1.預言者の群れとされたキリストの教会
モーセは出エジプトの旅の途中、民の不満・不信仰に直面する中で「主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望している。」(民数記11章29節)と申しました。これは一人モーセだけの願いではありません。いつの時代にあっても、神の民すべてが願ってきたことではないでしょうか。神様が聖霊を注いでくださって、神の民のすべての者が預言者となる。神の民のすべての者が神様の御心を知り、神様の言葉を語り、神様の御業に仕える。この願いは、叶えられることのない空しい願いではありません。これは主イエス・キリストによって約束されたことなのです。確かに、モーセはこのことを願いながら、生きている内にその願いが叶えられることはありませんでした。しかし、主イエス・キリストが来られ、私共の一切の罪を赦さんがために十字架にお架かりになり、三日目に復活され、弟子たちに聖霊を与えてくださることによって、このモーセの願いは実現されたのです。実に、キリストの教会という新しい神の民は、すべての者に聖霊が注がれ、預言者の群れとされた民なのです。私共は皆、預言者なのです。主の民のすべてが預言者となるという願いは、既に叶えられているのです。
「私共は皆、預言者なのだ。」と言われて、「自分も預言者なのか?牧師はそうかもしれないけれど、自分はとてもとても。」そう思われる方もいるかもしれません。しかし、私ははっきり申します。「イエスは主なり」と告白する者は、すべて聖霊を注がれており、聖霊を授けられた者は皆、預言者として立てられているのです。もし、「自分などは、とても預言者と言われるような者ではありません。」と言う人がいるとすれば、その人は自分に与えられている聖霊がよく分かっていないのです。聖霊によって与えられた信仰というものがよく分かっていない。しかし、よく分かっていないことを恥じる必要はありません。よく分かるようになっていけば良いだけのことですから。
神様の救いの御業というものは、私共の認識より、いつも先にあります。神様の救いの御業というものを私共が分かる前に、私共は既に神様の救いの御業に与っているものなのです。私共は、既に与えられている神様の救いの御業を見て、味わって、「ああ、こういうことなのか。こういうことだったのか。」と一つ一つ分かっていく、分からせていただいていく。そういうものです。今朝私共は、私共一人一人に聖霊が与えられていること、私共一人一人が預言者として立てられていること、このことを分からせていただきたいと願っています。
2.聖霊によって主イエスの言葉が分かる
主イエス・キリストは、御自身が十字架にお架かりになる前に、弟子たちに向かって、御自分が十字架に架かること、復活すること、そして聖霊が与えられることを告げられました。この預言はことごとく成就しました。私共に聖霊が注がれているという恵みの現実は、この主イエスの預言の成就、主イエスの約束が果たされたということなのです。
25節「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。」とあります。「これらのこと」というのは、主イエスが今まで話されたことすべてを指していると考えて良いと思います。主イエスが神と等しい方であること、主イエスは天より降って人間と同じ姿となられたこと、その主イエスが私共に代わって十字架に架けられること、三日目によみがえること、聖霊が注がれること、互いに愛し合うこと、等々です。
そして、26節「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」とあります。ここまで私共は共にヨハネによる福音書を読み進めながら、主イエスと弟子たちの会話がいつもすれ違っている、弟子たちは主イエスが言われることをちっとも分かっていない、そんなことばかり見てきました。そのようなちっとも分かっていない弟子たちが、どうしてこのような福音書を記すことが出来たのか、不思議だと思いませんか。主イエスの語られたことが分からなければ、ちゃんと正確に覚えることもなかったでしょうし、もちろんそれを解釈することも出来なかったはずです。この不思議を解く鍵が、聖霊なる神様なのです。
弟子たちは、主イエスがお語りになったこと、その意味を、語られた時点ではよく分かっていなかったはずです。ところが、主イエスが十字架に架かり復活して、弟子たちに聖霊が注がれました。この聖霊なる神様が、主イエスが語られたこと、為されたことを思い起こさせ、その意味を教えたのです。だから、このように福音書が出来たのです。歴史的に言えば、この福音書が記されたのはずいぶん後のことです。ヨハネによる福音書で言えば、イエス様が復活されてから60年くらい経ってからと考えられています。しかし、この福音書というものが記される前に、十二使徒を初めとした主イエスの弟子たちが、主イエスのなさったこと、お語りになったことを宣べ伝えていたのです。それらを語って、主の日の礼拝が守られていたのです。そして、その主イエスの弟子たちが語っていたことを元にして、福音書は成立しました。ですから、この福音書の記述の背後には、主の日の礼拝があり、主イエスを拝み、信じ、歩んでいたキリストの教会という存在があるのです。福音書というものは、誰か天才的な作家が一人で書き上げた、そういうものではないのです。この福音書の記述には、主イエスの為されたこと、語られたことを、聖霊なる神様の導きの中でしっかり思い起こし、その意味を明らかにされた主イエスの弟子たちの働き、主イエスによって立てられた預言者としての弟子たちの働きがあるのです。そして、もちろん、これを記述する際にも、聖霊なる神様が働かれたことは言うまでもありません。
