1.我ら少数者なれど
皆さんと一緒に使徒言行録を読み進みながら、私の中に何度も思い浮かんだことがあります。それは、ここに記されていることは現在の日本における私共と同じだという思いです。まだ生まれたばかりの小さな群れにすぎないキリストの教会。ギリシャ・ローマの多神教、迷信、呪術、そういうものに囲まれながら、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を宣べ伝えていく弟子たち。主イエスの復活を語れば、何を馬鹿なことを言っているのかと相手にされず、同胞のユダヤ人たちからも異端の扱いを受ける。しかし、それでも伝道していく。神様は、そのような主イエスの弟子たちを祝福し続けたのです。確かに、現在の日本において、キリストの教会が直接的な迫害を受けるということはありません。しかし、小さな群れとして伝道の困難な現実に直面していることには変わりありません。私共が生活している日常の中で、キリスト者と出会うということはほとんどないのではないでしょうか。会社で、学校で、地域社会の中で、私共は圧倒的に少数者です。家族の中でさえ、自分だけがキリスト者であるという人もいるでしょう。私も結婚するまでそうでした。
そのような状況の中で、私共がキリスト者であるということは、どういう意味があるのか、考えさせられるのです。だから伝道していかなければならない。それはそうでしょう。しかし、私共はこの現代日本の社会においてまことに小さな群れにすぎないのですけれど、圧倒的多数のキリストをまだ知らない人たちの救いについて、私共は責任を負っているということを忘れてはならないと思うのです。私共は今朝もここに集い、主の日の礼拝を守っております。それは、この富山に住んでいる、まだキリストを知らない多くの人々に代わって、その人々のために、その人々を代表して礼拝しているということです。そのことを忘れてはならないのです。私共を除いて、いったい誰が、まだキリストを知らない多くの人々のために祈るのでしょう。まことの神様に向かって、それらの人々のために祈るのは、私共以外にいないのです。私共は、ただ自分が救われれば良いというような所で、信仰の歩みを為しているのではないのです。私共は信仰を与えられました。私共自身は救われ、永遠の命へと導かれていきます。ありがたいことです。しかし、「それが全て」ではないのです。私共は、「自分だけが救われれば良い」、そんな所には生きてはいないのです。私共が愛するあの人この人が救われて欲しい。私共の家族、知人、友人、会社の同僚、みんな救われて欲しいのです。皆、神様に愛され、生かされている者たちだからです。いや、私共はただ救われて欲しいと願うだけではないのです。神の子・神の僕とされた者として、先に救われた者として、まだキリストを知らない人々の救いが、実に私共に掛かっているのです。それほどに、私共は神様の目から見て、重要な存在なのです。
2.神様の救いの御業に巻き込まれ
使徒パウロを乗せた船が、エウラキロンと呼ばれる暴風に巻き込まれ、漂流し始めて14日が過ぎました。この船には276人の人が乗っていましたが、キリスト者はパウロとアリスタルコ、それにこの使徒言行録を記したルカの3人くらいだったと思います。つまり、キリスト者はこの船に乗っていた人たち全体の約1%でした。それはちょうど日本におけるキリスト者の割合と同じです。この船に乗った人々は皆、自分たちはとても助かる見込みはないと思うほどに追い込まれておりました。2週間もの間、海の上を漂うだけの状況に置かれれば、誰もがそう思うでしょう。エンジンも付いておらず羅針盤もない二千年前の船です。もう海の藻屑となるのは時間の問題、誰もがそう思っておりました。しかし、その船にはまことに少数ではありましたが、キリスト者がいたのです。
パウロは神様からこのような言葉を受けました。24節「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。」先週申しましたように、「皇帝の前に出頭しなければならない」というのは、「神様の御計画の中で、皇帝の前に出頭することになっている」という意味です。そういうことになっているのだから、海の藻屑となることはない。だから恐れるな、と主の天使はパウロに告げたのです。今日、注目したいのは、その次の天使の言葉です。「神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。」と天使は告げたのです。パウロがローマ皇帝の前に出頭する、それが神様の御計画であるということは、既にパウロがエルサレムで捕らえられた時ですから2年以上前ですが、23章11節で「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」との言葉を主から受けておりました。しかし、神様はここで、「だからパウロだけは助かる。」とは言われなかったのです。そうではなくて、この船に乗っているすべての人をパウロに任せた、と言われたのです。つまり、パウロを助けるという神様の御計画の中に、この船に乗っている人々を巻き込み、共に助かるようにする、そう神様は決められたのです。私はここに、圧倒的少数者であるキリスト者の存在意義、そして責任というものを思わされるのです。もし、この船にパウロたちが乗っていなかったら、この船とそれに乗った人々は遭難して、海の藻屑となってしまうことになったでしょう。しかし、そうならない。それは、パウロたちがいたからなのです。
