1.週の初めの日の夕方
「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」と聖書は告げます。この日の朝早く、マグダラのマリアたちは主イエスの墓に行き、その墓が空であることを見ました。ペトロとヨハネも行きました。その後、マグダラのマリアは復活の主イエスと出会い、そのことを弟子たちに伝えました。ペトロとヨハネも、主イエスの墓が空であったことを伝えたでしょう。しかし、それを聞いた弟子たちは、主イエスが復活されたことを信じて喜んだわけではなかったのです。そうではなくて、彼らはユダヤ人たちを恐れて集まり、戸に鍵をかけていたのです。十二人全員ではありません。24節以下に記されているように、トマスはそこにいませんでした。もちろん、主イエスを裏切ったイスカリオテのユダもいませんから、十人の弟子たちが集まっていた。彼らは、主イエスを十字架に架けたユダヤ人たちが自分たちをも捕らえに来ることを恐れ、戸に鍵をかけていたのです。祈っていたのではありません。今後のことを話し合っていたのでもない。ただ恐れ、じっとしていた。沈鬱な空気の中、じっとしていたのでしょう。
2.復活の主イエスが現れ
すると、そこへ復活の主イエスが現れ、弟子たちの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように。」と言われたのです。「あなたがたに平和があるように」とは、ヘブル語の「シャローム」であったと考えられています。「シャローム」というのは挨拶の言葉で、「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」「またね」のすべてに使われます。しかし、ここでは本来の「平安あれ」という意味で、主イエスは「シャローム」と言われたのでしょう。
この時弟子たちは戸に鍵をかけていたのです。主イエスは一体どこから入って来られたのでしょう。主イエスの御復活は、肉体を持ってのよみがえりであり、幽霊のようなものではありません。しかし、それは私共と同じ肉体、タンパク質で出来ているこの体と同じではありませんでした。パウロはこれを「霊の体」と言っておりますが、まさに復活の体です。ですから、戸に鍵をかけていても入って来ることが出来たのです。
私はここで、マタイによる福音書14章22節以下にあります、弟子たちが船に乗って波に悩まされている時、主イエスが湖の上を歩いて弟子たちに近づいて行かれた場面を思い起こすのです。弟子たちは360度どこを見ても真っ暗闇の、夜の湖の上で困り果てていました。波と風に悩まされ、漕いでも漕いでも向こう岸に近づかない。助けになりそうなものは何もないのです。その時、主イエスは湖の上を歩いて来るという、弟子たちが思ってもいないあり方で来られました。そして、嵐を静められた。
主イエスというお方は、いつも私共が思ってもいないあり方で、突然その姿を現し、私共に平安を与えてくださる。そういうお方なのではないでしょうか。私共が期待した時に、期待したあり方で私共の前に御姿を現し、御業を為されるということは稀でしょう。そうではなくて、私共が思ってもいない時に、思ってもいないあり方で、思っていた以上の恵みの御業を為してくださる。そういう方です。主イエスが復活された時もそうだったのです。復活の主イエスは、弟子たちがユダヤ人を恐れ、鍵をかけ、沈鬱な面持ちでいる、その真ん中に立って、「平安あれ」と告げられたのです。全く思ってもいない時に、全く思ってもいないあり方で、弟子たちの真ん中に立ち、言われた。「シャローム。」「平安あれ。」そして、主イエスは御自身の手とわき腹とをお見せになり、「弟子たちは、主を見て喜んだ。」のです。
3.弟子たちは、主を見て喜んだ
先週の北部集会で、「どうして弟子たちは復活の主イエスに出会って喜んだのか、分からない。」という問いが出ました。それは、こういう文脈の中で出された問いでした。ペトロは三度主イエスを知らないと言った。しかも、それは主イエスの予告通りでした。そもそも、何故主イエスはペトロに、「あなたは鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と予告されたのか。私はこう考えているのです。もし、主イエスがこの予告をされていなかったら、ペトロは主イエスを三度知らないといってしまったとき、どうしただろうか。私は、ペトロがごまかしただろうと思うのです。他の弟子たちは見ていなかったのだから、自分が言わなければ分からない。ペトロは、主イエスを知らないと言ったことを誰にも言わずに黙っていたと思う。まさか、ペトロはそんなことはしないだろうと思われる方もいるでしょう。しかし、私はそうは思いません。人間の卑怯さというものはそういうものです。誰も知らないと思えば、自分がした過ちなど金輪際認めようとはしない。それが私共です。しかし、主イエスは予告されていた。主イエスはすべてお見通しであることをあらかじめ示されたのです。ペトロは鶏が鳴くのを聞いて、主イエスは知っておられた、主イエスには隠せない。そのことをはっきりと示された。だから、ペトロにとってこの出来事は、決定的に自分の弱さ、卑怯さ、罪というものを示され、そこから逃げることが出来ない、認めざる得ない、そういうところに立たされる出来事となったのです。しかし、だったらどうしてそのペトロが復活の主イエスに出会ったこの時、喜ぶことが出来たのかという問いです。自分の裏切りを知っておられる主イエスが復活して自分の前に立ったとき、どうして喜べるのか。主イエスを裏切ったのはほんの三日前です。他の弟子たちにしても同じです。主イエスが十字架にお架かりになった時、弟子たちは逃げたのです。その弟子たちが、どうして主イエスにあって喜べたのか。恥ずかしくて、会わせる顔がないのではないか。そういう問いです。この問いが出された時、「それは次の主の日の礼拝の中で語られますので、今日は答えをとっておきましょう。」と申しましたので、お話し致します。
