先週はイースターでしたので主イエスの復活の場面から、そしてその前の週は受難週でしたので主イエスの十字架の場面から、御言葉を受けてまいりました。今日からは又元に戻って、順に御言葉を受けてまいります。二週続けて聖書を先回りしてしまいましたので、少し思い出していただかないといけないかもしれません。19章28節から主イエスはエルサレムに入られ、受難週の日々をエルサレム神殿において祭司長・律法学者たちと問答をしたり、民衆に教えを宣べたりしておられました。そして、21章に入りエルサレム神殿の崩壊や終末の預言をされました。今朝与えられております主イエスの御言葉は、その終末預言の最後の所です。
主イエスはここで一つのたとえ話を語られます。いちじくの木のたとえです。主イエスはこう言われます。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。」ちょうど私共が、今の季節ですと、桜の花のつぼみが膨らんでくる。桜の枝が薄いピンク色になってきて、もう何日かすると桜の花が咲く。それを見ると今年も春が来たと思う。それと同じように、イスラエルにおいてはいちじくの葉が出始めますと、今年も夏が来るということを感じたのでしょう。それと同じように、今まで主イエスが語られてきたような、戦争であったり地震であったり、飢饉や疾病や天体の異変そして迫害、そのようなことが起きたなら、神の国が近づいたと悟れと言われたのです。これは以前にも申し上げましたけれど、主イエスの預言というのは天気予報のようなものではありません。今言ったようなことは、この二千年の間、起きていない年は一年もないのです。地球規模で見るならば、それは毎年地球のどこかで起きていることなのです。ですから、これが起きたから何年後かに神の国が来る、終末が来る、そんな風に読むことは間違いです。戦争であったり、飢饉であったり、地震であったり、そういうことは起きて欲しくない。しかし、それは起きると主イエスは言われた。しかし、大切なのはその次に主イエスが言われたことなのです。32節「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。」つまり、人々はこういうことが起きると、もう世界は終わりではないかと思う。しかし主イエスは、世界というものはそういうことで終わりになることはないのだと言われたのです。この世界の滅びというものは、戦争だとか飢饉だとか、そういうことでは起きないのです。神様によって滅ぼされるまで、神様による終末が来るまで、主イエスが再び来られるまで、滅びることはないのです。この滅びとは、神様の裁きによる滅びです。そして、更にこう言われた。33節「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」神様の裁きによって以外に世界は滅びることはないのです。もうダメだと思っても、ダメにはならないのです。しかし、この世界はやがて神様の裁きによって滅びる時が来る。必ず来る。その神様の裁きに何が耐え得るのか。何もありません。しかし、その時になってなお残るものがあると主イエスは言われる。主イエスの言葉であり、神の言葉です。これは何も、世界の全てが滅びて、言葉だけがフワフワと残ってるというようなことではありません。神様の言葉によって示された神様のご意志、神様の御業、神様のご計画、そして何よりも神様御自身、主イエス・キリストご自身は滅びないということなのです。
先週、私共は主イエスのご復活を喜び祝いました。この主イエスのご復活という出来事は、まさに死によって滅びることのない神様の御業、神様の命、神様の力、神様の御支配というものを示しているわけです。どんな人間の偉大な業績も、栄華も、やがて滅んでいくのです。これは日本人にも感覚的に分かるではないでしょうか。諸行無常です。「夏草や兵共(つわものども)が夢の跡」です。そしてこの無常観からは、あきらめ、諦念という生き方が生まれるのでしょう。世捨て人と言っても良い。しかし、聖書が告げるのは、そのようなことではありません。私共は世捨て人のように生きるのではないのです。ここに決して滅びることのない方がおられるからです。父なる神様であり、主イエス・キリストです。この決して滅びることのない方と結び合わされる。それが救われるということです。そして、この決して滅びることのない方に結び合わされている者として生きるということが、信仰者として生きるということなのであります。全ては滅びる。全ては空しく過ぎ去っていく。しかし、神様は滅びないし、御言葉によって神様と結び合わされた私共も滅びないのです。
