富山鹿島町教会

礼拝説教

「裁かれるべきは誰か」
詩編 83編2〜5節
ルカによる福音書 22章63節〜23章12節

小堀 康彦牧師

 イエスというお方が誰であるのか、この問いに対する答えは、私共の人生を決定してしまう重大なものです。この問いにどのように応えるのか、ここに私共の命がかかっているのです。しかし、この問いに対して、「そんなことはどうでもいい。そんなことよりも自分の明日の生活、いや今日の生活が問題なのだ。」と言う人もいるでしょう。しかし、それは既にこの問いに対しての一つの答え方でもあるのです。主イエスというお方を問題にしない。それは、主イエスを救い主、生ける神の子、私の人生の主人と告白することの、正反対の所にある答えであります。私共も以前はそうでした。そこでいつも大切だったことは、私の立場であり、私の考え方であり、私の利益であり、私のプライドであり、私の生活でした。それを満足させることが、いつも一番大切なことでした。しかし、それらをいつも満足な状態に保つことは難しいのです。ですから、いつもどこかで不満があり、イライラしていた。もちろん、主イエスというお方が自分の救い主であることを知ったからといって、不満がなくなったわけではありません。しかし、たとえ自分が満足する結果を得られなくとも、それを神様の御旨として受け入れ、大きな安心の中で歩んでいく。自分の人生は何かを手に入れる為にあるのではなくて、主イエスの御心に従って歩んでいくことに最大の意味があることを知る者となりました。

 今朝私共は、主イエスが裁かれる場面の御言葉を与えられました。ここで、主イエスは当時の三つの支配者たちによって裁かれています。第一にユダヤの支配階級の人々、最高法院と訳されておりますサンヘドリンの議員たちです。第二に当時ユダヤを支配していたローマ帝国からの支配者、総督ピラトです。第三にローマによって認められていた領主、ヘロデです。このヘロデというのは、マタイによる福音書にあります、主イエスが生まれた時に二歳以下の男子を殺したヘロデ大王の子、ヘロデ・アンティパスのことです。三者三様のあり方で主イエスを裁くのです。私共はこの裁判のあり方を見ていく前に、この裁きの場が根本的に倒錯している、本来あるべき姿の正反対になっている、このことを覚えておきたいと思うのです。本来のあるべき姿とは、主イエスが裁くべき所におり、ユダヤの支配階級の人々も、総督ポンティオ・ピラトも、領主ヘロデ・アンティパスも、裁かれるべき所にいなければならないのです。しかし、ここでは全く逆転しています。この逆転こそ、人間の罪というものを最も明確に示していることなのです。神様に裁かれるべき人間が、逆に神を裁く、この倒錯・逆転です。人間の罪というものは、何か社会的にしてはいけない悪いことをした、そういうものと理解されている場合が多いですが、それはほんの氷山の一角に過ぎないのです。その根っこにあるのは、神様も恐れずに、自分が神となり、神様さえも裁くという傲慢なのです。神様さえも、自分の願いや欲を満たす為に利用しようとする傲慢なのです。自分の願いをかなえてくれたなら信じてやってもいい、そんな傲慢です。どこまでも自分中心。それが神様の似姿に造られた本来の姿を見失ってしまった人間の罪の姿なのであります。私は、この主イエスが裁かれる場面を思い起こすたびに、主イエスを裁いている人々の姿が、主イエスの前にひれ伏すことを知らなかった時の自分の姿と重なるのです。私には、この三者を何と罪深い者かと裁くことは出来ません。私自身の姿がここにあるからです。そしてそのことに気付くとき、主よ、憐れんで下さい。私の罪を赦し、あなたの御前にひれ伏し、あなたを見上げ、あなたをほめたたえつつ生きる者にして下さい。そう祈らないではいられないのです。