左様にこの聖書という書物は、その成立の時から聖霊なる神様の導き、御支配の下にあったわけです。それは、現在でも同じです。聖書を新しく読み解くこの説教というものも、聖霊なる神様が働いてくださらなければ全く分からない、そういうものなのです。日本語で話されているのは分かる。しかし、何が語られ、告げられているのか分からない。心に響かない。聖霊を注がれることがなければ、聖書も説教も分からないのです。しかしこのことは、逆に言えば、聖書が分かる、説教が分かる、という人は、既に聖霊なる神様の働きの中にいるということなのです。
3.主の平和が与えられる
そして、この聖霊なる神様の働きの中で私共には平和が与えられる、そう27節に約束されています。27節「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」主イエスはここで、「心を騒がせるな。おびえるな。」と言われます。これは、14章1節で言われた「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と同じことが言われているのです。神様を信じ、主イエスを信じる。それは、聖霊なる神様の働きの中で、私共に与えられる信仰によります。そして、父なる神様を信頼し、主イエスを信頼するなら、必ず私共に平和が与えられるのです。これは主イエスの約束です。
しかし、この平和は、世が与える平和とは違います。世が与える平和とは戦争がない状態を言うのかもしれませんが、戦争がないというだけでは平和とは少しも言えないでしょう。現在、沖縄ではオスプレイの配備をめぐって厳しい状況が続いています。また、日本と中国、日本とロシア、日本と韓国の間では、領土問題がくすぶっています。戦争はありません。しかし、手放しで平和とは言えないでしょう。あるいは、世が与える平和・平安とは、保険に入っているから大丈夫という類のものかもしれません。「備えあれば憂いなし」という言葉が示す理解です。しかし、今回の原発の問題は、どこまで備えをしていれば憂いがないのかということを私共に示したのではないでしょうか。
主イエスが私共に残されたのは、主イエスの平和、主の平和です。これは、主イエスの御支配を信じるが故に与えられる平和なのです。私共は病気になります。老いの問題は誰も避けることは出来ません。人はそのような現実を前に困り果ててしまいます。しかし、主の平和とは、そのような現実のただ中にあって、それでも私共を包む平和なのです。主が共にいてくださり、私共の一足一足を守ってくださる。この確信こそ、私共に平和を与えてくれる根拠です。神様の愛が、主イエスの御手が、私共を捉えて離さないのです。この主イエスの御手にしっかり捉えられている恵みの現実が分かる、それは聖霊なる神様の導きによってしか起き得ません。主イエスの語られたこと、為されたことが分かる。主イエスがまことの神であられることが分かる。主イエスに愛されていることが分かる。これらはすべて、聖霊なる神様のお働きの中で、私共に起きることです。そして、この時、私共に平和が与えられるのです。
聖書が「平和があれ」「思いわずらうな」と告げる時、旧約以来いつもただ一つのことが根拠として示されます。それは、「わたしが共にいる」ということです。ここでもそうなのです。20節に「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」とありました。主イエスが私共の内にあり、私共が主イエスの内にある。これほど近しく、主イエスは私共と共にいてくださる。だから平和なのです。これさえ分かれば、私共に必ず平和が与えられるのです。
もし、私共にそれでも平和が与えられないとするならば、それは十分に父なる神様と主イエス・キリストを信頼して委ねるということが私共に出来ないからでしょう。主イエスの守りの御手よりも、自分の力や自分の見通しといった、まことに頼りにならないものを尚頼りにしてしまう所で、平和が与えられないと嘆いているのではないでしょうか。主イエスは、はっきり約束してくださったのです。「わたしの平和を与える。」この主イエスの約束を、私共は聖霊なる神様の導きの中で信じ、主の御手にお委ねするのです。
4.世の支配者は、主イエスをどうすることも出来ない
