1.知恵は神様が与えるもの
以前、大先輩の牧師からこんな話を聞いたことがあります。先の大戦の時のことです。当時キリスト教会は、戦争している相手の国の宗教、敵性宗教ということで、大変厳しい立場にありました。思想犯を取り締まる特別高等警察の刑事が牧師を取り調べたり、日曜日の礼拝には私服の刑事が見張りに来ている、そういう時代でした。そのような時代に、「天皇陛下とお前たちの信じている神はどちらが偉いのか。」という質問がよくされたそうです。今ならば、「わたしたちの神様は天と地のすべてを造られた神様で、天皇は人間ですから、比べるのは愚かなことです。(神様の方が上に決まっています。)」と答えるでしょうが、当時そんなことをあからさまに言えばすぐに「不敬罪」で刑務所に入れられてしまいます。実際、刑務所の中で何人もの牧師が命を落としたのです。そういうときに、ある牧師がこう答えたら良いと教えてくれたというのです。「天皇陛下とお前たちの信じている神はどちらが偉いのか。」と問われたなら、「そんな質問をしても良いのですか。天皇陛下を誰かと比較するなどというのは不敬ではないですか。」と答えれば良いというのです。そして、実際このように答えると、それ以上この問いには答えなくても済んだという話です。
この話を聞いて、皆さんはどう思われるでしょうか。きっと、あの時代を経験した人とそうでない人とでは、この話に対しての印象も随分違うのだろうと思います。中には、どうしてこのように逃げるような答え方をしたのか、堂々と答えたら良かったのにという意見もあるでしょう。しかし私は、これはぎりぎりの所で与えられた一つの知恵だと思いました。一休さんの頓知のような答えかもしれません。しかし、この問いにどう答えるか、ここに命がかかっている。そんな時代の中にあって、神様はこのような知恵をも与えてくださるものなのだと思わされたのです。
知恵と知識は違います。知識は本を読めば身につくでしょう。しかし知恵は、そう簡単には身に付きません。そもそも、知恵は神様が与えてくれるものという理解が聖書にはあります。旧約におけるソロモンの知恵はその代表的なものです。そして、主イエスが自分を陥れようとする問いに対しての答えの中にも、驚くべき知恵がたくさんあります。例えば、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。」と問われた時のことです。「税金を納めよ」と答えても「税金を納めるな」と答えても、主イエスは大変な窮地に立たされます。この時主イエスは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と答えられました(ルカによる福音書20章20〜26節)。これなどは、まさに神様からの知恵と言えるものでしょう。
窮地を脱するための知恵というものは、神様の具体的な助けの一つと考えて良いのだと思います。この神様が与えてくださる知恵というものは、私共にとって、信仰の筋道は曲げない、しかしそれをストレートに表現するのではなく、時と場合によっては自在に言い方を変えながら、この世の荒波を乗り越えていく、そういうものなのでしょう。これは、妥協するということとは違うのです。妥協は、流されていってしまいます。あくまで信仰の筋道を守る、そのための知恵です。私共にはこの知恵が必要なのだと思うのです。こう言っても良い。神様の導き、御支配というものを信じるが故に、私共は神様からの知恵を求めるのです。
2.鞭打たれる前に
先週の御言葉において見ましたように、パウロはエルサレム神殿における騒動が原因でローマ兵に助けられました。そして、ローマ兵がパウロを兵営に保護する直前に、パウロは、自分に対して「その男を殺してしまえ。」と叫ぶ人々に向かって証しをいたしました。自分の回心の出来事、そして自分が異邦人に向かって遣わされることとなった出来事を証ししたのです。しかし、このパウロの証しは、人々が主イエスの福音を受け入れるという結果にはなりませんでした。今朝与えられております御言葉において、22節に「パウロの話をここまで聞いた人々は、声を張り上げて言った。『こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。』」とあります。パウロの証しは人々の怒りを助長する結果となってしまったのです。多分、人々がこれ程までにパウロに対して怒りを発した理由は、異邦人もまた主イエスによって救いに与る者とされたということをパウロが宣べ伝えていたということではなかったかと思います。ユダヤ人にとって、ユダヤ人だけが神の民であり、ユダヤ人だけが神様の救いに与るということが、誇りだったからです。
ローマの千人隊長は、事態がいよいよ険悪になり、騒動が暴動にまで発展することを恐れて、パウロを兵営の中に入れました。しかし、千人隊長はこの騒動の原因が分かりません。そこで、どうしてエルサレムの人々がパウロに対してこれほどまでにわめき立てるのかを知るために、パウロを鞭で打ちたたいて調べるようにと百人隊長に命じたのです。パウロは両手を広げて縛られ、まさにローマ兵に鞭で打たれようとしたその時です。パウロはそばにいた百人隊長にこう言ったのです。25節「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。」これは決定的な一言でした。