皆さんはどう考えられるでしょうか。復活の主イエスはこの時、弟子たちに手とわき腹とをお見せになった。これは明らかに、わたしはあの十字架の上で死んだイエスだということを示すためでしょう。この手とわき腹とを見せられた時、弟子たちは、特にペトロは、自分が主イエスを知らないと言ったことを思い起こさせられたに違いないのです。見方によれば、それはまさに「うらめしや〜」の世界です。そうなると復活は幽霊であって、弟子たちは喜ぶどころか、恐怖のどん底に落とされることになったでしょう。しかし、聖書はそんな風には記していない。「弟子たちは、主を見て喜んだ」のです。
ここを理解する上で大切なことは、この時の復活の主イエスの表情や仕草を思い浮かべることです。聖書にはそれについては何も記してありません。しかし、主イエスが語られた言葉が記してあります。これが手がかりになります。主イエスは「シャローム」「平安あれ」と言われたのです。「平安あれ。」これは、「うらめしや〜」の表情、格好で告げることは出来ないでしょう。私は、この時の主イエスの表情は底抜けに明るく、喜びに輝いていたと思います。「うらめしや〜」とは正反対です。「うらめしや〜」の「う」の字もない表情です。
主イエスは、この底抜けに明るく喜びに輝いた顔で、手とわき腹とをお見せになった。それは弟子たちの裏切りを告発するようなものとしてではなくて、弟子たちの弱さ、卑怯さ、罪というものが、もう終わったもの、乗り越えられたものとして示されたということなのです。確かに弟子たちは主イエスを見捨てて逃げた。しかしそれは終わった。死は滅んだ。ほら、わたしは生きている。あなたがたが私を裏切ったことを私は知っている。しかし、それが何だというのか。死は、私に何をすることも出来なかった。わたしはあなたがたを赦す。弟子たちは、この勝利のメッセージと罪の赦しのメッセージとをしっかり受け止めたのです。だから喜んだのです。
復活の主イエスと出会うとはそういうことです。主イエスの圧倒的な力、死に打ち勝つ勝利を知らされると同時に、主イエスを裏切った者が、その裏切った主イエス御自身から赦されるということです。罪の自覚は大切です。罪の自覚がなければ、赦しもないからです。しかし、キリスト者とは、罪の自覚に生きる者のことではないのです。その罪は赦された。赦されている。この新しい復活の命に生きる始めることなのです。罪赦された者は新しい命に生き始めます。それは、復活の主イエスと同じ、復活の命に生き始めるということです。恨みつらみ、「うらめしや〜」とは正反対の世界に生き始めるのです。それは赦しと愛の世界です。主イエスが十字架と復活によって拓いてくださった命の世界です。それは赦しと愛に生きる者の歩みを私共に与えるのです。それは新しい創造と言っても良い。私共の中に、この肉体の命とは違う、もう一つの命が息づき始めるということなのです。
4.聖霊を受けなさい
22節「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」とあります。主イエスは、弟子たちに息を吹きかけられました。この息という言葉は、霊、風という意味も持つ言葉です。主イエスの息、それは主イエスの霊です。創世記2章7節に、「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」とあります。このアダムが造られたのと同じことが、ここで起きたのです。創世記に記されているのは私共の肉体の命です。しかし、ここに記されているのはもう一つの命。復活の命、永遠の命への創造です。これは神様との交わりに生きる命であり、神様を愛し、神様の御心に従って生きる命です。この肉体の命とは別の、もう一つの命に生きる者となったのです。復活された主イエスに出会った弟子たちは、この新しい命に生きる者となったのです。
それは、「うらめしや〜」の世界とは別の世界に生きる者となったということです。「うらめしや〜」というのは、死んでも恨みが残る、死んでも許せないということでしょう。私共が肉体の命しか知らなかった時に生きていたのは、そういう世界でした。しかし、今は違うのです。人を恨むのではなく、赦すのです。赦し合うのです。新しい愛の交わりを形づくり、愛の交わりに生きようとする命に生まれたのです。