さて、主イエスがこのことを語られた時、主イエスの命を奪おうとする人々の力が、主イエスの周辺に近づいておりました。そして、確かに主イエスはこのことを語られた時から数時間後に、ファリサイ派や祭司長たちの手に捕らえられ、十字架への道を歩まれることになります。主イエスが、「心を騒がせるな。おびえるな。」と弟子たちに語られた時、その具体的な対象は30節にある「世の支配者」でした。これを、サタンのことを指していると読む人もいます。そう読んでも間違っていないと思います。しかし、「世の支配者」とは、具体的にこの世において権力を持っている人のことです。主イエスは、当時のユダヤ教の指導者たちという「世の支配者」によって捕らえられるのです。主イエスはこのことを百も承知の上で、「だが、彼はわたしをどうすることもできない。」と言われました。確かに、彼らは主イエスを亡き者にするために、十字架に架けて殺しました。しかし、それによって、主イエスが来られたことにより成就する神様の救いの御業を止めることが出来たでしょうか。止めるどころか、逆に完全に成就させてしまったのです。まことの神であられる主イエス・キリストを滅ぼすことが出来たでしょうか。出来るはずがありません。主イエスは復活されて、死が御自分に何も出来なかったことをお示しになったのです。
これは、私共とて同じことです。日本においてキリスト教会は小さな存在です。しかし、これを滅ぼすことは、この世の支配者には出来ないのです。ローマ帝国は、どんどん広がっていくキリスト教会に手を焼きました。何度か厳しい弾圧をもって臨みました。しかし、結果的には、キリスト教をローマ帝国の国教とするしかなかったのです。江戸幕府はキリスト教を日本に入れないために、日本中津々浦々まで檀家制度を張り巡らせました。しかし、やがて江戸幕府は崩壊し、キリスト教が入って来ました。明治政府は、初めの内キリスト教を歓迎しますが、教育勅語が発布された頃から事態は変わっていき、昭和に入ってからはキリスト教を敵性宗教と見るようになりました。しかし、先の大戦の終結と共に、キリスト教は再び日本中に広がっていきました。この世の支配者は、主イエス・キリストをどうすることも出来なかったように、聖霊なる神様の導きの中にあるキリストの教会をどうすることも出来ないのです。ですから、おびえることはないのです。
5.さあ、立て。ここから出かけよう。
31節「わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」と主イエスは言われました。主イエスが為していることが、天の父なる神様の御心と一つであることを、世は知るべきなのです。残念ながら、今でも、世はそれを知っていません。ですから、知らせる必要があるのです。そのために召され、立てられているのが、聖霊を与えられ、預言者として立てられている私共なのです。
「イエスは主なり」と告白した私共は、すでに、主イエスの救いを伝える者として立てられ、その業に仕えているのです。私共が意識していようと、してなかろうと、そうなのです。例えば、日曜の朝ここに集う。それは、信仰を持たない家族から見れば、「ご苦労なことだ。」ということなのかもしれません。しかし、その家族は、私共の日々の生活をしっかり見ていて、キリスト教は信じて良いものかどうか判断しているのでしょう。それは、学校でも職場でも同じことです。あるいは、私共はクリスマスや伝道礼拝に友人を誘ったりします。これは明らかに、主イエスを世に知らしめるための業でしょう。「イエスは主なり」と告白した者は既に、そのように自分の思いを超えて主の業を語り伝える預言者として立てられ、用いられているのです。だったら、そのことをもっとちゃんと自覚して受けとめたら良いということなのです。
主イエスは弟子たちに告げました。「さあ、立て。ここから出かけよう。」これは、主イエスがいよいよ自らの十字架に向かって進み出ていく言葉なのですが、主イエスはここで、この言葉を弟子たちに告げているのです。弟子たちの恐れ、おびえを見て、それでも「さあ、立て。ここから出かけよう。」と主イエスは告げられたのです。
この主イエスの御言葉は、今朝、私共に向けて告げられています。私共は聖霊を与えられ、「イエスは主なり」と告白する者となりました。しかし、まだ十分に、この信仰が与えられたことの重大さ、恵みの大きさを受け止め切れていない所があります。ですから、しばしば恐れ、おびえ、言うべきことが言えず、キリスト者として為すべき事が為せなかったりするのです。そのような私共に、今朝、主イエス・キリストは聖霊なる神様として、私共に向かってこう告げるのです。「わたしがいる。あなたの中にわたしはいる。そして、あなたはわたしの中にいる。だから、何も恐れることはない。わたしを信頼するなら、平和を与える。わたしはあなたに聖霊を注いだ。あなたはわたしの愛を、わたしの言葉を、わたしの業を、もう十分に知っているはずだ。だから、大胆に、自由に、わたしの言葉を宣べ伝えて行け。さあ、立て。ここから出かけよう。」そう私共に告げておられます。この御声に押し出されて、それぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
[2012年7月8日]
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