今朝私共は、主イエス・キリストが復活されたことを喜び祝う為に、ここに集まってまいりました。主イエスは金曜日に十字架にかかり死なれ、墓に葬られました。しかし、日曜日の朝、弟子たちがその墓に行ってみると、墓は空になっており、そこには主イエスの亡きがらを包んでいた亜麻布しかありませんでした。そして復活された主イエス・キリストは次々と弟子たちにお会いになったのです。主イエスが復活されて起き上がり、墓から出て来るところを見た者はおりません。ですから、主イエスがこんな風に復活されたという記事は聖書にはありませんし、そのようなことに私共は興味はありません。復活された主イエス御自身に弟子たちは出会いました。このことによって、主イエスの復活が明らかにされたのです。実に、この復活された主イエスとの出会いこそ、キリスト教信仰の出発点となったのです。この復活された主イエスとの出会いということがなければ、主イエスの弟子たちがまさに命がけで、主イエスこそまことの救い主、神の子として宣べ伝えるということはなかったでしょう。そして何よりも、一人一人のイエス・キリストを信じる者の生涯を造り変え、慰め、励まし、導くということもなかったでしょう。主イエスの福音がこの日本にまで、この富山の地にまで伝えられることもなかったし、私共がキリストと共に生きるということもなかったはずです。私共が今朝このように主イエスの復活を喜び祝っている、このこと自体が、実は主イエスの復活の確かな「しるし」なのです。私共が主イエスの復活を喜び祝い、イースターの礼拝を守っているということは、私共も又、主イエスの復活の証人として召され、立たされているということなのです。
今朝私共に与えられている御言葉は、主イエスが復活された朝に起きた出来事を告げています。私共は、この御言葉を受けつつ、代々の聖徒たちと共に、この出来事は私にも起きたことだ、私も主イエスの復活の証人とされている、このことを改めて心に刻ませていただきたいと思うのです。
1節「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」とあります。他の福音書を見ますと、マグダラのマリアは、他の主イエスに従っていた婦人たちと共に、日曜日の朝早く、主イエスの御遺体に香料を塗る為に主イエスの墓に行ったと記されております。主イエスが十字架におかかりになり、息を引き取られたのは金曜日の午後の3時。当時の曜日の数え方では、金曜日の日没から土曜日、つまり安息日が始まります。安息日が始まれば何も出来ません。主イエスが息を引き取られてから日没まで、おおよそ3時間くらいしかなかったでしょう。ですから、当時の葬りの作法の一つであった、香料を塗るなどということをしている時間はなかったのです。主イエスの亡きがらは十字架から降ろされ、亜麻布に包まれて、あわただしくアリマタヤのヨセフという人の墓に納められたのです。マグダラのマリアたちは、その様子を見ながら、せめて香料を塗るぐらいのことはしてあげたい、そう思ったのでしょう。安息日が終わって、日曜日の朝早く、主イエスの墓に香料を持って向かったのです。ところが、主イエスの墓に蓋をしていたはずの石が取りのけてあり、主イエスの遺体はそこにはなかったのです。マグダラのマリアはうろたえました。そして、とっさにこう思いました。「誰かが主イエスの遺体を取っていった。」マリアは、そのことを主イエスの弟子たちの所に急いで報告に行きました。2節の半ば「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」とあります。この時マリアは、空の墓を見ても、主イエスが復活したとは悟らなかったのです。主イエスが復活するという予告は、主イエスの口から何度も聞いていました。しかし、それを信じてはいなかった。というよりも、その主イエスの復活の予告が、何を言っているのか分からなかったのだと思います。何を言われているか分からない。だから信じようがない。そういうことだったのではないかと思うのです。信仰とは、そういうものでしょう。分からなければ信じようがない。分かったという時は、もう信じているのです。分かったけれど信じられない。そういうことはないのです。ただ、分かり方、信じ方にもいろいろある。少ししか分からなければ、少ししか信じられない。本当に分かれば、本当に信じる。自分の存在をかけて分かれば、存在をかけて信じる。そういうことになるのだと思います。
マグダラのマリアの知らせを受けたペトロとイエスが愛しておられたもう一人の弟子、これは伝統的にヨハネと言われておりますが、二人は主イエスの墓へと急いで向かいました。墓に着いてみると、マグダラのマリアの報告通り、墓の中には主イエスの遺体を包んでいた亜麻布があるだけでした。しかも、体を巻いていたものと、頭を包んでいたものとは、少し離れた所にあったのです。このことは、主イエスの遺体が盗まれたり、他の所に運ばれたのではないということを示していました。遺体を運ぶのに、わざわざそれを包んでいた布を丁寧に外してから運ぶなどということはしないでしょう。しかも、体を巻いていた布と、頭を包んでいた布とが少し離れたところにあったということは、主イエスが御自分でこの布を外されたということを暗示しています。
