトから集められた専門家たちにも、王様が見たこの夢を解くことは出来なかったのです。これは私の想像ですけれども、この王様の夢を解くということは、実は命がけのことだったのではないかと思うのです。多分、この夢が王様の見たものでなかったのならば、集められた人達は気楽にいろんなことを言ったのだろうと思います。しかし、王様の夢です。この夢解きは、当たれば大した褒美も貰えたでしょうが、夢解きが間違ってしまって、夢を解いたとおりに事態が展開しなかったとしたら、大嘘つき、王様と国とを誤らせた者として、間違いなく処刑されたのだろうと思います。彼らは、それを知っていますから、自信を持って解き明かす者がいなかったということなのではないか。そう思うのです。
誰も王様の夢を解く者がいない。そういう状況になって、給仕役の長が、初めてヨセフを思い出したのです。ヨセフとの約束もこの時なって思い出したかもしれません。しかし、牢獄に入れられている外国人の奴隷なら、たとえ間違った夢解きで処刑されてもどうということはないし、もしうまくいけば、紹介した自分も王様に点数が稼げるという思いが働いたのかもしれません。さっそく、ヨセフが牢獄から呼び出されました。もちろん、何年も牢獄に入っていたのですから、そのまま王様の前に出られるような姿ではありません。散髪され、着物も着替えさせられて、ヨセフは王様の前に出されました。ヨセフは30歳になっていました。
王はヨセフに自分の見た夢を話します。二つの夢です。一つは、七頭のよく肥えた雌牛が川から上がって来て草を食べていると、とても醜いやせた七頭の雌牛が上がって来て、肥えた雌牛を食べ尽くしてしまった、というものです。そしてもう一つは、とてもよく実の入った七つの穂が一本の茎から出てきた。その後からやせ細り、実が入っていない七つの穂が生えてきた。そして、実の入っていない穂が、よく実った穂をのみ込んでしまった、というものでした。
ヨセフは、この夢を、二つの夢は同じ意味であり、七頭の肥えた雌牛とよく実の入った七つの穂は七年の豊作を、そして七頭のやせた雌牛と七つの実の入っていない穂は七年の飢饉を意味していると告げたのです。そして、更にヨセフは、豊作の七年の間、産物の二割を蓄え、次の七年の飢饉に備えるようにという政策も進言したのです。
王様はヨセフの夢解きの明解さとその為の政策の立案に驚き、ヨセフをエジプトで王様の次の位に就かせました。誰も考えたことも、思ってみたこともないことが、展開したのです。これは偶然ではありません。運命でもありません。神様がエジプトの王様に働き、神様がヨセフに知恵を与え、神様がこのような事態へと展開させられたのです。
このことを明確に示している言葉が、ヨセフと王様のやり取りの中に示されています。16節、ヨセフは王様に、お前は夢を解き明かすことが出来るそうだな、と問われて、こう答えます。「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」25節、ヨセフはファラオの夢を解き始める時にこう言うのです。「神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったのです。」28節、「これは、先程ファラオに申し上げましたように、神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお示しになったのです。」32節、「神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです。」ヨセフはこの夢解きの中で、神様の御支配、神様の御意志というものを告げているのです。王様が夢を見たのも、この夢を解いたのも神様でした。王様もヨセフも、この神様の御手の中でことを為しているのです。たとえ、王様がそのことに気付かなかったとしてもです。ヨセフの人生に、この大きな驚くべき展開を与えられたのは神様ご自身なのです。
そして、ここで私共が気付かなければならないもう一つのことは、ここでヨセフが夢を解いたことによって驚くべき展開が与えられたのは、ヨセフただ一人ではなかったということです。驚くべき展開が与えられたのはヨセフだけではなく、七年の飢饉によって失われたかもしれないのに助かった多くの人達もそうであったということです。56〜57節「飢饉は世界各地に及んだ。ヨセフはすべての穀倉を開いてエジプト人に穀物を売ったが、エジプトの国の飢饉は激しくなっていった。また、世界各地の人々も、穀物を買いにエジプトのヨセフのもとにやって来るようになった。世界各地の飢饉も激しくなったからである。」とある通りです。神様はヨセフだけの神ではなく、天地の造り主であり、全ての民を造られた方なのです。そして、このヨセフがエジプトの大臣にまで登ったということが、ヤコブとその一族が飢饉を逃れエジプトへと移り住む理由となります。神様の祝福の約束が途切れることなく受け継がれていくことになるのです。このヨセフの夢解きによって、人生が大きく展開したのは、@ヨセフであり、A飢饉の中を生き延びることが出来た人達であり、Bヤコブとその家族たちであったというこどてす。この点に目を向けることは大切なことです。そうでないと、ヨセフ個人のことにだけ関わるものとして神様の摂理を考えてしまい、その結果自分にとって都合の良い将来だけが神様の摂理ということになりかねないからです。