このことは、創世記18章16節〜19章にあります、ソドムの町の滅亡に関しての記事を思い起こさせます。ソドムの町のために、アブラハムは神様とやり取りをいたします。アブラハムは神様に、もしソドムの町に50人の正しい者がいるならば、その者たちのためにソドムの町を滅ぼさないでくださいと願います。神様はそれを良しとされます。アブラハムは更に、50人を45人に、45人を40人に、40人を30人に、30人を20人に、そして遂に20人を10人にまで減らしました。神様は、ソドムの町に10人の正しい者がいれば滅ぼさないと約束なさったのです。しかし残念なことに、ソドムの町にはその10人さえおりませんでしたので、ソドムの町は滅ぼされることになってしまいました。私は、このソドムの町の命運を握っていた正しい10人という存在、それが私共キリスト者なのだと思うのです。もちろん、私共は自分たちがそんなに立派な者だと思っているわけではありません。しかし、「信仰によって義とされる」ということは、私共が立派であるかどうかということではなくて、神様が私共を信仰によって、主イエスの十字架の御業によって、義と認めてくださるということでしょう。神様は私共を正しい人と見てくださるということです。とするならば、もし私共がソドムの町にいたのならばソドムは滅ぼされることはなかったということになるのではないでしょうか。
神様はパウロに対して御計画を持ち、それに巻き込むようにしてこの船の人々を救われました。それと同じように、私共にも神様はその救いの御計画の中で役割を与えておられます。そして、その役割を果たすことが出来るように、神様はその全能の力を用いてくださり、私共一人一人を守り、支え、導いてくださっているのです。その神様の救いの御業に巻き込まれるようにして、まだ主イエスを知らない人々も救われていく。そういうことが起きるのであります。
3.全員を助けるために
さて、パウロたちの乗った船は14日間もの間、海の上をさまよいました。そして、陸地に近づいたのです。何もない海の上を漂って陸地に近づくということ自体、ほとんどあり得ないほどの幸運ですが、ここにも神様の働きというものが背後にあったと考えるべきでしょう。
ここで海の深さの単位としてオルギィアという言葉が使われておりますが、口語訳では「尋(ひろ)」という訳が使われておりました。オルギィアという長さの単位は、大人の人が両手を広げた指先から指先までの長さで、1.85mということになっています。だから、「尋」という訳がピッタリなのです。この「尋」という単位は、漁師さんの間では今も使われている言葉です。釣りをする人も使っています。海の深さが「5尋」とか「3尋半」といった具合です。
20オルギィアというのは37mです。更に進んでから測ると15オルギィア、約27mでした。時は真夜中でしたので、これ以上浅瀬に行くのは、船が暗礁に乗り上げてしまう危険があります。そこで錨を4つ投げ込み、夜が明けるのを待ちました。ところが船員たちは、これほどの浅瀬に来たのなら陸地はもう近いということを確信していたのでしょう、何と彼らは錨を降ろすふりをして、小舟を海に降ろしたのです。自分たちだけ助かろうとしたのです。大きな船は、きちんとした港がなければ陸地に着けることは出来ません。そのような港が運良くあるとは考えられないことです。どうしても助かりたいと思った船員たちは、自分たちだけが小舟で陸地に向かおうとしたのです。ここでパウロが語ります。31〜32節「パウロは百人隊長と兵士たちに、『あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない』と言った。そこで、兵士たちは綱を断ち切って、小舟を流れるにまかせた。」船員がいなくなれば、たとえ陸地が見えても、船をその陸地に近づけることが出来ません。パウロは、この船に乗っている人全員を助けることを、自分の責任として引き受けていたのです。「一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。」という主の言葉を受けていたからです。
私は、この時のパウロの思いを、私共も受けとめなければならないと思います。私共は自分さえ救われれば良いなどと考えてはならないのです。私共には、この船に乗った人全員を救う責任があるのです。私共は神様に愛されております。しかし、神様はキリスト者だけを愛されているわけではないのです。キリストを知らない人もまた、神様によって造られた者なのです。その人たちの救いのために、私共は祈り、語り、為すべきことを為していくのです。