ヨハネによる福音書は、主イエスの復活の出来事と聖霊が弟子たちに与えられるという出来事とを同時に起きたこととして記しています。ルカによる福音書から使徒言行録への繋がりの中で記される復活・ペンテコステ、復活があり50日後にペンテコステがあったというのとは違う書き方になっています。ヨハネによる福音書は、ルカによる福音書より後に書かれたものです。ですから、ヨハネによる福音書を記した人は、ルカによる福音書を知っていたはずです。しかし、こう記した。それは、復活の主イエスと出会うということと聖霊を受けるということとは、ヨハネによる福音書を記した人が、主の日の礼拝の中で同時に経験していたことだからです。ヨハネによる福音書は、主の日の礼拝体験と重ね合わせるようにして、主イエスの弟子たちに起きたことが、今、この主の日の礼拝の中で起き続けているではないか。そう告げようとしたのです。ですから、20章1節では「週の初めの日、朝早く」と記して空の墓とマグダラのマリアと復活の主イエスの出会い、19節では「週の初めの日の夕方」と記して弟子たちと復活の主イエスの出会いを記し、24節以下では26節で「八日の後」すなわち次の週の初めの日と記してトマスを含めた弟子たちと復活の主イエスの出会いを記しているのです。復活の主イエスとの出会いは週の初めの日の礼拝において起き続けている、このことこそヨハネによる福音書が告げたかったことなのです。
4.派遣
復活の主イエスは弟子たちを遣わされました。21節「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と言われました。この主イエスの弟子たちへの派遣命令は、主イエスが完全に弟子たちを赦し、信頼したことを意味しているでしょう。弟子たちはここで主イエスに再び召し出され、遣わされたのです。
弟子たちは、最初に主イエスに召し出されて弟子となった時、主イエスがどういう方なのか、主イエスの弟子となるとはどういうことなのか、よく分かっていませんでした。また、自分がどういう者であるかも分かっていませんでした。しかしこの復活の主イエスによって再び召し出され、主イエスによって遣わされる者になった時、弟子たちははっきり知らされました。主イエスが誰であり、何を伝えるために遣わされるのか。どのようにして伝えていくのか。そのことをはっきり知らされました。それは、「父がわたしをお遣わしになったように」という言葉で表されています。主イエスは父なる神様が遣わされた神の御子であり、死さえも打ち破られる方であり、この方によって罪の赦しによる新しい命が与えられた。このことを伝えるのです。そのために遣わされるのです。そしてそれは、主イエスが弟子たちを愛し通されたように、互いに愛し合うことによって、愛の交わりによって伝えられていくものなのです。
伝えられる内容と、伝える人と、そして伝え方、伝えるあり方は、いつも深く結びついています。愛は、愛する人によって、愛するというあり方によってしか伝えることは出来ないのです。そしてその愛は、主イエス・キリストというお方によって示され明らかにされた愛なのですから、主イエス・キリストの歩みに倣っていくのです。
もちろん、イエス様は神の子であられ、私共は人間に過ぎませんから、私共がイエス様のようになることも、イエス様と同じように愛することも出来るはずがありません。しかし、「うらめしや〜」の世界から救い出された者、新しく神様の愛に生きる者として、キリストの愛の中に新しく創造された者として生きる。そのために主イエスは弟子たちに聖霊を与えられたのです。確かに、私共は自分の中にある「赦せない」という思いに苦しむことがあります。私共は「誰かに赦されないと苦しむ」ことよりも、「誰かを赦せないと苦しむ」ことの方が多いのではないでしょうか。赦せない思いの中に私共が囚われる時、私共の心の中に渦巻く恨みつらみが、私共を苦しめるのです。実に、厄介なのは自分自身なのです。しかし、そのような私共に聖霊が与えられたのです。祈ることが出来る者とされたのです。「どうか、赦すことが出来るようにしてください。」と祈ることが出来る者とされたのです。主イエスは「うらめしや〜」の世界から私共を救い出し、赦し合い、仕え合い、愛し合う世界へと導き、そこに留まり続けるようにと聖霊を与えてくださったのです。ですから、この聖霊を悲しませたり、聖霊が与えられていることを無駄にするような歩みをしてはなりません。私共は互いに赦し、互いに使え、互いに愛し合うのです。そのことによって、私共が新しくされた者であることが明らかになるのです。
5.鍵の権能
最後に23節を見て終わります。23節「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」とあります。これは、マタイによる福音書16章にあります同様の言葉と共に、「天国の鍵の権能」と呼ばれてきました。主イエスの弟子たちに、つまりキリストの教会に、天国の鍵が与えられたというように理解されてきました。しかし、これは少し丁寧に考えませんと、教会が、この人は天国に入れる、この人は天国に入れない、そういうことを勝手に決めることが出来るかのような乱暴な話になってしまいます。もちろん、そのような意味ではありません。
天国の門を開け閉めされるのは神様だけでしょう。神様はその永遠の選びの中でそれをお決めになり、その全能の御腕をもって一人一人を救いへと導き、実現されるのです。この神様の御意志に従って、教会は神の子とされる洗礼を人々に施すということなのです。神様が与えてくださる信仰、神様が与えてくださる洗礼を受けたいという志、そういうものを無視して、何でも良いから洗礼を授ける、その権能が教会には与えられているなどということはないのです。私共は、あくまで主イエスによって遣わされた者なのですから、遣わしてくださった主イエスの御心に従っていかなければならないのですし、その責任はとても重いのです。その務めを果たすためにも、聖霊なる神様の導きというものをいつも願い求めていかなければならないのです。
[2013年2月10日]
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