紀元前6世紀、南ユダ王国はバビロンによって滅ぼされ、いわゆるバビロン捕囚が起きました。この時、神様によって遣わされていた預言者がエレミヤでした。エレミヤは、悔い改めを呼びかけます。「立ち帰れ、イスラエルよ。わたしのもとに立ち帰れ。」(エレミヤ書4章1節)エレミヤは主の言葉をユダの人々に告げます。しかし、エレミヤの言葉に人々は耳を貸しません。エレミヤは、悔い改めなければバビロンによって滅びる、それが神様の御心であると告げます。エレミヤは、自分の愛する祖国が滅びることを告げざるを得ませんでした。それがエレミヤに与えられた神様の言葉だったからです。今お読みいたしましたエレミヤ書37章は、エレミヤが南ユダ王国の人々に捕らえられ、地下牢に監禁されたことが記されています。エレミヤが、バビロン(ここではカルデア軍と記されています)が攻めて来ている時にエルサレムにおいて人々に語ったことは、「カルデア軍に投降せよ。白旗を揚げよ。そうすれば命だけは助かる。しかし、この都に留まる者は死ぬ。この都はバビロンの手に落ちる。」というものでした。バビロンと戦争している最中に、このようなことを語る者を野放しにしておくことは出来ません。こうしてエレミヤは囚われの身となりました。
しかし、何故エレミヤはこのような預言をしなければならなかったのでしょうか。エレミヤは人々を混乱させようとしていたのではありません。神様がそう告げよとエレミヤに命じられたが故に語っただけです。神様は、自分の愛する民が自分を捨て、神の民としての歩みを為そうとしない、それ故に遂にバビロンによって滅ぼす、そう決断されたのです。ここに至るまで、多くの預言者たちが神様から遣わされて来ました。皆、神の民に悔い改めを求める預言、神様の言葉を告げました。しかし、神の民イスラエルはその言葉に従わなかったのです。エレミヤが語る150年前にアモスが来ました。その後、ホセアが来ました。イザヤが来て、ミカも来ました。皆、神様に遣わされ、神の民に悔い改めを求めたのです。しかし、神の民はこの預言者の言葉に聞き従い、悔い改めることはありませんでした。残念ながら、神の民の歴史は神様の言葉に聞き従う歴史ではなかったのです。しかし、神様はそのような神の民に預言者を送り続け、悔い改めを求め続けたのです。エレミヤもそのように神様に送られて来た預言者でした。しかし、彼は牢に入れられたのです。主イエスも又、この預言者の系譜に連なっています。
主イエスは今朝与えられている御言葉において、一つのたとえ話を語られました。主イエスはこのたとえ話を話されて、数日後に十字架におかかりになります。私共は今、毎週、受難週の出来事を読み進めていますけれど、そこで決して忘れてはならないことは、これらの出来事が主イエスの十字架の直前の出来事であったと言うことです。この主イエスのたとえ話は、御自身の十字架の上での死を見つめてのたとえ話であったということなのであります。主イエスは、このたとえ話の中で、ご自身が殺されるということも予告しているのです。
たとえ話というのは、その話に出てくるものが何を指しているのかが分かりませんと、何を言っているのか分かりません。しかし、このたとえ話においては、これが何を指しているのか分からない、そういう所はありません。現代の日本に住む私共が聞くと決して判りやすくはないかもしれませけれど、当時のイスラエルの人々にとっては、きわめて明確なものでした。最初に「ぶどう園の主人」、「ぶどう園の持ち主」が出て来ますが、これは主なる神様を指しています。次に「ぶどう園」ですが、これは旧約聖書以来、神の民イスラエルのことを指すことになっています。羊飼いと羊のように、ぶどう園の主人とぶどう園と言えば、神様と神の民イスラエルを指すことになっているのです。代表的な所ではイザヤ書5章の始めの所にもあります。そうすると、ぶどう園で働く「農夫」とはイスラエルの人々、特にその指導者たちということになるでしょう。ぶどう園に送られて来た主人の「僕たち」というのは預言者たちのことであり、「主人の愛する息子」というのは神の独り子である主イエス・キリスト御自身ということになります。このように、一つ一つの対応が判りますと、このたとえ話は、神様はイスラエルの民の指導者たちに神の民を預けたけれど、いつの間にか民の指導者たちはそれが神様のものであることを忘れ、自分のものにしようとしてした。何人もの預言者を送ったけれども、その預言者の言葉に聞き従わず、自分の思いのままに預言者を追い返した。そして、遂に神様は愛する独り息子であるイエス様を送られる。預言者の言葉は聞かなくても、愛する独り子の言葉なら聞くだろうと考えたからです。ところが彼らは、これは跡取りだ、殺してしまえば相続財産も自分のものになる。そう言って、愛する独り子さえも殺してしまう。その結果はどうなるのか。神様は、神の民をイスラエルから他の人、つまり異邦人へと変えてしまう。そういう話になるのであります。
