1.まことのぶどうの木
今朝与えられている御言葉は、大変有名な御言葉です。教会学校の子どもたちも知っている御言葉です。ぶどうの木は教会で様々な意匠に用いられ、私共の教会でも祈祷室にぶどうの木のステンドグラスがあります。しかし、良く知っているということと、良く分かるということは同じではありません。この御言葉は、大変分かりやすいイメージで語られていますが、その内容は大変豊かでまことに深いものがあります。共々に、この御言葉を味わってまいりましょう。
主イエスは、「わたしはまことのぶどうの木」と言われます。「まことのぶどうの木」という言い方は、「まことではないぶどうの木」がある、「まことではないぶどうの木」というものを想定した言い方です。そもそも、どうして主イエスは「ぶどうの木」をたとえとして用いられたのか。ぶどうの木がイスラエルを代表するような、いつも目に入る木だったから。そういうこともあるでしょう。あるいは、あのぶどうのたわわに実った房は、実りというものをイメージするのにピッタリだったから。それもその通りでありましょう。しかし、主イエスは、たまたま「ぶどうの木」というたとえを思いついたということではないのです。「良き羊飼いのたとえ」などもそうですが、主イエスは旧約で語られているイメージをきちんと受け取ってお語りになります。この「ぶどうの木」というものにも旧約以来の伝統があるのです。先程お読みしましたエゼキエル書にも、「ぶどうの木」が出て来ました。この「ぶどうの木」は、神の民イスラエルを指しているのです。これは、イザヤ書の5章や、詩編80編にも用いられている象徴です。神様が、神の民イスラエルを愛し、御自身との深く豊かな交わりを求めた。それは、農夫が豊かな実りを求めてぶどうの木を植え、手入れするのと同じだ。そうたとえられているのです。しかし、イスラエルは良い実を結ぶことはなかった。神様と深い信頼によって結ばれる愛の交わりを作ることは出来なかった。神様を愛し信頼することをせず、他の神様を求めたのです。また、目に見える力に従った。時にそれはエジプトであり、時にそれはアッシリアやバビロンといった巨大な軍事力でした。神様が自分たちを守り、支え、導いてくださることを信じ切ることが出来なかった。それが、「まことではないぶどうの木」です。
しかし、主イエスは、「わたしはまことのぶどうの木」と言われます。それは、「わたしは、神様と真実な愛によって結ばれた者であり、神様の求める実りをつけるぶどうの木なのだ。イスラエルという古い、良い実を結ばないぶどうの木ではなく、良い実を豊かに結ぶ、新しいまことのぶどうの木なのだ。」という宣言なのです。そして、この「まことのぶどうの木」である主イエスを愛し、主イエスを信じ、主イエスにつながる者は、この「まことのぶどうの木」の枝であり、神様が求め給う実りを豊かにつけることになっている。あなたがたはその枝なのだ、と言ってくださっているのです。5節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」これは、主イエスの約束です。私共は、この約束を信じて良いのです。主イエスは「まことのぶどうの木」だからです。
2.豊かに結ぶ実りとは何か
では、この豊かに結ぶ実とは、何を指しているのでしょうか。旧約からの流れで考えますならば、神様を愛し、神様を信頼し、他の神々に膝をかがめず、神様の御心を示した律法に従う歩みをするということでしょう。そういうことなのだと思います。主イエスは、これを別の言葉で言い換えます。イエス様はここで、8節「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」と言われます。イエス様は、わたしの結ぶ実は、わたしが栄光を受けるというものではなくて、父なる神様が栄光を受ける、神様がほめたたえられることになる実りなのだと言われるのです。私共は、このことをしっかり受けとめなくてはなりません。私共が立派な人になって、大きな事業を成功させて、あの人はすごいと人に言われることが、私共の実りではないのです。私共は、そのように目に見える、いわゆる成功をもって実りと考えてしまう所がありますが、そうではないのです。神様が栄光をお受けになる。神様がほめたたえられる。そのような実りこそ、主イエスが約束してくださっているものなのです。
更に12節を見ますと、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」とあります。この「互いに愛し合う」という交わりが為されること、これこそ主イエスによって与えられる実りなのだと言って良いと思います。家族が、友人との関係が、またこの教会における交わりが、互いに愛し合うという、具体的な姿をとっていく。それが私共のつける実りなのです。ただ、誤解してはならないのですが、それは単に仲良くやっていきましょうという話ではないということです。そうではなくて、この「互いに愛し合う」という交わりは、そこに主イエスがおられる、そのことが明らかになるような交わりであり、主イエスにつながることによってしか与えられない交わりであるということなのです。それは、進んで、喜んで重荷を担い合う交わりであり、自分のことしか考えることが出来ない私共が、主イエスと出会い、変えられることによって、形作られていく交わりなのです。それは、喜んで損することが出来る交わりと言っても良いでしょう。