私共は、毎週ここに集まって礼拝を守っています。この礼拝の中心にあるのは、決して滅びることのない神の言葉です。私共はこの神の言葉に与り、この神の言葉によって養われ、導かれ、生かされている民です。この神の言葉によって神様に結び合わされた私共も又、決して滅びることのない者とされているのであります。決して滅びることがない。それは、神様の裁きを受けるその時、罪赦された者とされるということであります。勿論、私共の中に、罪を赦されるのに相応しい何ものかがあるわけではありません。しかし、私共を養い、導き、生かす神の言葉が、神様の御業が、私共を決して滅びない者としてくれるのであります。そうであるならば、私共はどこまでも滅びることのない神の言葉、主イエスの言葉に、その御業に、その約束に、固執しなければならないでしょう。
しかし、主イエスは続けて言われるのです。34節「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。」神の言葉に、主イエスの言葉に固執し、これに養われ、導かれ、生きようとする私共の心が鈍くなる。これが私共の信仰の危機です。そういうことが起きるのです。だから「注意せよ」と主イエスは言われるのです。滅びることのない神様の言葉から心が離れ、滅びゆくものに心が奪われるということが起きるのです。そして、身も心も滅びゆくものにばかり向けられたままならどうなるのか。そうなってしまえば、私共も又滅んでいくしかなくなってしまうのであります。だから、「注意せよ」と主イエスは言われるのです。
私共は子供から老人に至るまで、いつも目の前の問題を抱えています。その問題をどうするか、そのことにばかり心も時間も費やされているものです。若者は今度の試験をどうしようか、恋人とのこともあるでしょう。大人になれば仕事のこと、子供のこと、家庭のこと。老人になれば健康のこと、子や孫のこと。それらのことは、どれもどうでも良いことではありません。どうせ滅びることなのだから真面目にやらなくても良い。そんなことではないのです。私共はそれら一つ一つのことに対して、誠実に事に当たらなくてはなりません。それらのことは、私共が神様から任されていること、委ねられていることだからです。そんなことは放っておいて、神様の言葉だけに固執するのだ。そんなことではないのです。そうではなくて、私共のそれらのことを処理していく日常の生活、それが滅びることのない神の言葉によって導かれる中で、全く違ったものになるはずだということなのです。
36節後半で「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」と言われました。決して滅びることのない神の言葉に固執して生きるということは、自分がやがて主イエス・キリストの御前に立つ日が来る。主イエスが再び天より降りて、生ける者と死ねる者とを裁く為に来られる時、自分は主イエスの御前に立たなければならない。そのことを忘れない、そのことを心に刻みつつ生きるということなのであります。このことを心に刻みつつ生きる時、私共は日常の歩みにおいても変わるのであります。何でもいいから適当にやっておけば良いというのではなくて、主イエスの御前に立つ者として、神様に委ねられていることに当たる。そういう姿勢が私共の日常を貫くことになるということなのです。どうせ滅びることなのだから、いいかげんで良いということにはならないのです。やがては滅びる。しかし、その滅びるものは神様によって私共に任されたものであるのならば、私共はそれを神様に捧げる業として、誠実に為していくということなのであります。自分の人生が、この世的に成功するかどうか、人にどういう評価を受けるか、それは大したことではありません。それらは全て滅びるものです。自分は主イエスの御前に立たなければならないということを心に刻みつつ生きるということは、。そんなことを超えた新しい生き方を私共に与えるのであります。
ここで、宗教改革者ルターが語ったといわれる「たとえ明日終末が来るとしても、私は今日、植えるべきリンゴの木を植える。」 という言葉を思い起こすことが出来るでしょう。あるいは、旧約聖書のコヘレトの言葉(口語訳の『伝道の書』)1章2節「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。」で始まる『コヘレトの言葉』が、その最後12章1節で「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」と語り、12章13節「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。」と語ったことを思い出します。私共の人生はやがて死を迎え、私共が学んだことも、作った道路も橋も、時が過ぎゆく中で何もなくなっていくのです。そこだけを見ていれば、それは空しいことです。空の空、一切は空であるということになるでしょう。しかし、ここに空しくない方がおられる。天地を造られた神であり、その独り子、御子イエス・キリストです。この方の言葉を信じ、この方と結ばれるならば、私共の為すことは何一つ空しくなることはないのです。