 順に見ていきましょう。66節「夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。」とあります。主イエスが十字架につけられる金曜日の朝です。数時間後には主イエスは十字架につけられるのです。この最高法院は70人の構成メンバーで成っていました。ここでユダヤの中のことは全て決めることが出来ました。ローマから自治が認められていたのです。この最高法院は日の出から日の入りまでの間に開かれなければならないことになっていました。彼らは主イエスを捕らえた段階で、既に主イエスを処刑することを決めていました。ですから、この裁判は形式を整える為のものでしかなかったのです。彼らは主イエスに問います。「お前がメシア(救い主)なら、そうだと言うがよい。」主イエスがメシアであると自分の口から言えば、それで有罪とすることが出来ました。これは現代の日本人の感覚ですとよく分からないところがあるかもしれませんが、ユダヤという国はユダヤ教の国なのです。宗教と政治が一体化しているのです。現代のイスラム原理主義の国を考えれば良いかもしれません。あるいは先の大戦中の日本を考えても良いでしょう。私は天皇である、などと言ったら、すぐに捕まってしまったでしょう。
 主イエスは、ここですぐに「わたしが救い主である。」と答えません。ここは大事な所です。次の「あなたは神の子なのか」という問いに対しても同じです。口語訳では70節で「では、お前は神の子か。」という問いに対して、主イエスは「あなたの言うとおりである。」と答えたと訳されていました。しかし、この新共同訳では、「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」と訳しています。口語訳から新共同訳に替わりまして、アレッと戸惑う所が皆さんもあったと思いますけれど、私はこの所の主イエスの答え方が何とも変な訳だと思いました。これは、23章3節のピラトの「お前がユダヤ人の王なのか。」という問いに対しての主イエスの答えも同じです。口語訳では「そのとおりである。」と訳されておりました。単純明快です。しかし、新共同訳では「それは、あなたが言っていることです。」となっています。何か、肯定しているのか否定しているのか分からない、会話になっていない、そんな変な答え方です。新しい翻訳は前の訳よりも判りやすい、それが普通でしょう。なのに新共同訳はどうして口語訳よりもはるかに判りにくい訳にしたのか。ギリシャ語原文に当たっていますと、実は新共同訳の方が直訳に近いのです。口語訳は、かなり大胆に解釈を入れて意訳した。その方が、日本語として分かるからです。しかし、新共同訳では、あえてよく分からない日本語になることを承知の上で、直訳に近いものにしたのです。直訳すると、「わたしがそれであると、あなたがた自身が言っている。」となります。主イエスのこの時の答えは、単純に「そうです」と肯定したのではないのです。もちろん否定しているわけではありません。この言い回しの中には、相手に判断を委ねる、主イエスが救い主、神の子であるかどうか、それはあなたがたが自分の責任で答えなければならないことなのだ、そういうニュアンスが含まれているのだと思います。そして、新共同訳はそのことを示そうとした。つまり、主イエスを問いただしているのは、最高法院の人々であり、ピラトであるわけですが、その問いに答えつつ、逆に主イエスが最高法院の人々やピラトに問い返している。あなたはわたしを誰だと言うのか。そう問われている。主イエスの答えはそういうものだったのです。主イエスに「あなたは誰か」と問う者は、逆に「あなたは誰と思うのか」と問われるということなのです。
 ここでおもしろいことに、主イエスのこのあいまいとも取れる答え方に対して、最高法院の人々とピラトは正反対の受け取り方をしています。最高法院の人々は71節で「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ。」と言って、主イエスの答えを、神の子であるという肯定の答えと受け取りました。一方ピラトは23章4節で「ピラトは祭司長たちと群衆に、『わたしはこの男に何の罪も見いだせない。』と言った。」とありますから、肯定したとは受け取っていないようなのです。しかし、どちらも主イエスを神の子、ユダヤ人の王とは考えていないという点においては一致しています。
 主イエスは最高法院の人々が、主イエスが何と答えようと信じないことを知っておられました。67、68節「わたしが言っても、あなた達は信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。」と主イエスは言われました。主イエスは、最高法院の人々が主イエスに「お前はメシヤか」と尋ねていながら、この問いが真面目じゃない、真剣ではないということを知っていたのです。それに対して、主イエスは「この問いはそのようないい加減なものではない。真剣に、真面目に、自分の責任において答えていかなければならないものなのだ。」そう言われたのだと思うのです。

 主イエスは「今から後、人の子は全能の神の右に座る。」と宣言します。主イエスは神様の勝利を信じて疑いません。確かに主イエスはこれから十字架にかかり死ぬのです。そのことを主イエスは知っています。主イエスは十字架に架けられるのです。そこまでは、最高法院の人々の思惑通りに事は進みます。しかし、その後があるのです。主イエスは三日目に甦り、40日後に天に昇り全能の父なる神様の右に座るのです。それは、人間の思惑を超えた神様の業です。主イエスはそこを見ているのです。私は、主イエスを救い主、神の子、我が主と受け入れる者は、この主イエスの信仰の眼差しを受け継ぐ者となるのだと思います。人間の業が終わり、神の業が始まる。そのことを信じることが出来るのです。どんなに悪意と逆境とが自分を取り囲んでいても、それらの力が自分を押しつぶしそうになったとしても、次がある。神の業による次がある。それを信じ、そこに目を向けることが出来るのであります。

