今朝与えられております御言葉は、皆さんも良く知っておられる、聖餐式の度ごとに読まれる聖書の箇所です。主イエスが聖餐を制定された時の言葉という意味で、制定語、あるいは制定の言葉と呼ばれている所です。パウロがこの手紙を書いた時、既に初代キリスト教会におきましては聖餐が守られており、その時にこの言葉が告げられていたと考えられております。キリストの教会は、十二使徒以来この聖餐を守る共同体として歩み続けてまいりました。この聖餐について、現在、全キリスト教会において完全な理解の一致というものがあるわけではありません。微妙な所で様々な議論があります。しかし、この聖餐において、私共はキリストの救い、キリストの罪の赦し、キリストの命に与るのだということにおいては違いはありません。聖餐は、キリストの霊が現臨するキリストの体なる教会に与えられた、救いの手段なのです。
23節「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。」とパウロが語っておりますように、パウロ自身、十二使徒たちによって守られていた聖餐に与り、又これをコリントの教会に伝えたのです。
では聖餐の源流はどこにあるのか。最近の聖書神学においては、三つの主イエスの場面を考えています。@主イエスと罪人たちとの食事や五千人の給食。A最後の晩餐。B復活の主イエスと弟子たちの食事。この三つの食事の出来事が聖餐へと流れ込んで来ていると言われます。しかし、この三つは、同じ重さ、同じ比率で聖餐に流れ込んで来ているとは言えません。主イエスと罪人たちとの食事が直接聖餐になっていったわけではなく、この間には主イエスの十字架と復活という断絶があります。又、復活の主イエスとの食事も、最後の晩餐の場面を思い起こさせるものであり、あの十字架におかかりになった主イエスが、今も生き、自分と共におられることに目を開かせた出来事でありました。その意味では、最後の晩餐こそ、聖餐の中心的なルーツであると言って間違いないと思います。それは、この制定語の中にもはっきりと表れています。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り」とあるように、この制定語は明確に最後の晩餐の時のことを示しているからです。今は確認しませんが、マタイ、マルコ、ルカの各福音書の最後の晩餐の場面を開いて比べていただけば、この制定語とほとんど同じ言葉が主イエスによって告げられていることが分かると思います。
ここで少しややこしいかもしれませんが、主イエスと罪人の食事、五千人の給食のそれと聖餐との関係を見ておきましょう。と言いますのは、最近、日本基督教団の中で未受洗者の陪餐が行われるということが起きており、それを主張する人の多くが、これを根拠にしているからです。確かに主イエスの食事には驚くべき開放性がありました。何の制限もなく、罪人たちが招かれ、主イエスとの食事に与ったのです。これは主イエスの救いが全ての者に開かれていることを示しております。しかし、それ故、未受洗者も陪餐させるべきであるというのは、正しくありません。と言うのは、最後の晩餐は十二使徒だけで守られたからです。この時、エルサレムには女性の弟子も含めて、十二使徒以外の弟子がいたにもかかわらずです。このことは何を意味しているかと言えば、主イエスは十二使徒から始まる新しい救いの共同体、新しいイスラエル、新しい神の民の食事として、最後の晩餐を守ったということなのです。そして、この新しい神の民は、血筋によらず、民族によらず、洗礼という新しい契約によって立てられていく民であり、それはユダヤ民族という枠さえも破って、全世界に広がっていく驚くべき開放性を持つものだったのです。しかし、この新しい神の民の開放性は、新しい契約というもの抜きに実現されるものではありませんでした。神様との契約抜きに、神の民は生まれないのです。
先程、エレミヤ書31章をお読みいたしました。そこには、31〜32節「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。」と言われております。出エジプトの時、シナイ山において十戒をいただき、イスラエルは神様と契約を結び、神の民となったのです。そして時至り、神様は主イエス・キリストを与え、新しい神の民を生まれさせる為に、新しい契約を与えて下さったのです。その契約の犠牲として主イエス・キリストが十字架におかかりになり、その契約の食事として聖餐が与えられたのです。
この制定語の中でも、そのことは明確に示されています。25節「また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。」とある通りです。聖餐は、ただの食事ではないのです。「契約の食事」なのです。自分が主イエスの十字架の贖いを信じ、神の子、神の僕とされた恵みを覚えて与る食事なのです。
さて、この制定語において繰り返されている重要な言葉があります。それは「わたしの記念として」という言葉です。これは、主イエス・キリストが私の為に為して下さった十字架と復活の御業を思い起こしてということであり、自分を救って下さった主イエス・キリストというお方を思い起こしてということでありましょう。ここで私共の視線は、過去へと向けられます。私共はこの聖餐において、漠然とした神様を思うのではなく、あの十字架にかかり、三日目によみがられた、主イエス・キリストへと信仰の眼差しを向けるのです。神の御子が、私の為に、私に代わって十字架にかかり、それ故私の一切の罪は赦されたこと。神様を知らず、それ故自分の利益や自分の幸せしか考えることが出来なかった自分が、父なる神様に向かって「アバ父よ。」と呼び奉り、神の子とされている幸い。どんな悲しみ、嘆きの中にあっても、主イエスが共にいて下さり、私の全ての歩みを共にして下さっている幸い。それらを新しく心に刻むのです。
しかし、この制定語は、私共の眼差しを二千年前に十字架におかかりになった主イエス・キリストに向けさせるだけではありません。私共の眼差しを過去に向けさせるだけではないのです。26節に「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」とあります。ここで私共は「主が来られるとき」へと目を向けるのです。つまり、主イエスがよみがえり給うたが故に、私も、又私が愛する者も、やがて時が来ればよみがえり、永遠の命に生きる者となる。そのような者と既にされている。そのことを心に新しく刻むのです。この聖餐において、私共は過去におられた主イエス・キリスト、今ここに聖霊として私共と共におられる主イエス・キリスト、そしてやがて来られる主イエス・キリストに目を向けるのです。
