富山鹿島町教会

礼拝説教

「栄えるべき方は誰か」
詩編 34編1〜11節
ヨハネによる福音書 3章22〜30節

小堀 康彦牧師

1.主イエスが定められた聖礼典
 神様はその救いを実現するために、見えるあり方で私共が与る恵みの手段を与えてくださいました。それを聖礼典、サクラメントと申します。私共の教会は、この神様の恵みの手段としてのサクラメント、聖礼典を、洗礼と聖餐の二つとしています。ローマ・カトリック教会では七つとしているのですが、私共は宗教改革以来二つです。それは、この洗礼と聖餐だけが、主イエス・キリスト御自身が行われたこと、主イエス御自身が定められたこととして聖書に記されているからです。聖餐は、最後の晩餐の場面において主イエスが定められたことが明確に記されています。そして、洗礼については、主イエスが復活されて弟子たちを遣わされた時に明示されました。マタイによる福音書28章19〜20節で、主イエスは「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われました。ここで、洗礼を授けるようにと主イエスは弟子たちに命じたわけですが、ここでは「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けるようにと命ぜられていますか、それをどのように行うのか、それは示されておりません。しかし、それは弟子たちにとっては、言われるまでもなく分かっていたことでした。何故なら、主イエスの弟子たちは、主イエスと共に洗礼を授けたことがあったからです。それが今朝与えられた御言葉において示されています。ですから、この箇所は、主イエスが弟子たちと共に洗礼を授けていたことを示す、とても大切な所なのです。
 そもそも、主イエス・キリスト御自身が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。ですから、洗礼というものは、受けても受けなくてもどちらでも良い、そういうものではないのです。今朝与えられております御言葉は、主イエスとニコデモとの対話の後になりますが、この主イエスとニコデモとの対話の中心になっていたのは、「新たに生まれる」「水と霊とによって生まれる」「霊から生まれる」ということでした。そうでなければ神の国に入ることは出来ない、救われない、と主イエスは言われたわけです。この「新たに生まれる」「水と霊とによって生まれる」ということが、洗礼を受けることであると明示されているわけではありません。しかし、「水と霊とによって生まれる」と言われれば洗礼のことを思い起こすのは、キリストの教会に集っている者ならば当然のことでありましょう。そのように読んで良いのです。
 ヨハネによる福音書の書き方は、一つの言葉にいくつもの意味を持たせて、一つの意味での話が終わると、もう一つ別の意味の方に話を展開して繋げていく。話が一つ一つ明確に区切られていくのではなくて、区切られはしていても繋がっている。チェーン、鎖のように繋がっていく。そういう書き方をしています。ですからここでも、主イエスが弟子たちと洗礼を授けていたという場面に行く前には、主イエスとニコデモとの対話の中で、洗礼のことが暗示されていたわけです。

2.本家争い?
 さて、主イエスと弟子たちが洗礼を授けておりました時、洗礼者ヨハネもまた洗礼を授けておりました。洗礼を授けることで言えば、ヨハネの方が早くからやっていたわけですから、洗礼者ヨハネが洗礼を授けていると主イエスも洗礼を授け始めた、と言うべきなのでしょう。
 ここで、主イエスの洗礼と洗礼者ヨハネの洗礼の、どちらが清める力があるのかという論争が起きたというのです。25節「ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。」とありますが、ここで「あるユダヤ人」というのは、文脈から考えて、主イエスの洗礼を受けた人ではなかったかと思います。何とも愚かしいことだと思いますけれど、これが私共の現実でありましょう。いわゆる本家争いというようなことでありましょう。日本中、名物と言われるものには、必ずと言って良いほど、元祖○○とか本家○○というのがあります。私などは、美味しければ何でも良いと思ってしまうのですけれど、売っている方とすれば、自分の所こそがという思いがあるのかもしれません。もっとも、単なる客寄せということなのかもしれません。
 これが名物の団子の話ならば笑って済ませますけれど、洗礼の有効性などという話になりますと、穏やかではありません。26節「彼らはヨハネのもとに来て言った。『ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。』」この「彼ら」というのはヨハネの弟子のことです。ヨハネの弟子が、師であるヨハネのもとに来て言うのです。「ヨルダン川で洗礼を授けていた時に一緒にいた人、あなたが洗礼を授け、『神の小羊』と証ししたあの人が洗礼を授けています。しかも、みんながあの人の方へ行っています。こっちには人が来ません。どうしたら良いのでしょう。ヨハネ先生、こんなことになって、何とも思わないのですか。」
 このヨハネの弟子の気持ちは分かります。いわゆる妬み心です。人間とは不思議なもので、他の人が成功したり豊かになっていったりすると、素直に喜べない。妬み心が起きてしまうのです。昔から「隣りに蔵が建てば腹が立つ」と申します。ローマの信徒への手紙12章15節に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」とあります。この聖句が好きだという人は多いと思いますが、それは、こうありたい、自分もこうしたい、と思うからでしょう。しかしそれは逆に言えば、これがどれほど難しいかを私共は知っているということでもあると思います。

