主イエスは十字架の上で死なれました。十字架は処刑であり、その死はまことに痛ましい、悲惨なものであります。しかし、福音書が記す主イエスの十字架の場面の記述には、ほとんどその痛ましさを描写している所がありません。私共は主イエスの十字架について、今まで描かれてきたたくさんの絵画からのイメージを持っています。そしてその多くは、目をそむけたくなるような、悲惨な、痛ましい情景を描いています。あばら骨が浮き上がり、首をうなだれた主イエスの姿です。絵に描けば、どうしてもこうなるのだろうと思います。そして、そのような主イエスの十字架上での痛ましい姿を描くということも、本来私共が受けるはずの裁きを、私共に代わって主イエスがお受け下さったということを心に刻む為には、意味のあることであるに違いありません。しかし、聖書が記す主イエスの十字架上の姿は、そのような悲惨さ、痛ましさとは少し違うのです。そこには、力強さと美しささえあると思います。それは、主イエスの十字架の死というものが、単なる処刑による肉体の死ではなく、神様の愛の表れ、神様の救いの御業の成就というものであったからでありましょう。聖書は、主イエスの十字架を単なる一人の犯罪人の死として記してはいないのです。主イエスの十字架は、「人となりたる神の独り子」としての死であったと告げているのです。
順に見ていきましょう。聖書は主イエスが十字架の上で息を引き取られる時に、二つのことが起きたと記しています。一つは太陽が光を失い、全地が暗くなったということ。もう一つは、神殿の垂れ幕が真ん中から裂けたということです。この二つの記事は、主イエスの十字架の死が何であったのかを示しています。
主イエスが十字架におかかりになったのは朝の9時。そして、十字架の上で息を引き取られたのが午後の3時です。この時、昼の12時から午後3時まで、太陽は光を失い、全地が暗くなったというのです。これは日蝕が起きたのだと考える人がいます。あるいはそうなのかもしれません。しかしそれ以上に、まことの光である神の子が罪の闇に飲み込まれた、闇が光を覆ったということを示しているのでしょう。もちろん、光が闇に敗北することなどあり得ません。光は闇を打ち破るのです。しかし、主イエスの十字架による死とは、そういうものであったのです。光が死んだ、光が殺されたのです。それは、まことの光である主イエス・キリストを我が主として受け入れず、自らが自分の人生の主人であると思っていた私共が、まことの光を知らず、それ故自らの罪に支配され、闇の中を歩んでいた時と同じです。主イエスの十字架の一方の側面、光に対する闇の勝利、神の独り子に対する罪の勝利を示しているのです。そしてそれは、逆説的でありますが、あの十字架の上で死んだ方は、この世のまことの光であった、まことの神の子であったということを告げているのです。
しかし、主イエスの十字架はそれだけではありません。それが次の「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。」ということにおいて示されています。この神殿の幕というのは、先程お読みいたしました出エジプト記26章31節以下にあります、至聖所と聖所とを仕切っていた幕のことであります。当時のエルサレム神殿の一番奥には至聖所と呼ばれる所がありました。契約の箱が置かれ、左右にケルビムが配されている所で、そこに入ることが出来たのは大祭司だけで、しかも年に一回だけでした。この至聖所こそ、神様の足台と考えられ、神様の御臨在される所でありました。この幕が真ん中から裂けたということは、神様と人間との間の仕切りが取り払われたということであります。年に一度だけ、しかも大祭司だけが神様の御臨在に触れるのではない。この主イエスの十字架によって、全ての民が、「神、我らと共にいます。」というインマヌエルの恵みの中に生きることが出来るようになった。その為の道が拓かれたということなのであります。私共が誰憚ることなく、父なる神様の御前に出て、「アバ、父よ。」と呼び奉り、礼拝することが出来るようになったということなのであります。私共は、この主イエスの十字架によって、神殿を持たなくて良い民となったということなのであります。
神殿が神殿であり得るのは、神様がそこにおられるからです。神様の御臨在に触れるからです。しかしこの時から、キリスト者は目に見える建物としての神殿を持たない民となったのです。私共の教会に至聖所はありません。誰も入れない聖なる場所などというものは、この教会にはないのです。それは私共一人一人が、至聖所となったからなのです。使徒パウロがコリントの信徒への手紙一3章16節で、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」と告げています。まさに、誰も架けることの出来なかった父なる神様への橋を、主イエスは自らの十字架の死をもって、お架け下さったのです。主イエス・キリストご自身が父なる神様への道となられたのであります。そして、私共に聖霊なる神様を注いでくださり、私共をインマヌエルの恵の中に生きる者としてくださったのです。