4.生きるために食べよ
夜が明けると、パウロは一同に食事をするように勧めました。パウロは言います。33〜34節「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」このパウロの勧めは実に具体的であり、現実的であります。食べなければ体力がもたない。力が出れば、生きる力も希望も出て来る。パウロは「あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはない。」と明言するのです。そして、パウロ自身も食べて見せたのです。そこまでは書いていないのですが、私はこの時パウロはムシャムシャ食べたと思います。生きる意志、希望、それがみなぎっているような食べ方だったと思います。だから、それを見た人々は、元気になって食事をし始めたのです。生きる希望を失っている人々が、自分も同じ状況の中におりながら全く希望を失わず食事をするパウロの姿を見て、元気づけられたのです。この社会におけるキリスト者の存在とは、こういうものなのだと思わされるのです。
ところで、この時のパウロの食事ですが、35節に「こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。」とあります。ここには聖餐を指し示す言葉が使われています。この時代の聖餐というのは、今私共が行っているのと同じ形ではなかったと思いますけれど、この時のパウロの食事が、主イエスの御臨在のもとでの、主イエスの命に、主イエスの力に、主イエスの希望に与る食事であったことは間違いないでしょう。このことは、私共は人生の旅において、この聖餐に与ることによって、力を得、希望を得、髪の毛一本も失うことはないという主イエスの守りを信頼して、明日への生きる力を得ていくということを示しているのでありましょう。そして、その私共の姿を見て、同じ状況にあるキリストを知らない人々もまた、生きる元気を取り戻していくのであります。
5.神様は主イエスを信じない人にも働きかけて
朝になりますと、どこかは分かりませんが、はっきりと陸地が見えてきました。船は砂浜に向かって進みます。しかし、浅瀬に乗り上げて、船は動かなくなってしまいました。まだ嵐の後の波が収まってはいませんでしたので、波が船に激しく当たり、船尾から壊れ始めました。
ここで、もう一つの問題が起こります。42節「兵士たちは、囚人が泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、」とあります。囚人たちを護送するのが兵士たちの役目です。ここで囚人たちに逃げられれば、自分たちの責任が問われます。ここでも、自分のことしか考えられない人間の罪が顕わになります。しかし、神様が働かれます。ここでの神様の働きかけは、見た目には分かりません。神様は、百人隊長の心に働きかけてくださったのです。43節「百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。」とあります。船がエウラキロンに巻き込まれてからのパウロの自信に満ちた慰め、助言、そして必ず助かるという預言。そしてその通りに事が運んでいく。その一連の流れを見てきた百人隊長の心の中に、パウロを助けたいとの思いを起こさせたのです。きっと百人隊長は、パウロが神様の言葉を語り、神様のご用をする、何か特別な人だと感じ始めていたのだと思います。百人隊長は、はっきりと信仰が与えられたわけではありません。しかし神様は、その御心を成就するために、キリストを知らない人の心にも働きかけ、その人を用いられるのです。百人隊長は、パウロが殺されないようにと、本人は意識していなかったでしょうが明らかに神様の御計画の中で働き、用いられたのです。
この日本の社会において、私共は圧倒的少数者です。しかし、全能の神様の御手は大きく、キリストを知らない人にも働かれ、その救いの御業を成就していくということを私共は知らなければなりません。そうでないと、私共は神様の救いの御業のスケールを、自分たちの小ささに合わせて考えてしまうのです。しかし、神様は大きいのです。
ついに船に乗っていたすべての人、276人全員が無事に上陸しました。全員が無事にです。パウロだけではなかったのです。この出来事は、私共が、この日本に住む人々全員、この富山に住む人々全員が無事に神の国へたどり着くことが出来るように、為すべき事を為し、祈りをささげていく責任があるということを私共に教えているのです。この実に壮大な神様の救いの御業の中で、私共は先に救いに与ったのです。私共に与えられている責任を、小さくしてはなりません。神様は大きいのですから。
この大いなる神様の救いの御手の中に生かされて、この日本に住む人々、富山に住む人々が神様の救いに与る日が来ることを信じ、この一週も神様の御国に向かって歩んで参りたいと思います。
[2010年7月11日]
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