3.妬み心を超えて
 ヨハネの弟子たちは、たくさんの人々が主イエスの方に行くのを見て妬んだのです。しかし、ヨハネはそうではなかった。彼は、自分が何者であり主イエスは誰であるか、自分がしていることは何なのか、どこを目指しているのか、そのことを良く弁えていたからです。このことを順に見ていきましょう。
 27節「ヨハネは答えて言った。『天から与えられなければ、人は何も受けることができない。』」ヨハネは、自分が授けている洗礼というものが、洗礼を授ける自分の力で人々を清めていく、そういうものではないことを良く知っていたのです。神様が自分に力を与え、神様が洗礼を通して働いてくださり、神様が洗礼を受けた者を清めるのでなければ、何も起きはしない。そのことをヨハネは良く知っていたのです。ですから、主イエスの洗礼と自分の洗礼のどちらが本当に清める力があるかを論じること自体、意味がない、ヨハネはそう言ったのです。ヨハネの弟子たちは、自分の先生であるヨハネと主イエスとを比べて、ヨハネは自分の先生ですから、当然ヨハネの方が優れているし、洗礼だってヨハネの方が力がある、そう思いたかったし、そう主イエスの弟子たちに言ったのだろうと思います。しかし、ヨハネは、そんな論争自体に意味がないと言ったのです。ヨハネの弟子たちは、人を見て、人と比べるというところにいます。だから妬み心が生まれるのですが、ヨハネはただ神様を見ています。確かに自分は洗礼を授けているけれど、それは神様の道具、神様の御業の器としてお仕えしているに過ぎない。そのことをヨハネは良く弁えていたのです。
 次に、28節「わたしは『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。」洗礼者ヨハネは、今までも「自分はメシアではない」と言って来ました。ヨハネによる福音書1章19節以下にありますように、ヨハネは、「自分は救い主、メシアのために道を備え、その方を指し示し、証しする者である。私はその方の履物のひもを解く資格もない。私は水で洗礼を授けるが、その方は聖霊によって洗礼を授ける。」と告げ、主イエスを「神の小羊」、来るべき方として証ししたのです。ヨハネは、自分はまことの救い主である主イエスのために道を備える者であることを良く知っていた。だから、自分の弟子たちが主イエスと自分を比べることは何の意味もないし、その結論は決まっている。主イエスが主であり、自分はこの方を指し示す声でしかない。それがヨハネの最初から分かっていた結論なのです。そして、1章35節以下で、アンデレがヨハネの弟子から主イエスの弟子となったように、今は私の弟子であるあなたがたも、やがてそうなる。そのことによってあなたがたは、私ヨハネが誰であり、主イエスが誰であるかを証しするようになる、と言ったのです。
 これを聞いたヨハネの弟子たちは、少しがっかりしただろうと思います。自分の先生が一番だと思っていた。だから論争もしたのでしょう。それなのに、その先生自身が主イエスに対してこのように言われる以上、もう仕方がないとも思ったでしょう。彼らは、この時まだ、自分が何者であるかということを、洗礼者ヨハネのように明確に分かってはいなかったのです。自分が何者であるか、それ故に何を為す者なのか。それは神様から教えていただき、示していただかなければ分かりません。それが召命ということです。洗礼者ヨハネはこの召命に忠実に生きたのです。しかし、ヨハネの弟子たちはこの時まだ、神様の召命によって生きるというところにしっかり立つこと、そこに生き切るということが出来なかったのです。だから、人と比べてしまうのです。どっちの方が人数が多いとか人気があるとか、そんなことで優越感を持ったり、逆にひがんだりするのです。
 これは私共の中にもあるものです。教会の規模や会堂の立派さで、優越感を持ったり逆に羨んだりということがある。大きな立派な教会のメンバーであるということは誇らしいことでしょう。しかし、そのことと、その人がどれほど御心に適うキリスト者であるかということは、何の関係もないのです。人と比べるのではなく、自分に与えられた召命に忠実に生きる。それこそ、私共にとって何よりも大切なことなのです。