さて、この主イエスの御前にやがて立つ日を心に刻みつつ生きる為には、どうしたら良いのか。何も特別なことがあるわけではありません。主イエスはここで、「いつも目を覚まして祈りなさい。」と告げられました。主イエスが告げられた、これ以上の方法はどこにもないのです。
もう、随分前のことですが、ある教会員の方に、信仰を保つ良い方法はないかと聞かれまして、「聖書を読み続けること、祈り続けること。」と答えましたら、「やっぱり、それしかありませんか。」と言われたことがありました。言い出せば、他にも細々とあるでしょう。しかし、要はこの二つに尽きるのでしょう。聖書を読んで祈る。それは、神の言葉に固執し、これによって養われ、導かれ、祈りをもって自分がやがて主イエスの御前に立つ日を心に刻んでいくということなのでありましょう。それ以外にないのです。難しそうな神学書を読むことなどは、この二つに比べたら、労多くして、益少なしと言わざる得ないでしょう。そもそも、この二つを身に付けていない人が神学書を読んだところで、その本が本当に語ろうとしていることを理解することは出来ないでしょう。
「祈る」ということは、そもそも「神の御前に立つ」ことです。私共は祈りの度毎に、終末において主の御前に立つその日を、先取りしていると言っても良いのだろうと思います。だから、祈ることによって、自分がやがて主の御前に立つ日が来ることを、心に刻むということが起きるのでありましょう。私共の信仰の心が鈍くなる。その原因は、何よりも祈らないからなのです。祈らない者の心は、いつの間にか神様の方から、やがて滅びるものにばかり向けられるようになってしまうものなのです。それが、心が鈍くなるということです。そしてやがて、神様の言葉さえも、鈍い心には響かなくなってしまうものです。祈り続ける中で、私共は目を覚まし続けることが出来るのです。
先程、申命記8章11節以下をお読みいたしました。8章12〜14節「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。」17節「あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。」とあります。ここに心が鈍くなる私共の姿が示されています。富を得、生活が豊かになる中で、それを自分の力で手に入れたと思い始め、神様を忘れ、心が鈍くなるということが起きるのです。そしてそのような歩みをすれば、私共に待っているのは、神様の裁きとしての滅び以外にないのです。申命記は、この神様の恵みを心に刻む為に、戒めに生きることを教えました。神様の戒めというのは、私共を恵の中に留まり続けさせるために与えられたものです。私は、主イエスはここで「祈れ」という戒めを与えられたのだと思います。「祈れ」、それは主イエスの戒めです。滅びる者とならないために、神様の命の祝福の中を生き続けるために主イエスが与えてくださった戒めです。ある神学者は「祈らないこと。それは罪である。」と言いました。その通りです。祈らないのならば、私共は救いへの道を自ら放棄することになるのです。
この私共の祈りの生活の中心にあるのは、この主の日の礼拝です。主の日の礼拝において、私共は主イエスの言葉を受け、この言葉に養われ、導かれ、生きる者となります。そして、この礼拝の中で、私共は神様の御前に共に立つ者として祈りをささげるのです。この礼拝の心が、週日の各自の祈りの生活を支えるのです。礼拝を守り続ける日々が、私共に祈り心を与え、主の御前に立つ私共を造り上げ、日常の生活をも変えていくのです。礼拝が、祈りの日々が、滅びゆくものに心を奪われない人間を、神様の御前に謙遜に生きる人間を造っていくのです。私共の為すことは、小さなことに過ぎません。私共が為すどれをとっても、長い歴史に耐えられるものはないでしょう。しかし、私共の歩みは決して滅びることのない神様に結び合わされています。それ故、神様の御前に忘れ去られることは決してないのです。私共の為す小さな業の一つ一つを、主の御前に立つ日、神様は主イエス・キリストの御業の故に意味あるものとしてお受け取り下さるのです。そのことを知っているが故に、私共は今日という日、誠実に、出来ることを精一杯、主にささげる歩みを為していくのであります。
[2008年3月30日]
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