富山鹿島町教会

礼拝説教

「父の家」
詩編 84編2〜13節
ヨハネによる福音書 14章1〜6節

小堀 康彦牧師

1.天国に入る約束
 詩編の詩人は「いかに幸いなことでしょう、あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら。」(詩編84編5節)と歌いました。この「あなたの家」とは、文字通りにはエルサレムの神殿を指していると読めますが、もちろんそれだけではありません。父なる神様との親しい交わりにあるならば、それこそ無上の喜び、無上の幸いと歌っているわけです。この詩編の詩人が求めてやまなかった父なる神様との永遠の親しい交わりこそ、主イエス・キリストによって私共に与えられている救いの恵みなのです。
 私共は、世界を造り、自分を造ってくださった父なる神様を知りませんでした。知りませんでしたから、この方に感謝をささげることもありませんでした。それどころか、様々な像を造っては、これを神として拝み、その前にひれ伏しておりました。しかし、そのような私共を神様は憐れんでくださり、愛する独り子を私共に与えてくださり、私共のために、私共に代わって十字架にお架けになり、その尊い血潮をもって私共をサタンの手から救い出し、御自分の子として迎えてくださいました。私共は、天地を造られた神様に向かって、「アバ、父よ。」と呼び奉ることが出来るようになりました。私共は、詩編の詩人が無上の喜びとして求めてやまなかった、救いの恵みに与っているのです。まことにありがたいことです。そして、この父なる神様との親しい交わりという救いの恵みは、この地上の歩みにおいて完結するものではありません。この地上の命が終わった後も続くのです。続くというよりも、更に完全な交わりに与ることが出来るようになると言って良いでしょう。いわゆる天国に入るということです。このことを主イエス・キリスト御自身が約束してくださいました。それが今朝与えられている御言葉です。

2.葬式のためではなく 
 このヨハネによる福音書14章1〜3節は、キリストの教会の歴史の中で、しばしば葬儀において読まれてきました。私も、納棺式、前夜式、葬式、あるいは召天者記念礼拝などで読み、この主イエスの約束を信じて慰めを受けることを祈ってまいりました。それはまことに適切なことです。しかし、そのような特別な時に読みますと、目の前に愛する人を失った方がおり、どうしてもその方を慰めるために語るということになりまして、この聖書の箇所をその面からだけ読むということになってしまいます。もちろん、主イエスは葬式のためにこのことを語られたわけではありません。主イエスはこの時、御自身の私共がこの地上の歩みを為していく上で、どうしても知っておかなければならないことを語られたわけです。それをちゃんと聞き取りたいと思います。
 この言葉が告げられた場面は、主イエスが十字架に架けられるために捕らえられるほんの数時間前のことです。弟子たちと、いわゆる最後の晩餐をした時のことです。主イエスはこの時、ペトロが三度自分を知らないと言うことを予告されました。その直後に、1節「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と語られたのです。主イエスはこの数時間後に自分が捕らえられる、そして十字架に架けられる、そのことを御存知でした。そしてその時、弟子たちが恐れ、弱り果ててしまうことも御存知でした。その象徴的な出来事が、ペトロの三度否みという出来事です。