ペトロとヨハネはこの空の墓を「見て信じ」ました。8節に「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」とあります。ここで二人は何を信じたのか。マグダラのマリアが言ったことを信じた。つまり、主イエスの遺体が誰かに取り去られたということを信じた。そのように読む人がいます。そのように読むと、次の9節の「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」という説明とすんなり続くからでしょう。しかし、私はそうではないと思います。この「見て、信じた」というのは、次の日曜日にトマスも共にいた時に、弟子たちに主イエスが復活の御姿を現された時に語られた29節の言葉、「見ないのに信じる人は、幸いである。」という言葉と対比になっているのであって、この時は「見て、信じた」しかし、まだ「見ないで信じる」というところには至っていなかったということを告げているのです。二人は、空の墓を見て信じた。主イエスが復活したというのは信じた。しかし、それはまだ、主イエスの復活という出来事が何であるのか、自分とどう関わるのか、そういうあり方では信じていなかった。そういうことではないかと思うのです。主イエスの復活ということを、二千年前にイエスという人が墓からよみがえったという遠い異国の昔々の話としてしか分からない、そのようにしか信じていない人は、この時の二人と同じでしょう。彼らは、まだ主イエスの復活ということを、本当に本当のところで分かっていない、信じていないのです。だから彼らは、この出来事を人々に伝えることなく、喜ぶこともなく、家に帰ったのです。彼らには、根本的なところで生まれ変わるということが、まだ起きていないのです。
ところがここで、復活の主イエスに出会い、根本的に変わってしまった人、本当に主イエスの復活が分かった人が出て来ます。マグダラのマリアです。彼女は主イエスの空の墓の前で立ちつくし、ただただ泣いていました。彼女は空の墓を見ても、ヨハネやペトロのように主イエスの復活を信じられません。ただ泣くしかなかった。そのマリアに天使が声をかけます。13節「婦人よ、なぜ泣いているのか。」しかしマリアは、天使に声をかけられているのに、その天使の存在などまるで目に入らぬように、きっと自分に声をかけているのが天使であるということさえ、目に入らなかったのではないかと思います。愛する者を失った時の私共は、しばしばそうなるものです。誰が何を話しかけても上の空。ただ悲しみと喪失感だけが支配する。マリアはこの時、死の力に完全に飲み込まれていたと言って良いでしょう。彼女は泣くしかなかった。それしか出来なかったのです。主イエスが十字架を担がされてゴルゴタへの道を歩んでいた時、主イエスが十字架の上で苦しんでいた時、主イエスが墓に葬られた時、彼女は何もしてあげられなかった。そして、せめて亡きがらに香油でもと思ってて来たのに、それさえも出来ない。彼女は主イエスが捕らえられた木曜日の夜から、この時までずっと泣くしかなかったのではないでしょうか。泣きはらした目をして、日曜日の朝、主イエスの遺体に香料を塗るという、とりあえずしなければならないことを見つけて、マリアは墓までやって来た。すると墓の中には主イエスの遺体がない。彼女は再び、何も出来ない、そういう状況に陥ったのでしょう。彼女は、ただ泣くしかなかった。誰が何を言っても耳に入りません。ただ悲しみと喪失感と虚脱感とが彼女を支配しています。天使たちの「婦人よ、なぜ泣いているのか。」という言葉に対しても、ただ「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」と言うだけです。そして、マリアは後ろを振り向きます。彼女は墓の前に立っていました。彼女の前には、暗闇の何もない主イエスの墓がぽっかりと口を開けていました。マリアは、その空の墓から後ろを振り返ったのです。何とそこには、復活された主イエスご自身が立っていたのです。しかし、マリアはそれが主イエスであることが分かりませんでした。今度は主イエスがマリアに声をかけます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」それでもマリアは気付かずに、墓の番人だと思ってこう言うばかりでした。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」そして、ついに主イエスはマリアに、いつも声をかけていたように名前を呼ばれました。「マリア」この一声で、マリアは目覚めたのです。死の悲しみと嘆きの支配から解放されたのです。そして、いつも主イエスと話していた時のように「ラボニ」と応えたのです。ラボニ。この時のマリアの声は、喜びにあふれたものに変わっていたと思います。歓喜のラボニ!です。