主イエスは十字架の上で息を引き取られる時、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と言われました。これは、詩編31編6節にある言葉です。これは夕べの祈りでありました。午後の3時に夕べの祈りとは早すぎるように思われるかもしれませんが、この時代は日没と共に眠りにつくのですから、午後3時は十分に夕べなのです。そして、この祈りは幼子が母親に最初に教えられる祈りの一つであったと言われています。寝る前に祈るという習慣は、幼子の時に親から教えられる大切な習慣の一つでした。ユダヤにおいては、今から寝ようとする幼子に、「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。」との祈りを、親が口うつしで教えたのです。主イエスが十字架の上で最後に口にした言葉が祈りの言葉であったということは、この主イエスの十字架の死の力と美しさを示していると思います。
私は最初に、聖書は主イエスの十字架を痛ましいこととして描いていないと申しました。まさに息を引き取ろうとするその時に、主イエスの口から出た言葉がこの祈りであったということが、そのことを示しています。ここに示されているのは、主イエスの父なる神様に対しての深い信頼でありましょう。主イエスと父なる神様との間の一致がここには表れています。ここで主イエスの眼差しは、完全に天の父なる神様に向けられています。そして、父なる神様を信頼して、全て父なる神様に委ねておられる。私はこの死は美しいと思う。そして、何という力に溢れているかと思うのです。死は、この十字架の上においても主イエスに何の力も及ぼすことが出来ていない。主イエスは死にます。確かに死にます。しかしこの十字架での主イエスの祈りは、主イエスが既に死に勝利している、そのことを示しているのではないか、そう思うのです。
私共はそれぞれどんな死を迎えるのか。これは自分で選べませんので考えるだけ無駄ですけれど、私はこの主イエスのように、眼差しを天の父なる神様にしっかり向けて、この方を信頼し、全てを委ねたいと思う。もちろん、私共がこの地上での最後を迎える時にも、心残りというものはあるでしょう。特に、後に残す妻や夫、我が子のことを思うと、無念でならないということもあるでしょう。あるいは、自分は死んだらどうなるのか、そのことを思うと不安でならないということもあるかもしれません。しかし、心を神様に向けるのです。自分が死んだ後のことも、家族のことも、神様、全てをあなたにお委ねします。御心のままに為して下さい。そう祈れたならばと思うのです。
ある人が、「人は生きたようにしか死ねない。」と言いました。そうなのでしょう。私共が日々の歩みの中で、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」との祈りをしたことがなくて、死に臨んで急にこの祈りをしようなどと言っても、出来るはずもありません。この祈りは、寝る前の祈りであったと申しました。主イエスは一日が終わり寝る前に、きっとこの祈りを幼いときから為しておられたのだろうと思います。一日が終わり寝る時、私共は明日の朝、目が覚めずに死んでしまっていたらどうしようとは思いませんそんなことを思ったら、それこそ眠れないでしょう。次の朝に目が覚める、このことを信じて疑わないから眠れるのでしょう。しかし、よく考えてみればそんな保障は誰に与えられていません。その意味で、一日の終わりの眠りは小さな死であるとも言えるのかもしれません。私共は明日目覚める保障は誰にも与えられておりませんけれど、私共が死んで後に目覚めること、復活することは、神様によって約束されています。実はこちらの方が確かなことなのです。そうであるなら、私共は自らが死を迎える時にも、やがて復活し、目覚める時を信じて、父なる神様に全てを委ねたい、そう思うのです。
主イエスはこの十字架の上で、恨み言も嘆きも、一切口にしていません。先週見ましたように、主イエスは十字架の上で、自分を十字架にかけた人々の為に「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈って、執り成しなさいました。そして、息を引き取る時には、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と祈られました。私は、ここで主イエスは、御自身が語られた「汝の敵を愛せよ。」を実行しているのだと思います。ルカによる福音書6章27節「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」と主イエスは言われました。この言葉を聞けば、誰がそんなことが出来るかと思います。しかし、主イエスはこの十字架の上で、見事にそれを為されたのです。このことは、「そんなことは出来っこない。無理だ。」と言ってしまう私共に向かって、「大丈夫、わたしに従って来なさい。わたしと共に歩むのなら、そのような者へとあなたを造り変える。」と招いて下さっているということなのではないか。そう思うのです。私共には出来ない。しかし、この十字架の上においてなお敵を愛し、全てを父に委ねられた主イエス・キリストが私共と共にいて下さるなら、この主イエスが私共の内に宿って下さるなら、私共は変えられるのです。それを信じて良いのです。