今日、皆さんの週報棚に、北陸連合長老会の機関誌『北陸長老会』が入っていたと思います。巻頭説教には、羽咋教会の内城牧師による、羽咋教会の献堂式における説教が載っています。私もその場におり、内城牧師の説教に心を動かされました。この説教はこう始まります。「今から約5年前、能登半島地震が起こったその日に、一体誰が2012年の今日、羽咋教会の献堂式を迎えると考えることができたでしょうか。今から約10年前、一体誰が今日のこの日、献堂式を迎えることができると考えたことでしょうか。今から約90数年前、羽咋教会が講義所として開設され伝道が開始された頃、一体誰が2012年に羽咋教会の会堂が献堂されることを考えたことでしょうか。」この誰も想像することさえ出来なかったことを、神様は成し遂げてくださったのだ。そう内城牧師は語られたのです。
この羽咋教会の礼拝堂の献堂式をもって、5年前の能登半島地震からの再建が完了しました。あの地震からの再建を果たしたのは、輪島教会が牧師館の建て替え、礼拝堂の改修。富来伝道所の建て替え。七尾教会の牧師館の建て替え、礼拝堂の建て替え。七尾幼稚園の改修。羽咋教会幼稚園の改修。そして、羽咋教会の牧師館の新築、礼拝堂の新築でした。建て替えたものだけで6つです。どれも10人、20人の礼拝という小さな群れです。そこに教団の全国募金で1億4千万円、うち中部教区から7千万円が献げられました。他に全国連合長老会・改革長老協議会から7千万円がささげられました。私共の教会も皆さんの協力を得て、350万円をささげました。金沢教会では1千万円を超えました。大変な金額です。しかし、これが互いに愛し合うということなのではないかと思うのです。あの三つの教会、一つの伝道所の再建によって、誰が栄光を受けたのか。誰も栄光を受けていません。誰も、私がやったのだと言う人もいません。ただ、皆で主をほめたたえたのです。神様がなさることは何と素晴らしいことかと、ほめたたえたのです。今日も、あの三つの教会、一つの伝道所で礼拝がささげられて、主がほめたたえられています。そのことを思うと、本当にうれしくなります。
先月、金沢教会で全国連合長老会の会議が為されました時、ある牧師を新しくなった羽咋教会までお連れしました。その牧師は、新しくなった会堂に入り、内城先生の顔を見るなり、「良かったね。本当に良かったね。」と言って涙を流されました。この牧師は、本当に祈ってくれていたのだと思いました。愛は祈りとなるのです。主イエスにつながって与えられる実りは愛です。そして、その愛は祈りとなるのです。
3.主イエスの御言葉が祈りを生み、神様が応えてくださる
7節「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」と主イエスは言われました。「何でも願いなさい」とは、「何でも祈り求めなさい」ということです。主イエスの言葉が私共の中に宿る時、私共に愛が与えられ、そこから祈りが生まれるのです。そして、神様はその祈りに必ず応えてくださるのです。
主イエスの御言葉「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」。この主イエスの言葉は十字架の言葉です。主イエスが私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになって、告げられるのです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」この御言葉が私共の中に宿る時、主イエス・キリスト御自身が私共の中に宿るのです。私共を、互いに愛し合う者として育み、導いてくださるのです。そして、私共に願いを起こさせ、私共に祈りを与えられるのです。主イエスが御言葉をもって私共の中に宿り、私共に願いを起こさせ、祈りを与えられる。その祈りに、父なる神様が応えてくださらないはずがないのです。
4.主イエスと一つにされる救いの現実
さて、5節に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」とあります。この前半は、私共の教会の今年度の聖句です。ここで「つながる」という言葉が用いられています。これは、ぶどうの木と枝の関係ですので「つながる」と訳されていますが、9節、10節で「とどまる」と訳されているのと同じ言葉です。ですから、直訳しますと、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしの中にとどまり、わたしもその人の中にとどまっているならば、その人は豊かに実を結ぶ。」となります。私が主イエスの中にとどまる。そして、主イエスが私共の中にとどまる。このように主イエスと一つにされた者、それが私共キリスト者なのです。