私は、この喜びのラボニとの言葉と共に、キリストの教会は立ち上がったのだと思っています。ラボニ、先生、という意味です。主イエスをラボニと呼ぶのは、自分が主イエスの弟子であるということです。この喜びのラボニの叫びと共に、復活の主イエスの教えに生き、復活の主にお仕えする者が誕生したのです。復活の主イエスは、私共に対しても、一人一人の名を呼んで出会って下さるのです。復活の主は、私共が捜して探して、やっと会えるというお方ではありません。復活の主イエスの方から、私共を捜し求め、私共と出会って下さるのです。主イエスは私の名が呼ばれ、私と出会って下さったのです。この人格的、霊的出会いこそ、私共の信仰の源なのでしょう。
私共は、この肉眼で主イエスの姿を見たことはありませんし、この耳で主イエスの声を聞いたことはありません。しかし、私共は主イエスの声、主イエスの御姿を知っている。主イエスと霊において出会い、主イエスを愛しているからです。私共が死んで、復活するとき、私共の耳元に主イエスの声が聞こえてくるのです。私共の名を呼び「○○よ、起きなさい」、そう告げられる主イエスの声を聞くのです。その時私共は、この声の主が主イエスであることが判るはずなのです。
マリアの主イエスへの思いはストレートです。彼女は、復活の主イエスにすがりつきました。この時彼女は、この目の前にいる主イエスが復活の主イエスであるということもピンと来ていなかったのではないかと思います。死んでしまったイエス様が、今、ここにいる。それだけでもう、マリアはうれしくてうれしくて仕方がなかった。そして、思わず主イエスにすがりついてしまったのだと思うのです。しかし、そのようなマリアに主イエスはこう告げるのです。17節「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」これは、十字架の上で死ぬ前の主イエスと目の前の復活の主イエスとを区別しようとしないマリアに対して、「私は父なる神のもとへ上っていく者だ。地上にあった時の私とは違う。もう以前のように直接触ったり、話したりすることで、私との交わりを保とうとしてはいけない。」そう言われたのではないでしょうか。これは、見ないで信じる信仰への促しであったに違いないと思います。「私は、死に勝利し、復活した。あなたはそれを見た。それ故、そのことの証人となれ。しかし、これからはあなたはもう私を見たり触ったり出来なくなる。それでも、あなたと私の交わりは続く。あなたが墓の前で泣いていた時、私はあなたの後ろに立っていた。私はあなたと共にいた。あなたはそれに気付かなかったが、私はあなたと共にいた。あなたは、これからそのことを信じて生きていくのだ。」そう言われたのだと思うのです。
そして、主イエスはマリアに、他の弟子たちに御自分が天の父なる神様のもとへ上っていくことを知らせるようにと告げたのです。ここで重大なことは、主イエスは弟子たちのことを「わたしの兄弟」と呼び、神様のことを「わたしの父であり、あなたがたの父」「わたしの神であり、あなたがたの神」と言われたということです。つまり、主イエスは弟子たちを御自分の兄弟とされたのです。そのことによって、私共は主イエス・キリストの父である神様を自分の父として、「アバ、父よ。」と呼ぶことが出来るようになったのです。主イエスの弟子たちは、そして私共は、主イエスの友である以上の存在、兄弟とされたのです。何という幸い、何という恵みでしょう。そうであるが故に、私共は父なる神様のもとにある永遠の命を、復活された主イエス・キリストと共に受け継ぐ者とされたのであります。
マリアは、弟子たちの所に行って、主に言われたことを告げました。そして、「わたしは主を見ました。」と告げたのです。数時間前、失意と歎きの中で「主が墓から取り去られました。」と告げに来たマリアとは別人のように、喜びと、平安と、自信に満ちたマリアがそこにはいました。彼女は生まれ変わったのです。もはや死の力は彼女を支配することは出来ません。マリアは復活の主イエスと出会い、主イエスの復活の力が彼女を覆ったからです。
私共もこのマリアと共に、「わたしは主を見ました。」と証しする者として集められています。もちろんマリアのように、この肉眼で復活の主イエスを見たのではありません。しかし、信仰の目を開かれ、自分と共にいて下さる主イエスと出会ったのです。私の名を呼ぶ主イエス・キリストの御声を聞いたのです。ここに、死さえも私共から奪うことの出来ない、喜びと平安と確信の根拠があるのです。
私共は今から聖餐に与ります。この聖餐に与るたびに、私共は私共の名を呼ぶ御子イエス・キリストの御声を聞き、これが私の体、これが私の血潮と、私共の前にパンと杯を差し出すキリストと出会うのであります。この恵みに与れる幸いを心から喜び、復活の主をほめたたえたいと思います。
[2009年4月12日]
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