私共はこの聖餐において、自分が今抱えている重荷、不安の一切を後ろに投げ捨てるのです。そして、ただキリストに思いを集中する。私共が持っている課題や嘆き、それは私共を眠れなくさせる程のものであり、忘れようとしても忘れることが出来ないものでしょう。私は、どうも他人からはそう見られていないようですけれど、大変気が小さい。ちょっとしたことで、すぐに眠れなくなってしまう。気になることが、いつも頭を離れない。しかし、この聖餐に与る時、私は主イエスのことしか考えない。主イエスが共にいて下さっている恵み、それしか考えない。それは瞬間に過ぎないかもしれませんけれど、このことは、全ては既に解決されている、主イエスによって解決している、そのことを知らされることなのではないでしょうか。聖餐とは、私共の小さな頭の中にある全てを吹き飛ばして、私共の一切をキリストの救いの中へと突入させていく、そういう出来事なのだと思うのです。主イエス・キリスト御自身がここに臨まれ、「我が体を食え」「我が血を飲め」そう言って、体と血とを私共に差し出されているのです。
愛餐と聖餐は違います。愛餐はまさに文字通り共に食事をすることです。もちろん、愛餐の食事においても、共に生きる愛の交わりを味わうことが出来るでしょう。私は、この教会で持たれる愛餐の時がとても大好きです。しかし、どんなに愛餐を繰り返しても聖餐の恵みとはなりません。愛餐は、主イエス・キリストによる罪の赦しを与えるものでもありませんし、終末の復活の希望を与えるものでもないのです。
今日与えられた御言葉の27節以下の所は、この愛餐との関係で理解される所です。ですから、この部分を制定語の中に入れない式文もあるのです。この手紙が書かれた頃、礼拝の中では愛餐と聖餐が共に守られていたようです。20〜22節に「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。」とあります。どうやら、この愛餐の時に早く来た者はさっさと食べて飲んでしまい、後から礼拝に来た人は空腹のままであるということがあったようです。多分、早く来られない人というのは、奴隷や労働者の人たちだったのでしょう。当時は日曜日は休みではないわけで、主の日の礼拝も一日の仕事が終わる頃に為されていたのではないでしょうか。そういう状況の中で、あまりに配慮のない愛餐の仕方に、パウロは、それでもあなたがたは聖餐に与っている者の交わりなのですか、キリストの愛をキリストの命と共に受けている者なのですか、そうであるなら、どうしてキリストの命が現れるような交わりをすることが出来ないのですか、そう言っているわけです。
パウロは、コリントの教会の愛のない交わりの現実を指摘して、あなたがたは聖餐に共に与っている者たちではないか、それならば聖餐にふさわしい交わりを形成しなさいと告げたのです。それが、27節以下の「ふさわしくないままで」と言われていることなのです。とするならば、ふさわしい者というのは、キリストの愛を受け、命を受け、一つとされたということを弁えている者ということなのです。自らの罪を知らされ、これと決別し、新しいキリストの命の中を歩む者のことなのです。このことを弁えた上で、私は、この部分も聖餐式において制定語として読まれることは、意味があることだと思っています。それは、この言葉が告げられることによって、私共は聖餐に与る度ごとに、聖餐に与った者としての交わりを形成していかなければならないということを心に刻むことになるからであります。
聖餐というのは、必ず交わりの中で守られるものなのです。牧師が一人で会衆が一人もいない所で為されることはないのです。主イエスは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書18章20節)と告げられました。主イエスは聖徒の交わりの中に現臨されるのであり、まさに聖餐の交わりにおいてこそ、主イエスは現臨されるのであります。そして、この聖餐において主イエスの現臨に触れた者の交わりは、この主イエスの愛の証し人の交わりとなるのです。主イエスはどこにおられるのか、分からない人はここに来なさい。ここに来れば分かる。そういう交わりが、ここに形作られていくのであります。
この交わりは、まことにうるわしい交わりです。確かに、地上の教会においては、この世に起きる問題は全て起きる。何の問題もない教会などあり得ない。それも事実でしょう。しかし、この教会の交わりというものは、それだけでは言い尽くすことの出来ないうるわしさも又持っているのです。それは具体的に言えば、祈り合う交わりです。自分の家族でもない人の為に、朝な夕な、互いに祈り合うような交わりが他にあるでしょうか。私は牧師として断言します。祈りが生きている教会は大丈夫です。どんなに教会員同士のトラブルがあったとしても、少しも心配はいりません。共に聖餐に与った者には、私共の思いを超えた一致、命の一致、希望の一致、信仰の一致、喜びの一致が与えられているからです。この聖餐に盛られている恵みに、共に心と思いとを集めるならば、教会は一つになります。しかし、この聖餐を見ず、人間の思いで一つになろうとするならば、それは必ず破れます。何故なら、私共の罪は、そのような交わりを形成することを必ず邪魔するからです。良いですか皆さん。私共が一つになるということは、主イエス・キリストの体と血とに与ることによって既に一つとされている、この恵みの事実の上にしか成り立たないのです。
私共は、ただ今から聖餐に与ります。この聖餐において現臨し給う主イエス・キリストを、信仰をもって仰ぎ、一つの命に与りましょう。まだ洗礼を受けていない人は、これに与ることは出来ません。しかし、この礼拝に集っているということは、既に神様によってこの交わりに与るようにと招かれているのです。どうか、この神様の招きを真剣に受けとめて欲しいのです。聖霊が注がれ、信仰が与えられ、共々にこの聖餐の恵みに与る日が来ることを、共に祈りたいと思います。
[2008年6月15日小松教会]
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