4.自分が衰えても、なおも喜べる幸い
 29節は少し説明が必要でしょう。ここには、当時の結婚式の様子を用いたたとえが記されています。当時の結婚式においては、介添人が花嫁を実家から花婿のところに送り届けるのです。隣の村へという場合もあるでしょうし、少し遠いところへという時もある。介添人にとって、花嫁と一緒にいることは嬉しいことには違いありませんけれど、それが自分の役割でないことは知っています。介添人は、花嫁を無事に花婿のところに送り届けることが出来て、花婿が花嫁を見て喜びの声を上げた時、自分の責任を無事に果たせたことを喜ぶのでしょう。このたとえにおいて、花嫁はユダヤの人々、花婿は主イエス、介添人が洗礼者ヨハネ自身のことを指しているのです。つまり、ユダヤの人々は今、続々と主イエスのもとに行っている。自分から離れて、主イエスのもとに行っている人もいる。しかし、私の役割は、人々をまことの救い主、メシアである主イエス・キリストのもとに連れて行くことだったのだから、このことを自分は大いに喜び、喜びで満たされている。そうヨハネは言ったのです。
 更にヨハネは、30節「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」と言います。この「ねばならない」というのは、神的必然といって、「神様の御心の中で、そうなることになっている」という意味です。主イエスは栄え、自分は衰えていくことになっている。しかし、私は大いに喜び、喜びに満たされている、と言ったのです。どうして、自分が衰えていくのに大いに喜ぶことが出来たのでしょう。それは、ヨハネのまなざしが天に向いていたからです。神様が自分に与えてくださった使命が果たせた。自分は召命に応えて走り切った。そして、神様が為してくださる救いの御業を自分は見た。だから大いに喜んでいるのです。彼の眼差しは、自分を超えて、やがて完成されていく神様の救いの御業を見ている。その神様の御業に仕えることが出来たことを、ヨハネは何よりも喜んでいるのです。
 これと同じ喜びを、私共は聖書の中で何人もの人に見ることが出来ます。例えば、ルカによる福音書の2章に出て来るシメオンです。彼は、生まれたばかりの主イエスをエルサレム神殿で抱いて、こう神様を賛美しました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」シメオンは高齢だったのでしょう。救い主に会うまでは決して死なないとのお告げを受けていました。彼は、この約束を信じ、ひたすら救い主を待ち続けたのです。そして、遂に主イエスと会った。会ったということは、もう死ぬということでもあります。しかし、シメオンは、もう死んでも良い、満足だ、救い主を見たのだから、と言うのです。シメオンの眼差しは、主イエスという救い主によってもたらされる、すべての人の救いを見ていた。それは自分の死の後に実現されることです。けれど自分の死を超えて、シメオンは、やがて実現される神様の救いの出来事をはるかに見据えて、喜んでいるのです。
 あるいはモーセです。彼はイスラエルの民をエジプトから導き出し、四十年の荒れ野の旅の末、もう一歩で約束の地、旅が終わろうとする時に生涯を閉じます。神様は、モーセをネボ山に上らせ、イスラエルの民に与えられるカナンの地を見渡させます。その上で、「しかしあなたは、あの土地に入ることは出来ない。この山で死なねばならない。」と告げます。そして、モーセはこの山で死ぬのです。約束の地を目前にしながら、その生涯を閉じるのです。彼は無念だったでしょうか。そうではないのです。彼は、自分が死ぬ前にイスラエルの人々を祝福するのです。恨み言を言うのではなく、祝福するのです。たとえ自分が入ることは出来なくても、彼の目には、自分が導いてきたイスラエルの民が入る約束の地が示されたからです。自分の人生がどこに向かっていたものであるのかを、彼はその目ではっきりと見た。そこに彼の喜びがあったのです。
 私共もそうなのです。私共は皆、例外なく衰えていくのです。しかし、私共の後には、神様の救いの御業が継続していくのです。主イエスの御名が崇められ続けていくのです。私共の希望はそこにあります。私共が死んだ後なお、神様の救いの御業はとどまることなく前進していくのです。それが私共の喜びなのです。
 私共の喜びは、この世での富や栄達や名声にあるのではありません。私共の喜びは、私共の小さな生涯が、神様の救いの御業に用いられるということにあるのです。この喜びに生き切る者として、この一週も主と共に、御国に向かって歩んでまいりたいと心から願い祈りたいと思います。

[2011年5月22日]

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