19節を見ますと、「そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえ話を話されたと気づいた」とあります。このたとえ話は、当時のユダヤにおいてはすぐに分かる、そういう話だったのでしょう。ここで、律法学者や祭司長たちは「自分たちへの当てつけ」だということが分かったのです。それは誤解ではなかったと思います。主イエスは、この話を民衆を相手になされたのですけれど、先週見ましたように、祭司長や律法学者たちと主イエスは権威についての問答をいたしました。その流れの中で、このたとえ話をされた。彼らはまだそこを立ち去ってはいません。主イエスは民衆に向かって話しながら、まだそばにいる祭司長や律法学者たちに聞こえるように、この話をしたのです。先ほど、エレミヤが囚われの身となったことを見ましたように、イスラエルの歴史は、確かに預言者たちの言葉に聞き従わず、それ故バビロン捕囚という神様の裁きを受けなければならないものだった。それは、主イエスの時代から600年も前のことです。しかし主イエスは、その時からあなたたちは何も変わっていない、そしてあなたたちは今度は神の子である私を殺すだろう。しかしそのようなことをすれば、600年前にユダヤが滅んだように、今度は神様の選びはユダヤの民から異邦人へと変えられてしまう。そう告げられたのです。
この主イエスの言葉は事実その通りとなり、私共は今、ユダヤ人から見れば異邦人でありながら、神様の救いに与る神の民とされています。神様のぶどう園とされたのであります。しかし、私はここで、祭司長や律法学者たちは主イエスの言葉に聞き従わなかったから、イエス様の前に額ずくことをしなかったから、イエス様を十字架にかけて殺したから、ユダヤ人は祖国を失い、その後も苦しい歴史を生きなければならなかったのだ。当然の報いを受けたのだ。そんな風にここを読むことは出来ないだろうと思います。私共はここで、このたとえ話の中で主イエスが告げている農夫たちの過ち、農夫たちの罪とは何であったのか、そのことをよく見なければなりません。農夫たちはぶどう園で働いていましたが、このぶどう園の主人は神様です。このぶどう園を自分のものにしようとしたということは、神様が自分に貸し与えているものを、神様のものとせずに自分のものにしようとしたということでありましょう。主イエスが、このたとえ話の中で問題にしているのは、この罪なのです。神様のものを自分のものにしてしまおうとする罪です。これは先週見ました、神様だけがもつ権威を自分のものにしてしまった罪と重なりますし、来週見ることになる「神の物は神に返しなさい」につながっていくものでしょう。実に、主イエスはこの19章において1節から一貫して、神様のものを自分のものにしてしまおうとする罪を告発しているのであります。そのことに気が付くならば、この主イエスのたとえ話は、当時の主イエスを殺そうとしていた祭司長や律法学者たちに対しての当てつけだ、だから自分には関係ない。そんな風にはとても言えないことに気付くのであります。
神様のものを自分のものにしてしまおうとする罪。これは実に根深く、私共の中に巣くっているものなのであります。私共の持っているもの。それは本来、全て神様のものなのであります。神様によってしばらくの間、借りている物なのです。私共の命、私共の富、私共の能力、私共の家族、等々。私共が自分のものと思って大切にしているものは、本来全て神様のものなのであります。しかし、そのことを忘れ、自分のものだと思い、自分勝手に使えるものだと思っている。そこに私共の罪があるのであります。
私共は、この全てを自分のものにしてしまおうとする罪と戦わなければなりません。この自らの罪に気付かず、それ故これと戦うこともせず、祭司長や律法学者たちの罪を指摘して、ユダヤ人はダメだ、わたしたちこそ新しい神の民だと言って、いい気になっているわけにはいかないのです。全てを自分のものにしてしまおうとする罪。それは私共の根本にある罪ですが、これは自分の人生、自分の富、自分の子どもに対するあり方として、最もはっきり現れてくるのではないかと私は思います。今、その一つ一つについてお話しする時間はありませんけれど、どうぞ皆さん、このことをそれぞれ自分の胸に手を当てて考えていただきたいと思います。私共の人生は、自分の為にあるのではないのです。神様の栄光を現す為にあるのです。私共に与えられている富は、自分がおもしろおかしく楽しむ為に与えられているのではないのです。神様の栄光の為に用いる為です。愛する我が子も又、自分の為に与えられているのではありません。神様の子、神様の僕として養い育てる為に、神様から授かっているのです。