3.心を騒がせるな
 主イエスはここで、御自身が捕らえられ十字架に架けられることによって動揺するであろう弟子たちのために、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と告げられたのです。
 私共は今まで何度も「心を騒がせるな」「心配するな」というような言葉を語ってましたし、何度も聞かされてきたことと思います。しかし、「心を騒がせるな」という励ましの言葉は、多くの場合、気休めの言葉となってしまいます。何故なら、「心を騒がせるな」「心配するな」「動揺するな」、そんな風に言われても、それで落ち着いていられるくらいなら苦労はしません。しかし、ここで語られたのは主イエスです。主イエスは、私共が心騒がす者であることを良く御存知でした。そして言われたのです。「神を信じ、わたしを信じなさい。」神様を信じる、主イエスを信じる。これだけが、私共が心騒がす時に有効な、力ある、確実な道であるということです。私共が心騒がす理由はいろいろあるのです。家族のこと、病気のこと、老いのこと、生活のこと。次から次に現れてきます。心配事が尽きることはありません。もちろん、そのために備えられることは備えておいたら良いのですけれど、これだけ備えたから安心ということにはならない。実に人間とは厄介なのです。
 しかし、そのような私共に向かって、主イエスは「神を信じ、わたしを信じなさい。」と言われました。神様の何を、主イエスの何を信じろというのでしょうか。それは、神様の御支配、主イエスの御支配、そして神様の愛、主イエスの愛です。主イエスが捕らえられ、十字架にお架かりになる。そのことは、「主イエスが神の子、救い主ではなく」、それ故「神様の守りも導きも何もない裸の状態」になってしまったということを意味します。また、「自分たちの今までの日々は何だったのか。」「自分たちのこれからはどうなるのか。」そのような不安や恐れに弟子たちが襲われることを、主イエスは御存知だったのです。そして、私共がそのように思い、そのように感じる時、それでもなお、否そのような時こそ神様の御支配を信ぜよ、主イエスの愛を信ぜよ、そう告げられたのです。確かにあなたたちの目には、すべてが終わってしまったかのように、すべては空しいことのように、神様なんているのか、そのように見えることに出くわすことがあるでしょう。しかし主イエスは、「このような時においても、神様の救いの御業は前進しており、主イエスの愛は少しも変わることなくあなたがたに注がれている。これがあなたがたに与えられている恵みの事実なのだ。そのことを信ぜよ。」そう告げられたのです。
 信じ難い時に信じる。神様の御支配、主イエスの御支配を信じ、神様の愛、主イエスの愛を信じる。それが私共に求められている信仰なのです。そうは言っても、やっぱり弟子たちは主イエスが捕らえられた時、十字架に架けられた時、心を騒がせたのではないか。その通りです。彼らはまだ復活の主イエスと出会っていなかったからです。目に見える命しか知らなかったからです。しかしこの後、彼らは復活の主イエスと出会い、変えられていきました。そして、この主イエスが語られた御言葉、「心を騒がせるな。神を信ぜよ。主イエスを信ぜよ。」をもって、本当にここにだけ一切の不安と恐れに打ち勝つ道があり、ここにこそ自分たちのすべてを注ぎ込むことが出来る真実があることを告げる者となり、この言葉の中に生きる者となったのです。教会は、この言葉と共に歩む者の群れなのです。

4.永遠に主イエスと共にある
 さて、主イエスは2〜3節で「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」と告げられました。「わたしの父の家」とは、天の父なる神様の家ということです。そこには住む所がたくさんあるというのです。ほんの一握りの人たちのためだけではなく、たくさんの人のための場所です。その場所は、神を信じ、主イエスを信じる者に用意されているのです。
 神様を信じるということと主イエスを信じるということは分けられません。6節「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」と言われているとおりです。主イエスを信じることがなくても、神様を信じることはあるのではないか。そう考える人もいるでしょう。確かに、天地を造られた神様を信じると言っている宗教はたくさんあります。日本の最近出来た宗教は、大抵そう言っています。しかし、その神様は、主イエス・キリストを通して知っている神ではありませんから、単なる神様という概念、観念に過ぎず、それは平気で偶像になったりします。それに、主イエス・キリスト抜きに神様を信じるということは必ず、罪人である人間が自分の努力、修行を通して善き人となり、その善き業によって天国に入ろうとすることになります。しかし、それが出来るくらいなら主イエスの十字架は要らないのであって、イエス様を送ってくださった神様の御心と真っ向から対立することになります。
 そして、何より大切なことは、ここで主イエスが「あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」と告げられていることなのです。天国と言いますと、私共はすぐに、自分の愛した人と会える、そんな風に考えてしまう所があります。そういうこともあるでしょうけれど、この天の父なる神様の家において会うことの出来る第一の喜びは、主イエス・キリストと共にいることが出来るということなのです。主イエスがおられない所で、この地上で共に過ごした愛する者と永遠に共に生きるとすれば、それは天国どころか地獄になりかねません。「私の言うことをちっとも聞いてやしない。」そんな不平を永遠に続けることになるなど考えたくもないでしょう。主イエスが共におられる。主イエスの全き愛の御支配の中に生きる。父なる神様と、顔と顔とを合わせてまみえる。心から主をほめたたえ、主イエスのように愛し、主イエスのように仕える者として生きる。それが、天の父なる神様の御許において、私共に用意されていることなのです。