この主イエスの十字架を始めから終わりまで見ていた人がいます。ローマの百人隊長です。彼はその職責上、ピラトのもとから主イエスが十字架を担いで歩み出した時から、十字架の上で息を引き取るまで、ずっと主イエスのそばにいて、主イエスの全ての言動を見ていました。そして、主イエスが十字架の上で息を引き取られた時、彼の口から出た言葉が、47節にある「本当に、この人は正しい人だった。」というものでした。彼は職責上、今まで何人、何十人という人の十字架での処刑の場に立ち会ってきたことでしょう。その彼の口から、「本当に、この人は正しい人だった。」という言葉が出たのです。
「人は生きたように死ぬ。」彼は、こんな風に自らの十字架の死を受け入れて死ぬ人を見たことがなかったに違いありません。この十字架上での主イエスの姿に、「まことに正しい人」の姿を見たのです。神の愛を体現した人、人となりたる神の子の姿を見たのです。「本当に正しい人」、そんな人はいない。彼は、人間の弱さ、醜さを、十字架の上で処刑される人を見ながら、いつもそう思わされてきていたのでしょう。しかし、この主イエスの十字架を始めから終わりまで見て、この人は違う、そう思ったのです。「本当に正しい人」が、ここにいた。今まで会ったことがない、本当に正しい人。今まで、そんな人がいるはずがないと思っていた「本当に正しい人」が、ここにいた。
この百人隊長の言葉は、ルカが今まで書いてきた主イエス・キリストという方に対しての信仰告白です。この告白へと至るように、ルカはこの福音書を記したと言っても良いでしょう。彼は、ローマの兵隊でした。ローマの兵隊というのは、ローマ人しかなれなかったのですから、この百人隊長は異邦人でした。その異邦人の口から、主イエスに対しての告白が生まれたのです。この百人隊長の姿に、私共自身の姿が重なります。ここには、この主イエスの十字架を基として建てられていくキリストの教会の姿が示されているのでしょう。この百人隊長によって示された回心した異邦人によって、キリストの教会は全世界へと広がっていくことになったのです。
多分、この百人隊長はこの十字架において出会うまで、主イエス・キリストと会ったことはなかったでしょう。この百人隊長は、ただこの十字架上の主イエスと出会って、この告白へと導かれたのです。主イエスの十字架とは、そのような力を持つものなのです。私は毎週このように説教いたしておりますが、聖書の箇所がどこであれ、毎週主イエスの十字架に基づき、これを見上げ、これを指し示し語っているわけです。本当に主イエスの十字架の前に私共が立つならば、この百人隊長と同じ告白が私共の中から溢れるはずなのであり、そのことを願い、求め、語っているわけであります。いつもそれは十分なものではありません。主イエス・キリストの十字架を私共が語るということは、いつも断片的なものでしかあり得ないのです。語り尽くすことは出来ません。それ程に、豊かで、深く、広く、高いものであります。しかし、主イエスの十字架の全てを知らずとも、そのほんの一部にでも触れることが出来たならば、私共は闇から光へと入れられ、主イエスこそ私の主と告白する者へと導かれていくに違いないのです。
主イエスは十字架の上で息を引き取られました。それは人間の罪に主イエスが敗北したかのようにも見えます。しかし、そうではないのです。主イエスは十字架によって敗北したが、復活によって勝利したというような言い方をされることがあります。しかし、私はこの主イエスの十字架上での姿をなぞりながら、主イエスは既にこの十字架の上で勝利されていた、そう確信します。罪に敗北した者が、どうして自分を十字架にかけた者の為に祈り、死を目前にして父なる神様に全てを委ねることが出来るでしょうか。主イエスは既に十字架の上で勝利されていたのです。それが決定的に明らかにされたのが復活だったのではないでしょうか。敗北のように見える。しかし、勝利している。主イエスは「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書16章33節)と、十字架にかけられる前に言われました。主イエスは既に世に対して、罪に対して、勝っていたのです。何故なら、主イエスはこの世界を造られた、ただ一人の全能の父なる神様の独り子だからです。私共はこの世において苦しみに出会う時、このことを思い起こさなければなりません。主イエスが十字架の上で既に勝利していたように、私共も困難のただ中にあって既に勝利しているということを。悪も罪も不安も苦しみも、全てに勝利した主イエス・キリストのものとされた私共を、最早支配することは出来ないからです。この安心の中で、父なる神様に全てを委ねつつ、この一週も歩んでまいりたいと思います。
[2008年7月13日]
へもどる。