今日は礼拝の後で、教会修養会を行います。「『日本基督教会 信仰の告白』に学ぶ」というテーマです。先週、この準備をしておりました。そして、今日の説教の準備をする中で、この告白の中にある「凡そ信仰に由りて之と一体となれるものは赦されて義とせらる。」という所を思い起こしました。「之」とは主イエスです。この告白は、まさに「私共が主イエスの中にとどまり、主イエスが私共の中にとどまる」という信仰の現実の中で告白しているのです。主イエスと私共が一体とされる。これが、私共に与えられている信仰の現実なのです。一体とされるが故に、主イエスの十字架が私の罪の赦しとなり、主イエスの復活が私の希望となるのです。この一体とされるという現実は、洗礼や聖餐において私共に示されていることでもありましょう。
私共は、「主イエスにつながる」と言いますと、必死になって主イエスにつながろうとする、そうしなければ離れてしまうのではないか、そんな風に思う所があります。また、「つながる」という言葉は、紐か何かでつながっているイメージ与えるかもしれません。しかし、今申し上げましたように、「人がわたしにつながっており」とは、「人が主イエスの中にとどまる」という意味ですから、そんな弱々しい結びつきではないのです。私共が必死になって主イエスを捉えて離さないようにしていなければならないようなことではないのです。私共が手を離したらどこかに飛んでいってしまう。そういうことではないのです。主イエスとの深い、確かな交わりの中に置かれている、恵みの現実を告げているのです。
この主イエスにつながってるということは、教会につながっていることだとも言えると思います。しかし、だったら教会につながるとはどういうことなのか。礼拝を守り、聖餐に与り続ける。その通りです。しかし、それだけではないと思います。日々の祈りの生活、聖書に親しむ生活というものを抜きにすることは出来ません。朝起きて祈る、食事の前に祈る、仕事の前に祈る、仕事が終わって祈る、車の運転の前に祈る等々、いつでも私共は祈るのです。何も長く祈ることはありません。一言でも良いのです。祈りが私共の日常の時間を埋めていく。一日一回は聖書を開いて読む。そして、主の日にはここに集まって共に礼拝を守る。そのような営みの中で、主イエスとの交わりがいよいよ確かなものとされていることに気付いていくでしょう。
5.必ず実を結ぶ
主イエスと一つにされているならば、それは必ず実を結ぶのです。それは、ぶどうの木の幹から枝に水や養分が送られるように、私共にも主イエスから信仰が、愛が、力が、平安が、希望が、注がれるからです。主イエスはここではっきり言われます。「わたしを離れては、あなたがたは何もできない。」主イエスと離れてしまえば、イエス様抜きでは、私共は何も出来ないのです。私共の中には何もないからです。良い人になりましょうと努力して実を結ぶということではないのです。確かに、仕事も商売も、イエス様抜きで出来るでしょう。しかしそれは、神様が求めるような実をつけることはないのです。イエス様抜きで、事業で成功を収めることもあるでしょう。しかしそれは、神様が求め、神様の栄光が現れる実りではありません。この実りと、この世での成功とは、何の関係もないのです。この実りは、私共を永遠の命へと、神の国へと導いていくものです。たとえ人の目には小さく、意味のないものであったとしても、神様の愛に動かされ、愛するために自分の知恵と力と時間と労力をささげて、喜んで損をする営みを為していくなら、それが豊かな実りなのです。
しかし、自分の日々の歩みを省みて、自分は本当に実りをつけているのだろうか、と思われる方もいるかもしれません。6節に「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」、2節に「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」とあるものですから、こんな自分は取り除かれ、捨てられるのではないか、そんな不安を持たれる方もいるかもしれません。しかし、そんな風に考えることはないのです。この農夫は神様ですけれど、神様は私共が必ず実を豊かにつけることが出来るようにと、手入れをしてくださるということなのです。神様は必ず豊かな実をつけることが出来るように導いてくださっているのです。私共はそのことを信じて良いのです。この神様の手入れがなかったならば、どうして私共がこうして主の日の礼拝を守ることが出来るでしょうか。私共が今ここにいる。このことが既に、神様の手入れ、配慮、導きの御手の中にいるということの、確かな「しるし」なのです。そうである以上、私共は必ず実を結ぶことになっているのです。
良いですか、皆さん。主イエスはまことのぶどうの木、私共はその枝です。私共は主イエスと一つにされ、主イエスの愛、主イエスの力、主イエスの命に既に与っているのです。ですから、必ず良き実を豊かに結ぶことになっているのです。私共の中に聖霊として宿り給う主イエス・キリストが、私共を御心にかなう者へと造り変え続けてくださるからです。私共は喜んで、主の御業の道具・器とされるのです。そして、主の御栄光のために、私共の思いを超えた大きなことだって出来るのです。私がするのではありません。主が為してくださるのです。そのことを信じて良いのです。私共このことを信じ、安んじて為すべき務めに、それぞれ遣わされた所で、この一週も励んでまいりましょう。
[2012年7月15日]
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