3.ローマ帝国の市民
ローマの市民権を持っているということは、ローマの法律の保護のもとにあるということであり、具体的にはローマ皇帝の保護のもとにあることを意味したからです。ローマの皇帝というのは、ローマ帝国全体の皇帝でありますが、例えば中国の皇帝などとは成り立ちが全く違います。ローマは小さな都市国家から出発しています。その時代からの慣習・考え方が残っていて、ローマ皇帝というのは、形式的にせよ、ローマ市民によって選ばれた者だったのです。ですから、ローマ皇帝はローマ市民を守らなければなりません。ローマ市民はローマ皇帝のもとで裁かれる権利を持っていたのです。ローマの市民権というものは、ローマ帝国に住む人なら誰にでも与えられているというものではありません。特に、ローマ帝国によって征服され属州となった国の人々には、なかなか与えられません。兵隊になって辺境の防衛に長年勤めてやっと与えられる、そういうものでした。パウロがどうして生まれながらのローマ市民であったのかは分かりませんが、先祖がローマに貢献したということがあったのかもしれません。いずれにしても、パウロは自分がローマ市民であるという権利をここで行使したのです。
パウロにしてみれば、ローマの市民権を持っているということは、大して重要なことではありませんでした。ユダヤ人でありまたキリスト者であるということ、肉においてはユダヤ人であり霊においては天に国籍を持つ者であるということが、パウロにとっては何より大切なことでした。そのことをユダヤ人を相手に話してきたパウロです。しかし、ローマの千人隊長にしてみれば、逆にそれはどうでもよいことなのです。そこでパウロは、自分にとっては大して重要なことではないのですが、千人隊長や百人隊長に対しては最も効力のある、ローマ市民権というものを持ち出したのです。
私はこれは知恵の言葉だと思います。この一言によってパウロは鞭打ちから逃れることが出来たのです。ローマの鞭打ちは、それによって命を落としてしまうほどに激烈なものだったのです。しかし、パウロはこの一言で危機を脱することが出来たのです。しかもそれだけではありません。この一言が、結局パウロをローマにまで導くことになっていくのです。その成り行きはこれから見ていくことになりますけれど、この一言は、神様が与えた知恵なのだと私には思えます。23章11節に「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。』」とありますように、パウロをローマに連れて行きそこで証しをさせようという神様の御心が、この一言には働いていたからです。この一言、この知恵は、神様の御心によるものだったのです。
4.最高法院にて〜「良心に従って神様の御前で生きてきた」
さてパウロは、鞭を打って取り調べをすることが出来ない千人隊長によって、次に最高法院での裁判に臨むことになりました。この最高法院というのは、サンヘドリンと呼ばれる、70人から成るローマが認めたユダヤ人の自治組織です。主イエスもこの最高法院で裁かれました。パウロは主イエスが歩まれたのと同じ道を歩んでいます。ただ決定的に違うのは、主イエスはエルサレムにおいて十字架にお架かりになって、私共の一切の罪を赦すという救いの御業を為すことが神様の御心でありましたが、パウロはエルサレムで死ぬのではなく、ローマに行くことが御心だったのです。
パウロは最高法院に立ち、こう語ります。23章1節「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」このパウロの言葉もまた、聖霊の導きの中で与えられたと言うべき、実に堂々たる宣言です。パウロのこの言葉は、「生きる」ということが、「良心に従って」と「神の前で」ということによって規定されています。この宣言は、すべてのキリスト者にとって、生きるということはどういうことなのかを示しています。良心とは、良い心と書くのですが、この良心というものは実ははなはだ怪しいものなのです。自分に都合の良いことを良しとしてしまう心になりかねないのです。しかし、その「良心」が、「神の前で」と結びつきますと、本当に確かなものとなります。自分の都合や、自分の損得ではなく、神様の御心に従うことが正しいとする良心が私共の中に生まれるのです。神の御前に立つ良心に従って歩むパウロにとって、この世の権威などは少しも恐れるに足りません。彼は取り調べを受ける、いわば被告の身なのですが、少しも怖じ恐れることなく立つのです。