5.戻って来られる主イエス
 さて、主イエスがここで「あなたがたのために場所を用意しに行く」と言われたことは何を指し、「場所を用意したら、戻って来て」と言われているのは何を指しているのでしょうか。普通に考えれば、主イエスは十字架にお架かりになる前に告げられたのですから、「あなたがたのために場所を用意しに行く」というのは、十字架にお架かりになることを指していることになるでしょう。そうすると、「戻って来て」というのは復活を指しているのか。そうとも単純に言えない所が、ヨハネによる福音書です。幾通りにも考えられるのです。
 実は、私はこの箇所について、困った思い出があります。まだ教師になりたての頃ですが、ある家庭集会でヨハネによる福音書を学んでおりました。そして、この箇所の学びの時に、この「戻って来て」というのは、「復活」なのか、「聖霊として戻る」ということなのか、あるいは終末に再び来る「再臨」を指しているのか、出席している人たちの中で議論になったのです。しかし、私はその時、これはこうですと明確に告げることが出来なかったのです。今になれば、「その三通りの読み方が可能ですね。」と言って終わりなのですが、その頃はどれか一つにしなけりゃと思って、それでも出来なくて、牧師の自分が一番混乱してしまったことを思い出すのです。
 「復活」と理解しますと、主イエスの十字架によって罪赦された私共は、父なる神様の家に迎えられる道が与えられ、主イエスの復活は、主イエスが私共を迎えに来られて永遠の命へと招いてくださった時だと理解することになります。これはその通りでしょう。
 また、「再臨」と理解すれば、主イエスの十字架と復活によって救いへの道を備えられた私共が、神様を信じ、主イエスを信じる信仰によって、終末に新しい天と地が造られ、そこで父なる神様と主イエスと共に、永遠の交わりに生きることになることを指していると理解出来ます。これもその通りでしょう。
 そして、これを「聖霊として来られる」と理解しますと、主イエスの十字架・復活・昇天の一連の出来事によって、私共に天の父なる神様のもとに場所が用意され、その場所に導くために主イエスが聖霊として私共の上に臨まれることを指すことになります。これもその通りでありましょう。この理解は、14章15節以下あるいは16章において、主イエスが「聖霊が降る」ということを繰り返しお語りになったことと考え合わせるならば、なおも合点がいく所です。また、20章19節以下において、復活された主イエスが弟子たちに「聖霊を受けよ。」と言われて、聖霊を注がれた。ルカによる福音書は、十字架・復活それからペンテコステという時間的順序で記しますが、ヨハネによる福音書はそうではない。主イエスの復活と同時に、聖霊が注がれるのです。そのことを考え合わせると、これはもっともな理解の仕方ではないかと思うのです。
 更に言えば、聖霊が注がれることが、主イエスが弟子たちの所に戻って来た時と考えるならば、聖霊が注がれることによって教会が誕生したわけですが、この教会が既に、私共のために父の家にある住む所、私共のために用意された場所という理解も生まれてくると思うのです。教会は確かに、最終的な意味での父なる神の家ではありません。しかし、この教会とは、アブラハム以来の神の民の群れであり、この群れは歴史を貫き、終末にまで至る存在です。そして、この地上の教会は、天上の教会へとつながっているのです。この教会に迎えられるということは、主イエスの救いに与るということであり、天に国籍を持つ者となるということであり、天の父なる神様の家に住む所を持つ者とされるということなのであります。

 私共はただ今から聖餐に与ります。このパンと杯とに与る者は、キリストの救いに与る者なのであり、キリストの命に与り、天の父なる神様の家に住むことにされた者なのです。今朝ここに集いながら、まだ共にこの聖餐に与れない方々も、この救いに与るように招かれているのです。このことをきちんと受けとめて欲しいと思います。
 どのようにして私共が天の御国に至ることが出来るのか、どのようにして心騒がせることばかりの歩みから解き放たれるのか、私共に分からないことはたくさんあります。しかし、主イエスが道です、私共が歩んでいくその道そのものが主イエス御自身なのです。神様・イエス様の御支配と愛の中で、私共の明日は備えられているからです。ですから、どんなことになっても、私共が天の御国への歩みに迷うことは決して無いのです。だから安んじて、神様を信じ、主イエスを信じて歩んでまいりましょう。私共が歩む新しい一週間の歩みは、たとえ心騒がすただ中の歩みであったとしても、一週間分だけ御国に近づいていることは確かなのです。そのことをしっかり心に刻んで、それぞれ遣わされている場において歩んでまいりましょう。

[2012年6月3日]

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