私共は神様の御支配、摂理というものを、そのような小さなものとして受け取ってはならないのであります。私共はヨセフのように大臣にはならないかもしれない。しかし、ヨセフに注がれた神様のあわれみと同じあわれみを受け、ヨセフを用いられたのと同じ神様の救いの御計画の中で生かされているからであります。私共が主イエスを信じ、救われたということは、私一人の幸いにとどまることではないのです。この世界を愛し、主イエスを遣わされ、この世界を救うという、大きな神様の救いの御計画、救いの御業の中に、私共が生きているということの「しるし」なのです。
私共は明日を知りません。ヨセフが牢獄の中にいた時、将来自分はエジプト王の前に立ち、神様の知恵によって大臣にまでなるということなど考えもしなかったように、私共も自分の明日を知りません。しかし分かっていることがある。それは、神様はヨセフを見捨てなかったように、私共をも見捨てないということ、神様はヨセフを用いたように、私共をも用いられるということであります。
私が20歳で洗礼を受けた時、このように富山の地で伝道者として生かされるとは想像することも出来ませんでした。皆さんもそうでしょう。誰も明日を知らない。しかし、そのことは私共を不安にさせることではないのです。私共の明日は、このヨセフの人生に驚くべき展開を与えられた、父なる神様の御手の中にあるからであります。
ヨセフには、二人の息子が与えられました。長男はマナセ、「忘れさせる」という意味です。神様が今までの苦労を忘れさせて下さったからであります。そして、次男の名はエフライム、「増やす」という意味です。一人で異国の地エジプトに奴隷として売られて来たにもかかわらず、神様はこの悩みの地で子孫を増やして下さったからです。この二人の息子の名前に、ヨセフの神様への感謝が現れています。苦労もあった、悩みもあった。しかし、神様はそれで終わらずに、驚くべき展開を与え、感謝で満たして下さった。ここに、私共の明日もあるのです。苦労もある、悩みもある。しかし、神様の御手の中にある明日があるのです。私共はそれを信じて良いのであります。ヨセフを用いて、神様の祝福を受け継ぐものを決して絶やしたりはしない。そのことを信じて良いのです。私共の後に、滔々とした神の民の群れが続いているのです。その群れが途絶えることはない。その為に用いられている私共の人生なのです。
ヨセフの存在は、これから千数百年後にやって来られる主イエス・キリストを指し示しています。ヨセフは兄たちに排斥され、主イエスは兄弟であるユダヤ人に排斥されました。ヨセフは銀20枚で売られ、主イエスは銀貨30枚で売られました。ヨセフは牢獄に入れられ、主イエスは墓に下られました。ヨセフは牢獄から出て王の次の位に引き上げられ、主イエスは墓からよみがえり、まことの王の王である神様の右に上げられました。そして、ヨセフのもとには命の糧である食糧を求めて多くの人々が来、主イエスのもとにはまことの命の糧を求め世界中の人々が御前に集っています。ヨセフはエジプトの王から指輪を受け取り、王の代理者とされ、主イエスは父なる神様と共に全てを支配しておられます。エジプト及び全世界を襲った飢饉、それは現在においても、霊の飢饉、御言葉の飢饉としてあるのでしょう。世界は、まだ神様の御支配を知らないからです。だから、つまらぬ占いが世界中に相も変わらず蔓延しているのでしょう。しかし、エジプトの魔術師も知恵者も、ヨセフの前にはその無力さをさらけ出すしかありませんでした。ヨセフは彼らが知らないただ一つのことを知っていたからです。それは、神様の御支配、神様の摂理というものです。このことを知っていることこそ、この世のいかなる知恵者よりも、私共をまことの知恵ある者にするのであり、どんな状況の中でも希望を失わない者とするのであります。
私共はただ今から聖餐に与ります。ここに私共の希望の源、私共に備えられている最終的な勝利、神の命、神の知恵があります。私共は、この聖餐に与る者として、神様の救いの御業、救いの御計画の中に生かされている者として、この一週間も歩んでいくのであります。
[2007年11月4日]
へもどる。