大祭司アナニアはそのようなパウロに対して、自らの権威を振りかざすように、パウロを黙らせようとして彼の口を打つように命じたのです。パウロは、大祭司アナニアに向かって、3節「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。」と告げたのです。「白く塗った壁」とは、お墓を指す言葉です。表面はきれいに塗られているが、内側は腐ったもので満ちている、そういう意味です。パウロは、大祭司アナニアが宗教的権威を振りかざしてはいるが、神様を少しも畏れてもいないし、神様に従ってもいない、死に至る罪のただ中にいる者だと見たのです。このパウロの言葉は無礼ではないかと思われる方もいるでしょう。確かに、この世の秩序から見れば無礼千万ということになるでしょう。しかしパウロは、ここで大祭司を侮辱するのが目的でこのように言ったのではないと思うのです。主イエスを知らず、これを認めようとしないあなたがたは、どんなに律法を守り、正しいことを行っているように見えても、結局は死の縄目から抜けることが出来ない、全き罪の赦しに与ることが出来ない者なのだということを宣言したのではないか、そう思うのです。
5.最高法院にて〜「死者の復活への望み」
そしてパウロは、6節「死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」と、議場に向かって大声で告げたのです。このパウロの言葉に嘘はありません。確かにパウロは、主イエスの復活により自分たちもまた復活するという希望が与えられたことを宣べ伝えておりました。私共が告白している「罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命」は、パウロが告げたことと同じです。しかし、ここでパウロは絶妙な言い方をしているのです。パウロは、この「死者の復活という希望」が「主イエス・キリストによって」のものであるとは語らないのです。もし、「主イエス・キリストによって」という一言を加えていたのであれば、最高法院の70名の議員たちは皆心を一つにして、パウロを石打ちの刑にするようにと判決を出したでしょう。しかし、この一句を加えないことによって、パウロはこの最高法院の70人の議員たちを一つにさせないことに成功したのです。パウロは、「主イエス・キリストによって」を語らず、単に「復活の希望」と言うことによって、70人の議員たちの中に議論を生じさせたのです。なぜなら、この当時のユダヤ教にはサドカイ派とファリサイ派という二つの大きな宗派があったのですが、この二つの派は復活をめぐって対立していたからです。
ちなみに、ファリサイ派というのは町の会堂を活動拠点としていた、庶民派です。彼らは口で伝えられた律法も重んじ、天使や復活を信じ、政治的にはローマ帝国の支配に反対している「反ローマ」の立場です。律法学者などはこれに属します。一方、サドカイ派というのは、エルサレム神殿を活動拠点とする大祭司や祭司長を中心とする人々です。当時の宗教貴族と言っても良いでしょう。エルサレムの支配階級です。彼らは、天使も復活も信じないし、目に見える書に記された律法しか認めません。そして、彼らは支配者階級ですから、政治的にはローマの支配を認める、現体制支持派でした。
このパウロの言葉によって、最高法院は、パウロをどうするかということよりも、復活をめぐっての議論の場になってしまいました。ファリサイ派の人の中には、パウロに対して、9節「この人には何の悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろうか。」とまで言い出すほどでした。結局、千人隊長はパウロをその場から助け出し、兵営に連れて行くことにしたのです。パウロはここでも知恵ある一言によって、また守られたのです。
6.神様に守られて
そしてその日の夜、パウロは神様から御言葉を与えられたのです。11節の言葉です。「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。』」主イエスはパウロに、「勇気を出せ。ローマでも証しをせよ。」と言われたのです。この主の言葉により、パウロが窮地を脱するために語った知恵ある言葉は、実は、神様がパウロをローマへ導くために与えたものであったということが分かるのです。神様はこの時、知恵ある言葉を与えることによってパウロを守り、そしてローマへとパウロを導かれたのです。
神様の守りというものは不思議なものです。誰にでも分かるような直接的なあり方で守られることもあるでしょう。しかし、それだけではないのです。時には、知恵ある言葉を与えることによって守られることもありますし、助け人を備えるというあり方で守ってくださることもある。自分に敵対する者にダメージを与えるというあり方で守られるときもある。そのあり方は千差万別です。しかし、私共が良心に従って神様の御前に生きようとする限り、必ずこの神様の守りがあるのです。私共はそのことを信じて良いのです。困難はある。荒波にもまれるような日々もある。しかし、神様は必ず守ってくださるのです。
詩編の詩人は、62編2〜3節で「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。」と告白しました。神様こそ、神様だけが私を守ってくださる方なのです。これは、良心に従って、神様の御前に歩んだすべての信仰者の告白でしょう。この告白を心に刻み、この一週も良心に従って、神様の御前を、神様に守られて歩んでまいりたいと心から願うのであります。
[2010年5月2日]
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