 ピラトのもとに人々は主イエスを連れて来ました。それは、最高法院には主イエスを処刑する権限までは与えられていなかったからです。処刑するのはローマでは軍隊でした。軍隊を動かすことは最高法院には出来ません。ローマの総督しか出来ないことです。人々はピラトに訴えます。ピラトがローマの総督として処刑しないではいられない罪状を並べます。「皇帝に税を納めるのを禁じた。自分が王たるメシヤだと言っている。」主イエスを処刑する為なら、嘘でも何でも言うということなのでしょうか。ピラトにしてみれば、主イエスがメシアと言っているかどうか、神の子と言ったかどうか、そんなことに関心はありません。それはユダヤ教の内部のこと、宗教上のことであって、ローマの総督の関わるべきことではないと考えていたからです。彼にとっての関心は、自分が総督をしているユダヤで治安が保たれること、暴動が起きないことです。ピラトは主イエスが最高法院の人達に宗教上のことで訴えられていることを知っています。ですからピラトは正直なところ、このことには関わりたくなかったのでしょう。ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか。」とだけ聞きます。この「ユダヤ人の王」という言い方は、ユダヤ人にとっては神様を指す言葉であり、救い主を指す言葉でしたが、ピラトにとっての興味は政治的な王以外にはありません。「自分を王たるメシヤだと言っている。」と訴えられていながら、ピラトは「メシヤ」という言葉を抜いて、ただ「ユダヤ人の王か」とだけ聞くのです。
 ユダヤの王、それはローマの総督である自分以外にはない。ピラトにとって、それは疑いようのない事実でした。だから主イエスに問うまでもないのです。自分の目の前にいる一人のユダヤ人が、王であるはずがないのです。ですから、この問いもまた、真面目な問いではありませんでした。ですから、主イエスは「それはあなたが言っていること」と答えたのです。あなたが、この問いに自分で答えなければならない。そう告げられたのです。この主イエスの答えをピラトがきちんと受けとめることはありませんでした。最高法院での問いと同じように、既に答えは決まっていたからです。ピラトは主イエスの答えを聞いて、「この男に何の罪も見出せない。」と言いました。
 そこで、主イエスを何としても殺したい最高法院の人々は、次に主イエスが「民衆を扇動している。」と言ったのです。それも「ガリラヤから始めてこの都に至るまで」という言葉を付け加えてです。確かに主イエスはガリラヤから伝道の歩みを始めました。ですからこれは事実なのです。しかし、この「ガリラヤ」という地名と「民衆を扇動している」という言葉が結びつきますと、これは単なる事実以上の効果をもたらしました。それは、ガリラヤはユダヤにおける暴動の扇動者たちの中心地だったからです。最高法院の人々は、主イエスを暴動の扇動者に仕立て上げようとしたのです。
 ピラトはここで妙案を思いつきました。主イエスがガリラヤ人なら(確かに主イエスが育ったナザレの村はガリラヤ地方の村でした)、そうであるなら、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスにこのやっかいごとを押しつければいい。ピラトは、この時ちょうどエルサレムに来ていたヘロデの所に主イエスを送りました。

 ヘロデは主イエスの噂を聞いていました。主イエスのなさる奇跡をヘロデも見たいと思っていたのです。ヘロデは主イエスに興味は持ちましたが、それは奇跡を見たいという以上のものではありませんでした。このヘロデは、娘の踊りの褒美に主イエスの先駆者であったバプテスマのヨハネの首をはねた人です。主イエスはこのヘロデの問いに対しては、何も答えませんでした。神様を恐れない邪悪さを、主イエスはヘロデの中に見ていたのではないかと思います。そしてヘロデは、主イエスをあざけり、侮辱したのです。
 23章12節に「この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。」とあります。22章66節には「夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。」とあります。祭司長と律法学者たちは仲が悪かったはずなのです。ここで、今まで仲が悪かった人々が、主イエスに敵対することにおいて仲がよくなったのです。こうしてみると、「仲が良い」というのは単純に良いこととは言えないことが分かります。何の為に仲が良いのか。単に利害が一致するだけの仲の良さ、あるいは誰かをやっつける為に手を結ぶ仲の良さ、まして神様に敵対する共犯者としての仲の良さなどというものは、美しいものではありません。それは愛とは異質なものだからです。

 最高法院、ピラト、ヘロデが三者三様のあり方で、主イエスを裁いているのを見て来ました。皆、自分の立場・地位を前提にして、主イエスに相対していました。自分を高く、主イエスを低く見下していました。これは彼らだけの姿ではありません。どの人間も持っている罪があらわに表れただけなのです。私は現代に生きる人は誰でも、本音のところで「見えないものなど信じない」という大前提を持っているのだと思います。確かに、いつの時代にもそのような考えはあったでしょう。しかし、それがこれ程まで強く、広く、人々の心を支配するようになったのは、この日本においては、ここ50年のことではないかと私は思っています。「神様なんていない。」その言葉がどんなに恐ろしいことであるかを知らず、幼子までが口にするのです。その結果、生きること、働くこと、結婚すること、子供を育てること、一切の意味が見失われ、無意味という風が吹きすさぶ荒涼とした大地に、独りきりで放り出されて、どこに向かって行けば良いのかも分からずに歩んでいる。それが現代の日本人の心の風景なのではないでしょうか。
 天地を造られた神様は、そのような私共を愛し、無意味という私共から生きる力を奪っていく風から私共を守り、永遠の命へと私共を招いて下さる為に、主イエス・キリストを与えて下さったのです。私共は人であって神ではありません。神様が裁くのであって、私共が裁くのではありません。私共の主イエスへの問いは、真剣でなければなりません。真剣に主イエスに対して「あなたはメシヤか、神の子か、まことの王か」と問うならば、主イエスは逆に私共に問われます。そして私共は、イエス・キリストというお方の前にへりくだり、「あなたこそ救い主、神の子、我が主」と告白する者へと導かれていくのです。そして、心の風景は変わるのです。生きる意味と力とを与えられるのです。その証人として、私共は立てられているのでしょう。「あなたはわたしを誰と言うのか?」この主イエスの問いかけに、責任を持って応えつつ、この一週も歩んでいきたいと願うのです。

[2008年5月25日]

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