私は今、二つの結婚の準備会をしていますが、そこで必ず言うことは、「二人の為に世界があるのではなくて、世界の為に二人はいるのです。」ということです。結婚という、人生において最も幸いな時にこそ、私共は自分のことしか考えないという罪に支配されやすいことを思うからです。自分たちの結婚は、自分たち二人が幸せになる為だけになされるのではなくて、神様がこの結婚という祝福をもって、結婚する者を含めて、神様が愛しておられるこの二人に関わる者たちが、愛の交わりをいよいよ豊かにされる為にあるのでありましょう。
以前、若い子が「自殺がどうしていけないのか。自分の命を自分で処分して何が悪いのか。誰に迷惑を掛けるわけでもない。」と語る言葉に出会って、思わず「お前は馬鹿か」と言ってしまったことがあります。誰に迷惑を掛けるわけでもない。何をふざけたことを言っているのか。一人で大きくなったような顔をして。これだけ育つために、どれだけの時間と労苦と思いと祈りが捧げられてきたことか。それも知らずに、「自分の命」などとどうして言えるのか。私共の命は、私だけのものではないのです。神様が与え、両親が育み、そして今日の私共があるのです。
さて、主イエスはこのたとえ話の中で、ぶどう園の主人が、農夫たちの所に次々と僕を送り、最後に愛する息子を送られたことを告げております。これは長い長いイスラエルと神様との関わりを示しているわけですが、ここで私は神様の忍耐ということを思わされるのであります。私共の罪を、神様は忍耐をもって見ておられ、見ておられるばかりでなくて、必要な導きの言葉を預言者の口を通して与えられ続けた。この神様の忍耐は、今も変わらず私共の上に注がれているのです。神様は待っておられる。この世界の全ての民が神様をほめたたえるようになることを、待っておられる。この主が待っていて下さっている間に私共が為さなければならないことは、神様のもとに立ち帰り、まことの悔い改めを為すということでありましょう。この世界に悔い改めが起きることを願い、求め、その為に神様の御心を伝えていくことでありましょう。それは、ただ口で言うだけではなく、私共の存在を通して証ししていかなければならないことなのであります。私共が、自分の人生も、富も、家族も、神様の栄光の為に用いられることを喜び、そこに献げる歩みをする中で証ししていかなければならないことなのであります。
私が最近、様々な報道に接するたびに思わされることは、この日本に生きる人々の品性がまことに下劣になったということであります。自分のことしか考えない、考えられない。自分の利益さえ守れればそれで良い。本人はそう思っていないのかもしれませんが、そうとしか考えられないようなことが次々と起きている。政治家や官僚だけの話ではありません。マスコミも、経済人も、学者と言われる人々もです。本当に日本はどうなるのかと思う。人のことなど考えている余裕などない。自分のことで精一杯だということなのかもしれない。しかし、そうではないでしょう。自分のことしか考えられないというのは、実に悲しいことです。そして、この悲しみは、罪の悲しみなのだと思う。そして私共は、この悲しみから自由になる道が与えられている。それが、主イエス・キリストです。この方に聞き従って生きる時、私共は自分の持っているもの全てが、神様が与えて下さったものであることを知らされ、この方と共に生きる時、自分のことしか考えることの出来ない自分が造り変えられ、自由にされることを知るのであります。そして、この自分から解き放たれる自由こそ、私共がこの現代の日本にあって、伝え、証ししていかなければならないことなのではないでしょうか。
昨日、能登に又地震がありました。幸いあまり被害は出ていないようです。しかし、一年前に被災された方々は、再びあの悪夢のような日々を思い出し、心臓が凍るような思いをされたのではないでしょうか。私共の教会は、能登の被災された教会の為に、すでに三百万円をささげました。今年度が終わるまでには四百万円を超えるかと思います。この群れにとって、これは大きな金額です。これ程のお金を、自分の教会以外の為に献げたのは、初めての経験かもしれません。皆様の祈りと献げものに、心より感謝しています。私は、このことは、私共の教会がキリストの愛を証しする群れであることを、最も良く表しているのではないかと思うのです。自分が与えられている富を、自分の為以外に用いる。それも、何百万という単位のものを献げる。それは、私共がこの富というものから自由であることの何よりの証しであると思うのです。富も又、神様のもの。この信仰に生きている、一つの目に見える証しなのだと思うのです。このような証しを立てることが出来た幸いを思い、誇りに思います。
この一週間、主イエスによって自由にされた者として、その恵みを証しする者として、主と共に、主の御前を歩んでまいりたいと願うものです。
[2008年1月27日]
へもどる。